第17話 6月10日 図書館
五日前、アレシアを貴重書架に案内した時間より、少し早めに図書館に着いた。
正直、今日はそれほど緊張していない。
リュシエンヌが経験した前回と現在いまは、少しずつ変化している。
図書館の椅子にインクをつけるような、おかしなことをした奴……。
誰なのかはわからないが、それを実行する気が無くなっているかもしれない。
あと、前回は曖昧なまま犯人捜しは終わったようだが、本当は誰かの単純な失敗で言い出せなかっただけ、悪意なんて全くなかった……という可能性も考えられる。
それになんといっても、今日はアレシアがいない……。
図書館の入り口に行き、硝子から中を覗いた。
いつもどおりの司書見習いたちが数人と、隣接された教会の人の姿が見える。
入り口のすぐ近くに、小柄でふわふわの巻き毛が見えた、ルルだ。
硝子を少し叩くと、俺に気づいて笑顔で鍵を開けてくれた。
「おはようルドウィク! 今日は早いのねえ」
「やあルル、ちょっとした用事があってね、すぐに帰るよ」
「お仕事? 今日から三日間グレイス館長はお休みだよ」
「ああそうなんだ、でも本当にすぐ帰るから大丈夫だ」
「じゃあ、何か手伝いが必要なら声かけてねえ」
「ありがとうルル」
手を振りながら、ルルは事務室へと消えていった。
彼女は一見おっとりして見えるが、蔵書の仕分けに関しては一番だ。
細かいラベリングなど全て頭に入っている。
歴史書架に向かっていると、受付にセレーネがいるのが見えた。
「あら、ルドウィクおはよう。今日も貴重書架なの?」
「やあセレーネ。いや、ちょっとした用事だ」
「ちょっとした用事?」
「まあね」
そう言ってセレーネに手を振り、受付の前を通ろうとすると、追いかけるようにして肩を叩かれた。
「ねえ、またリュシと喧嘩なんてしてないよね?」
眉を下げ、不安そうな表情でセレーネが俺を呼び止める。
「セレーネ、俺達は喧嘩なんかしてないよ。この前だってしてないって言っただろ?」
「本当? リュシがここに来る回数も減っているし、あなた達が二人でいるところをあの日以来見ないから……」
リュシにはなるべくここに来ないように言っているのだから仕方ない。
この大きな瞳に見つめられると嘘をつきにくい。だからと言って本当のことは話せない。
「ほら、またルドウィクも今こんな表情かおしてる。リュシなんて最近ずっとこんな顔よ」
眉を寄せて困っているような表情と、眉を下げて悲しそうな表情を、セレーネは続けて作って見せた。
それは、リュシエンヌが困っている時の顔に少し似ていた。
さすが親友だ、よく見ている。
「セレーネ、眉間に皺寄せちゃ美人が台無しだよ」
「もーそんなこと言ってる場合じゃなくて! リュシが悲しい顔してるの私嫌なんだから!」
「わかってるよ、俺もだ。でも、本当に大丈夫だ。そんなに気になるなら、今度クリストフを誘って4人で集まろうか?」
「いいわね、そうしましょ!」
セレーネが嬉しそうに両手をぽんっと叩いた。自分ながら、いい提案だと思った。
リュシエンヌにとっても、経験していない新しい出来事になる。
クリストフも間違いなく喜んでくれる。
早めに日程を決めなくては……そう思っていると、セレーネの後ろに置いてある時計が目に入った。
開館15分前。
いけない、このままだと椅子を調べる前に、開館時間が来てしまう。
「じゃあセレーネ、また連絡するよ」
「ええ」
あらためてセレーネに手をふり、歴史書架へと向かった。
相変わらず整然と並べられた机と椅子。
ゴミどころか、髪の毛一本さえ落ちていないのではないだろうか。
一番端の席、ここが、いつもアレシアが座っているという椅子だ。
この前と同じで、触っても何もつかないだろう。
そう確信しながら椅子を後ろに引いた。
ん? 座面の黒い革に艶がなく、他の椅子に比べるとくすんでいる気がする。
「まさかな……」
ポケットからハンカチを取り出し、背もたれ部分をさっと擦ってみた。
真っ白なハンカチに、茶色い汚れがべったりと付いた。
「なっ!」
思わず大きな声が出そうになるのを、ギリギリで耐える。
もう一度、今度は座面を拭いてみる。やはり、ハンカチには同様の汚れがついた。
間違いない、インクがつけられている。
整頓された椅子は、今朝間違いなく清掃が行われた証拠だ。
ということはその後? それとも清掃中? 誰が、何のために、わざわざこの場所に……。
いや、考えるのは後だ、大事になる前に椅子を取り替えたい。
館内を見まわすと、休憩用にと二脚の椅子が書架の間に並べられているのを見つけた。そのうちの一脚と、汚れた椅子と交換する。
さて、問題はこの椅子だ。証拠になるものだから、置いておきたい。
そういえば、明後日までグレイス館長が休みだとルルが言っていた。
周りに気づかれる前に、館長室の中に入れておこう。
汚れた椅子を片手に持ち、早足で館長室へ向かった。
ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込むが手ごたえがない。
不在なのに鍵が開いている?
誰かいるのか?
扉をノックするが返事はない……というより人の気配を感じない。
「失礼いたします」
声を掛けながら、館長室の扉を開けた。やはり中には誰もいない。
椅子を持ったまま、ゆっくりと部屋の中に入る。
室内は整頓されいて、完璧な状態だ。
しかし、机横に置いてあるゴミ箱になぜか違和感を覚えた。
汚れた椅子をその場に置き、机横のゴミ箱を覗く。
何かが入っている……。
それに気づいた瞬間、喉の奥に固いものが詰まったような息苦しい感じに襲われた。
あれは何だ?
塊のようなものと……丸めた布?
恐る恐るゴミ箱の中に手を入れ、それを取り出す。
その塊のようなものは、たっぷりとインクを含んで茶色に染まった布。
そして、丸めた布に見えたものは、それを持つために使ったであろう手袋だった。
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