部屋にいた
荒宮周次郎
部屋にいた
部屋にいた。
私は使い慣れたベッドに寝そべっていた。すぐ側の窓はベランダに繋がっており、その向こうに青空が広がっている。風が吹いて、開かれたピンクのカーテンが少し揺れていた。私はテレビを点けようと、リモコンを探してテーブルの上に目を走らせたが、何やらよく分からない書類、小物の山、女性向けのファッション雑誌、そういったあれこれに埋もれているのか見つからなかった。
仕方がないので、私はベッドの傍に置かれている2段のカラーボックスに目を移した。それは本棚代わりに使われていて、中にはそれなりに揃えた漫画が並んでいる。その中に埋もれるようにして、興味もないだろうに背伸びをして買った小説が、ただ朽ちるを待つ世捨て人のように佇んでいた。そして取る気があるかも分からない資格の参考書が、棚の隅で気だるげに横たわっている。
私はそこから1冊の漫画を手に取った。パラパラとめくっていると、ふと、何処からか誰かに見られているような、そんな視線を感じた。私は寒気を感じて、頁をめくる手を止めた。
ここ最近、よくこんな視線を感じることがある。誰かから見られているような、監視されているような、気味の悪い気配だ。
初めてこの気配を感じ取ったのは、職場からの帰り道だった。
駅のホームで電車を待っていると、何者かの視線を感じたのだ。初めは気のせいかと思っていたが、次第に気配がする場所は、駅だけに留まらなくなっていった。人通りの多い交差点、住宅街の電信柱の影、果ては私が住んでいるアパートの駐車場。帰り道だけではなく、日常生活の至る所で私はその気配を感じ取った。尾行されている、と私は思った。
それは物陰から物陰へ移動しながら、私のことをじっと監視していた。最終的にその何かは、職場ですら私のことを監視していた。次第に私は、この者が人ではないのではないか、と感じ始めていた。視線に悩まされていた私は、その正体を確かめてやろうと、何度かその視線を感じた場所を探ってみたのだが、どれほど探し回っても、そこには何も無いのである。そうしていつも、呆気にとられた私をからかうように、今度は背後から視線を感じるのだ。
ある時には、複数の場所から見られていると感じることもあった。しかし、虱潰しに探しても、そこには何もいない。煙に巻かれた気分であった。
ただの人間に、これだけ探しているにも関わらず、私に一切発見されることなく監視することが可能だろうか?私はこの視線の主が人ではないと考えるようになった。馬鹿げていると思うかもしれないが、これは子供が夜闇を恐れるような、そんな曖昧なものではなく、明らかに何者かが私を監視しているという確信を得ての考えだ。私は超常的な何者かに、おぞましいことに監視されているのである。
そうして私は、その何者かの監視から逃れるため、正体を隠して行動することを心がけるようになった。服装にも気を使い、眼鏡やサングラスをかけ、マスクをし、それでいて怪しまれないような変装が出来るように研究を重ねた。そのかいあってか、次第に視線を感じることは減っていった。だからこそ今日、この部屋で視線を感じるなどとは思ってもみなかったのだ。
しかし、この場所で視線を感じるなど、あってはならない事だ。外はどこも監視されているのだから、気が休まるところがなくなってしまう。私はどうにかしなければ、と恐怖を決意で押し飛ばして、気配がした方を振り返った。
気配がしたのはテーブルの下からだったが、誰もいない。当然だ。私は1人で部屋にいた。しかし、何かがそこにいた。それは私にとって、確信に近い感覚であった。その直感に従って 、私はテーブル下の暗がりをじっと見つめていると、何か影のようなものが動いたように見えた。それは人のような姿を象ったかと思うと、ドアの所へと素早く這って行く。異形は驚くべきことに、そのままドアをすり抜けて行った。
ついに尻尾を掴んだ、と私は思った。そして同時に飛び起きた。異形が向かった先は玄関だ。このままでは逃げられてしまう。私は異形がすり抜けたドアへと突進した。
そこは、玄関へと続く廊下だった。台所も兼ねていて右手には小さな風呂場もある。一人暮らしでありがちな部屋の間取りだ。妙な薄暗さを感じつつ、私の目はそれらの先、玄関のドアへとただ注がれていた。
何だか妙な気分だ。罠に嵌ったような、そんな気がしていた。考えてみれば、今まで1度も私の目に留まらなかったあの異形は、何故今日に限って姿を見せたのだろう。私をここに誘い出そうとしたんじゃないか?嫌な予感がする。私がそう思った時、それは現実のものとなった。
ドアの鍵が、独りでに回った。
私の背中を冷や汗が伝った。心臓がどくどくと音を立てる。それでも、震える足で勇気を奮い立たせて、私は1歩、2歩とドアに近づく。
とうとうドアノブが動いていく。そしてドアが開いた。
その向こうには女神が立っていた。
信じられない、と思うかもしれないが本当だ。そこには女神、或いは天使としか形容のしようがない、神々しく美しい存在が立っていた。女神は白磁のように透き通った肌と、黒檀のように艶やかな髪をしている。それでいて人形のようではなく、不思議な活力に満ち、光を纏っていた。女神は紺のワンピースのような服を着ていたが、これもまた月明かりのような、淡い光を放っているように見えて美しい。
しかし、私がそれらに見惚れていられるのも一瞬だった。私は女神の後ろに佇む、大きな黒い人影に気づいた。女神に隠れてよく見えなかったが、私はその黒い人影こそ、先程まで私を監視していた存在だと確信した。黒い影は、何やらきらりと光る刃物を取り出すと、女神に向けて大きく振りかぶる。と、そこで何かに気づいたように、黒い影はぴたりと止まった。私はその隙を見逃さず、不敬だとは思いつつ女神を突き飛ばし、影に向かって突進した。影はまるで人間のように、飛ばされた挙句尻もちをついた。私は我武者羅に影から刃物を取り上げ、その黒い体に突き刺した。影はくぐもった鳴き声を上げて動かなくなった。とうとう、私は私を監視する者達に勝利したのである。私はさながら英雄のようで、歓喜に打ち震えていた。
その時、耳を劈くような音がした。見れば、女神が何やら叫んでいた。それは金切り声と言っていいもので、控えめに言っても酷く耳障りな音であった。それで何やら、言葉なのかも分からないようなことを喚くのである。醜い、と私は感じた。なんとも言えない、夢から引き戻されるような気分であった。
ふと気がつくと、女神はどこにもいなくなっていた。代わりにいたのは、ただの女であった。足元には男が一人、包丁を刺されて蹲っている。
私が刺したのだろうか。
そんな馬鹿な。私が刺したのは、私を監視していた不届きな影であって、私には人を刺す気などこれっぽちもなかった。これは明らかな罠で、あの影による陰謀に他ならなかった。
私はどうにも恐ろしくなって、部屋を後に、這う這うの体で自宅へと逃げ帰った。
暫くの間、私は自宅に引きこもっていた。あの部屋も、女神も失った今、私の安寧の場と言えるのはここしかなかった。
テレビを点けると、ニュースが流れてきた。
「○○市でストーカーの──」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
部屋にいた 荒宮周次郎 @Aramiya_Syuujirou
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