#3a ”ワガママ”の力
6月9日 15時31分
上赤津場 "Buy-laS"跡
中層 "変質"5~6F近辺
光弥は今、暗い通路の端にじっと立ち尽くしていた。
しかも、彼にはもはやそれしか道は無いとばかりに、極度の緊張状態にも陥っていた。
心臓は高鳴り、体の芯の方から熱がこみ上げてきている。
といっても、これは別に危機的状況にあるとか、コンバットハイの継続中だかというわけでもない。
だがそれでも思考回路はショート寸前。
頭は沸々と茹だって、興奮状態にあるのだった。
<ススッ・・・・スサッ・・・・>
無人となったブランド系ファッションショップの前で、ガチガチに強張る姿は、どこぞのファストフード店の人形のようである。
といっても、件の老紳士のような愛嬌は無く、突っ立てられた棒のような直立不動姿勢だが。
我ながら、こんな有様でいざという時ちゃんと動けるのか、怪しいものだった。
忘れてはならない。
既にこの建物は、異形の化け物達による襲撃・侵蝕に沈んでいる。
その中では油断など出来ようはずもなく、光弥は常に周りに気を配り続けねばならぬ。
何一つたりとも見逃すわけには行かない。
だから、店内から聞こえる柔らかい布擦れの音に緊張している場合ではないのである。
断じて、絶対に。
<チィッ・・・・ファサ>
・・・・今のは、ファスナーを下ろした音だろうか。
頭の片隅に湧いてくるそんな考えを必死で追い出す光弥。
仕方ないとはいえ、どんどんと上へ・・・・即ち、逃げ場の少ないエリアへ来てしまっている。
今までいた下層の方に奴らがいないということは、これから先の上層にいる可能性が高いのだ。
雑念は捨てろ、余計な事に集中力を割く余裕は無いはずだ。
光弥は、そう自分を叱咤した。
<スス・・・・スサッ・・・・キュッ・・・・シュッ、シュッ・・・・>
暗闇で、視界が効かない場所に長時間いる内に、光弥の感覚は自然と、聴覚の方に過敏に反応するようになっていた。
訓練を積んだ人は、音の反響によって周囲を把握することも出来ると言う。
もちろんそれとは比べるべくもないが、似たようなものなのだろうか。
生物というのはよく出来ているものだと思う。
おかげで、さっきからあの悩ましい音がよく聞こえてきてしょうがない。
いや、違う。
それは集中すべき事じゃない。
「――――ふっ・・・・っぅ・・・・きっつぅ・・・・――――」
確かに梓の、あの・・・・ナイスバディー、と評せば良いのか。
背は高くて、腰は細くて、それでいて出るべきところはグイと突き出て、あれ程に見事な均整を光弥はかつて見たことがなかった。
あれでは合う服を探すのも難しかろうと、素人ながらに思う。
―――― き、巨乳なんてねっ、重いし疲れるし、服だって探すの一苦労だし、良いことなんて一つも無いらしいのよコンチクショー !!!!――――
そこはかとなく桃色に染まり始めた思考にふと過るは、在りし日の残響。
かつて、正木が心無い言葉で挑発し、香が怒髪天を衝きながらキレ散らかした時があった。
伝聞の形なのが、なお一層の哀愁を誘ってくる。
ともあれ、今こうして背後から順調に着替える音が聞こえてきているのは、梓の曲線に合うものが運良く見つかったということなのだろう。
うん、素直に良かったと思う。
なにせ今回の梓の場合、本当に交換したいのは服よりも、その下に着けたブ < ゴスッ !!!!>
「ど、どうしたの!!??
今、なんか変な音が――――」
「・・・・いや、なんでもないよ。
それより、ちゃんと着られた?」
「――――え、ええ・・・・?
