#4b グッド・バイ
「――――貴方はどうして、ここまでしようと思ったのかしら?」
昨夜、凍えていた子猫を助けようと目指したあの東屋の中に、梓達は静粛に腰掛けていた。
陽の燦々と降り注ぐ今、周りには鮮やかな緑の芝生が輝いている。
そんな只中に、漆喰のベージュと褪せた鉄の黒というゴシック造りが佇んでいるのは、瀟洒な眺めだった。
吹き渡っていく少し生温い風も、東屋の中を通る時だけは、心地よい涼感を味あわせてくれる。
「――――立ち入り禁止って知ってて、それでも苦労して道を作って、嫌そうな顔しながらあんな藪を通り抜けて。
半泣きになりながらも、こうしてしっかり弔おうとしている。
飼い猫って訳でもない、ただ死目を見ただけの、そのコを」
「・・・・いけない、ですか?」
提げてきたバスケットを――――正確には、その中に収められたもの達を、梓はふと抱き寄せた。
それは同時に、今生の別れを悼み、祈りを捧げる行いでもあった。
緊張と憐憫に身を強張らせる梓を、女性は穏やかに見詰め、語りかける。
「いいえ、立派だと思うわ。
でもそんなに苦労してまでこの行為にこだわる理由が・・・・気になっちゃったの」
踏み込んだことを聞かれていると思う。
ただ、やっぱり女性の言い方に邪気は無かった。
この質問も追及ではなく、答えてくれれば、という柔らかさが感じられた。
距離感が上手い人だと、梓は思った。
妙に馴れ馴れしいが、突き放そうと思う程には踏み込んでこない。
たとえ内心がどうだろうと、常に一定の距離を置いてくれる。
そんな、言うなれば遠回しな露骨さは、こうして急ごしらえのコンビを組む時には、便利なコミュニケーションなのかもしれない。
はっきりと互いの立場が決まっているなら、梓も割り切って接することが出来る。
――――曲がりなりにも協力関係を結ぶのだからと、既にここへの道すがらに、事の次第を伝えていた。
結果的に、それは正解だったと言える。
公園に侵入し、警察の目を盗んで、昨夜"あの子猫を見つけた場所"まで行く。
梓1人だけだったのなら、きっと不可能だったろう。
だが、女性は悠々として前を行き、警官の見回りをすいすいと掻い潜って行く。
極めつけは、目的地の前に立ちはだかっていた警官に対処した時だった。
「・・・・どうしよう、これじゃ近寄れない・・・・」
その近辺は、ちょうど警官達が複数で調査を行っていた。
隠れて近付こうにも、今回ばかりはそう出来る隙も無い。
というか、よしんば見つからなかったとしても、"その後の行動"までをやり遂げるのは不可能だ。
かといって馬鹿正直に出ていけば、つまみ出されてしまうだけ。
元々、無茶な思いつきで此処まで来れたが、もはや望みは絶たれたか。
そう梓が項垂れた、その時だった。
「・・・・"現場の判断"により止む無し、ね・・・・」
女性が低く、何事か呟いた。
よく聞き取れなかったその意図を聞き返そうと横を見やるも、既にそこに女性の姿は無い。
「ちょっとそこで待っててね~♪」
すると、一体何を思ったのか、気楽な素振りでいきなり正面きって歩いて行ってしまったのだった。
当然、そんな姿はすぐに見咎められ、芋づる式に梓までも見つけられてしまう。
これまでの全ての努力を台無しにしてしまう突然の"裏切り"に、梓は混乱し、唖然とするばかり。
なのだが、しかしその結果は、全く予想もしない形に行き着く事となる。
あっという間に警官達が囲まれても尚、とことん気負うこと無く振る舞う女性。
聴取を受けているのか、彼女らはそのまま暫し話し込み・・・・やがて、警官隊の方からバラバラと解散していってしまう。
ご丁寧に敬礼まで残していって。
「え・・・・っ?」
「ちょっとした役得ってやつよ」
もはや言葉もなく立ち尽くす他ない梓に、女性はいたずらっぽくウインクしてみせるのだった。
「――――苦労なんて、してない、です。
・・・・私、ほとんど何もしてないですから・・・・――――」
果たして、ようやく辿り着いたその場所に、"彼女達"は昨日とまるで変わらない様子で残されていた。
誰の目にも留まらず、あるいは留まったところで気にかけられることは無く。
皮肉なように爽やかな空の下、ずっと晒し者のように遺されていた。
日の光の下で、鮮明に見えるその姿は殊更に痛ましく、哀れな姿だった。
そしてそれを目の前にした梓は、あろうことか身体を竦ませ、動けなくなってしまう。
胸を引き裂かれるような悲痛を掻き立てられ、息も吸えない。
手が、身体がどうしようもなく震えて、溢れてくる涙を抑えられない。
また、自分で自分を御しきれなくなっていた。
そんな梓に、女性は穏やかに助け舟を出してくれた。
「ここは、ゆっくり眠るには眩しすぎるわね。
早く連れて行ってあげましょう。
手袋、貸してくれる?」
何でもないような振る舞いとは裏腹に、その声には紛れもない慈しみの色が垣間見えた。
結局、梓の出来た事とは、彼女の先導に救われながら、みっともなく泣き濡れていたくらい。
バスケットに"彼女達"の骸を収め、そして言葉にならない礼を述べたくらいだった。
「――――あたしはただの途中参加。
例え一人だけででも、あなたがここに足を運ぼうとした動機・・・・理由が知りたいな、て」
「理由・・・・私の・・・・」
返事はしたものの、途中で言い淀む梓。
咄嗟に答えを用意する事が出来なかったのだ。
それは、おかしなことだった。
今朝、目覚めた直後にはあんなにも固い決心があったはずなのに。
「・・・・よく、分からないんです」
「よく分かんないのに、ここまで来れちゃったの?
