#2 束の間の日向

6月8日 7時47分

二間市 上赤津場

二間総合病院 203号室




全身に打撲、内出血に擦過傷が数知れず。


右肩と脇腹、右頬の裂傷は大きく、もう少し深いと大出血になっていたかもしれない。


左腕と左足には、特に強烈な衝撃を受けたことによる大きな打撲痕。


内出血の度合いから見て、内蔵にまで影響を及ぼしてもおかしくはなかったが、幸いにも大事には至らず。


全身に包帯を巻かれた光弥は、目覚めて早々、昨夜時点での満身創痍ぶりを、医師・薬師寺からそう伝えられた。


冗談みたいな話に聞こえる。


「・・・・大変、だったんですねぇ」


改めて怪我の具合を上げ連ねられると、驚くやら呆れるやら、ついでに薄気味悪いやら。


そんなに怪我をしているらしいのに、傷はどれも既に塞がっていて、体中の筋肉痛の方がよっぽど痛いとは。


人体とは脆いようでいて頑丈で、その二面性を垣間見ているようだった。


「”野熊”に襲われるなんて災難でしたね。

それでも、自分の脚でERまで辿り着いて、すぐに失神なさるとは・・・・とにかく、無事に済んでなによりです。

しかし・・・・私としては、やはり入院して安静にすることを勧めたいんですが・・・・」


知的な雰囲気漂うメガネの男性医師、薬師寺はそう勧めてきた。


若干心苦しく思いつつも、しかし光弥は一言謝り、これを断らざるを得ない。


「今日はやることがあるんで、良ければ退院させてもらいたいんです」


ぼろになってしまった私服の代わりに、返さなくて良いと病院から渡された簡素な服に着替えた後、返す言葉は否。


正直、身体の感覚もまだ鈍いものだったが、言葉の通り今日はこの後、どうしても外せない"用事"が控えている。


故に、光弥なりに両者の損得をきちんと吟味し、熟慮した上での回答ではあるのだった。


「・・・・後見人の景山さんからは確かに、貴方の意思を尊重するよう伺いましたが・・・・くれぐれもお大事に。

体調の変化には、十分に気を配ってください」


やはり渋面である薬師寺だったが、本人と保護者ぐるみの決定とあっては、止める言葉もないといった様子である。


とりあえずでも賛同を貰えて有り難いと思う反面、大人相手に我侭を通させてもらって、申し訳無くなる光弥だった。


「けど実際、もう大丈夫な感じなんです。

ちょっとひきつるような気はするけど、痛みってほどでは無いですんで」


「そうですか」




間。




せめてもの気遣いもどきに、陽気に振る舞ってみる光弥だったが、薬師寺はただ一言を発したきり、カルテに目を落とす。


その思った以上に淡泊な反応に、光弥は思わず言葉を無くしてしまう。


(・・・・さっきから、にこりともしてくれないな。

それになんか・・・・視線も避けられている気が・・・・)


こういった、一々ドライな対応にあまり耐性の無い光弥は、実は猛烈に居心地の悪さを覚えていたりする。


やはり、無理に帰りたいと言ったのを腹に据えかねているのか。


それとも元々こういうクールな性格なのだろうか。


(なんにせよ、肩が凝るし、身体の方まで”むず痛い痒い”・・・・のは、当然か。

さっきの看護婦さんは、すごい優しそうだったんだけどな。

あーゆうのを笑顔の素敵な女性って言うんだろうなぁ・・・・)


半ば転嫁行動めいて、さっきまで薬師寺医師と一緒に行動していた、卯津起という看護婦を思い出す光弥であった。


例えるなら、機嫌の良い時の香にスロー再生をかけたかのような、おっとりのんびりえびす顔。


加えて小柄なせいもあり、初めはどうしてここに中学生が、と思ったほどだ。


しかしそんあ喋り方や態度とは裏腹に、ポニーテールをぴょんぴょんと揺らして、意外にも機敏に診療を手伝っていた。


(なんか、正木が前に言ってたっけな。

元気なポニーテールは良いものだって・・・・)


かつて、が何かの折にやたら熱弁を振るった時、まだ若い光弥は確か、「何を馬鹿な」とか考えていたはずだった。


しかしながら、実際こうして具体例を眼にすると、ふわふわと尻尾のように揺れる様子は確かに可愛らしかった。


(――――不思議なもんだけど、髪型って人の印象に大きめに繋がってるよな。

明癒ちゃんも、そういえばポニーテールだったし・・・・この場合は、なんか元気に見えると言うか、微笑ましいっていうか。

・・・・つっても、そう見えるのはきっと二人とも、笑顔の印象が強いから、なのかもな。

これが、もしも物静かな人だったら、たぶんもっと別の印象に――――)




