まな板の上の

 その日は朝からずっと、そわそわとした胸騒ぎが治まらなかった。

 ついに来たこの日。綺月の家で二人きりで勉強する日。

 昨日の夜に、着替えを鞄に詰めている時から邪な想像と葛藤し、なんだか寝つけない夜を過ごしたからか寝不足気味でもある。

 修学旅行の時でもこれほど、はしゃがなかった自分を少し恥ずかしく思う。

 今まで2回修学旅行を経験したけれど、どちらも綺月とは別のクラスだったから、今回のようなシチュエーションは初めてで、どうにも調子が狂っている。

「いらっしゃい、子葉」

 インターホンを鳴らすと、私服姿の綺月が迎えてくれた。今日は綺月の家以外、どこかへ出かけるわけではないけれど、お互いに張り切ったよそ行きのファッションだった。

「お邪魔します」

「は〜い、どうぞどうぞ。あ、荷物持つよ」

 玄関で挨拶を交わすと、綺月はすぐ私の着替えや勉強道具の入った鞄をひょいと持ち上げる。

「ありがとう」

「うん。さ、行こ行こ!」

 まだ何も始まっていないというのに大袈裟なテンションで、綺月は私を先導して階段を上っていく。

「ここが私の部屋」

 綺月の部屋にはよく来るけど、綺月の親がいないことを意識するとドキドキしてくる。

「ふふ、子葉ってば、なんだか緊張してない? まぁ、分かるけどさ」

「分かってるならわざわざ言わないでよ」

「ごめんごめん。私もなんか緊張してるから、おあいこだよ」

 そう言って微笑む綺月はちっとも緊張なんてしてなさそうだった。私ばっかり恥ずかしがっているようで少しだけ悔しい。

 綺月の匂い。いつも近くで微かに香っていたそれが、部屋全体に満ちている。普段よりも強く感じてしまって頭がぼうっとしてしまう感じがした。

「先、準備してて。飲み物とか持ってくるから」

「あ、うん」

 私がぼうっとしている間に、綺月は部屋を出て行ってしまう。一人きりになった部屋で、とりあえず綺月が運んでくれた鞄から勉強道具を取り出し、机に並べる。

 それでも綺月が戻ってくるまでには、まだ時間があった。

 綺月の部屋をあらためて見回す。本棚の奥。ベッドの下。クローゼットの中。色々と気になってしまう所はあるけど、私は流石にそこまでするような人間ではない。自制心がきちんと働いてくれているおかげで、妙なことはせず待つことができた。

「おっまたせ〜。はい、どうぞ」

 綺月は冷たいお茶と個包装のチョコをお盆に載せて戻ってきた。

『ありがとう』と受け取ると、綺月はにこにこしながらベッドの近くに腰を下ろした。

「んしょ……」

 二人分の勉強道具を広げた、折り畳みの机は少し狭い。『でも、そのぶん近づけるね』と私の頭の中の綺月は言った。本人もそんなことを言いそうだった。

「じゃあ、始めよっか」

「うん」

 そうして始まった勉強会。二人で他愛もない話をして程よく気を緩めたり、分からない所を綺月に解説してもらったり。

 今は恋人同士ではなく、学生としての本分を全うしてるどなんて思っていたその時だった。

 ふあ、と私が欠伸をしたのを切っ掛けに、穏やかな空気に変化が出てきた。

「なに〜? 子葉眠たいの?」

「さっきまでは眠くなかったんだよ」

 頭がぼんやりとして、全身の神経がぴりついているうな、血管の流れが鈍くなっているような感じ。

「子葉、もしかして寝不足?」

「いや、そんなことはないと思うけど……」

 確かに興奮で昨晩は眠れていなかったかもしれないけれど、この眠気はなんだか異常だった。

「子葉。あんまり無理しなくていいよ」

 綺月はそう言うけれど、始めてからまだ2時間程しか経っていない。人間の集中力はそんなに続かないとはいうけれど、普段の午前の授業より短い時間しか集中が続かないのは、さすがにおかしく感じてしまう。

「ほら、ちょっと寝なよ。私のベッド使っていいからさ」

「いや……うん」

 思考も鈍ってきていて、綺月のベッドを使うことに何の抵抗もなくなってしまった私は、つい素直に従ってベッドに横たわった。

「おやすみ。子葉」

 綺月のその声で、私の意識は暗く深い沼へと落ちていく。

 私が完全に眠りに落ちる直前で唇に柔らかい感触があったのが、私の気のせいかも分からなくなっていた。

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