見た目と違って、思い立ったら一直線な子なのね」
「・・・・それは、鈍くさそうってことですか?」
ちょっとムッとした風に言い返す梓に、女性はクスリと笑う。
「いえいえ。
こういう気の滅入るような事、あまり得意じゃなさそうってことよ」
言葉に険は無かったし、そもそもこの人はこういう冗談っぽい言い方を好む傾向がある、という事も分かっていた。
それでも梓は、その言葉が自分を責めているかのように感じてしまうのだった。
「・・・・付いてきてくれて、ありがとうございます。
きっと、私一人じゃ何も出来ないでいました」
素直に認めるしかなかった。
絶対にやり遂げようと思っていた筈。
自分で決めた目的である筈。
なのに今、そこに懸けた想いは、こんなにもあやふやで、頼りない。
そんな自分への嫌悪感が自然、梓の顔を俯かせていた。
「――――可哀想じゃないですか」
初夏の温い風が三陣ほど吹き抜けた頃に、梓はまた口を開いていた。
「野晒しで、されるがまま・・・・死んだ後までも雨に打たれて、色んなのに身体をつつき回されるようなの。
・・・・私なら、嫌だろうから・・・・ちゃんと葬ってあげたかったんです」
「・・・・珍しい考え方ね。
こういう事って、おそらく大半の人にとってはただ恐ろしくて、目を背けたくなるような出来事だと思うのだけれど」
「そう、でしょうか?」
「・・・・でも、そうね。
"命が終わる"、ということは、悲しくも畏れるべき絶対の摂理。
けれども同時に、厳かで侵しがたい神聖さも、伴うのかもしれないわね」
「・・・・そこまで、大袈裟には考えてないです。
ただ・・・・どんなに無念であっても、せめて・・・・最後の最期くらいは、って。
其処だけは、本当に静かで、安らいだ場所であって欲しいと思っているだけです」
「・・・・それが、貴方を此処まで至らせた、理由?」
「・・・・私は、この子の”家族”を引き受けました。
でも、許可をとった訳でもないし・・・・それにあの子を預かったことは、ただその時の感情に引っ張られただけでしかなくて。
だから・・・・たぶん、ちゃんとした"区切り"が、欲しかったんです。
責任を持って、面倒を見ていくって決めた・・・・あの時の自分を、見失わないように」
今日のこの告別の儀は、梓にとっては同時に、宣誓でもあったのだ。
同じ傷を持った家族と、ずっと一緒に歩んでいく為。
そしてまた、傍にいる片割れの、小さくも確かな生命を軽んじない為の、重大な"区切り"。
ひとしきり、そんな思惑を語る梓。
女性は静かに相槌を打ちながらそれを聞き届けていたが、ややあって感心した風な細い息を漏らしていた。
「不思議な感性、ね。
けど、誠実で責任感のあると思うわ。
きっとその子達も、最期にそういう温かい心で弔われて、嬉しく感じるんじゃないかしら・・・・たぶんね」
女性は感じ入った様子で、梓を褒めるように呟いた。
それが思いもよらない事だったので、梓はもぞもぞと身体を揺すってはにかんだ。
「そうだといいって、思います」
自己満足でしかなかった思惑を、改まって褒められるのはむず痒かった。
けれど、それで誰かの心を癒すことが出来るのなら、それは素直に良い事だと思う。
雨の冷たさ、孤独の辛さ、離別する無念。
梓にとっても身に詰まされる、それらの痛みを癒してあげられる"温もり"に、あの時の梓はなれたろうか。
(・・・・"あの時"の・・・・私は・・・・?)
だが、その時だった。
温かな産湯のようだった心に、一点の陰りが落ちた。
小さな黒い染みは急速に広がっていき、梓の浮ついていた気分を抑えつけ、冷まさせていった。
(――――私は、あの時・・・・何を思っていたの?)