今、行くね」
と、梓には何でもなさそうに答えたが、しかし実際に彼女が見たら、目を丸くする様な事態が起きていた。
その時、光弥の眉間へ、強烈な鉄拳制裁が打ち込まれていた。
ただし、自分自身で繰り出したものだが。
あまりにも、注意散漫。
そして、いい加減に不埒が過ぎる自分に向けての、自戒の一発だった。
(・・・・力加減、間違えたな。
・・・・目ぇチカチカする・・・・けど、おかげでというか、集中が戻ってきた)
「――――えっと・・・・それじゃ・・・・待たせて、ごめんなさい」
店内から出てきた梓の言葉に、光弥は頭を振りつつ、改めてその出で立ちに目を凝らした。
・・・・
・・・
・・
・
約15分前。
多目的ショッピングモール・"Buy-laS"内に在るべきでないだろう巨大な縦穴を、光弥はひたすらに跳躍し続けていた。
真っ暗ながらんどうを、上へ、上へと登っていく。
その腕の中には、いわゆる"お姫様抱っこ"にされる梓の姿がある。
光弥とほぼ同じ身長の彼女を抱えたままだが、しっかと抱きついてくれるお陰でなのか、意外にも安定した体勢で動き続けられている。
更には、1回に4~5mも跳び上がる異常な跳躍力によって、移動速度も想定以上のものだった。
それは、純粋な脚力だけで跳ぶのではなく、地を蹴った瞬間に何か別の要因が生じ、文字通りに飛んで行っている。
そんな不思議な感覚があった。
ともかく、そうして大跳躍を繰り返し、小さな足場の一つに降り立った時だった。
その位置から真反対に、大きく開けた場所が見えた。
奥は見通せないが"Buy-laS"のプロムナードの一角だろう。
"レクリス"によって汚濁したこの空間に於いて、その人工物のシルエットと暖色の色合いは、この上なく異彩。
それはつまり、光弥達にとってポジティブで安心感をもたらしてくれる色合いという意味である。
光弥は、あの場へ休息を兼ねて降り立つ事を梓へ伝え、一区切りとする大跳躍を行う。
「・・・・こんなに手荒に扱われるなんて」
着地の衝撃に咽込みながら、梓は待ちかねたように光弥から離れていた。
しっかり自分の足で立てることに安堵した様子だったが、身体はまだ少しふらついているようだ。
「ご、ごめんて・・・・。
あぁ、でも、ちょっとしたジェットコースターに乗った気分でウキウキしたり、なんかして」
見当違いの戯言に、梓の眼が険悪に光る。
「高所恐怖症はそんな事、思わない」
ゆっくり、押し潰さんばかりの圧に満ち満ちる声。
恨めしそうな梓にじろりと睨めつけられ、光弥はその迫力に喉奥を変に唸らせた。
「――――そうでした、誠に申し訳ありませんでした」
「よろしい」
平に謝る光弥を一瞥した梓は、そこでようやく角を収め、ふとしたため息と共に辺りに視線を配る。
「此処・・・・ブランドショップがたくさんあって、よく皆で買い物に・・・・。
・・・・なのに・・・・今は・・・・」
「――――僕は、もう少し上の映画館の方に、よく行ってたっけな」
言葉を交わしながら、梓はこの場の光景と記憶とを、一つ一つ照らし合わせるように辺りを見回していた。
それまでとはうって変わって、この一画は化け物蟲達による侵食が少なく見えた。
背後の大空洞以外、この場はただ停電した建物の中のように見える。
「・・・・・・・・・・」
その時、ふと光弥はしゃがみ込んでいた。
足元の、整然としたタイル張りに転がっている何かを、拾い上げていた。
「それ・・・・腕時計、ね」
不意に足を止めた光弥の様子に気付いて、梓も振り向いた。
この細身で可愛らしいデザインは、おそらく女性用だろう。
茶色いバンドは強い力で引き千切られ、もう巻くことは出来なくなっている。
時計の損傷は、文字盤部分にも及んでいた。
ガラスは無残に割れて、針も根本から激しく歪んでしまっている。
(・・・・たぶん、14:57頃か。
確か、あの化け蟲達に追い詰められて・・・・地下で目を覚ました辺り、だったな)
振り返って、香と一緒に倒れた梓を見つけ、神保と名乗る男から忠告を受けたのが、14:30きっかり。
それから、はぐれてしまった遼哉を探しに光弥は出て、"奴ら"が出現するのに立ち会った。
これが何時だったかまでは流石に分からないが、おそらくは10分程が経ってからだった筈だ。
(・・・・其処から、約20分。
この時計が壊れた時間には、あいつらはもう此処はもちろん、もっと上階にまで広がって行ってたとしても不思議は無い、か・・・・)
「・・・・日神君・・・・?」
――――光弥は、今まで出来るだけ考えないようにしていた事があった。
この"Buy-laS"は、有名な商業施設であり、観光施設でもある。
加えて今日は休日で、上層のホテルも含め、施設には大変な人数がいたことだろう。
そして、問題はその"大変な人数"が、下層で起きた異変に気付いて、逃げられたかどうか。
ここまで来る中で、人の亡骸を目にしたのは一度きり。
以降は血痕の一つも見かけてはいないが、生存者にもまた会えていない。
それだけの事実で、"きっと多くの人が無事逃げられたろう"と考えてしまうのは、あまりに都合が良すぎる。
分かってはいても、しかし光弥はそれでも、紙一重の可能性の方を信じたかった。
そうでなくば、一体何人が命を落としたのか。
何人が、あの化け物共の手にかけられたのか。
想像するだけで、吐き気と虚脱感が押し寄せてくる。
楽観視でも、ただの願望でも何でも、都合の良い結果になったのだと、光弥は思いたかった。
「――――ねぇ、日神君?」
気付くと、すぐ傍に梓の顔があった。
長い前髪の間から覗く黒曜色の瞳が、光弥を見上げている。
「・・・・あ、あぁ、なに?
ごめん、聞いてなかった」
梓の言葉を理解する前に、光弥は反射的な返事をしていた。
ついでに、その言葉以上に、上の空だったと容易く見抜ける態度も。
梓は、しかしそんな生返事にも特に動じず、ゆるゆると首を振って答える。
「まだ何も言ってない」
「あ・・・・そう、なんだ。
ごめん」
いったい何を謝っているんだと、自分で自分を歯痒く思ってしまう。
とりあえず並び立てた、誠意のない謝罪。
なんの意図も込められていないそれはもう、驚いて思わず出た声と同義だろう。
気に入らない言葉の使い方だった。
考えと言葉の齟齬に、光弥は狼狽える。
しかし、そんな光弥と対象的に、梓は穏やかな様子でいた。
「悪いことなんてしてないのに・・・・おかしいの」
たおやかで女性的な柔らかさを感じさせる仕草で、小さく笑う梓。
少しからかうような調子は、散漫になっている光弥の心を、柔らかく押し止めようとしているようだった。
そんな、緩やかな木漏れ陽のような心遣いが、光弥の緊張を緩ませていく。
とはいえ、こうも優しい気遣いを向けられては、同時にむず痒い気恥ずかしさも感じられて、落ち着かない気分になる。
そうして、しばしの間が流れた後、梓はふと意外過ぎる提案を口にした。
「ねぇ、お腹空いてない?
