渇いた感情
「子葉、見ちゃダメ」
後ろから私の目を覆って、綺月が言う。
その手が私の顔に触れた時、悪寒が背中をかけ巡った。
怖くて腰が抜けそうになって、声も言葉になるようなものは全く出ない。
綺月がいて、綺月の家ということが分かっているのに、別の世界に来てしまったようなとてつもない不安を感じた。
「はぁ……はぁ……」
緊張で早鐘を打つ心臓と、嘔吐したせいで乱れた呼吸が、私の思考をぐちゃぐちゃに搔き乱す。
「ほら、立って。向こうで一旦落ち着こ」
綺月は片方の手で私の目を覆ったまま、もう片方の手で私を引き起こし、そのまま脱衣所を出た。
リビングまで連れて行かれて、私はソファに横たえさせられる。
「服は汚れてないね。大丈夫」
そう言って、私の顔を覗き込む綺月は、いつも通りの綺月で。でも、私の中の不安は膨らむ一方だった。
「あれ……綺月がやったの?」
「うん」
即座に肯定する綺月。悪びれる様子もなく淡々と、それが正しいことであるかのように返事をする。
「どうして……」
「どうして、って。子葉と一緒にいるために必要なこと、だから?」
「わけわかんない……」
胃酸が喉を焼いて、声が掠れる。
綺月がやったことがあまりに信じ難く、私の中でまだ受け止めきれていない。
「ごめんね」
「……なんで、謝るの?」
「だって、子葉に死体見せちゃった。子葉にはそんなもの見せないって決めてたのに」
「それもわかんないよ……」
持ち前の想像力もすっかり鈍って、綺月の言うこと全てが適切に処理できない。
「いいよ、今は何も分からなくても。いずれ私たちは全部分かり合えるようになっていくから」
その優しく全てを受け入れるような物言いと表情が、今までとは違う感情の源泉が作ったものだということくらいは分かった。
恐らくその源泉を濁らせたのはあの殺人の体験で、それが綺月に絶対的な余裕と正しさを生んでいる。
「さて、と。子葉、吐いたら胃の中空っぽでしょ。ご飯作るね。動けるようになったら口濯ぎにおいで」
そう言うと、綺月は台所へと向かう。
「あ、胃に優しいのにメニュー変更しとくね!」
追伸を聞いてもなお、私は半分呆然とした状態でソファに横たわる。
あまりに現実味がなくて、いっそ夢であってほしいのに、夢にしては五感の全てがあまりにもはっきりと明瞭に、それを否定してくる。
重たい身体を持ち上げて綺月のいる台所へ向かう。ほんの少し浴室の方から血生臭さを感じて、また気分が悪くなる。
とてもじゃないが、こんな状況で食欲なんて湧きそうにない。
鍋で何か煮ている綺月の横で、浄水を出して何度も口を濯ぐ。
それから綺月に言ってコップ貰い、水を2杯ほど飲んだ。
「落ち着いた?」
「うん……」
「よかった!」
向けられる微笑みが、こんなにも幸せだと思えないのは初めてだった。
「ね、子葉。目瞑って」
言われるがままに目を閉じると、柔らかく温かい感触が私の唇を包む。
「へへ。こうして二人で台所に立ってると、なんだか一緒に住んでるみたいだね」
キスも、無邪気で照れたような声さえも、私の心を動かさない。
複雑で虚ろな感情が私を支配して、ただ現実と私の隙間にできた膜を肌になじませることしかできなかった。
ずっと一緒にいたいだけ 桂花陳酒 @keifwa
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