―――― ねぇ・・・・どうして? ――――




途端、光弥の思考は、とある記憶の一場面に、支配された。


ポニーテールに結い上げられた、たっぷりとした長い黒髪が、電灯からの穏やかな暖色光に艶めく。


透き通るような白磁の肌。


黒曜石の彩りのように、濡れた黒の瞳。


かすかな小雨の音の中で、それらの織りなす美貌は呼吸すらも束の間、忘れさせる。


その綺羅に魅入られてしまったように動けないまま、光弥と"彼女"は、見つめ合う。




――――と、不意に蘇ったあの雨の夕べの情景に、光弥は何か、物凄い感情のうねりを掻き立てられた。


しかも、浮かび上がったその光景は、光弥の都合の良い様に改竄されてすらいたのだ。


( って、なっ、んな、何考えてんだ !!??

しかも、相手はよりによって・・・・っ!!

・・・・あんな事があったばっかだってのに、なんつー不謹慎なっ・・・・!!)


「日神さん」


「はゐぃ!!」


悶絶ものの羞恥心に苛まれているところ、あたかも不埒な考えを見抜いたように声をかけられ、思わず返事がひっくり返る。


自分でも変な声だとわかるし、傍からはどんな奇声に聞こえたのやら。


しかし、そんな醜態のおかげ、というべきなのか。


ともかく、一瞬だけ薬師寺の口許に笑みが浮かんだように見えた。


「一日に一度、上半身のガーゼと包帯は交換しますので、明日、明後日は必ず来院なさってください。

湿布薬もその時に交換します。

そこから先は経過を見て、ということになるでしょう」


気のせいか口調が穏やかになって、纏う空気も軽く感じる。


息の詰まるような錯覚から解放されがてら、一つ謝っておこうと思った。


「分かりました。

なんだか、無理を言ってすいません」


「お気になさらずに」


「・・・・あ。

謝りついでに聞きたいことが・・・・。

あのー、今僕持ち合わせの方が無くってですね・・・・」


些か情けないとは思えども、しかし切実な問題故に切り出さざるを得ない光弥だった。


こういう話題は言う方も言われた方もやりづらくなるものだが、それに対する薬師寺の対応はやはり冷静だった。


「では、その請求は後日、致します。

まぁ、この程度の処置であれば、金額もそう大したことはないでしょう」


と、見事な愛想笑いでそう返される。


光弥としてはありがたい話だったが、本当にそれでいいのだろうか?


改めて自分の体を見れば、湿布やら薬のガーゼなどがギチギチの包帯の下に結構見受けられるのだが。


(・・・・まぁ、いいや。

今月厳しいし、余計なことは言わないどこ・・・・)




――――光弥の生活費は、"じーさま"こと日神 鵯出丸の遺産から使わせてもらっていた。

金銭はもちろん、現在の住まいたる桜陰館すらも、遺言状付きで譲り受けたものだ。

光弥が天涯孤独の身でありながら不自由なく生活し、学校に通っていられるのも、全てはそのお陰であるのだ。

だが、光弥の知る限り特に仕事らしい仕事をしていなかった爺様なのに、諸々の手続きを差っ引いてなお破格の財産があると知った日には、随分戸惑ったのを覚えている。――――


(・・・・元から、じーさまは大概変わり者だとは思ってたけど・・・・ここ最近は特に、僕は本当にあの人のしか知らなかったんだって、思い知るな)