良ければ、何か食べましょう」
「え・・・・!?
いや、でも、いくらこの辺は静かそうだからってそんな場合じゃ」
「・・・・あのね、今の日神君は、不安で見てられない」
いきなりの鋭い切り込みに、更に言葉に詰まる光弥。
そうして焦ってしまう内情を見透かしたかのように、梓は言葉を続けた。
「だって、今の日神君、私よりも不安そうなんだもの。
・・・・でも、そんな気持ちを飲み込んで、堪えて、でも隠しきれてない」
どうやら、例によって表情に出ていたようだった。
思わず顔を触ると、梓は愉快そうにまた微笑む。
「悩みがあって、頼りなくて・・・・それでも、考え続けていれば答えは出せる。
けれど、追い詰められたまま考えても、きっとまた自分を追い込むばかりの結論になってしまう。
励まされる事、安心できる事に気付けないと、息が詰まってしまう。
そう、思うの」
改めて言われれば、そうかもしれなかった。
楽しい気分でいれば、普段にはない大胆さを発揮するし、後ろ向きな気分では、自然と考えも消極的になるもの。
感情と思考は繋がっている。
理屈で折り合いの付けられない類の心配事を抱えているのなら尚の事、多大な影響を及ぼすものかもしれない。
そして、乱れる気持ちを自分の力だけで抑え込むのは、簡単そうでとても難しい事だ。
「――――疲れた時には甘いものを、って言うでしょう?
ティーブレイクで気晴らしなんて、とてもする気になれない場所だけれど・・・・ね?」
こうして、梓の言葉に押し切られる形で、光弥は頷いた。
ただ悪い気はしない。
これが、梓の優しさからくるものだと分かるからだ。
――――もしかしたら、"気晴らし"とか、"息抜き"という言葉は、こういう時の為に生まれたのかもしれない。
目には見えない、心の中の独り相撲を、他の場所から気付かせる為に。
今更のように光弥は、梓に気遣われているのだと、気付いていた。
「じゃあ・・・・はい。
折れちゃってるけど、味は変わらないから」
そう言いながら梓は、ずっと肩から提げている小振りなポシェットを開き、細長い銀袋を取り出す。
中身は、誰しもが知っている"最後までチョコがたっぷり詰まったスティック菓子"だった。
それを手に、綺麗な壁を見つけて一緒にもたれかかる。
途端に光弥は、水を入れたコップを傾けるように疲れがどっと溢れ出るのを感じた。
とりあえず、梓から手渡された袋から1本を取り出し、齧りつく。
外側の焼き菓子の歯応えとほのかな塩味、そして中のチョコレートの甘さの共演が堪らない。
「・・・・美味しい?」
「うん。
なんか・・・・沁みる味だ」
ふと、横を見ると、梓は長めに折れた菓子を2本、無くなっていくのを惜しむようにゆっくり、ゆっくり食べていた。
「それだけで、足りる?」
「・・・・・・・・・・。
今週は、ちょっと・・・・"ギリギリ"、だから」
「・・・・何が?」
その問を受けた梓の答えは、聞くな、という目配せだった。
光弥はそれに応え、それ以上の追及を避ける事にした。
「こういうの、いつも持ってるの?」
「今日はたまたま。
明癒ちゃん達と出かけるから、買っておいただけ。
これくらいの時間になると、いつも遼くんは甘いもの食べたがるから」
「そうなんだ・・・・なんか凄いな」
「?」
「いや、なんていうか、凄い・・・・包容力?、保護者感?
