#1b Devotion -献信-
6月9日 14時50分
上赤津場地区
二間プランニングビル 8F 屋上
だだっ広いオフィスビルの屋上。
その男は、まるで断崖まで追い詰められた自殺志願者のように欄干に腰掛けていた。
<シュカッ、カチッ・・・・シュカッ、カチッ・・・・>
赤黒い、異様な煙が各所から立ち昇る"Buy-laS"と、其処を取り巻いて混乱する人だかりを、男は静かに見下ろす。
危険に直面しているという恐怖心も、混乱を傍観する好奇心も無く、ただ静かに見下ろしている。
退廃的な雰囲気を醸し出し、何よりも血の気の失せた白い肌色に痩せた長身は、細り切った枯れ木を思わせる。
身に纏っているのは仕立ての良いスーツだが、皺だらけでひどくみすぼらしかった。
薄汚れて台無しになっているのは、なにも衣服だけではない。
東洋系の顔立ちは、しかし精悍と言い表すには、無精髭だらけでやつれている。
そして、手入れどころか洗髪すらしていないような、ボサボサで脂ぎった長髪。
そのような見てくれで、気怠げに現実を俯瞰している佇まいは、まるで浮浪者の様相だ。
<シュカッ、カチッ・・・・シュカッ、カチッ・・・・>
辺りに響く甲高い金属音の正体は、かの男が持っている色あせた真鍮製のオイルライターだった。
空いた手を使って蓋を引き開けては、閉じる。
そんな手慰みを、飽きる事なく繰り返す。
否、そんな感情があるのかと疑う程、ひたすら一定の間隔で、機械染みて繰り返す。
<シュカッ、カチッ・・・・シュカッ、カチッ・・・・>
無機的なまでに精気の無い佇まい。
しかしただ一つ、その男の落ち窪んだ眼窩だけは、異様な力強さを宿していた。
眼下で起こっている惨事に対して向けられる、陰鬱そうに細められた眼差しは、しかし爛々と光っていた。
まるでそれは、かつては”隠り世”に繋がると云われた夜闇の川面の、暗く不吉な情景を写し取ったかのような、病んだ眼だった。
「ふ、くくっ」
不意に、男の顔が醜悪に歪む。
死に化粧を剥がしたようだった顔は、笑みに似た形を取る。
歯を剥き、脅かすという起源に遡ったかのように、悪意と獰猛さに満ちたその
「はっは、はっ。
まったく、臭いの元に集る蝿のようだ。
誰かがあそこに石を投げれば、今度は蜘蛛の子のように散っていくのだろう。
くく、本能というのは滑稽だな、はははは」
唐突に男は、芝居がかった台詞を謳い始めた。
観客も舞台も無いその場で、動作だけは無闇矢鱈に大仰で、台本を音読しているように空々しい。
それを演劇とするのなら、ひどく出来の悪く、胡散臭いものだった。
「このショーの準備には、手間が掛かっている。
主催者として、誉れ高いよ。
――――こんなにも下賤な娯楽を楽しんでくれているようで何よりだ。
くっくく・・・・くくひ、くひひ・・・・」
苦労を語るのも、その末の名誉を騙るのも、真に迫る言葉は何一つ無いようだった。
しかしおそらく、この男の壊れた心から放たれる言に意味を見出そうとするのは、ただ不毛なだけだろう。
見抜くべきは、紳士気取りの仮面の下に潜む、目に映る人々すべてを卑下する邪な念である。
「観客席から、存分に眺めるといい。
命が脅かされ、儚く潰える刺激的な光景を。
無責任に、無警戒に、堪能してくれたまえ」
男もまた愉しんでいた。
一様に同じ方を向いてざわめく人波を見ては、声に出して嘲り笑う。
顔を上げ、その先にそびえる"Buy-laS"の中で起こる惨劇を妄想しては、口元に浮かべた陰湿な半月はますます釣り上がった。
残酷を喜ぶその姿は、とても正気には思えない。
それどころか、口にすることが真実ならば、男はこの惨事を自らの手で引き起こし、その結果がどうなるかを知っていて、尚も朗々と嘲笑っていることになる。
死と破壊を厭わない悪辣さは、人の理性を捨て去った証か。
男は、既に狂気に呑まれていた。
しかし、男はただ一人で、自ら用意した舞台に立っている。
故にその狂喜を止める者もなく、男は独演を続けた。
「――――とはいえ、まだオードブルで飽きられてしまってはいけない。
さぁ、観客はお待ちかねだ、
君達こそが主賓であり、メインディッシュだ」
自ら招いた混乱を余興と評し、男は待ち焦がれる風に彼方の空を振り返った。
その先に求めるのは、
否や、そう”驕り高ぶる者共”の到来。
この宴が最高潮を迎えるだろうその時を、男は切望していたのだった。
「道化の席は空けてある。
用意された宴の供物を食らうか。
それとも、食らわれるか。
く、くひっ、くははははっ・・・・!!」
「――――こちら、8th・デルタ。
対象を発見、拘束する」
いつの間にか、男の舞台には闖入者が現れていた。
自動小銃や手榴弾といった装備に揃いの黒い戦闘服を纏う、訓練された集団だった。
だが、男にとってはそのANVILの手先の陰気さも、既に見知ったものだった。
