謎の研修施設
白い廊下を歩いて見つけたのは、浴場だった。
まるで銭湯や民宿の浴場のような脱衣スペースと、その先に2〜3名は同時に入れる広い浴槽のある浴室が存在していた。残念ながら湯は張られていなかったが、明らかに日本で普通によく見る浴場である。
「か、感動だ」
風呂。素晴らしいよ。
お湯さえ張れば風呂に入れそうだ。
こちらの世界には広い風呂にゆったり入るという風習がない。これまではそういう世界に暮らしていたので特段不便さを感じたことはないが、優馬の記憶が頭の中にある現在、風呂こそ至福である。
「デレク、泣くほど嬉しいの?」
「泣いてなんかないやい」
後で風呂をどうやって使うか調べねばなるまい。絶対に。
脱衣所の隅っこに何か大きなマシンがある。近づいてみるとどうやらこれは洗濯機ではないだろうか。
「す、素晴らしい!」
しかし、いくつか付いているボタンなどに書かれている文字は、この世界の文字でも、優馬の世界の文字でもない。なんだろうな?
まあ、とりあえず洗剤がないので今日は使えないな。……っていうか、この世界に液体洗剤、そこまで贅沢を言わなくても粉石鹸なんてあったかな。今後の検討課題だな。
「で、次はトイレな」
また廊下を進むと、すぐまた普通のドアとは違う構造の入り口があった。ドアを開けると、中は左右二つの通路に分かれている。右には大きな黒い字で「∩∩」と書かれたプレート、左にはやはり大きな赤い字で「∪∪」と書かれたプレート。これはもう、トイレでしょう。優馬の記憶にある学校や公共施設で見るようなトイレがそこにはあった。しかも、トイレは水洗、かつシャワートイレである。至高。
しかしまた謎が増えたな。なんで日本式の風呂とかトイレが完備されているんだろう。
「この設備を使うのが日本人の転生者だからかな?」
なんだかそれが正解のような気がする。
試しに流してみた。ちゃんと水が出る。……この水はどこから来て、どこに流れて行くのだろうか。これも謎だ。
「リズはこの風呂とかトイレとか、知ってた?」
「えーと、記憶はあまりはっきりしていないけど、どうやって使うものかは分かるよ」
そうか。じゃあ前からある設備なんだな。ただし、トイレットペーパーはなかったので購入しておかねば。
しばらく進むと、少し広いスペースがあった。丸いテーブルとイスが何脚も置かれている。そして奥にはさらに区切られて別のスペースがある。
「食堂じゃん」
はい、ピンと来ました。
これって、日本によくある研修施設じゃないかな。企業の新人研修とか、運動系クラブが合宿で使うようなあれ。
厨房には流し台、ガス台がある。試してみたら水道から水も出るし、火もちゃんとつく。ケトルも、コーヒーミルもあるじゃないか。こりゃ、コーヒー豆とフィルタを買ってくるしかないなあ。ちょっとワクワクする。
棚には包丁などの調理器具、さらに、カップや皿もたくさんある。
流しにはどうやらディスポーザー、つまり生ゴミを粉砕して流してしまえる装置が付いているようだ。
その時、優馬の記憶が囁いた。
「そうだよ、電子レンジ!」
自分で洗濯させるような研修所には、弁当を温める電子レンジくらいあるに違いない。
まず厨房の奥に、食料品の貯蔵に使えそうな棚と、冷蔵庫を発見。そしてその隣に。
ありました。これが電子レンジでなかったら何なんだと言う感じの、ザ・電子レンジ。メーカー名は書いてないし、ボタンに書かれている文字も例によって意味不明。
しかし、優馬は知っている。だいたいの温めなら、一番大きくて目立つボタンを押せばオッケーのはず。何も入れていないけど、ボタンを入れてみる。おお、明かりが光って何かファンが回るような音がする。よし、今度何か買って来たら温めてみよう。
しかし、この規模の研修所的なスペースがあるというのはどういうこと?