えぇと、大人っぽい、ていうか・・・・あの二人が、お母さんみたいに信頼してるわけだ、ってさ」
「・・・・褒めてるつもりかもしれないけど、それ以上言うと・・・・怒るから」
気付けば、あっという間に渡された1袋を食べきっていた。
ふぅ、と思わず息を吐く光弥。
どうやら自分が思っていた以上に、気を張り通しのようだった。
1袋のお菓子を食べながら他愛も無い話をする、僅かな休息。
たったそれだけのことで、嘘のように頭がすっきりと冴え、活力が漲っている気がした。
「――――ありがとう、眞澄さん。
おかげで、かなりやる気が出てきた」
「そう・・・・なら、良かった」
途端に、光弥の胸の内は、再びむず痒そうに小躍りした。
この時、梓が不意打ち気味に浮かべて見せたのは、形の良い唇を僅かに綻ばせる、静かな微笑み。
それでも、そんな緩みを真っ直ぐに見せるのは恥ずかしそうに小首を傾げ、上目遣いに目を合わせてくる動作の、相乗効果たるや。
あたかも、雲間から覗けた月のように淑やかなその笑顔は、彼女の人並み外れた美貌をより引き立てているように思えた。
そんな姿を、この屈託の無い優しさを向けながら見せてくるのだから、堪らない。
(・・・・結構な男殺しだよな・・・・)
これも未熟さ故か、少しどころでなくあてられてしまった光弥は、ドギマギしながらそんな事を思う。
「・・・・こんな時に引き止めて、ごめんなさい。
そろそろ行かないと、ね」
「あ、ああ・・・・」
「・・・・どうかしたの?」
思わず若干上擦った返事をしてしまい、梓は不思議そうな表情をする。
とはいえ、わざわざ問い詰めるほどでもなくて、直ぐに自身の身支度に意識を移し、長い髪の毛を後ろに流したり、軽くワンピースの裾をはたいたりを行う。
「あれ・・・・?」
だが、その動きは、思わずと言った風に出た疑問符と同時、不自然に中断される。
それに次いで、梓は何かを確かめるように上半身をぺたぺたと触り出す。
「え・・・・ちょっと・・・・?」
その奇妙な動作の間、梓の頬は、薄暗がりでもはっきり分かるくらいに、みるみる紅潮していく。
最終的に、頬紅を差したみたいな赤みに達するや否や、バッと身を縮こませて、なにやら形容しがたい小さな悲鳴を発する。
「ひぅゃゎっ――――!!??」
さて、一連の動きを見つめていた光弥だったが、何が何やらさっぱり分からず。
ただただ、いきなり尋常ではなさげに慌てふためく梓の姿に、目をしばたかせるのみである。
「・・・・え、なに・・・・どうかし「 な、何でもないっ !!!!」
いや、流石にそれは無理がある反応じゃないか。
という言葉を、光弥はすんでのところで飲み込んだ。
正論は時に人を追い詰めるものだと、光弥は知っていたからだ。
しかしながら、彼女の不審な様子の原因については無論、知るべくもない。
本人はああ言っているが、どう見たって何でもなさそうでないと思うのだが。
「いや、でもさ・・・、ずっと胸元を押さえてるけど、もしもまた体調が悪いなら――――」
「い、いいから!!!!
なんでも無いから、こっち見ないでっ・・・・!!!!」
「はいすいませんっ・・・・!!」
心配して声をかけた筈が、とんだ塩対応。
上擦った声で、かなり強めに突っぱねられてしまった光弥は、言われた通りにそっぽを向く。
ちなみに、今の言葉は光弥の言うところの"気に入らない謝罪"であったのだが、今回ばかりはこちらに非は無いように思う。
と、そんな釈然としない気持ちの中、思わず不満げに一瞥してしまうが、なんと梓はそれすらも敏感に感じ取り、睨み返す。
その火矢のような眼力に、思わずたじろぐ光弥。
こうなってはもはや処置無しか。
目を合わせれば石にされると思って、ご所望通りに見ざる言わざるの体勢に戻る他ない光弥だった。
「――――い、いつからっ・・・・有り得ない・・・・っ!!??
・・・・確かに変な感じは・・・・ずっと、揺れて・・・・見られた・・・・!!??――――」
(何なんだよ、いったい・・・・。
ていうか、なんで怒られたんだ、僕は・・・・?)
「あ」
「え?」
と、俯き加減に何やらずっともじもじしていた梓だったが、急に明後日の方を向いて声を上げる。
その視線の先にあったのは、なにやらおしゃれなロゴ&店名な、ファッションショップであった。
こういった施設に入った店舗としては、かなり大きいほうだろう。
当然、中に人影などあるはず無いが、店構えも内部もまだ綺麗なものだ。
店先のショーウインドウで、華やかな水着を着たマネキンがポーズを取っているのが、少し季節を先取りしすぎている感があった。
なんにせよ、光弥にはあまり縁のない、おしゃれそうな店だ。
「――――で、これが?」
と、水を向けてみるも、梓も尚ももじもじと思い悩んでいる風。
どうしたことか、何か言いたそうな雰囲気は伺えるも、まごついてばかり。
やがて、恐る恐るとに口を開くものの、随分と躊躇いがちな様子だった。
「・・・・あの、ちょっと、ここに寄りたいの。
ついてこなくていいし、たぶん、そんなに時間はかからない、から」
とても言いにくそうに、且つかなりの小声でなされた梓の提案は、さっきと同じく、光弥をひどく困惑させた。
さて、もちろん今更言うまでもなく、今はのんきに服など選んでいる場合では無い。
先程の小休憩だって、あれだけ渋ったのだ。
光弥がどう答えるかなんて分かりきっているだろうに、なぜ?
良いとか悪いとかよりも、光弥はその疑問のほうが大きかった。
「・・・・だめ?」
「あまり見通しの悪い場所に行くのは・・・・。
それに、いくらここまで何事もなく来れたからって、眞澄さん一人でだなんて、危険だよ」
「・・・・そう、ね。
・・・・そう、なんだけど・・・・」
光弥の耳が確かなら、梓は今、そうなんだけど、と言った。
それは、相手の言い分を認めつつも、自分の意見も引っ込め難い。
そんな状況で出てくる言葉である。
(・・・・食い下がった・・・・)
ますますもって光弥は戸惑う。
ダメだ、と却下するのは簡単であるが、しかしそれもなんだか気が引ける。
「・・・・純粋に興味で聞くんだけど、なんでまた今になって?」
「そ、それは・・・・う、・・・・っん・・・・」
梓は俯き、なにか言いたそうに口を動かすが、やはり黙りこくってしまうのだった。
光弥は困り果てた。
あるいは、もしかしたら"レクリス"の気配を察しているのだろうか?