はたと愉悦に浸るのを止め、一転して億劫そうに振り返る。
「バックヤードに勝手に入られては困るね。
君達の出番は、此処ではなくあちらなのだが?」
兵士達は銃を構えて静かに、緩み無く動き、男を包囲する。
果たして、それでも男は、あくまで芝居がかった所作を崩さぬまま、向けられる複数の銃口に対する。
それどころか、一段高いビルの
「昏羽隊長の読み通りだな。
投降しろ、反逆者
膝を突いて、両手を頭の後ろに上げろ。
さもなくば射殺する」
いつ撃ち殺されてもおかしくないその状況ででも、男は平然として肩をすくめた。
一種異様な立ち振る舞いだが、一小隊を預かる隊長は動じることなく職務に徹した。
反対に、昏羽という名を聞いた男は、ふと不快そうに眉を顰めた。
「"籠の鳥"が番犬を放つとは、なんとも皮肉が効いている。
とはいえ、重ね重ね君達の舞台は此処ではないのだ。
段取りは守ってもらいたいのだがね?」
自分達と、そして彼らの上官をも含めた侮辱に、兵士たちは一様に顔を厳しくする。
無論、安い挑発だと分かりきってはいただろう。
ただ今回の場合、引き金にかかった指の力を緩める理由は彼らには無かった。
「警告はした。
お前のしでかした重大な反逆に、弁解の余地は無い。
許可は出ている、撃て」
1個小隊・8th・デルタに下命された任務は、あくまでも重大な機密漏洩の防止にあった。
そして、反逆者本人への対応については、
故に、隊長が冷徹な号令を下した瞬間、自動小銃の引き金が一斉に引かれ、減音器の装着された銃口が音を立てた。
隊員達は、それぞれの小銃に詰められた鉛弾の鉄槌を、容赦無く撃ち尽くす。
射線上の男の身体は無数の礫に穿たれ、壮絶な"血の報い"が刻まれる。
もはや元の色が分からなくなるほどに全身が赤色に塗れ、そして着弾の勢いに押されて背後に倒れ込む。
ビルの屋上には柵も何もなく、そのまま落下することで”処理”は間違いなく完了すると思われた、刹那。
「なっ――――!?」
だが、その行程は突如として、不自然に止まった。
信じ難い事に、男の身体は完全に空中へと投げ出されたその瞬間で、完全に重力を無視し、静止してしまっていた。
更に目を疑う事に、銃撃によって飛散した出血すらも、空中で止まっている。
硝煙の匂いとビル風の中、大量の血飛沫はまるで破滅的な芸術のように、虚空に禍々しいグラデーションを描いていたのだ。
愕然とする小隊員たちの眼の前で、やがてその出血は男の体内へ吸い込まれ始める。
ゆっくりと、しかし次第に早く。
ドロリとした出血の痕と、そして仰け反って落ちようとしていた男自身すらも、まるで逆再生の映像のようにして元通りになってしまう。
「じ、銃が、効かないっ!!??」
「くっ・・・・まさか、もはやこいつは・・・・!?」
焦りを顕に叫ぶ隊員達。
その目の前で、男の身体には傷どころか、出血の跡すらも無くなっていた。
そしてそれは、
そこまで至っては、もはやそれは生物の所業ではない。
生命どころか、この世の理すらも超越した存在。
言うなれば”神の奇跡”が如き、畏れずにはいられない超常の光景。
だが、しかしながら、それを引き起こしたのは裏切りの悪魔――――”魔神”である。
「反逆、か。
否定はしないが、白々しいお題目だ。
”厭世の賢者”気取り共には似合いだがね」
<シュカッ、カチンッ!!>
時の流れをも歪ませた血の魔神は、空中に放り出されていたライターを、その手に取り戻した。
ひときわ甲高く音を鳴らし、憎悪そのものを吐き出すように低く唸る。
もはや、今しがた自分を"撃ち殺した"兵士達など眼中に無く、脳裏に浮かべた"賢者気取り"とやらを唾棄する。
そしてその悪意は、禍々しく赫く、脅かすように黒い血の奔流へと変わり、振りかざされた右腕に纏わりつく。
小隊員達は、迅速に撤退を始めつつあった。
だが、最大限の速さで後退りながらサイドの銃撃を行うも、もはや全ては無駄だった。
連なった破裂音と共に放たれた火線は、1発たりとも余さず目標を捉え、ただそれだけ。
人の卑小な抵抗など無意味だとでも言うように、魔神の身はそよぎすらしなかった。
「・・・・受け入れたというのかっ、” 過ち ”を・・・・っ!!??――――」
「お別れだ、無謀なるキャスト達」
目障りな小虫を払うように、魔神がその腕を一閃させる。
「――――
刹那、のたうつ赫い奔流が解き放たれる。
そして全ては、その場から消え去った。
血の魔神も、勇敢な兵士達も、全てが呑み込まれた。
この場で起きた甚大なる歪みを知る者、全ては赫い脅威の果てに消え去ったのだった。
――――To be Continued.――――
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