人類より、世界の限界へ愛を込めて
烏有学生
Prologue 回収任務
第1話
旧ロシア中部、
『――トロールの集落を視認。各自、三十秒以内に持ち場へ移動せよ』
足音を殺して近づきながら、無数のライフルが木陰から銃口を覗かせる。息をひそめ、移動完了の短符を打ち、彼らは命令を待っていた。静まり返ったその世界には、雪の降り積もる音さえ聞こえそうな緊張があった。
誰かが大きく深呼吸して息を吐くと、眼前が白みがかる。気候が制御下に置かれた彼らの居住国――ヴィシュの中ではお目にかかる事のない自然現象に、彼らは少し気を奪われる。
『――カウント開始――5、4、3……』
だが刻刻と減るカウントを聞いて、全員の集中がクロスヘアへ戻った。
息を殺す。片目を閉じ、照準。
『0』
瞬間、発砲。
『まだ向かうな、餌にできる』
異変に気付いた別のトロールが顔を出す。倒れた仲間のもとに来るのを見計らって、彼らはまた引き金を絞る。二度繰り返したところで向こうも罠に気付き、次は姿を現さなくなる。
『残数5以下。プッシュしろ』
木陰から身を乗り出すと銃を構えながら家屋に侵入し、彼らはすぐに残りを制圧した。そこにいたのは女や老人ばかりで、石斧や棍棒のような原始的な武器しか持っていなかった。彼らが生きている場所は文明の果てた荒れ地で、生い茂る木と水源以外に碌なものがないのだから、それは必然だ。
「家屋の制圧、完了」
『了解。回収作業に移行せよ』
枯れ木の幹で出来た簡素な扉を開け、隊員の一人が最初に射止めた老人の元へ向かった。その身体をうつ伏せに持ち上げて、頭を膝の上にのせる。次いで懐から端末を取り出して老人の項に翳すと、次のような個体認証コードをレーザー焼印した。
<<:認証コード登録完了:『
「……もう少し、待ってろ」
烙印を刻んだその男は、そう誰にも聞かれることが無いよう呟いて感情を噛み殺した。それから老人を輸送車の荷台に載せたとき、彼は背後に女の声を聞いた。戦場には似合わない、幼さの抜けない声だった。
「――外に出たのは初めてだけど、こんな所に住むなんてどうかしてるわ」
少女は昏倒したトロールと、彼らの築いた木造の家を睥睨していた。見た目の幼さからは想像もつかない、怖気のするような憎悪が詰まっていた。
「寒いし、喉が痛いし、風が強いし、未開発で、
ヴィシュ育ちの人間が言いそうなことだ、と彼は思いながら彼女を横目に見る。すると不意に視線が合って、慌てた彼は思わず飛び跳ねそうになった。
「――ね、アナタも馬鹿だと思わない? さっきからずっと聞いてるでしょ」
「……ごめん、盗み聞きみたいな真似を」
「別に構わないわよ。独り言なんて、いくら聞かれたって困らないわ」
すると彼女は男の顔に何かを見つけて、そちらに一歩体をよせた。
「あなた、凄いわね」「凄いって、何が?」
彼女はきれいな笑みを浮かべていた。年相応の無邪気さのある、屈託のない表情だった。
「
「……あ、あぁ。君も、なんだな」
一応、彼も彼女の個人情報を開示請求した。
レイ・グレース。16歳。ヴィシュ建国と同じ年に生まれた第一世代。
その仕草に気付くと、レイも彼のプロファイルを見た。ヴィシュでは社会評価を含むほとんどの個人情報が、顔や服装と同じで完全にオープンソース化されている。その結果、彼らに古くのプライバシーという概念は消滅していた。その言葉が意味するところは、いまや性的・犯罪的な隠し事である。
「あなたは――ヒイラギ・テオね。二十歳……あ、ごめんなさい、年上だった。えっと……宜しく、おねがいします」
差し伸べられた手を握り返して、テオと呼ばれたその男はぎこちなく笑った。
「あ、あぁ。宜しく。その、言葉は気にしないで。堅苦しいのは嫌いなんだ」
するとレイはあっけなく肩の力を抜き、上ずっていた声音も元に戻した。
「わかった、じゃぁそうする。ねぇテオ。あなたの名前、どういう意味なの?」
「ギリシャの言葉で、神様の贈り物を意味するらしい」
「ギリシャって?」
「戦争で昔に滅んだ国だ。僕の父親の故郷だよ」
「ふぅん。聞いたことないわ」
