第19話 エルンスト家 午後1
◆
書類の整理をしていると、部屋の外から香ばしいバターの香りが漂ってきた。
ヨハンは昨晩から、リュシエンヌの為にお菓子を仕込んでいた。
『準備は全て終わりました、あとはクッキーを焼くだけです』と言っていたので、これはそのクッキーの香りだろう……しかし良い匂いだな。
さて、もうすぐリュシエンヌの到着する時間だ。
机の上の書類をまとめて、引き出しを開ける。そこには、あの布の塊と手袋を入れた袋があった。
その袋を端に寄せ、書類を入れて鍵をかける。
「椅子は汚れていなかった……」
自分に言い聞かせるように呟き、姿見で身だしなみを整えて部屋を出た。
客間の前まで行くと、ちょうど部屋から二人の侍女がトレーを持って出てくるところだった。中では、テーブルの上に置かれたカトラリーをヨハンが数えている。
「おお、坊ちゃま。いま支度が終わったところでございます」
笑顔のヨハンに促されて、客間へ入った。
シャンパンゴールドのテーブルクロスに真っ白なテーブルランナー。
間には、小ぶりな白い薔薇のブーケが飾られている。
食器は、金の縁取りがされた真っ白な陶器で揃えられ、シンプルだが華やかだ。
テーブル中央には、鮮やかな黄色がつやつやと輝くレモンカードのタルトと、レモンのマドレーヌ。二種類とも食べやすいように一口サイズになっている。
そして、キツネ色にメレンゲが焼きあがったレモンパイにクッキー。
テーブルセッティングも美しく、お菓子も魅力的なものばかりが並んでいた。
「ヨハン素晴らしいよ! これは間違いなくリュシが喜ぶ」
「お二人の話が弾むようにと、作らせていただきました」
「そうか……ありがとう」
「では、お嬢様をお迎えに参ります」
ヨハンはにっこりと微笑むと、いつも良い姿勢をさらに正して、玄関ホールへと向かっていった。
そういえばセレーネも心配していたな、普通にしているつもりだが、二人の様子がなにか違うように感じるのだろうか……。
まだ、やるべきことはいくつかある。それもあと半月程度のことだ。
今朝のことを考えると、気を抜いてはいられないのもわかっている……。
リュシエンヌを不安にさせないように、全力で彼女を守れるのは、俺しかない。
ふと、入り口の方から何やら楽しそうな声が聞こえてきた。
客間を出て、廊下から玄関ホールを見ると、リュシエンヌがヨハンになにかを渡しているのが見えた。真っ白なアジサイの花束だ。
なにやら『この前のハーブティーのお礼』という言葉が聞こえる。
「リュシエンヌお嬢様! お気遣いいただきありがとうございます」
「私こそよヨハンさん、いつもありがとう。私がここに来るのは、ヨハンさんに会えることも楽しみの一つなのよ」
「おお、なんと嬉しいお言葉」
「ふふふ。そうそう、このアジサイは花がしぼんでからも美しいんですよ」
「素晴らしいですね、爺の楽しみが増えました」
「まあ」
二人がとても楽しそうに話している……出て行く雰囲気ではなさそうだ。
リュシエンヌが少し照れている顔が可愛い、ああー羨ましい……。
廊下の隅から、首だけ出している俺に気づいたヨハンが、侍女に花束を渡すと、リュシエンヌを客間へと案内しはじめた。
急いで客間に戻る。すぐにノックの音が聞こえた。
「失礼いたします。リュシエンヌお嬢様がいらっしゃいました」
「やあリュシ」
「ルド、ごきげんよう」
近くで見ると、今日も一段と可愛い。クリーム色のドレスが良く似合っている。
ヨハンはリュシエンヌをテーブルにエスコートした後、お茶の準備を始めた。
目の前に広がる檸檬のお菓子に、完全に目を奪われたリュシエンヌは「なんて素敵なの」と声をあげている。
「マドレーヌにはレモンピールを入れております。紅茶は砂糖抜きがおすすめですよ」
すかさずヨハンが説明をする。それを聞いてリュシエンヌは嬉しそうに頷いている。
他のお菓子の説明をしながら、手際よく二人分の茶を注ぎ終えたヨハンは、大きなティーポットをワゴンの上に戻した。
続けて、マドレーヌとタルトとパイを皿にサーブして、頭を下げた。
「では、私はこれで失礼いたします。ご用の場合はいつでもお申し付けください。リュシエンヌお嬢様、素敵なお花をいただきありがとうございました」
「そんなヨハンさん。こちらこそいつもありがとう」
「ごゆっくりなさってくださいませ。では、失礼いたします」
ヨハンは再度、深々と頭を下げ、ちらりと俺を見て微笑むと部屋を出て行った。
扉の閉まる音が部屋に響く。
淹れたての温かい紅茶を一口飲んだ。リュシエンヌも続くように紅茶に口を付ける。
俺の言葉を待つように、正面からこちらをじっと見つめている。
図書館の椅子のことを話さなくてはいけない。
「さてリュシ、今日のことなんだけど」
「うん、ありがとうルド……どうだった?」
先程までとは違い、リュシエンヌの頬が少し緊張したように見えた。
「開館前に行って椅子を調べたら……なんと、何もついてなかったんだ」
「えっそうなの?」
「俺も驚いたよ。でも、今までも少し変化があるから、そうなのかって思ってね」
「確かにそうね……」
「いい方向に変わっていると思ってる、俺達の仲も良いしね?」
「えー?」
「えーってなんだよリュシ」
右手を胸に当ててポーズを決めた俺に、わざと意地悪を言うリュシエンヌ。でもその表情は、さっきまでと違って笑顔だ。
そんな彼女も、俺に向かって右手を胸に当てる仕草をした。少し照れたような表情がたまらなく可愛い。
「また一つクリアできたね、君はあの場所に居なかった、そしてアレシアのドレスが汚れることはなかった。新しい未来になったよ」
「あの……アレシアは?」
「彼女が来る前に屋敷に戻ったから会っていない、わざわざ顔を見る必要がないしね」
「ありがとうルド」
「これは君のためでもあるけど、君の事を大好きな俺のためでもあるからね」
「もう……本当に恥ずかしいから……」
頬を真っ赤に染める彼女を見て、幸せな気持ちが胸に溢れる。今まで以上に、気持ちが奮い立つのを感じた。
早く時間が過ぎればいい。
彼女の不安も、一度経験したことも、全て書き換えて新しい人生にしたい。
部屋の中は、瑞々しいレモンの香りと、甘いバターの香りに包まれていた。
目の前のリュシエンヌは、頬を染めたまま紅茶を飲み、艶やかなレモンタルトを頬張った。と、同時に目を細め、美味しさのあまり頬を押さえて唸っている。
ヨハンのレモンカードは本当に絶品だ。朝食に出た時、父がパンをすべて食べてしまい、母に怒られていたのを思い出す。
リュシエンヌも二個目を口に運んでいる。
「じゃあリュシ。そのままでいいから、18日の話をしよう」
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