孫として、数年の月日を同じ屋根の下で過ごしたはずの光弥だったが、本人の事はもちろん、後見人の”景山 芹子”との関係性についても、実のところはまるで知らない。


多額の遺産、という厄介なものを管理している彼女だが、その態度に邪念はなく、光弥が申し訳なくなってしまうほど誠実に、諸々の管理を行ってくれている。


いったい何故、爺様にそれほどの忠義を尽くすのか。


遺産の事も合わせ、かねてからの光弥の疑問であった。


さておき・・・・現状に話を戻すと、光弥の生活費とは月に一度、芹子から送られる仕送りのみが元手である。


もちろん少なくはないが、余裕だってあまり無く、故に光弥の経済感覚は至って正常なまま。


むしろ、爺様の考えを受けてアルバイト等もせず、勉学・日々の行事に励むよう努めているので、普段から節制に余念が無いくらいだった。


元より爺様とは清貧を絵に描いたような生活をずっと送っていたし、また遺産とはいえ、自分で築いたもので無しに好き放題に手をつけるのも、気が引けた。


そして、遺言状にも「自らを律し、己を見失うなかれ」という言葉が残されていた。


あるいは、例え言われなくとも、光弥はそうしていただろう。


他ならぬ爺様の遺した教えであり、そして爺様本人もまた、そうやって"生きていた"。


その気高く大きな背中が、光弥の目にはしっかり焼き付いていたからだった。




「・・・・良ければもう一つ、お願いしたいことがあるんですけど・・・・」


「?」


「――――"眞澄さん"には・・・・僕の事を黙っていてもらいたいんです」




光弥は躊躇いがちに言いながら、なんとなく視線を壁の方へ彷徨わせていた。


その先の何処かの病室では、まだ"彼女"が眠り続けているはずだった。


ここへと運び込んだ後、適切な治療によって危険な状態は脱したと、薬師寺に告げられてはいた。


ただ、深刻な"獣害"に遭ったショックで、ただ深く眠っているだけなのだろう、とも。


そして、光弥は正直、"彼女"が目覚める前にこうして先に出て行けて良かったと思っていた。


卑怯な態度だとは重々感じてはいても、昨日の今日でいったいどんな顔をして”彼女”と会えば良いのか、分からなかったからだ。


「・・・・理由を聞いても?」


神妙な顔で告げる光弥に、興味と疑問を抱いたのだろう。


僅かに身を乗り出して、薬師寺は話の続きを促す仕草をする。


「・・・・色々とあって・・・・僕は"彼女"と関わらない方が良いんです。

"彼女"がまだ眠ってて、そんな事とは知らないなら、そのままで終わらせたい。

だから・・・・図々しいとは思うんですけど・・・・お願いします」


言い分を並べ立てた後、自分が思わず拳を強く握り固めていた事に気付く。


指が固まった様に解れない程だった。




(――――もう、ただの知り合いで構わない。

彼女への負い目には、もうただ行動で答えるしか無いんだ、って・・・・。

そう決めた筈が・・・・何の因果か、こんなことになってる。

今回は、もう二度と交わらせないと思った僕と"彼女"の道が、あの怪物のせいで偶然、交差した。

・・・・ただ、それだけの出来事なんだ)




光弥は、自分の心の赴くまま、"彼女"に投げつけた言葉を、忘れてなどいない。


そしてそれは、簡単に曲げたり、嘘にしてはいけない、決意の言葉。


あるいは、そうして縋り付くようにでも掲げ続けねばならない、光弥の意地だった。


「・・・・・・・・・」


唐突に、懺悔のような光弥の独白を聞かされた薬師寺は、変わらず表情が乏しかった。


ただ、その眼を見た途端、光弥はぞくりとした寒気のようなものを感じた。


涼し気な面持ちの向こうに、真意を透かし見ようとするかのような、強い意思を見た気がしたからだ。


否・・・・そんな疑心暗鬼に囚われるのは、光弥自身が絶えずそう恐れているからなのだろうか?


ならばと、光弥は腹を据える。


目を逸らさず、誤魔化す必要も無い。


この決心は固いのだと、己の有り様で訴えかける。




束の間、沈黙が続いた。


やがて、先にそれを破ったのは薬師寺だった。


「・・・・何があったのかは存じませんが、分かりました。

眞澄 梓さん・・・・彼女には、貴方のことは伏せておきます。

ですが――――」


淡白な調子で始まった、一応の承諾を示す返事。


だが、それは唐突に厳格な声音へ変わる。


「――――あるいはそれで良いと思えているのは、貴方だけかもしれない。

それが人と人との話であれば、どちらか一方が目を瞑れば解決するような、簡単なものでは有り得ないでしょう。

いつか必ず、相応の決着が必要になります。

貴方にも、そして相手にもです。

くれぐれも、それをお忘れのないように」




どきりと、心臓が縮み上がった。


薬師寺が重々しく、諭すように言った言葉。


光弥にとっては、事情も禄に知らない"輪の外"からの声ではある。


だが、そのまま軽視など出来ようもない程に重く、そして身に詰まされる言葉であった。


自分の芯が打ち震わされたような感触は、もしかしたら未だに光弥に残る後ろめたさが、浮き彫りにされた不安に震えたのかもしれなかった。




(――――この人の言う決着は、あの時のぶつかり合いとは、また違うんだろうか。

・・・・あんなにも哀しませて、傷つけたのを、それでもただの通過点に過ぎないんだろうか。

・・・・そうだとしても、もう・・・・戻れはしないんだ・・・・)




