赤い水槽
意識だけが先行して覚醒する。まだ身体は寝惚けているせいか、思い通りに動いてはくれない。
それはまるで意識が身体に囚われているような、そんな不思議な感覚。
全身を血が巡る音や心臓の鼓動がやけにクリアに聞こえてくる。
しばらくぼーっとしていると、だんだん瞼が持ち上がってきて、意識と身体が合致していく。そしてようやく私は目覚めた。
「あ、起きた? おはよ、子葉」
まず目に入ったのは暗い部屋、そして私を覗き込む綺月。
「あれ、ごめん。寝ちゃってた」
部屋の電気は点いておらず、カーテンは開けっぱなし。窓の向こうはもうすっかり陽が沈んでいた。
「いいのいいの。それより具合はどう?」
「大丈夫だよ」
「そっか。よかった」
身体を起こし、ぐるりと部屋を見渡す。寝てしまうまでの記憶がなかったが、頭の中を探り、勉強の途中で寝落ちてしまったことを少しずつ思い出していく。
「いま……何時?」
「午後7時くらいかな」
綺月の返事に私は驚く。勉強会を始めたのが昼頃だったから随分と寝てしまったようだ。
「え、もうそんな時間?」
「ぐっすりだったから起こせなかったし、寝顔も見れるからいいかなーって」
「……私が寝てる時に何か変なこととかしてないよね?」
「流石にしないよ! あ、それとも何? 本当はされたかったり?」
綺月が意地悪くニヤニヤしながら揶揄ってくる。
「ま、それよりお腹空いてない? 知ってる? 睡眠もエネルギーを消費するんだよ」
言われてみると、胃が空っぽな感じと少しの倦怠感がする。
「たしかにお腹空いてるかも」
「じゃあ、ご飯にしよう。私が作るから」
綺月は立ち上がると部屋の電気を点け、カーテンを閉ざす。
「子葉はここで待っててね。とびきり美味しいの作ってあげるから」
「分かった」
そう言うと綺月は部屋を出て、下の階のキッチンへと向かったようだった。
「…………」
一人になった私は、寝起きでまだ少し冴えない頭を使って、ずっと感じていた違和感と向き合う。
まず、起きた時の部屋。綺月がいたはずなのに、カーテンは開いたまま部屋の電気は点いていなかった。
次に、綺月から微かに感じた匂い。甘いとか爽やかとかじゃない、鼻や頭に残る嫌な感じの匂い。
純水は毒だという言葉を思い起こさせるような、水分の多い生々しい匂いだった。
なんだか今朝のとは違う胸騒ぎがして、しばらく迷った後、私も階下に降りることにした。
階段を降りるごとに、例の生々しい匂いと綺月が料理をしているらしい火と調味料の匂いが混ざっていく。
鼻を曲げながら1階に辿り着くと、そこに在る異変にすぐに気がついた。
血痕が廊下にぽつぽつと点在している。
「っ……」
心臓から胃に嫌な感じがすとんと落ちて、拍動が早くなる。動揺と怯えがぐちゃぐちゃに混ぜ合わさって、足を重くさせる。
血は途切れ途切れ、浴室の方へと続いているようだった。
「き、綺月……」
震える声で、キッチンの方にいる綺月に呼びかける。
「子葉? どうしたの?」
「さっき……寝て汗かいたみたいで……。シャワー借りてもいいかな……」
本当はそんな嘘をつかなくても良かった。それなのに嘘をついたのは、私はまだ綺月を信じていたからだった。
返事を待たず重い足に鞭打って、私は浴室の方へ向かう。
「ちょっ、ダメ……!」
息を殺し、脱衣所の扉を開ける。好奇心からなんかではなく、ただ目の前の真実を知らなければならないという義務感からの行動だった。
「っ……、はぁ……はぁ……」
鼻を刺激する、生臭い水と鉄の臭い。
視界に広がる澱んだ赤と黒。
壁と床はおびただしい量の血に塗れていて、浴槽からは人の脚のようなものが飛び出して見える。
「ゔっ、おえ……」
その惨状を目にして、私の胃がぐるりとひっくり返り、吐き気が込み上がってくる。
「ゔぇっ……」
脱衣所にそのまま膝をついて、せり上がった吐瀉物をタイルにぶちまける。
涙の滲んだ視界でようやく、浴槽の中のそれを理解する。
私と同じくらいの少女の死体だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます