#4b Omen -凝醜-
「落ち着いて!!!!
誘導通り、列になって出口へ!!!!」
今も声を枯らして避難誘導をする神保達の台詞をそっくり真似て、光弥もまた叫んでいた。
彼らの手伝いをしたいのもあったが、こうして人波に”流れ”を作れば、逆らって移動するのにも便利、と言うのもあった。
加えて、遼哉の方からも気付いて、戻ってきてくれるのではないかという予想もしていた。
(一番近いトイレは、この通路の向こう。
遼くんなら、おそらくむやみに動いたりはしていないはず・・・・)
遼哉ならそれくらい冷静に判断するだろうという予想ありきではあったが、分はそれほど悪くないはずだ。
"Buy-laS"内は浮き足立ってはいたが、神保達の誘導のおかげでひとまずは皆落ち着いて避難を進めていた。
一定の整然さを保った流れを、光弥だけは真逆の方向へ人混みを掻き分け、やがてようやく最後尾を抜ける。
辿り着いたのは、明癒達と出会った場所と同じ作りの、1区画奥の広場だ。
施設の中心部に位置しており、そしてこの場所からの退去はまだ半分、と言ったところか。
客達はけたたましい非常警報に戸惑いながらも、とりあえずは誘導に従って順次、避難の列に加わって行く。
その流れが目指しているのは建物の出口だったが、光弥は逆に、そこから逸れた狭小な通路へ向かった。
"Buy-laS"の俯瞰図は、最も大きなメインストリートと、その両端に沿って一回り細いプロムナードが伸び、その間を幾つかの小さな通路が繋いでいる、上から見れば細長い”あみだくじ”のような構造である。
そしてこの小さな通路はプロムナード同士の連絡路であると同時に、本流の喧騒から外れた場所に休憩所を設ける為にも作られたものだ。
通路の横合いに衝立で間仕切られ、自動販売機やベンチ、トイレが用意された小さな奥まり。
その入り口付近に、予想通りにいてくれた姿をみて、光弥は安堵の溜息をつく。
状況を見計らい、2人の姉達の元へ戻ろうとしていた小柄な少年は、その前に思いがけない再会をして、目を真ん丸く見開いていた。
「光弥にぃちゃん・・・・だ。
・・・・なにやってんの?」
果たして、遼哉はほぼ予想通り、流石の泰然自若ぶりで佇んでいたのだった。
とはいえ、普段の彼のような、例えるなら五月人形めいた無表情さに徹しきれてまではいないようだった。
遼哉は今、本人なりに最大限驚いているようで、それは光弥の姿を上から下まで何度も検める仕草に表れていた。
「――――影も付いてる。
本当に、来たんだ」
ぽんぽんと脚を触られ、どうやら幽霊扱いされていたことに思わず苦笑いする。
だがまぁ、光弥の方もつい五月人形呼ばわりしていたし、お互い様であろうか。
「はは・・・・会いに来たついでに迎えに来たよ。
こんな騒ぎで遼くんもはぐれたって聞いたけど、とりあえず大丈夫そうだ」
「火事かなんかでしょ?
ねぇちゃん達は?」
「先に外へ出させた。
遼くんを探しに行くのは、僕が眞澄さんの代わりに引き受けたんだ。
彼女、今は体調を崩してるから、早く戻って安心させてあげて」
「え・・・・梓ねぇちゃんが?」
梓の状態を聞いて、遼哉は再び寝耳に水といった驚きを見せる。
この反応を見る限り、遼哉も彼女の変調への心当たりは無いようだ。
ひとまず話の続きは歩きながら、と促す光弥。
刻一刻と迫ってるだろう制限時間、そして別行動の形となった香達の事を考えると、自然と脚取りは急がされる。
それは遼哉も同じだった。
「梓ねぇちゃん、何があったの?
少なくとも、さっきまでは全然普通だったけど」
「分からないんだ。
傍にいた明癒ちゃんも、どうしてそうなったか分からないって。
それじゃ、眞澄さんは病気か何かを患ってたんじゃないんだね?」
「・・・・今まで、聞いたことないよ」
実の姉も同然の梓の窮状を聞き、遼哉の顔は明白に強張っていた。
しかしこの時、光弥もまた険しい表情を浮かべていたのは、それとはまた別の理由からだった。
(・・・・それなら、"彼女"のあの体調不良は、一体何なんだ?
当然、何の理由も無しにあんな苦しそうにする筈ないんだ。
なら、何かの病気・・・・もしくは――――)
――――もしも本当に梓が、明癒や遼哉、香も知らない何らかの持病を抱えているのだとして。
しかし彼女の性格を思えば、皆を心配させまいと普段はひた隠してきた、と考えても違和感はない。
だが・・・・光弥の知る限り、梓のあの状態をもっと簡単に、そしてきっちりと説明出来てしまう可能性が1つ、あった。
にわかには信じ難いが、光弥自身も同じ経験をした事がある以上、有り得なくはなかった。
(そうだ・・・・僕が、初めて"レクリス"に遭った時と、"彼女"の様子はそっくりじゃないか?
最初、奴らの気配を感じた瞬間、いきなり心臓が飛び跳ねて、痛みで立っていられないくらいだった。
・・・・振り返ってみれば、そっくりじゃないか)
極めつけは、梓の言った「逃げて」という言葉だ。
冷静に考えると、あの言はおかしかった。
あの時はまだ"Buy-laS"内は平和そのもので、異変の兆候など無かった。
にもかかわらず、梓は"何か"を察知し、そして専門家である神保達よりも先に、奴らの存在を仄めかした。
そんな事が出来たからには、やはりそこにも必ず"理由"がある筈だ。
(・・・・でも、そう考え出すと流石に無理が出てくるよな。
もしも神保さん達・・・・”あんゔぃる”の仲間なんだったら、あんな体調になってる所に一声もかけないのは妙だ。
そして・・・・”彼女”が、本当に"ぶじんぐ"ってのを持ってたんなら、一昨日みたいに一方的に襲われるはず無い、よな・・・・?
だとすれば、単に特異体質みたいなものってだけなのか?
それとも、本当にただの偶然で、倒れただけ・・・・?)
だが、光弥は其処でふと嘆息をして、いよいよ絡まってきた思考を置き捨てていた。
どんなに気にかかろうとも、ピースの欠けたパズルが組み上がるはずが無い。
そして、その最後の一片を持っているのは梓だ。
少なくとも今この場では、どれほど考えこんだ所でこの推論を完成させる事は出来ないだろう。
「梓ねぇちゃんの具合ってそんなに悪いの?」
「え・・・・・あ、あぁ。
でも、明癒ちゃんと僕の友達も傍に付いてるから、きっと平気さ」
光弥の深刻な様子が、梓への心配だと思ったのか、遼哉は不意に問い掛けて来る。
「――――ごめん、そんなに暗い顔をしてたかな」
「うん。
光弥にぃちゃん、ねぇちゃんが体重を測ってる時と同じ顔してた」
「・・・・いや。
もう少し真剣に悩んでるつもりなんだけど」
「ねぇちゃんなりに、めっちゃ真剣みたいだよ。
見られるのすごい嫌がるし」
「は、はは・・・・明癒ちゃんはそもそも背が高いんだし、そこまで気にするほどなのかな、って僕は思うけど」
「俺もきっと、デカいぶん重めなんだよ、って言ったけど、半べそで怒られた」
「・・・・流石にそれは、言い方がムゴすぎるって思うな」
遼哉の投げつけた言葉のナイフの切れ味に閉口する光弥。
果たして、遠慮なしにそこまでの業物を突き立てられた、当時の明癒の心境たるやいかばかりか。
とはいえ、そんな慰めるべきか否か判断しかねる光景を想像させられて、少しだけ和らいだ気分にさせられたのも確かだった。
「梓ねぇちゃんがそんなに具合悪いんなら、ねぇちゃん、またべそかいてたんじゃない?」
「ああ、半べそだった。
だから早く戻んないとな」
「・・・・うん」
そして、遼哉はふと、憂慮と表現すべき大人びた顔で、梓と明癒の様子を案じた。
その物静かな振る舞いに、思わず光弥は舌を巻く。
光弥が思うに、どうやら遼哉は、年齢にそぐわない洞察力と思慮深さがあるようだった。
それは単なる理屈っぽさでなく、自分の考えの外側をよく観察できる視野の広さ、状況に流されない冷静な判断といった面を持つ、とても理性的なものだった。
例としては、先程の遼哉が、この騒ぎの中ですぐに動かずにいた事も挙げられるだろう。
あの時、単独行動している自分を梓達が探しに来ることは十分考えられた。
事前に場所を告げていたし、更に彼女達の性格を思えば尚更だ。
それなら、この混雑の中で入れ違いになるかもしれなくなるより、人波に流れが出来始めて、状況を見やすくなってから改めて動けばいい。
遼哉はそのように、論理的に考えられる少年なのだろう。
・・・・とはいえ、理屈先行で情緒までは伴っていない点については、やはり年相応と見るべきか。
「――――あのさ、遼くん?
これはもし良ければ、ってつもりで聞きたいんだけど」
後は人波に乗っていくだけとなった。
変わらず呑気に構えてはいられなくもあるが、良いタイミングであることにも違いない。
なのでと、光弥はいよいよ以前から気になっていた明癒と遼哉の事情を、訊いてみたく思ったのだった。
「・・・・えーと」
遼哉はこちらに顔を向け、話に応じる姿勢を見せたが、しかし光弥は言い淀んでしまう。
振り返って、初めて遼哉達に会った時から、何か訳ありなのだとは思っていた。
まず1つ、彼らと梓の関係は、もはや本当の姉弟同士と言って良いほど親密なのは間違いない。
なのだが、しかし病院に行く必要があるほどの怪我をした明癒を、あくまでも他人である筈な梓が迎えに来るのは、おかしな話だった。
もう1つ、明癒と遼哉に初めて会った時の様子も、どうにも引っかかっていた。
あの時の、ひどく追い詰められて、暗く翳った表情だった明癒が、光弥にはどうにも見覚えがあるように感じてならなかった。
のしかかって来る
そんな、暗闇に見えてならなかったのだ。
(・・・・必ずしも助けになれると、決まってる訳でもないしな。
もしも、本当に・・・・何か、難しい家庭事情でもあったんだとして、下手に首を突っ込んで傷つけたりしたら、本末転倒ってもんだし。
でも――――)
だからといって放っておけるはずもないと、光弥の胸中はざわめいてしまう。
その理由は、分かりきっている。
遼哉と明癒、光弥との関わりはもうとっくに知り合いの範疇を超えていて、そうなればつまり、彼らもまた”身近な大事な人”である、ということだった。
(――――”友達”が困ってたら、助けるのは当然、だよな)
こんなものも、ただの一方的な感情なのかもしれない。
だが、少なくとも光弥にとってはそれで十分、とことん深入りできるだけの理由になり得た。
例えお人好しでも、そうでなかったとしても、やっぱり友達の為と思うと、自然とそういう感情は湧いてくるものだと、光弥は思う。
いつもそこに結果が伴ってくれるとは限らないけど、何かしたくて動き出してしまう。
少なくとも、光弥の周りにいてくれる人達は、ありがたくもそうした心配性ばかりだ。
ここ最近、とみに感じるようになった”人の情”への敬意を胸に、光弥は遂に意を決した。
「答えにくかったら、ごめん・・・・なんだけど、前々から心配だったし、この際聞くよ」
「?」
「二人の家族。
眞澄さんじゃなくて・・・・お父さんとか、お母さんの事を――――」
その、刹那。
バチリッと、感電したかのように強烈な悪寒が、光弥の背筋を走り抜けていた。
渦巻いていた胸騒ぎは、一気に段階を飛ばして心臓を跳ね上げさせていた。
「嘘だろ」
まだ早過ぎる。
一般人の避難はまだほとんど終わっていない。
しかも、現れた"気配"は、あまりにもこの場に近い。
押し寄せる不吉な感覚は、どす黒い汚泥のようなものが湧き出している、おぞましいイメージを光弥にもたらす。
そして、その中から這い出したなにかが、ここに迫って来ている。
足の下、地下から急速に。
数多の人の思惑を嘲笑うかのように、状況は激変を始めていた。
「光弥にぃちゃん、どうしたの?」
光弥は咄嗟に、気配の方へ振り返る。
この広場中央の噴水の水が、止まっていた。
だがそれも束の間、代わりにひり出されて来るのは、どす黒い粘液状のもの。
タールのように粘っこく、そして異様な臭気を放っている。
< ドゴッ >
異音と共に、噴水が不自然に振動していた。
次いで、其処から更に、暴力的で不穏な音がし始める。
ミシミシと、固い物をヒビ割らせる音。
ギシギシと、金属を無理やり
更にそれと別に、耳の奥へ突き刺さってくるような、酷く不快な甲高い軋みが伴っている。
強弱も種類も、周期もバラバラな異音が、次第に警報の音すら押し退け、大きく迫って来ている。
そして、それにつれて噴水は無惨に変形し、下からなにかに強力に押し上げられ、断末魔の痙攣のように不吉に震え出す。
この異変に対し、居合わせている人々は、二種類の反応を示していた。
不気味に思い、遠巻きに見る者達。
不用心にも、何事かと確かめようと近付いて行く者。
「そこから離れろっ!!!!」
確信を抱いて、光弥が危機を叫んだ、瞬間。
激しい破裂音が轟き、噴水は周りのモニュメントごと弾け飛んでいた。
凄まじい力で吹き飛ばされ、残骸と成り果てて舞い上がる。
その衝撃に、傍の数人が薙ぎ倒された。
「まずい・・・・っ!?」
そして、宙へと舞い上がった破片は、吹き抜けの上空を一瞬漂い、直後に落下を始める。
時に人の頭ほどもあるコンクリート片までもが広場中に降り注ぎ、甚大な二次災害をもたらしたのだ。
咄嗟に、光弥は傍の遼哉を引っ掴み、バスケットボール大の破片から庇った。
こんな物に当たれば、人間などひとたまりもない。
だが、この場に居合わせた大多数は、次々にそのような瓦礫に打たれ、倒れ伏してしまった。
(なんて事だ・・・・っ!!)
瞬く間に、広場は阿鼻叫喚の光景となり果てていた。
苦痛の呻きが、恐怖の悲鳴が、鮮血が止め処なく流され、数十もの人々が瀕死となって横たわっている。
中には、既に身動き一つしない者までもがいる。
だが、このような惨憺たる有り様ですら、再びこの世にもたらされようとする恐るべき”災厄”の、ほんの前座に過ぎなかったのだ。
「・・・・っ!?」
破壊し尽くされ、積み重なった噴水の残骸。
そこに穿たれた、黒々とした穴。
地の底まで通じているかのような暗闇の奥に、邪気の正体は存在していた。
小さく擦れる音、激しくぶつかる音。
不規則に、しかし途切れなく二種の金属音をたてながら、不気味な
尖った屑鉄の山のように見えるそれは、しかし絶えず蠢きながら、やがて見上げるほどの大きさに膨れ上がる。
この広場を押し潰すまで膨張し続けるかと思われた塊、だがそれは次の瞬間、バラバラに崩れた。
自重に崩壊したのではない。
その塊を構成していた
――――不潔な
おそらく、身体の前面らしき部位に密集する、半ば甲殻に埋もれるような幾つもの複眼が、その発生源だった。
後背側の、揺れ動く鞭毛に覆われた小さな胴体は、たるんだ腹部と尖った尾のような器官があり、5本の屈曲した脚が生えていた。
大人の背丈に届くほどのその体高の大半を占めるのが、まるで貧弱な胴体を逆に吊り下げているかのように巨大な、その5脚だった。
槍のように長く、
立っているだけで床材を抉るその
そして、そんな怪物が無数に、本当に次々と、穴から湧き出てきている。
それは、あらゆる生物の原始的な恐怖、”群体”への忌避を刺激し、あるいはもっとおぞましいものが、ほんの少し前まで人々が行き交っていた日常を
まるで、疫病の化身に世界が侵食されていく、パンデミックを間近に見ているようだった。――――
「・・・・光弥兄ちゃん・・・・あれ、なに・・・・?」
色を失った遼哉が呆然として呟いたと、ほぼ同時。
「 きゃああああっっっっ !!??」
誰かの絶叫が鈴なりに連なり、広がり、容赦無い虐殺の始まりを告げた。
蟲は、節々を軋ませて疾駆し、手当たり次第に襲いかかる。
逃げる者も、逃げられない者も、区別無くその目標となった。
「遼くん、下がれっ!!」
――――新たなる怪物・・・・レクリスは、姿も動きもまさに巨大な蟲そのもの。
しかも、人間の考えうる尺度を遥かに超えてデカく、凶暴な奴だった。
予め心構えの出来ている光弥だからこそ、その異様に呑まれず相対することが出来ていた。
しかしそうでない人にとって、この悪夢そのものの相手と冷静に向き合うのは難しい。
事実、この蟲を目にして、パニックのあまり呆然としている者もいた。
そして、そんな容易い獲物達に、奴らは迷いなど微塵も無い、動物的な素早さで飛び掛かっていく。
「うわあぁ!!??」
「っ!!!!
やめろぉっ!!!!」
視界の先で、1人の男性が蟲に押し倒された。
光弥は、その危機に咄嗟に飛び出し、勢いそのまま左腕を繰り出す。
「っぐぁっ・・・・!?」
反射的な行動だったといえ、それは無為な行いでしかなかった。
そも、レクリス相手には生半に攻撃したところで、掠り傷にもならない。
まして、"ただの人間"の素手の一撃が効く筈も無く、痛みに怯んだのは光弥の方だった。
<ガツンッ>
その時、すぐ傍で重々しい金属音が連なった。
2匹の蟲が、光弥目掛けてその鎌脚を振り上げていた。
それを見るや否や、光弥は大きく飛び込んで回避せざるを得ない。
「あ、がぁ、ああああっっっっ !!??」
もはやその男性を助けるには遠く離れ過ぎて、そして手遅れだった。
蟲共は、最も近くにいた獲物へすぐさま狙いを変える。
そして男性の姿は、3体もの蟲に覆い隠され、後には、無惨な断末魔だけが残された。
「っ、光弥にぃちゃ・・・・っ!!」
「見るなっ!!」
「――――!!」
「くそ・・・・なんで、こんな事が・・・・っ!?」
だが、そんな末路を辿ったのは彼だけではない。
あの蟲から逃げ切れなかった者は、例外なくそうなっていた。
抗いようのない巨躯で、残虐な大鎌の如き脚で、断末魔ごと引き裂く。
そうして切り刻み尽くし、血と命を流し尽くした骸を、蟲共は野蛮にも”穴”の中へ引きずり込んでいく。
ただこの場に居合わせたというだけの
歯を食い縛り、拳を握り締めても堪えられない程、暴力が溢れていた。
直視に堪えないその理不尽さは光弥の胸を掻きむしり、全身を怒りに粟立たせた。
「 やらせておけるかっ !!!!」
雄叫びと共に、右腕の腕輪を掴む。
無数にいる蟲達の狙い全てが、自分に向かうかもしれない。
だがそれでも、このまま人々が次々に犠牲になっていくのを黙って見てはいられない。
「マトリッ――――っ!!!!」
だが、そんな光弥の決意も、喊声も、言い切る前に呑み込まれていた。
「に、にぃちゃんっ!!
オレたちも逃げないとっ!!」
「いやぁぁっ、誰かぁっ!!!!」
「やだぁっ!!!!
パパっ!!!!
ママぁっ!!!!」
「逃げろぉ!!!!
逃げるんだぁ!!!!」
――――光弥の算段はあまりに甘すぎた。
この場にはまだ、逃げ遅れた大勢の人達がいた。
恐るべき脅威に追い立てられて、動きも距離も、予測なんて立てようがない。
そして、広場中に散らばった大量の蟲までも入り混じったこんな状況で戦おうする光弥は、その瞬間から人々にとって、怪物と遜色ない脅威と化す。
誰かを救いたいと振るう、その一太刀毎に、大勢を危険に晒してしまう。
万が一にでも・・・・その刃が、誰かを捉えたならば。
強靭な化け物をも斬り裂く斬戟は、人間など容易く両断する。
(助けたい・・・・その為なのに、僕は、またこの手で・・・・人を・・・・)
――――本来なら、それは持っているだけで数多の
気付いてしまった極大のリスクは、楔と化して光弥の心身を縫い留めた。
まるで、身体を動かす歯車に異物が突き刺さったように、指先に至るまで硬直し、震えている。
心胆までをも貫かれ、大量出血に至っているように、気力が失なわれ、踏み出す熱をも奪っていく。
もはや光弥は、多大な自己矛盾に陥り、金縛りに因われてしまっていた。
――――我が身一つも担いきれぬその無様で、二つを背負い切れると思うな――――
あくまでも、可能性。
されど、果てしなく重い十字架に怯える光弥を、次々に蘇る記憶が苛む。
挫折と後悔、それは止め処なく遡り、遂には光弥の”最悪の傷痕”にまで達した。
―――― 返してよ・・・・パパとママを返してぇっ!!!! ――――
こじ開けられた真っ黒なトラウマに、光弥はどうしようもなく竦み上がってしまう。
深い絶望の淵に墜ちて、恐怖と克己のせめぎ合う中、僅かな希望たる腕輪の感触だけにただ縋り付く。
だが、そんな未熟な醜態が許される、甘い状況でない事は明白だった。
「にぃちゃんっ!!!!」
遼哉の切迫した声に、少しだけ意識が回復する。
光弥の眼前に、黒々と立ち塞がる蟲の姿があった。
その顔面のまだらな複眼からは、赫い光が放たれている。
その底無しの害意は1本の赫い光条となり、光弥の首筋を目掛けて注がれていた。
「――――あ・・・・っ!?」
あっさりと、対処しようのない距離に詰められた愚を、顧みる暇のあればこそ。
だが無論、蟲はその鎌脚を大仰に振り上げ、もはや避けようのない光弥へ容赦なく振るう。
人の恐怖、後悔ごと刈り取るような死神の一薙が迫り、そして光弥の意識は途切れた。
・・・・
・・・
・・
・
――――広場の方で起きた異変は、出口方面へ向かった梓達にも伝わっていた。
「・・・・っ!!!!」
「ゑっ!?
な、な、なにっ!?」
地響きと轟音。
男とも女ともわからない、甲高い断末魔。
響き渡る異常な反響に、多少落ち着いて流れていた人波は硬直し、次第にパニックへ移り変わる。
そして凶事の物音が2度、3度と続く度に混乱は増し、ついには収集のつかない大混乱と化していた。
誰もが我先に逃げ出し、前にいる者を押し退け、転んだものはそのまま踏み潰される。
それはまるで、追い立てられる羊の群れ。
背後のなにかからひたすらに逃げたがる姿には、もはや人の理性は見受けられなかった。
「な、なに、なにっ!!??
いったいなんなのって!!??」
誰も彼もが恐慌のまま逃げ惑う濁流に、未だに自由に動けない梓と香達も巻き込まれてしまっていた。
次々にぶつかられ、押し退けられながら、やがて壁際まで追い込まれる。
それでも人波に揉まれ、はぐれないでいるのが精一杯だった。
「痛っ!?
ちょ・・・・痛、たっ!!!?
ぶ、ぶつかんないでよっ!!!!
こっちには病人が・・・・っ!!」
「――――香っ。
私は、平気っ。
だから・・・・走らないと・・・・っ!!」
「そ、そんなこと言っても・・・・」
「ぁあぐ・・・・っ!!??」
だが、梓の体調の悪化はいよいよ窮まっていた。
頭は締め付けられているようで、肺までも握り潰されるよう。
その激痛に、話すどころか呼吸すらも苦痛だった。
混乱と恐怖・・・・そうした、周りにいる大勢の"感情"も、次々に飛び込んでくる。
あまりにも濃密な衝動は、直に臓腑を揺さぶりたててくるようで、目眩と不快感に今にも倒れそうだった。
(だから、本当に動けなくなる前に安全な場所へ辿り着かなきゃいけないの・・・・っ。
こんな"お荷物"のせいで、自由に動けない二人の為にも・・・・弱音なんて言ってられない・・・・!!)
でも、それは同時に、今ここにいない遼哉1人を置き去りにしなければならない選択でもあった。
彼の安否が、不安で仕方ない。
物凄い叫び声と、異常にネガティブな感情が渦巻く噴水広場では、きっと何かとんでもない事が起こっている。
だが、梓達ではこの流れに逆らって戻るのは不可能だし、なにより危険な状況にいるのはこちらも同じだった。
こうして、パニック状態に陥った群衆の中で起きてしまう死傷も、決して少なくないのだ。
もはや、頼みの綱は、"彼"だけだった。
(・・・・あの時、誰よりも早く捜しに行くって、言ってくれた。
”あの日”だって、あの車の事故から私達を見捨てないで、守ってくれた。
・・・・きっとまた、無理をしてでも・・・・その言葉を、嘘にしないようにする・・・・)
不安はそれでも尽きない。
だが、今は信じて祈るしかない。
梓は、繋いでいる明癒の右手を強く握る。
(――――せめて、明癒ちゃんは私が守らないと。
私は、この子達の"お姉さん"なんだもの。
自分で、意地でも・・・・そうありたいって、決めたんだもの)
その一心で、梓は全身の不調を堪え、顔を上げていた。
「・・・・明癒ちゃん、しっかりついて来てね・・・・」
少しだけ生気の戻った梓の様子を見た明癒は、不安がりながらも小さく笑みを浮かべた。
「う、うん――――はい、お姉ちゃ・・・・っ」
<ドンッ>
そんな風に、明癒と言葉を交わした刹那だった。
何かが、強く梓にぶつかった。
2人の掌は緊張で汗ばんでいて、固く握り合っていた筈の手は、衝撃の途端にあっけなくすり抜けてしまう。
「明癒――――!?」
呼びかける暇すらも無く、明癒の姿はあっという間に、逃げ惑う人々の濁流に呑まれ、消えた。
最後の、愕然として目を見開いていた明癒の顔が焼き付いて、梓の全身がぞわりという悪寒に、震え戦いた。
「――――明癒ちゃんっ!!??」
はぐれてしまった。
この最悪の状況で、手を放してしまった。
気が狂いそうな混乱と後悔に、堪らずに後を追おうとする梓だったが、しかし横から必死に抱き竦められて、止められてしまう。
「あ、梓!!??
待って、ダメって!!!!
あ、梓まで、危ないからっ!!!!」
――――お姉ちゃんっ!!!!――――
「あ、あぁっ・・・・っ!?
あっちは・・・・そんな・・・・!!!!」
されど、梓の悲鳴のような呼びかけに、応える声はまだ聞こえていた。
助けを求める明癒の声は、しかしどんどんと遠ざかっていく。
どうしてか、その方向は出口へ向かう流れとは真逆の方向へ向かって行ってしまっている。
それはつまり、避難するどころか、危険の核心へ近づいて行っているという事だった。
この先の広場に"何か"がいるのが、梓には分かっている。
今度は明癒が、”一昨日の夜”のような果てしない危険に巻き込まれるかも知れない。
あの時の梓はただ運が良くて、"誰か"が助けてくれた。
でも、今の明癒にそんな相手はいない。
もしも、いるのだとしたら・・・・それはきっと、梓だけだった。
「――――助けに・・・・行かなきゃっ!!!!」
頭痛も息苦しさも、その時だけは不思議と忘れていた。
梓は、止めようとする香を振り切り、流れに逆らい、飛び込んでいくのだった。
――――To be Continued.――――
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