梓が、光弥よりも先に奴らの気配を察知し、それによる変調をきたしたのは記憶に新しい。
ずっと腕組みをして胸元を庇っている風なのも、その予想を支持するものだ。
しかし、それでは梓一人でこの場所に入ろうとする意味が分からないし、そもそも隠す必要がまるで無い。
まさか、本当の本当に、服屋を物色したいだけなのだろうか?
今、この場で、わざわざ?
(・・・・んーむ・・・・)
段々と、堂々巡りな思考が煩わしくなって、光弥は唸りながら後ろ頭を掻く。
まぁ別にいいか、という気にはなっていた。
面倒臭くなった訳ではないし、また、彼女を咎めたい訳でもない。
(・・・・彼女には、随分な無理をさせて、連れ回してばっかだもんな。
おまけに、さっきは気遣いまでしてもらって・・・・なのに、いざ彼女の希望をここで無碍に断るってのも忍びないし。
一応、もし何かがあっても直ぐに対応できる距離間だ。
どうしても、そんなにも強く行きたいって言うなら・・・・僕の方からも、何か返してあげないと、だよな)
果たして、そんな結論のもとに光弥が口を開こうとした、その時だった。
「―――― もぉっ !!!!
・・・・言わないといけないっ!?」
梓は唐突に、既にリンゴのように赤かった顔を更に紅潮させ、沸点突破に至っていた。
この場で出せるギリギリの怒声が、強かに光弥に叩きつけられる。
言葉の内容、そして噛み付かんばかりの語調から察するに、その要因は怒り。
そして、ここに至ってなお躊躇いがちに口元を震わせる様子からは、何らかの恥じらいの色も見て取れた。
――――なるほど、この剣幕と、ついでに顔の赤みは、おそらくこれら2つが足し合わされた相乗効果によるものか。
その証明とばかりにほら、こちらを睨み据える眼差しのなんと鋭いことか。
というか、そんなにも理由を言いたくなかったのだろうか。
そうならそうと、早く言ってくれればいいのに。
いや、言えないからこその、この事態なんだろうが。
と、かようにして吃驚仰天、震え上がった光弥が咄嗟に頭を巡らせた、現状分析の結果が以上である。
何故にそれほど荒ぶるのか、わなわなと不吉に身体を震わせる梓。
ややあって、光弥の無言の問いかけに答えんとするように、彼女はとうとうその重い口を開く。
「着替えたいの」
(・・・・普通の理由だ)
などと、思わず拍子抜けに近い納得をしそうになるのを、早計だと押し留める。
そんな事はありえない。
堪え難きを堪え、憤怒と羞恥に苛まれたる梓の激昂が、そんな普通な訳がなかろう。
ひび割れたガラスの上に立つような緊張感に、光弥はゴクリと唾を飲み込む。
今にも吹き上がらんとする活火山の迫力を放つ、梓。
そのちょっと潤み出している瞳は、さながらカルデラ湖の様相か。
あたかも、湖面を吹き渡る冷たい風が唐突に凪いだような寒々しさが、光弥を襲う。
そして、物々しい沈黙が暫し、降りる。
されど、やがて梓は意を決してその帳を破り、ゆっくりと、予想だにしなかった驚愕の"理由"を、打ち明け出した。
「・・・・いつの、間にか・・・・その・・・・"下着"が・・・・切れちゃってたの・・・・。
だからっ・・・・ああいう水着、なら・・・・代わりになるかな・・・・って・・・・思って・・・・――――」
「・・・・・・・・・。
・・・・は?」
あまりにも赤裸々な告白に、光弥はしばしの間、背の高い埴輪と成り果てた。
開いた口が塞がらず、言葉も失ったのだ。
"下着"というのはつまり、その・・・・服の下に着けるアレ、という解釈でいいのだろうか?
なんと言えば良いのか分からなかった。
だが、何を言っても不正解になる予感がした。
そして、それは多分正しいと思う。
「――――だからっ、着替えるの!!
揺れちゃって、動きにくいの!!
落ち着かないの!!
悪いっ !!??」
潤みを増して、吊り上がった彼女の瞳が、口程に物を言っていた。
どうして、こんな辱めを受けるのか。
どうして、察してくれないのか。
察するに今、さぞかし色々な感情が、梓の胸中を駆け巡っているのだろう。
これ以上恥ずかしい事なんて無い、言わんばかりに梓が吠えた、その刹那。
――――光弥は、見た。
激しく、悲壮なる衝動に、彼女はその身と長い髪とを打ち震わす。
その刹那の出来事の中に、強力な存在感を伴い、視線を奪い去る引力を放つモノがある。
たわわに実った、豊穣の果実の如きその丸みは、持ち主の動作によって美しくたわむ。
声も出せないほど僅かな間でありながら、その揺々たる様はどんな言葉よりも雄弁に、内包する弾力の程を伝えた。
重力と、衣服と、二重の枷に捕らわれながら、尚も柔軟に、ワガママに、彼女の胸元に躍動する"それ"。
その瑞々しく、情熱的な躍動を表現するオノマトペは数あろうが、光弥はその中からただ1つを、確信を持って選び出すことが出来た。
たぷんっ 。
正に、そう表現すべき重量感で、梓の豊満が存分に揺れ動くのを、光弥は目撃した。
光弥は、目撃者となった。
(――――って、いや、見過ぎだろ!!
ほら、めっちゃ怒った顔してるし!!)
「あっ、あ、有り得ない・・・・っ!!
エッチっ!!!!」
光弥の視線の先を察した梓は、"この上ない恥じらい様"を、もう一段階越えた狼狽えぶりを見せ、ビンタのように鋭い言葉を投げつけた。
それは、女性に物凄く悪いことをした気になるワード、ワースト5の一画を担いし忌み名。
やや古典的だが、今なお一級品の威力を持つ蔑称が、剛弓の一矢とばかりに光弥を突き刺した。
「ぐっ!!!!
・・・・いや、その、ちょ、待ってって・・・・!!」
身に覚えは・・・・あるが、しかしこれは全くもって心外であるのだ。
――――考えてもみて欲しい。
あっ、と指を指されれば目で追ってしまうのが人間、見るなと言われると見たくなるのが人間である。
それは確か、"カリギュラ効果"だとかなんとか言うもので証明されている。
だから、そんなにあからさまに示されれば、当然気になる。
そして、そんなに露骨に揺らされようもんならば、そりゃ思わず見ちゃうんだって。
ともかく、つまりこれはある種、巧妙な心理誘導の形と言っても良くて、抗いがたい人間の習性を煽る、未必の故意。
梓は今、目まぐるしく訪れるハプニングに、その心が揺さぶられている事であろう。
もしかしたら、世界の全ては敵だと思ってしまうかもしれない。
だが決して、そうではない。
偏にこれは、ただ不幸なボタンの掛け違いの結果。
どうか落ち着いて、そして此処には貴方を追い詰めるものなんて無いのだと、理解して欲しい。――――
だがしかし、そんなごちゃごちゃした男の理屈なぞ、激昂した女性には関係も無ければ意味も無い、というのが世の常であった。
「訳が聞きたかったんでしょ!?
これで文句はないっ!?」
完全に光弥の下心を見出してしまっている梓は、言い捨てるや否や、さっさと踵を返して歩き出す。
もはや聞く耳持たずと、その背から立ち上るオーラに書いてある気がした。
(・・・・嗚呼、これはやっぱり、僕が悪いんかな・・・・)
静かなる諦観の中、光弥は今一度、己に問うていた。
現状、光弥は思いがけずして"H"の烙印を押され、その咎から存分に責め苛まれている。
やんぬるかな・・・・だが、やはり、腹の底ではこう思うのだ。
こういう事案は、相手の受け取り方次第というのは分かるが・・・・やっぱりちょっと理不尽なのではないか。
そんな風に悶々とした気持ちがやるせなく渦巻いていた・・・・その時。
もはや見送るのみかと思っていた梓が、不意に振り返る。
興奮のあまり、その眼尻に光るものを浮かべた、荒んだ眼差し。
とはいえ、怒りというよりそれは、思ったことを共有してくれない鈍感さに、拗ねてしまった風に見えて。
そうして、どこか可愛らしく口を尖らせた梓は、最後にこう呟いて、行ってしまうのだった。
「・・・・いじわるっ・・・・」
やはり理不尽であった。
それも、"三重"に。
投げつけられたその言葉に、光弥の胸はときめいていた。
猛烈な罪悪感と共に、であるが。
(そ・・・・そんなぁぁぁぁっっっっ!!)
・・・・
・・・
・・
・
かくして、面白くも可笑しくもない不幸な行き違いの末、今に至る。
冷静に考えて、やっぱりあの時の自分は悪くないと思うのだが、もはや詮無いこと。
気付くべき事に気付けなかった、その時点で光弥はきっと敗北していたのだろうさ。
閑話休題。
着替えから戻って来た梓は、装いを新たにしていた。
だがその話題に入る前に、さっきとは様子の違う光弥の顔を見て、ぎょっとする。
「・・・・どうかしたの?
おでこのところ、凄く赤い・・・・」
「・・・・若さへの抵抗、かな・・・・」
「・・・・意味、分からない・・・・」
なにやら遠い目で呟いた光弥を訝しんでか、梓はやや引き気味にそう言って、それ以上の追及を避けるのだった。
「いや、良いんだ・・・・それで、何の問題もない・・・・。
それより――――」
しげしげと、梓の姿を眺める。
もちろん、さっきまでの桃色思考を引き摺っての事ではない。
だが、相手がそう思ってくれるかはまた別の話であるので、いらぬ誤解を受けない内に、服を見てたんですという意思表示をしておくのが良いだろう。
「随分、がらっと変わった、ね・・・・」
「――――え、と・・・・どう?
変じゃない?」
「え、あーと・・・・うん、今までより身軽そうで良いね」
「・・・・今の、褒めてくれたの?」
と、少し困ったような顔で梓は笑う。
こういう場合、感想もそのままではダメなのだ、と学びを得る光弥だった。
(慣れない事はするものじゃないな・・・・)
そういえばと、以前に香が言っていた事を思い出す。
――――女の子がどう?って聞いたら、それは同じくらい本気で褒めてってこと!!
例えば花を送る時も、引っこ抜いてそのままと、包んだ花束じゃ、ぜんぜん違うっしょ?
そういうこと!!――――
しかしながら、思い返せど未だにどういうことなのかは定かでない。
とはいえ、確かに今の言葉ときたら抜いてそのままレベルの無配慮だったが、しかしまぁ、とりあえず良いように転んでくれて何よりだった。
――――「ただし、怪しいと思うやつに言われた場合はその限りではないぜ、兄弟」――――
この時、やたらに実感を込めて添えられた正木の談も、今回は当てはまらなかったようで一安心である。
「・・・・お気に入りの服だったのに、でももう汚れてボロボロで、着れないし・・・・。
それに、あんな靴じゃ走りにくくて・・・・だから勿体無いけど、全部取り替えたの」
そういう梓の格好は、今までの華やかなシルエットのワンピースから、見るからに動きやすそうな服に着替えていた。
上から、白と水色のストライプシャツに薄手のベージュのブラウス、履いているのはゆったりめのフレアパンツという、一転して明るい色合いの出で立ち。
どの服も、袖口や裾は広く開がった作りで、梓が動くたびにヒラリと軽やかになびく。
そうやってドレスのようなシルエットで取り合わせたがるのは、もしかしたら彼女の趣味なのかもしれない。
動きにくいと言っていた、長丈のパンプスブーツも、今は簡素なスニーカーになっていた。
「・・・・ごめんなさい、日神君。
こんな時に、私の我儘に付き合わせて」
「いや、僕は良いんだ、全然。
それで胸のところも平気?」
言ってから、しまったと思った。
こうなった原因ということで何の気無しに聞いてしまったが、それは同時に光弥が助平呼ばわりされた原因でもある。
案の定、その下りを蒸し返された梓は顔をちょっと赤らめた。
「・・・・もう平気。
ビキニで思いっきり締め上げたし、キツめのビスチェも着けたから。
・・・・ちょっと苦しいけど」
(・・・・びすちえ・・・・ってなんだ?)
否、雑念は捨て去れ。
ひたすらに無難に、ただの感想を口にするのだ。
「お、おお・・・・それなら安心だね・・・・?」
すると、光弥の言葉を受けた梓はふと物憂げな表情を見せて、黙りこくった。
(・・・・もしや、しくじったか・・・・?)
先程の負い目もあって、嫌な感じに動機がした光弥だったが、幸いそれは違うようだった。
「――――これ、ね。
思わず好みで選んじゃったんだけど、本当に買ってたら結構な値段になるの。
少なくとも、今日の予算じゃ絶対に買えない・・・・」
梓は、物憂げな表情でブラウスの裾をつまみ上げる。
俯いて、視線は宙ぶらりん。
その声色から、自嘲気味な調子があると察せた。
「こんなの・・・・やってることは火事場泥棒よね。
なんか、罪悪感、感じて・・・・」
「・・・・まぁ、確かに申し訳ない事だね。
けれど、必要だったらやるしか無い、って事情もあるんだ。
建前って言われたら、否定できないけどさ」
もしもこれが平時ならば、確かに彼女の行動は窃盗行為となるだろう。
だが一方で、今はその"平時"とは程遠い局面なのも事実。
良識や規則といった道徳の物差しは、それを共有出来る相手と環境の中でこそ、意味のあるもの。
本当の危難を凌ぐ為には、そこから逸脱した行いが必要も時にある筈だ。
(・・・・とはいえ、そんな風にあっさり線引が出来ないから、眞澄さんもこうして悩むんだろうな。
真面目というか、繊細なんだろうな)
ちなみに、光弥とて居直るわけでもないが、香達から「たまに変にドライだよね」などと評されることはあって、その差であるのかもしれない。
するとその時、俯いていた梓はもどかしそうに軽く頭を振って息を吐く。
「ごめんなさい。
少なくともこんなところにいる限りは、気にしても仕方ないものね」
少し浮かばせた笑顔は、無理矢理に貼り付けたものであろうとは、さすがの光弥にも見分けがついた。
申し訳無さそうな声音は、考え込んでいた光弥の沈黙を、呆れられていると解釈したせいらしい。
「いや、そんなこと無いって。
むしろこんな時だからこそ、人間らしくいるのは大事なんじゃないかな」
「・・・・ごめんなさい。
本当に大変なのは日神君の方なのに、変なことを言って。
もう平気、心配しないで」
と、梓はもう一度、口早に謝った。
紛れもなく本心を言ったつもりなのだが、どうも今度は気を使っていると思われてしまったようだった。
どうにもこうにも、裏目である。
光弥は困った拍子に思わず後頭部を掻いた。
「――――あー、ちょっと待って」
「・・・・?」
(これは良くない、よな)
言葉は相手の受け取り方次第。
揶揄したつもりは毛頭ないのだが、言葉の影とは見方によって容易く変わってしまうものだ。
そうやって、投げかけた言葉の一面だけでやり取りして、無駄に気に病ませる真似はもうゴメンだった。
――――とりわけ、"彼女"との間には、特に。
ともかく、些細でもそういう隔たりを解き解す為に働きかけられるなら、最大限やってみるべきだろうと、光弥は思い立つ。
不思議そうな梓の視線に答えつつ、問題を解決する算段を整理し、光弥は同じく店先に立つマネキンに近寄った。