自分の内心へ、対立した疑問を投げ掛けていた。
仔猫とその家族と出会ったあの夜。
梓は、確かにこれを哀れみ、案じていた。
けれど、それ以上に自分の事情で酷く動揺していた。
頭の冷え切った今、こうして顛末を思い返せば、分かってしまう。
あの夜の考えの、裏側。
哀しみと、慈しみを駆り立てた、その"根源"。
「そうじゃ、ない」
いつの間にか唇から漏れ出ていたのは、自分でも驚く程に冷めた声音。
気付いてしまったから、だった。
あの時、梓の心を捕まえていたのは、何だったか。
それは、梓を過去に引き戻そうとする、"見えざる手"だった。
いつまでも振り切れない・・・・振り切れるはず無い、深い深い悔恨に、握り掴まれていた、と。
「私は・・・・あの子を、身代わりにしただけ、なんです」
「・・・・え・・・・?」
「私には両親がいないんです。
もう、死に別れてしまいました」
珍しくも、女性は大きく困惑した様子で、梓の方を見やる。
その視線には応えようとはしないで、梓は自身の髪留めに手をかけた。
ファサリと解かれた長い髪は、俯く梓に枝垂れ、その表情を覆い隠してくれる。
「優しい人達でした。
大好きでした。
でも・・・・葬式の日。
・・・・私は、その事を悲まなかったんです」
「・・・・どういう、ことかしら?」
淡々として抑揚が無く、感情までも欠いたような梓の様子は、心を頑なに閉ざしたがる気持ちの表れだった。
そうして、固く乾き、何もかもを拒絶してみせないと、この悲痛に堪えられないからだった。
もう、いつ頃からかも分からないが、梓はこうして"過去"に心を壊されないための、防衛行動を身に着けていた。
"彼"への桎梏と同じ、未だに癒えぬ傷跡に堪えるために、身に付けざるを得なかった。
しかし今、梓は自らのタブーを止めどなく吐露し続けようとしていた。
"生きるしかなかった後悔"を、まるで懺悔であるかのように。
「――――パパとママが、いなくなって・・・・私は突然、今までの場所にいられなくなりました。
皆、いなくなって・・・・段々と、凄い怖さに呑み込まれそうになりました。
・・・・だから私、いつしか駄々をこね始めんです。
どうして、こんなに寂しいの。
どうして、たった独りで置いていくのって。
昔の私に、これからどうなるの、どうすればいいのって・・・・分かるはずない。
・・・・いっそ、何も分からないくらいに幼ければ、良かったのに。
いなくなること・・・・喪ってしまうということ・・・・何も理解できないままなら、良かったのに――――」
かつての梓は、親しい人の喪失を、その悲しみを受け止められず、大きく取り乱した。
無論、それは決して愚かなことなどではなく、人ならば当然の反応だろう。
だが、その間にも日々は過ぎていく。
そして、いつしか・・・・梓は、大事な事を忘れてしまっていた。
「――――周りの人はみんな嘘つきで、意地悪なんだって。きかないでいました。
なにも信じようとしないで・・・・下らない屁理屈から、離れられないで・・・・。
・・・・その内に、いつの間にか新しい家にいて、新しい両親がいました。
お義父さんと、お義母さんって思ってねって、優しく笑いかけてくれました。
・・・・それで、やっと気付いたんです。
私・・・・二度と取り返せない、大切な時間を・・・・失ったんだって・・・・っ」
「・・・・貴方・・・・」
「・・・・気付いた時には、もう終わってしまってたの・・・・っ。
目を背けている間に、いつの間にか・・・・パパとママとのお別れは、終わってしまってた。
私・・・・大好きな二人なのに・・・・最期まで"二人のために"泣いてなかった・・・・っ。
自分の事ばかりに、しがみついて・・・・本当に最後の"その時"にも向かい合えないで・・・・私・・・・っ!!」
そして、梓の哀しみ、惑い、後悔は、今もなお続いているのだった。
きちんと受け止めないとならなかった刹那から目を背けた結果、心は未だに、どこへも行けず孤独に震えている。
そして、その傷口を腐食する、汚泥のような自己嫌悪もまた、今なお梓を蝕み続けている。
濡れた声で後悔を止め処なく吐き出す内に、どんどんと重苦しい悲痛が蘇る。
全て、どこかで聞いたような繰り言だと、自分でも分かってしまう。
だからこそ、梓の心はより一層に、苛まれるのだった。
「――――だから、何も知らないまま親を失ったあの子を見て、思い出してたの。
・・・・きっと、私はあの子を、"身代わり"にしようとしていた、だけ。
哀しい想いと向き合って、家族の死から癒やしてあげたい・・・・っ。
そうすれば"あの時"を・・・・大事な人を喪った事を私は悼めたって、言い訳できるって・・・・思っただけなの・・・・っ」
梓はきっと、どこまでも弱くて、浅ましかったのだった。
その行動は、思い遣りも慈愛も無い、ただの自己愛でしかない。
状況も思考も、全く違う両者を無理矢理に引き合いに出して、誤魔化そうとしていただなんて。
自分に嘘をついて、大切に思っているはずの人達まで、言い訳で済まそうとして。
小さな生命を助けたいと思ったことだって、ただの"錯覚"だった。
「だから・・・・っ――――」
きゅっと、喉を括られているように痛む。
けれど、言葉は構わず込み上げて来た。
この怒りにも似た激情には、そんな痛みなんて関係はない。
梓は苛立ちを吐き捨てるように、哭き叫ぶように、その失望を解き放っていた。
「――――結局、全部・・・・"自分勝手"でやっただけ、なの・・・・っ!!」
嗚咽混じりで、筋金入りの愚かさで、これまでの自分を過ちだったと結ぶ。
そうするしかなかった。
善意と思って動き出したはずの自分に、梓は心底、絶望していた。
「・・・・馬鹿みたい・・・・」
いつかと同じように、己を蔑んで、呟いた。
醜さにこみ上げる涙と、吐き気と・・・・しかし、必死に抑え込む。
そんな資格は無いと思った。
これ以上、破廉恥で身勝手な行いをしたくなかった。
「・・・・ごめん、なさい。
こんなこと・・・・・急に言われても困りますよね。
・・・・忘れてください・・・・お願いします・・・・」
我に返った風に、梓は感情を必死に押し殺して、呟く。
――――あるいは、もしかしたらそうやって無理矢理押さえつけ過ぎてきてしまったのかも知れない。
だから、過去となって積み重なっては、受け止めきれない重さに、こうして潰されて。
よりによって、そんな醜態をどうしてこんな初対面の人物へと吐き出してしまったんだろう。
そんな後悔も弱音も、もはや後の祭りだった。
自分の裏側の気持ちに気付いてしまって、今までの全てが勝手な勘違いに思えたら、止まらなくなってしまった。
梓は、唇を強く噛み締める。
無意味な自傷行為で、やり場のない口惜しさと苛立ちを少しでも慰める。
(・・・・帰らなきゃ。
あの子は、待ってるの・・・・。
どんなに身勝手でも、せめて・・・・それぐらいはやり遂げないと・・・・。
そこからも目を背けたら・・・・本当に、何も残らない・・・・)
そして、今のあの仔の親は、梓だ。
もう、梓しかいないのだ。
他の繋がりは全て、腕に抱いた棺の中で眠っている。
もしも、梓までもが見捨てたら・・・・あの子猫にだって、何も残らない。
そんな現実は、重い鎖が絡み付くように、更に梓をがんじがらめに苛む。
憔悴した自分の身体は、普段の倍は重く感じられた。
昨日と同じか、それ以上の最悪の気分。
それでも、半ば意地で以て、体裁を整えるためと、ここまで協力してくれた礼とを述べようと向き直る梓。
「一つ、言っておくわね」
けれどもその時、先んじて動いたのは女性の方。
困惑でも渋面でもない、厳しくて真っ直ぐな眼を以て、梓を見据えていたのだ。
「なんであれ、それが"貴方の決心"と分かってるなら、しっかりなさいな。
もしもそのまま折れて終われば、貴方は本当に、ただの惨めなエゴイストだわ」
ぴしゃり、と投げ掛けられた言葉は、眼差しと同じく厳しいもの。
しかしそこには突き放すような冷たさはなく、強く訴えかける情熱が宿っていた。
その熱は、こそばゆい心地よさを伴って、梓の心を揺さぶった。
"言霊"。
彼女は、そんな想いを言葉に乗せるのが、本当に上手だった。
「・・・・っ」
「その時の後悔・・・・よほどつらかったのでしょうね。
それは、分かったわ」
安易な同情の言葉だと、梓は思わなかった。
女性は今、本当に親身に、心を寄せてくれてると分かるからだ。
「昔があるから、今がある。
けれど、"今の貴方"の総てではないわよね?」
「・・・・今の私・・・・?」
「よく考えなさい。
まさに
思いと悔いを積み重ねて、かつての過ちの先でだって生きているのは誰なのか。
過去とは、所詮はもう隔絶したもの。
あくまでも、ただの"土台"でしかないものよ。
例えどんなに大事に思おうと、"そんなもの"に囚われて今の自分を蔑ろにするのは、賢明なことではないわ」
「そんなっ・・・・」
女性は、ともすれば乱暴なまでに、梓の過去への拘りを切り捨ててしまおうとする。
だが、それはきっと、うじうじとして後ろめたさを振り切れない内心を見切っているが故の、決然とした行いだった。
「・・・・良い?
本当に目を向けるべきは、向かう先を定める、
貴方は、他の誰でもない自分の意志で、此処へ辿り着いたんでしょう?
他者への憐憫や、過去に追い立てられて・・・・理由は、自分勝手に変わったかもしれない。
けれど、貴方は確かに、容易く無い選択を選び取ってきた。
流されるのでなく、自分の想いで一つの結果を取り上げてみせたのよ。
・・・・そういう自分だって、ちゃんと見てあげなきゃね」
「でも、それは・・・・私の、言い訳でしか無い、から・・・・だから・・・・っ!!」
「――――自分を疑って、いじけるのは簡単よ。
誰にでも、幾らでも出来て、夢中になれるわ。
そうして内側にばかり目を向けていたら、いつしかどんな苦難も見えなくなるでしょう。
甘ったるくて、そのくせ真っ白な、"自分勝手"に全部済ませられる世界の出来上がり。
けれど、狭小な自己満足に耽っている暇なんて、貴方には無い筈だわ。
だって、
「・・・・・・・・・・」
「消えそうな蝋燭の火のようだった命は、今も貴方を待っていてくれている。
・・・・でも、その責任は貴方を苛むものじゃなく、寄り添ってくれるものなんじゃないかしら。
そして、そんな結果に繋がったのは他でもない、ずっと大切な家族を想い続けた、その繊細で優しい気持ちが”火”を守ってみせたからだわ。
恥じ入るところなんて、無いわよ」
他者の視点からあらためて、自身を取り巻く現実を告げられて、梓は大きく戸惑ってしまう。
女性は、梓の止まない後悔の裏には優しさがあるのだと、諭してくれている。
まるでコインの裏と表のように、此処まで引き連れてきた梓の過去を肯定してくれている。
それは梓にとって、今まで一度も考えつかなかった発想であり、また目が覚めるように感慨をももたらしていた。
「・・・・私の預かった命。
今、此処にいる私が守った、火・・・・」
自虐的な考えに代わり、今新たに胸の内へ来居するのは暖かな温もり。
そして、励ますように心の中に浮かんでくる幾つもの姿を感じていた。
(パパ、ママ。
お義父さんと、お義母さん。
明癒ちゃん、遼くん・・・・そして、あの子。
私の・・・・家族。
待ってくれている、人達・・・・)
それらは、梓の過去に突き立った、幾つもの楔である。
でも、だからといって負い目のあるばかりに、何もかもを諦められるのか。
(そんなの、有り得ない。
大事な人を・・・・好きな気持ちを、そんな”悪いもの”扱いしていい筈、無い)
結局は、過去に縋っているだけ、なのかもしれない。
例えそうでも、しかし梓はもう、弱気に呑まれて諦めたがったりはしなかった。
昨日までのように、失望に泣き崩れてしまおうとは思わなかった。
「――――そのまま、一緒に行けるとこまで行っちゃえばいいんじゃない。
どんな動機でだって、居合わせた"その時"に動けた想い遣りこそ、何より大事にすべきだって、あたしは思うわ。
・・・・それに、自分の為でも大いに結構じゃない。
相手と自分、合わせて200%、本気になれるってことでしょ?」
そう言って、にっこりと屈託なく女性は笑った。
なんだか単純で、子供騙しみたいな言い分だったけれど、それでも梓まで、不思議と胸のすく気持ちになってしまっていた。
――――暖かいものが不意に頬を撫ぜるのを感じる。
瑞々しい緑の香りを孕んだ、柔らかな初夏の微風だった。
さっきまでの梓だったら、きっとこれがこんなにも安らぎを与えてくれるものだとは気付かなかったろう。
梓は横髪を押さえながら、考えて・・・・やがて、徐ろに呟いた。
「私は、大切な人達に置いて行かれてしまいました。
それは、未だに私の大きな傷痕で・・・・ずっと悩んで、怖がってました。
今更、否定なんてできない。
・・・・でも、それは私の全部じゃない」
「ん・・・・」
「あの時・・・・たった一人で置いてかれたあの子が、本当に痛ましかった。
そのまま、目の前で消えて行ってしまいそうな姿が、可哀想で堪えられなかった。
俯いていたそれまでを忘れるくらい、必死になれたのも・・・・間違いなく私なんだって・・・・思うんです」
「・・・・そういう想いを、信じてあげなさいな。
くどくど考えた屁理屈より、よっぽど正直で真摯な答えだと思うわ」
優しく告げられたそんな結論に、梓は小さく頷いた。
そうだった、と再確認したのが半分。
そうであって欲しいという願いが、もう半分。
「・・・・今はもう、本当のところは分からない、です。
でも・・・・孤独なあの子を見捨てたくない、一緒に苦しみを分かち合いたいって思えた、私の本音を――――」
信じたいです。
言いかけた言葉を押し留める。
――――こんな風に弱気で、見失ってしまいかねない想いじゃいけないの。
私は、あの子の家族になった。
自分で、決心した。
私には、そんな想い・・・・強い願いがあるって、自信を持たないと。
過ちを恐れて、目を背けて・・・・そんな自分に失望するのは、もううんざりだから・・・・――――
「――――信じて、みます」
その肯定とは、過去からの悔恨ではなく、未来へ進む為の決然とした誓い。
梓は既に鬱屈を振り切り、凛として顔を上げていた。
・・・・
・・・
・・
・
「はぁー、良いことした後は気持ち良いもんだわねぇ。
これなら、もし地獄に落ちても、お釈迦様が猫の手ぐらいは貸してくれるかしら、なんて」
「・・・・不謹慎です」
「・・・・そうだわね、ごめんなさい」
どこか爽やかな気分で引き返す道すがら、大胆に伸びをしながら言ってのける女性だったが、今度ばかりは冗談が過ぎる。
よりによって、今まさに"向こうへ渡った猫達"を抱えた梓を相手に、とジト目で睨み据える。
すると、これには流石の女性も調子の良さを引っ込めざるを得ないのだった。
(――――さっきは、あんなにしっかりとして見えたのに)
その顔に浮かべる笑みも、今回ばかりは誤魔化し笑いだとすぐさま分かる。
しかしまぁ、グダグダと言い逃れまでもはしない、その潔さや良し。
なんて、呆れるやら拍子抜けするやら、どこかそんな様子も愛嬌と思えてしまうような。
「もういいです」
本当に変な人だと思う。
でも、この人のせいで・・・・もとい"お陰"で、今日はたくさんの事を考えられた。
なので悪くない気分だったが気疲れはあって、それが故の言葉とため息を吐き出すのだった。
「あ、なにその意味深な笑顔とため息。
確かにちょっと・・・・かなりグレーなジョークだったけどー」
「そういう訳じゃないです。
ただ――――」
「ただ?」
不自然に途切れた言葉の先を、女性に問われる梓。
「――――ただ、○○さんのお陰で、今日はすごい助かりました」
と、梓はそう言おうと思ったのだが、ここで問題が1つ。
即ち、彼女の名前を未だに知らない事実に、ここでようやく気付いたのだった。
(し、仕方ない、よね・・・・。
こんなに深く関わるとは、まるで思ってなかったもの・・・・)
とは言え、此処までお世話になってしまったのに、未だに代名詞呼びでお礼を言って終わりというのも忍びない。
そう思った梓は、気恥ずかしいながらもきちんと姿勢を整え、改めて女性へ問うた。
「――――私・・・・眞澄 梓って言います。
あの・・・・貴女は・・・・?」
そしてその瞬間、女性の目が危うげにキラリと光った気がして、今度は小さくない不安に駆られるのだった。
正直、立ちんぼうに構えるには勇気が要るくらい、ずずいと詰め寄ってくる女性である。
「あはっ、やっと名前教えてくれたわね~♪
梓ちゃんね、うんうん、素敵っ。
日本から世界に誇れる女子力の高さだわね!!」
「高い、んですか?」
やっぱりこの人のノリはよく分からない、とちょっとどころじゃなく後ずさる梓。
人間というのは本当に千差万別である。
名前くらいでむやみやたらに嬉しそうな女性は、出会った時と同じような調子で、しかしそれでも上品に見える笑みを讃えて言った。
「カエデ、よ。
字は、黄昏の2文字目に、羽ね」
「・・・・え、と、昏羽さん。
本当に・・・・本当にありがとうございました。
いつか、お礼をさせてください」
「ふふ、その言葉で十分。
あたしも凄い良い気分だし、野暮は無しで、ね?
あと、あたしのことは楓って呼んでくれないかしら?
苗字の方は、嫌いってわけじゃないんだけど、なんだか暗ーい響きがあるのよね」
「・・・・でしたら、私も名前で呼んでもらって構わないです。
この苗字は、未だに少し慣れないですから」
梓とは、全く正反対の性質の女性――――昏羽 楓だったが、自分の姓に関して思うところがあるの点は奇しくも一緒だった。
不思議な一致に、何となく親しみのようなものを感じてしまう。
(明るくて、温かくて・・・・でも、大人らしいしっかりとした言葉と心を持ってる。
今までに、会ったことのないような人。
・・・・だからこそ、なのかもしれない。
こんなに自分の事を話してしまうの・・・・"アメリアさん"以外に、初めてかもしれないし・・・・)
「じゃあ、あずちゃん?
ついでにもう一個聞きたいんだけどっ」
「あ、あずちゃ――――」
「あなたが預かった猫って、どんななのかしら?
写真とかあったら見てみたいんだけどっ」
「・・・・どんな、ですか」
顔を引きつらせつつも、言われるままスマホを取り出してしまっていたのは、悲しいかな慣れてきた証だろうか。
しかし徐ろに画面を操作した末、梓はようやく、そんな写真をまだ撮ってないことに思い当たった。
「ごめんなさい。
色々あって、あの子と会ってからは、あまりゆっくり出来てなくて・・・・」
「え~~~~っ・・・・。
そう、見れないのねぇ・・・・。
んー、なら名前は?」
「名前は――――」
・・・・そう言えば、決めていない。
暫しの間の後、その表情から何となく事情を察したらしい楓は、神妙な顔で口を開く。
「実は、ちょっとうっかりさん?」
「そんなんじゃないです」
と、反射的に答えるも、ビシリと突き付けられた楓の指先から、つい目を逸らしてしまう梓だった。
(だ、だって、忘れ物なんてほとんどしたこと無いし、寝坊だってしないし。
・・・・今までかなり大変だったから、それどころじゃ無かったんだもの。
うっかりなんかじゃない・・・・きっと・・・・)
と、言い訳がましい独り言もそこそこに、梓は脳裏に子猫の姿と、その愛すべき家族の名付けに深く集中した。
「・・・・大事な、一生の名前、だものね。
名は体を表す、とも言うし・・・・ちゃんと素敵な名前を決めないと・・・・。
でも、どんな名前がいいの・・・・個性?
いいえ、でも呼び易さや、印象を損ねたら意味無いし・・・・。
まずはジャンル・・・・流行りや方向性から・・・・?」
と、なにやら大袈裟に梓が考えている傍らで、楓もまた、頼まれもしていないのに頭を捻っていた。
「たしか、男の子なんですって?
それなら"ノア"なんてどう?
ズバリ、フランス語の
響きも良いし、シンプルだけどハイソな感じが――――」
「可愛くないです」
「――――する、と思ったん・・・・ダケドナー・・・・」
意気揚々と発表された楓の案へ、即答する梓であった。
その速さたるや、楓が言い切るのを待たないほど。
不躾ながら、しかし梓にとってこれは、頑として譲れない”一線”に抵触するものであるのだった。
にべもなく却下され、肩を落とす楓。
であるのに、それでもしつこく食い下がっていくのも、この楓という人物だった。
「・・・・じゃ、今は6月でしょ。
ドイツ語でユーニなんてどうかしら?
名前っぽいし、響きも良いと思うんだけど」
「――――しっくりこないです」
「・・・・一考はしてくれたのね。
ありがとうって言うべき?」
「・・・・お構いなく・・・・?」
そも、人に考えさせてばかりではいけない。
家族である梓こそが、まず第一に頭を捻るべきであろう。
梓は、解いたままの横髪の一房を弄びながら、最近に無いほどの真剣さでじっと考え続ける。
(タマ、クロ、クロベー・・・・良いけど、ありきたりね。
ポチ・・・・ポチ・・・・良いんだけど、これって犬の名前・・・・。
・・・・ススタロー、はひどくない?
うぅん・・・・黒くて、まぁるい・・・・あんこ・・・・?
あんこ・・・・あんこ・・・・っ?)
様々な案が浮かんでは消える。
そして、そのいずれもが明後日の方向に向いたセンスであるのだが、梓の脳内だけの奇名・珍名展に突っ込みなど入ろう筈もない。
否、むしろそんなもの、あるいは無粋であるのかも知れない。
重ね重ね、梓は真剣にこれに取り組んでいた。
例え、他人が聞けば首を傾げるような名前ばかりだろうとも、それは本気で相手を想い、考え出しているものなのである。
「ポックル、ブチ・・・・コスミ・・・・。
うーん、やっぱり一度この目で見ないと、しっくり来る名前が出てこないわねぇ。
変ねー、これでも"7th"からも、お呼びが掛かるくらいには定評が――――」
ぶつくさ言いながらも名前を考え続ける楓。
こちらも再三言うが、誰にも考えてくれと言われたわけではない。
「・・・・見た目は、さっき言ったように黒い毛並みで、小さくて・・・・耳がこうヘタっとしてて、尻尾が短くて・・・・モフモフしてて可愛くって・・・・。
大きな目は丸っこくて金色をしてる以外は、本当に真っ黒なんです。
見つけた時だって、少し離れたところにいただけなのに、全然見えないくらいで――――」
記憶を辿り、未だ興味津々に覗き込んでくる楓へ、克明に説明していた、その時。
突如として、梓の脳裏に天啓が舞い降りる。
(――――あの子と出会ったあの夜。
真っ黒で、一見よく分からなかった。
けど、目を凝らせばとても可愛らしい子なんだって、怖がることなんて無いって、分かった。
まるで・・・・夜空の中から星を見つけたみたいに)
果たして、梓の考えついたその名の"持ち主"とは、美しくもあり、優しくもあり、時に怖がらせられたりもする、気まぐれな存在だった。
そんな多面性が、あの時の波乱に満ちた出会いを表しているようだと、梓は遂に確信に至っていたのだ。
「――――決めた。
あの子の名前は、"夜"。
ヨルちゃん」
「え」
果たして、まさに会心の出来と言わんばかりな満面の笑みを浮かべる梓は、すっかり有頂天だった。
故に気付かない。
もはや今日イチのにこやかさに達しているのに対して、楓から投げ掛けられる眼差しは、ちょっと信じられないものを見るような具合であることに。
しきりに目を瞬かせる楓は今、人生の中で培ってきたネーミングセンスの基準が、メトロノームの32拍子もかくやとばかりに揺らぎまくっていたのだった。
「これ、は・・・・え、素敵、なの?
外れて・・・・る・・・・?
一周回って・・・・180度・・・・」
「ええ、素敵ですよね?
もう、これ以上無いくらい、個性的でおしゃれで、カワイイ名前・・・・っ。
ヨルちゃん・・・・ヨルちゃん・・・・ふふふっ」
どうしてか狼狽えている楓に対し、いつにない押しの強さで以て力説する梓である。
すると、ややあって楓は引き攣らせていた表情を緩め、微笑みを持ってこれに応じる。
どうやら無事に合意に至ったようだった。
――――実際には、混乱の極致に叩き下とされた楓が、やがてそれ以上考えるのをやめた、という問題の放棄を行った図であるが。
「ま、まあ、最終的にはあずちゃんが決めることだし、外野が色々言うのも野暮天ってもんだわね。
あなたが良いなら、イーんじゃないかしらね。
・・・・それに、まぁ奇抜だけど、なかなか悪くないって思うわ、あたしも」
なんだかんだとあっても、やはり梓の思い入れの深さは本当である。
それを知る楓も、そうして肯定的に評する事で、この場は穏やかに収まったのだった。
「・・・・!!」
ところが、目の前の楓の表情から、唐突に笑みが消え失せる。
驚きに我に返る梓の目の前で、楓はふと耳許に手を当て、神妙な表情で黙りこくる。
今まではその長い髪で隠れて気付かなかったが、どうやら彼女は骨伝導式イヤホンらしきものを着けていたようだった。
そして、そこから聞こえてくる何らかの音が、楓から先程までの親しみやすさを失わせ、張り詰めた緊張に満たさせたようだった。
その時、梓は足先で芝生を踏む軽い感触を感じる。
無意識に一歩、後退ったせいと気づいたのは、少し遅れてからだった。
「あの・・・・?」
相手方からの連絡を聞くだけに終えた楓へ、恐る恐る問いかける。
すると、楓は顔に笑みを浮かべて応える。
一見すれば、何でもない様な自然な態度。
だが、その裏に秘められた焦燥を梓は察せていた。
(・・・・なんなの・・・・?
すごく、焦ってる・・・・?)
その動揺を表に出さない辺りはさすがと思うも、余裕に満ち満ちたこの楓という人物が、狼狽えてしまうほどの事態とは、一体なんなのだろう?
「ごめんなさいね。
あたし、そろそろ"仕事"に戻んなきゃだわ。
あずちゃんも早めに出て行ったほうがいいわよ。
実は、"あのお方たち"には、だいぶ無理を言って黙認してもらってるもんだからね」
言いながら、遠くに見える東門の方を見やる楓。
その両脇には、相変わらずきっちりと制服を着て歩哨に立つ警官達の姿がある。
梓の時は取り付くシマも無かった彼らだったが、しかし楓は少し話し込んだだけでその"無理"を通させて、更にそれを"黙認してもらえている"。
その事実を改めて思い知り、梓は尚更に楓の素性への疑問を膨らませた。
楓の若さと気さくな態度からは、とても国家権力に顔を効かせられる人物とは思い難い。
だが、彼女が時折見せる不思議な迫力と厳格な物言いは、確かにただものではないとも感じさせる。
(言い回しからして、やっぱり警察の関係者とかじゃない・・・・?
それとも、もっと別の・・・・?)
「ふふ、そんなに熱い視線で見られたって何も出ないわよ。
・・・・って、一個あったわね。
さっき、あそこにでっかいゴキ◯リが彷徨ってたわ。
帰り、気をつけたほうがいいわよー」
「 ひぇゃぅわっ !!??」
途端、ひっくり返った大声、というか悲鳴というか、とにかく凄い勢いで振り返る梓。
やんぬるかな、予想外の天敵発見の報とあっては、意識の全てを防衛本能に傾注せざるを得なかったのだ。
しかも、よりによって楓の指差す先とは、東門に続く遊歩道の上である。
「あっ、あ、あぁのっ・・・・大きいの、じゃないっ、ですよね?
指くらいになるともう、私・・・・」
――――僅か数瞬、目を離して、それから向き直るまでの間に、楓はその場から消え失せていた。
信じられない思いで辺りを見回すも、明るく開けた遊歩道に立っているのは、もはや梓ただ一人だった。
「そんな」
人が空気に溶けて消えるわけはないのだが、事実として影も形も見当たらない。
神隠しを目の当たりにした状況だったが、しかしそれにしてはどうにも緊迫感が湧いてこない。
ただただ狐に化かされた気分で、呆気に取られるばかりである。
(・・・・案外、そうかも・・・・)
それどころか、比喩だというのに妙に得心が入ってしまう。
思い返せば、梓の前に突然に現れ、突飛な行動で散々に振り回す、今までに会ったことないタイプの人。
けれど、生き生きと栗毛を揺らす陽気さの奥に、気丈さと懐の深さとを秘めている。
狐の耳を生やした楓が、してやったり、という顔をして笑う絵面がありありと浮かんで、そんな埒もない考えに、梓は思わず安心した笑みを浮かべてしまうのだった。
「――――来て、良かったな」
気付けば、時刻は16時半。
ほんの一時間前には、ここでこうして、こんなにも晴れやかな気持ちになれているなんて、思いもしなかった。
「・・・・でも、ないかも。
最後にあんなこと言わなくったって良いのに・・・・意地悪な人。
・・・・まったく、もう」
何処かへ行ってしまった楓の残した言葉がどうしても気になってしまい、梓は小さく口を尖らせる。
注意を逸らすための嘘だったのだろうと察しはつくものの、もし万が一本当だったとしたら取り返しがつかない訳だし。
とはいえ、そんな杞憂にももう負けないくらいに、梓の気分は明るく晴れやかだった。
ふと空を振り仰げば、そこに広がる燦々とした青空。
長い、長い曇天を経て、その眩さを浴びたかのような、爽快感が心にあった。
事実、そうなのだろう。
冷たい雨に湿ったまま、縮こまっていた暗い日々。
けれど、梓はようやく今日、そんな場所から少し踏み出せた気がしていた。
「したい事、してあげたい事。
その全部、私の思う通りでいい。
・・・・きっとまだ、遅くなんてない。
それに・・・・もう、後ろめたくもない」
想いを言葉に乗せ、バスケットをぎゅっと抱きしめる。
まずは、この中の"家族"達をしっかりと送ってあげること。
荼毘に付して、彼女達もまたちゃんと連れて帰ってあげたい。
そして、明癒達のことだって心配だった。
(・・・・"彼"の事故の事もあって、その上"あんな事件"にも遭ったばかりなのに・・・・。
私が、支えてあげなきゃいけない。
少なくとも、今は・・・・)
明癒と遼哉にとって、梓は"優しくてしっかりした幼馴染のお姉さん"だった。
そして梓にとっても、2人は既に本当の弟妹のように親しく、長い付き合いだ。
ギャップのある姿ではあったが、彼女達を励ますためにも頑張って振舞おうと思う。
"姉"という体裁の為などではなく、真心からの考えだった。
そして、ヨルの事。
家族として迎えるなら、必要な事を勉強したり、色々揃えるものもあるだろう。
(――――置いてかれてばかりじゃ、ない。
割り切れないことも、まだあるけど・・・・いじけて、止まってなんていられない)
気が付けば、昨日この公園に迷い込んだ時とは、全く真逆。
迷いのない、確固とした想いが、歩き去っていく梓の胸を満たしていたのだった。
――――To be Continued.――――
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