転移魔法の管理者番号9番というのも引っかかるな。以前は何人か共同で、このスペースを使って作業をしていたということかな? リズに聞いても「知らなーい」で終わりそうだが。
「知らなーい」
やはりか。まあいいや。
「あ、そうだ、自販機は?」
優馬の記憶が囁いている。研修施設には自販機コーナーと談話室という名の喫煙コーナーがあると。
またしばらく廊下を歩いて行ったが、自販機コーナーも談話室も会議室もない。何もない廊下がずーっと続いているだけである。
「あれー、何もないなあ」
「そうだねえ」
なんか随分歩いた気がするので、もう諦めて帰ろうかなあ、と思っていたら。
「あああッ」
「なに?」
なんと『リズとデレクのお部屋』と書かれたプレートがある部屋の前に出たのだ。
「俺たち、ずっと廊下をまっすぐ歩いていたよね」
「うん」
「これ、さっきの管理室じゃないかな」
「中に入ったらわかるよ」
ドアノブを押し下げてドアを押す、が、開かない。
「あれ、開かない。違う部屋なのかな」
「まず、手のひらをドアに当ててよ」
「ほう」
やってみたら、何かどこかでピンというような微かな音がした。ドアノブを押し下げてドアを押すと今度は問題なく開いた。やはり生体認証の仕組みなのだろう。
そして中にはコンピュータの端末、カップルシートと、リズが買ってきた衣類の入った紙袋。間違いなくさっきの部屋だ。
「うーん、ずっとまっすぐ歩いているつもりだったけどなあ」
空間が曲がって閉じているというSF的なアレかな?
「それに、この管理スペースから外部に通じる出入り口ってなかったよね、全然」
「あ、それはないね」
ということは、この不思議研修施設に出入りするには、転移魔法を使うしかないということか。水や電気、ガスは供給されているようだが、一体どうなっているんだ。
「とりあえず暗くなる前に、色々買い物に行こうか」
「うんうん」
街へ出て、今度は雑貨屋へ。
宿舎で暮らすようになってからずっと使っている雑貨屋だが、店の名前は「イスカンダル商店」だったのか。意識していなかったが、なんか大きく出た感のある名前だな(個人の感想です)。
そもそもの予定では、今日は日用品などを買い揃える予定だったので、考えていたようにタオルや石鹸、照明用のランタンと燃料、さらにバケツ、トイレットペーパー、その他をあれやこれやと揃えていると、これまた結構な金額になってしまう。今月は大赤字決定だなあ。
「なんか、同棲とか始めるみたいで楽しいね」
「ば、ばか言うなよ」
なんという爆弾発言をかますのか。そしてそのボキャブラリーはどこから。
無精髭の雑貨屋の親父さんがニヤニヤして見ているじゃないか。
俺は一応領主の息子だから、あちこちに顔を知られていて、なんつーか、色々まずいんだってば。
しかし、リズの服装がメイド服で良かったかもしれない。これが私服だったら逆に変な噂になっていたかも。
しばらくして夕方ともなると、夕食の時間だ。しかし、お屋敷のメイドが夕方の遅い時間までメイド服で町にいるのはおかしい。メイドが町にお使いに出ることはあるが、それは昼の時間帯だけだからだ。
「またテイクアウトで夕飯を買って帰るから、荷物を持って先に管理室に戻っててくれないかな」
管理室なら鍵がなくても入れるから便利だ。
「はいはい、待ってます」
さっきはサンドウィッチだったが、今度は何にしようか。……ラザニアのテイクアウトをする店があったな。ひとりで食べるより二人で食べた方がきっと美味いよね。
夕食と、朝食用にパン、それとミルクなんかを買ってから事務所の2階に戻ると、そろそろ周りが暗くなってきた。
魔法管理室へ移動。ここは明るくていいなあ。
あれ、リズがさっきのブカブカの俺の服に着替えている。
「メイド服は?」
「あれを四六時中着ているとおかしくない?」
「まあ、確かに」
ただ、また胸元が気にはなるのだが……。あ、ブラはしているようだ。ということは、下もちゃんと履いているな。よしよし。雑念の元が減ったので良しとしよう。
「ご飯は何?」
なんだか単なる育ち盛りのコドモである。で、例のカップルシートで密着して食べないとだめですか。
「あ、そうだ。コーヒーの豆とフィルターを買ってきたんだ。食堂で食べようよ」
食堂に移動してから、リズに頼んでケトルで湯を沸かしてもらう。その間にコーヒーミルで豆をガリガリと粉にする。あたり一面にいい香りが立ち上る。
ネルのフィルターをハンドルにセットして、サーバーの上に置き、沸騰したお湯を少しずつ注ぐと、次第にコーヒーが溜まってくる。いい感じじゃないかな?