ポーズを取っている彼は、縦のモールドの入ったえんじ色のジャケットを着こなしている。
薄手で簡素、好みのデザインだった。
「"いざとなったら、気持ちに従え。
強い意思で選べたのなら、それが自分の進むべき道だ"。
だから、人間らしさってけっこう大事なんじゃないかって、僕は思うんだ」
唐突に披露された、説教っぽい言い回しに、梓はきょとんとして首を傾げる。
「・・・・なんだか格言みたい。
それとも、誰かの言ったこと、なの?」
「はは、まぁ受け売りだよ。
僕の、師匠からの」
「ししょー、さん・・・・?」
その"師匠"こと、
しかし今の光弥には、この言葉が真に迫って感じられていた。
なにせ、自分が今ここにいる事こそが、まさにこの言の意味するところであるのだから。
「人間ってのは、"自分"の大事なものの為なら、大きくて強い力を出せる。
良いことか悪いことかの区別は、また別だけどさ。
ともかくこれは、そういう"意思"の事を言ってるんじゃないかって、思う」
「・・・・でも、私なんて身だしなみを気にしたり、嫌いなものを嫌いって言ってるだけ、なのに。
そんな意思じゃ、力にはならないんじゃない?」
「とんでもない。
人間らしい悩みで、結構だよ」
「・・・・変なの」
二人は小さく笑い合うも、梓の笑みは、どちらかといえば皮肉っぽく見えた。
なので光弥は、もう少し自分の意見を付け加えることにする。
「僕も眞澄さんも、こんな大変な状況にいる。
もっと楽で、安全な選択を出来る機会は、きっと何度もあった。
でも、そうしなかった。
僕の場合は、そう出来ない訳が・・・・どうしても譲れないと思う理由があったからだ。
"自分"の望みに従ってまっすぐに動ける選択、それはきっと困難の中でだって進める力になる。
最近は特に、そう思うんだ――――」
光弥は、戦う"力"を手に入れた。
しかし、それをいつ、どう使うかは、あくまでも自身で判断した。
見捨てること、戦わずに逃げることは、出来たろう。
それでも、重ね重ねそうしたくない理由の為に、光弥は退かなかった。
一度は、それを見失いそうになって酷く迷い、揺らいだりもした。
だが、此処で今一度、退けない理由に起ち上がったその時、弱気はもう欠片もなくなっていた。
どんな経緯であれ、こうして覚悟を問う場に引き出され、そこで踏み出す脚には強い力が漲っていた。
まさにそれが爺様の言う、"力"の正体なのだろう。
「――――なんて、要はそんな難しい話じゃないんだ。
どんな時でも、好きなものは大事にして、嫌なものは嫌だと言える。
そういう”自分”を曇らせない為には、気持ちはしっかり抱えてる方が、きっと良い」
光弥に遺された教えと、その解釈を聞かされ、梓はじっと考え込む様子を見せた。
するとその視線はなぜか、光弥をじっと見据えているようだった。
あたかも、今見つめているそれが悩み事の中心であるかのように、黒曜色の瞳が複雑に陰っている。
少なくとも、明るい様子でないのは光弥にも分かったが、そこまででもあった。
心が読めるエスパーでない以上、他人の悩み事が分かるはずもない。
そして、梓自身もまた、考えを整理しきれず戸惑ってしまっているようだった。
「・・・・それって・・・・きっと、とても難しいこと、ね。
・・・・欲しいと思う答えが、重ならない。
変えたくて、でも変わらないこともあって・・・・それが、恐くて――――」
やがて梓は、沈み込んだまま様子のまま、小さく独り言つる。
結論の出ないまま、言葉になりきらない考えが零れ出たような、ぼんやりとした呟きだった。
そんな姿があまりにもか細くて、思わず光弥は声をかけようとする。
「――――私には・・・・まだ、よく分からない。
でも、ありがとう、日神君」
しかし、それよりも一瞬早く、梓は伏せていた顔を上げた。
一転してきっぱりとした口調は、話を切り上げたかったから、だろうか。
一応、打ち明けた悩みを慰められた形ではあって、梓は感謝を述べながら微笑んで見せる。
そんな姿を、果たして額面通りに受け取っていいのか。
深く思い悩んでみせたその原因に、何らかの答えは出せたのだろうか。
光弥にはまだ、それらを推し量ることは出来そうになかった。
それでも、出来ることを最大限してみるべき、と決めている。
「・・・・ともかく、さ。
言いたいのは、きっとそのままで良いんだってこと。
自分を見失わないように、その上で生きて、皆の所へ帰る為に努力する。
少なくとも、悪巧みの仕業ではないんだって、僕らは胸を張れるはずだ。
もし、それでも怒られるようなら――――」
不意に、光弥は件のマネキンからジャケットを引っ剥がして、躊躇うことなく袖を通す。
おあつらえ向きにサイズもピッタリだった。
「――――これで"お揃い"だ。
一緒に謝ろうか」
拝借したジャケットを得意気に見せびらかして、光弥はいたずらっぽく笑いかける。
そんな精一杯の気遣いに、小さな花を咲かせるように微笑む梓は、少なくとも今度は作り笑顔では無いように見えた。
――――To be Continued.――――
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