第33話 厚底スニーカーの運命

 俺たちは校舎と校舎の間を抜け、大学敷地内の端にある学食へ向かって走っていた。


 先行する森本が立ち止まり手招きする。


「獣の臭いがする!こっちだ!」


 森本が指した方角は学食の裏へと回る道だ。


「獣の臭いなんてするか?」


 西松は走りながら首を傾げる。


「俺にはわからん」


 と言いながら、俺たちはやっとの思いで森本に追い付いた。

 イノシシ出現情報を聞いてからの森本の動きは俊敏であった。まるで肉食獣が獲物を見つけたかのようだ。

 俺たちは森本の姿を見失わないように走るのがやっとであった。

 俺と西松、パリスは肩で息をしている……

 榎本の姿が見えない!あいつ、また逃げたか?


「待ってくれ!」


 その声に後方へ振り返ると、例の厚底靴を引き摺るように、挫いた足を庇いながら歩いてくる榎本の姿が見えた。


「待ってくれ、ソールが…、ソールが」


 ソール?榎本のその一言に目を凝らすと、榎本の左右の足の長さに著しい変化が見られた。

 それを見た西松が大笑いする。


「どうしたんだ、あれ?」


 西松へ疑問を投げかける。


「加水分解だよ」


「加水分解?」


 初めて聞く言葉だ。


「ああいう厚底靴のソールってポリウレタンで出来てるんだけど、ポリウレタンって水分とか湿気を吸って劣化するものなんだよ。       

 それが原因で片方のソールが崩壊したか剥がれたんだろうね!

 ああいう靴の避けられない運命だけど、あいつあんな物を何年履き込んでるんだよ」


 西松は再び大笑いする。

 その西松を見た森本は榎本へ一瞥を送り、


「榎本は…、後回しだ」


 森本は榎本の様子を見て、そう一言発した。


「学食の裏にゴミ置き場があるのを知ってるか?

 奴はそこでゴミを漁っているはずだ」


 森本はそう言いながら、背負っていたモスグリーンの大きな鞄から何やら取り出し、それを身に付けている。


「本当か?俺には獣の臭いなどしないんだが」


 俺が言うと、


「間違いねえよ。奴らは裏山のソーラーパネル設置によって、餌場を失ってこの辺をうろつくようになったんだ」


 森本のその言葉の後、学食の裏手から何か物音と、獣の呻き声のようなものが聞こえた。


「ほらな」


 と森本は裏手に向かって親指を差し示す。


「これからゴミ置き場に行って、イノシシの姿を見たら俺は大声を出す。お前らは黙って見ていてもいいぞ」


 と森本は不敵な笑みを溢した。

 こいつは何を考えているんだ。


「イノシシ見たら、大声出しちゃダメなんじゃなかったっけ」


 と西松が呟く。


「そうだよな。俺もその話は聞いたことがある」


「いいから見てろって。今日は久しぶりの肉を食わせてやるよ」


 俺と西松の話に森本は全く聞く耳を持たず、といった態度だ。

 その余裕に満ちた態度に釣られ、俺たちは学食の裏へ向かう森本の後に続いた。



 森本の見込み通り、イノシシは学食裏のゴミ置き場でゴミを漁っていた。

 体長は1メートルは優に超えていそうなイノシシだ。

 デカい、明らかにデカい…

 その圧倒的な存在感に思わず後退りする。


「大丈夫かよ…」


 西松だ。


「任せろ。お前らは俺の後ろにいろ」


 森本は両腕で俺たちを後ろに下がらせる。

 するとイノシシは俺たちの存在に気付き、俺たちの方を見た。


「どうした、このブタがっ!来いよ!おら!お前を食ってやるよ!」


 森本がまるでイノシシを挑発するかのように叫んだ。


「さあ来いよ!このブタ野郎が!」


 森本がそう叫んだ直後、イノシシは地面を蹴り、俺たち目掛けて突進してくるのかと思ったその刹那、一発の乾いた銃声が鳴り響く。


 イノシシは呆気なくその場に崩れるようにして倒れた。


「やったぜ。ヘッドショットだ」


 と口元を綻ばせた森本の手には拳銃が握られていた。自動拳銃のようだ。

 こいつ、なんで銃なんて持っているのか…

 しかも目にも留まらぬ速さで早撃ちをしていたのか…


 イノシシは頭を銃撃され、崩れ落ちるようにして倒れても、また息があり手足を痙攣させていた。

 森本はイノシシへ近寄り、その側頭部へ一発の銃弾を撃ち込む。

 イノシシは断末魔の悲鳴をあげると完全に動かなくなった。

 その瞬間、俺の背後で「うっ」と軽く嘔吐するような吐息が聞こえた。西松か、榎本か?


 息が無いことを確認すると森本は辺りを見回す。

 イノシシの両足を掴むと数メートル引き摺り移動させた。

 両足から手を離すと、今度は腰からぶら下げていた黒革のケースから何かを取り出した。

 馬鹿でかいナイフだ。

 森本は手慣れた仕草でそのナイフをイノシシの喉元に当てて刺すと、大量の血が流れて出た。

 酸鼻極まるとはこの事か。

 再び、西松か榎本の嘔吐するかのような吐息のようなものが聞こえた。

 森本のこれまでの動作には迷いや躊躇といったものを感じさせない。

 こいつはやり慣れている…


「森本さん、何やってるんだよ」


 西松だ。これまでの森本の行いに、こらえきれないと言いたげな雰囲気だ。


「血抜きだよ。こうやってイノシシの頭が下になるようにして、喉元を切るんだ。すげえ血が流れているだろ?こうやって血を抜かないと肉が臭くなって、食えたものじゃなくなるんだよ」


 森本は西松の疑問に当然のように答えた。

 確かに斜面を利用して、イノシシの頭が下になるようにしてある。


「西松、お前は車の運転出来たよな?俺の車を持ってきてくれないか?」


 森本はそう言った後、ズボンのポケットから鍵を取り出すと、それを西松へ投げた。

 西松はそれを上手く受け取る。


「駐車場に停めてある、トヨタのデカいトラックだ。見ればわかる」


「わかった」


 西松は頷くと駐車場へ小走りで向かった。



「ちょうどいいじゃねぇか」


 森本はそう言いながら、口元を綻ばせる。その視線の先はゴミ置き場、その横には水栓があった。

 森本は鞄から巨大なビニールを取り出すと、それでイノシシを包んだ。

 包み終えると、それを担いで水場へと持って行った。


「これからここで解体するからよ、お前らは見ない方がいいぞ」


 森本は例のデカいナイフを片手に笑みを浮かべた。

 森本なりの親切心からの一言であろうが、言われなくても充分だ。

 俺たちは森本へ背を向けしゃがみ込む。


 何やら切り裂く音と森本の息遣いのみが聞こえてくる。

 なんとも言えない空気感だ。


 そんなこの空気を切り裂くような金切り音?悲鳴?が響き渡った。


「何やってるんだっ!」


 人の声だ。

 その声が聞こえた方へ視線を送ると、そこには数人の学生風が立っていた。

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