コーヒーを2つのカップに注ぐ。リズは砂糖とミルクをたっぷり淹れている。
美味いコーヒーが淹れられたのはいいのだが……。
「デレク、ラザニアがちょっと冷めちゃったよ」
「そっか。ちょっと待て。電子レンジを知っているかな?」
「何それ」
風呂やガス台は知っているが、電子レンジは知らないようだな。勝った(何にだよ)。
「残念ながら少々冷めてしまったこのラザニア」
「うん」
「でも〜、この機械に入れて(バタン)。ボタンをこのように押します(ぴ)」
しばらく待つ。
チン。
ああ、この世界の怪しげな(←失礼)電子レンジも、やっぱり「チン」と言うのか。
妙なところに感動。そしてラザニアは熱々だ。素晴らしいな。
「ほら、ほかほかだろ」
「うわ、すごいね。湯気がすごく出てる。いいにおーい!」
ミルクの残りは冷蔵庫にしまっておく。あとで氷も作れるかも試してみよう。
しかし、どういう経緯でこれらの家電は揃えられているのか。電気はどこからきているのか。魔法が使えるよりもむしろファンタジーに感じられる。
「さあ、食べるか」
「いただきまーす」
ラザニアをもぐもぐと食べながらまた質問タイム。
「魔法について、俺の知っている知識を確認したいんだけど」
「うんうん」
「まず魔法は4つの系統に分けることができて、風、火、水、そして土の4つが存在する。いわゆる魔法士でなくても素質がある一般庶民なら使える。ただし、使えるのはどれか1つの系統だけ」
「そうね」
「魔法を使いこなす能力はレベル1から5まで存在して、レベル1はノービス、つまり初級レベル。ちなみに俺は火系統のレベル2だ」
「へえー。じゃあファイア・ストームだね」
「そうなんだ。で、魔法を使うためには詠唱が必要で、詠唱が正確でないと魔法は起動しない。それから、魔法を使うには魔力が必要で、魔法を使えば使うだけ、体内の魔力を消耗する。俺がファイア・ボールの火の玉を1分ほど出すと、脱力するほど疲れるけど、レベルが高い人はいとも簡単に長時間連続して起動できたりする」
「うん、……まあそうかな」
リズの方を見ると、ラザニアが食べづらいのか、口の周りがソースだらけである。
「……(もぐもぐ)ラザニア、美味しいけど味が濃ゆいね」
食べ方が子供だよなあ、とか思う。そして、もぐもぐと動く唇の周りがとても柔らかそうで愛らしい。
「サラダも買ってきたから食べなよ」
「ありがとう」
「さっき、魔力の話をした時に、リズは何か言いたそうだったよな」
「そうだったかな。うん」
「あれは何を?」
「えーとね、魔力なんてない、って話を」
「は?」
もぐもぐと食べているリズをまじまじと見る。
この世で魔法という概念を知っている人は、全員、魔法は魔力で出していると思っているんだけど。
それがない?
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