テオの顔が強張った。第一世代――頭からつま先までヴィシュの義務教育を受けてきた人間は、ギリシャも、この作戦がロシアと呼ばれた地で行われていることも知らない。歴史教育に入っているのは、人類が大戦で圧勝し、マギアスはなすすべもなく撤退した――という大嘘を受け入れさせるための緻密な嘘だ。
だが、それでもまかり通ってしまう。なぜなら、ヴィシュは世界で最後の国だからだ。彼らが唱える歴史に異を唱える第三者が、この地球には存在しないのである。
「……21歳なら、ヴィシュの外で生まれたのよね」
「あぁ。君は16だから、ちょうど国と同い年だな」
「えぇ。生まれも育ちもヴィシュの中よ」
彼女は一点の曇りもなく、誇らしげな顔をした。
不意に、制圧した家屋の方から若者の高揚した声が聞こえた。二人して振り返ると、隊員の男がひとり手から炎を噴き出し、興奮した様子でトロールの家を燃やしているのが見える。
火炎放射器を仕込んでいるのではなく、あれは
発現する力は人によって様々であり、まるで役に立たないものから、一人で一個小隊を殲滅可能な超弩級のものまで千差万別である。
また治安維持の観点から、誰でも摂取することはできない。4以上の
「……バカね。力を手に入れたばかりなのかしら」
家が狼煙を上げて大黒柱が爆ぜたころ、男の全身から力が抜け、雪の上に倒れ込んだ。彼の血中に存在する
「ああいうの見てると、気分よくないわ。マギアスが寄ってきたらどうするつもりよ。
「
「別に。私の力があんな風だったら、変わっていたのかもしれないけどね。私の力は意識を体から切り離して、どこでも自由に覗き見られるってもの。情報収集には便利だけど、別に楽しくもなんともないし」
「……現場向きの力じゃないだろ、それ。なぜこの部隊に?」
「本来はこの作戦に参加する予定じゃなかったわ。けど、運悪く病気で欠員したやつの穴埋めを命じられちゃって。信じられる? そいつ、イマドキ熱が出たんですって。気になって調べたら、
ふぅん、とテオは気のない相槌を打った。
「ま、そんな奴の話はいいわ。あなたの話をしましょうよ。テオ、あなたの
彼女がHMDへ集中力を注いだ矢先に、テオは視界が真っ白に染まった。誰かが彼の頭に大量の雪を被せたのだ。
「おい、サボってないで働きやがれ」
振り返ると、ガタイのいい小麦色の肌をした男が、雪のついたスコップの先をテオの頭上に向けていた。テオが反射的に名前を調べる。ダリス・ロッテという名の男だ。年齢は四十。レイと違って、旧世界からヴィシュへ流れ込んだ人間である。
「悪かった。……戻るか、レイ」
「えぇ。あなたみたいなまっしろ頭になるのはゴメンだわ」
レイは苦笑ながらに雪を払う彼の様子を、おかしそうに笑いながら言った。
⁂
テオはレイと離れて、再び烙印を押す仕事に戻った。バーコードを焼き入れ、輸送車の荷台に乗せるだけの単純労働だ。次第に心が麻痺してきて、感情が揺れ動くことも少なくなった。
――その腕に、年端も行かない女児を抱える前までは。
トロールになる人間は大抵が中年から老人で、若者はいない。自己像が曖昧な頃にヴィシュの教育を受けた子供は愛国的で、誰もトロール化しないからだ。
この子はトロール同士の子で、彼女には何の罪もない。
「……ごめんな、傷物にして」
言いながらテオは烙印を押して、
その片棒をいま担いだ――その事実が、テオの胸を茨で縛った。
子にとって親は世界だ。幼い頃に親を失うと、それは世界が消えてしまったのと同じくらいの孤独が来るのだ。テオは戦争孤児で、そういう感情と深いつながりがあった。彼の父親は戦争で死んだ。彼の母親は青年期まで彼を育てたあと、戦況が悪化して国を追われた際に、彼をマギアスから守ってぼろ雑巾になった。
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目尻に流れた涙が凍って痛む。目の前の少女と自分の過去が重なる。
無機質な通知が視界を過っていくのが嫌で、HMDを脱いだ。そして少年と母のもとへ膝をつき、周りの目を忍んで、決意を改めるように語り掛けた。
「――あと少しだけ、待っていてくれ。皆まとめて、救ってやるから」
束縛を嫌い、自由を求めた、この気高き
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