せめて、正解ではなくとも、過ちでないように祈る。


光弥に出来るのは、もうそれくらいしか無いのかもしれない。




「ありがとうございます」


「いえ。

それではお大事に、日神 光弥さん」


自分の我侭を聞き入れてくれたこと、そして思わぬ言葉をくれた事に、深々と頭を下げる。


薬師寺はやはりにこりともせずに、あくまでクールにそう返すのであった。




・・・・

・・・

・・




6月8日 8時55分

二間市 鶴来浜本町

海晶学園 正門




私立海晶学園・高等部は、一般的な学校同様に2期制のカリキュラムである。


そして現在、時は初夏。


即ち、例年より早めながらも、一学期の総決算である期末テストの実施が遂に告知されていたのだ。


学生と言う職業であるならば、決して逃れ得ぬ強大な試練の訪れに、同校の生徒達の間には既に、キリキリと一本張り詰めた緊張感が漂っていた。


また、だからこそ今、光弥もこうして、迫る始業時間にひぃひぃ言いながら、学校へひた走っているワケなのであった。


しかしながら、その為に光弥の踏破しなければならない道程は、決して楽なものでは無い。


繁華街である”上赤津場”に位置する病院から、桜蔭館で荷物を取り、さらにそこから学校まで登校。


普通のペースで駆け抜けたとしても、裕に1時間以上はかかるだろう。


そして、そんな道を10分も歩けば、ここ最近の酷使が祟って、身体はすぐに音を上げ始めたのだ。


いくら昨夜は財布も持たずに飛び出したからとは言え、変に意地を張らずにタクシーなりを呼べば良かったと、痛感するところであった。


加えて、ようやく帰って、楽をしようと颯爽取り出した自転車は、乗る前からぺったりとタイヤが潰れている始末。


涙をのんで無情を嘆く暇はあれど、やはり最後に残るは、己の2本の脚のみ。




「は、は・・・・ははっ・・・・っ!!

人間っ・・・・やれば・・・・ぜぇっ・・・・出来るもんだ・・・・ぜぇ!!

・・・・そうさっ・・・・人事を・・・・尽くす・・・・っ。

頑張れば、割と・・・・なんだってできる・・・・!!」




これも追い詰められた人間の底力か。


やりたくもなかった、たった1人のマラソン大会は脅威の自己ベスト43分弱を記録し、校門に渡された見えないゴールテープを突っ切って幕を下ろす。


まだ朝一番というのに止め処なく流れ出た汗と涙は、今この胸に去来する達成感に見合うものか。


それは分からないが、取り敢えず積み重ねてきた筋肉痛は更に強力に悪化し、光弥の足腰を深刻にがたつかせていた。


「どうにか・・・・間に合ったっ。

・・・・やばい、休まないと、どっかがば、爆発しそうだ・・・・っ」


息を整える間も惜しんで、疎らに登校する生徒達に混じって歩き始める。


今にもぶっ倒れそうな千鳥足に、すれ違う生徒達も何事かと見てくる。


そんな視線を掻い潜って、光弥はいつも通る自分の教室への道を、いつも以上の時間と労力をかけて進んで行く。


「ようっす、日神」


「よーすっ!!」


「おはよー日神君」


「おはようざまーす!!」


自らの所属する2年B組の教室に入ると、とにかく真っ先に窓際、真ん中の席を目指す。


脇目も振らずに歩いていくも、挨拶をしっかり返すのを忘れない光弥である。


すると、目指している席の傍に、香が立っているのにふと気付く。


「香ちゃん、おはよ~」


まずは、とやはり朝の挨拶を欠かさない光弥。


だがしかし、香は何故か話し掛けられるなり、いきなり剣呑な目付きで睨み返してくるではないか。


「あぁっ!!!!

光弥くん!!!!」


「うわっ、なんでいきなりお説教モード!?

そ、そんなに立てちゃって、正木になんかされた?」


「・・・・それもあるけど」


(あるのか)


納得のご機嫌斜め具合に、若干の憐れみの視線。


「って、そういうことじゃないっ!!」


そんな眼差しもムッと来たのか、いよいよ以て怒髪天を衝く勢いの香。


目元も更にぐいと釣り上がり、まさに荒ぶる鬼の表情である。


(うーむ、こういうときの香ちゃんはやっぱり・・・・ド迫力だな)


「ちょぉっ!!??

女の子に向かって、鬼だのド迫力だの、酷ーい!!!!」


「 ぶっ !!??

う、ちょ、なんで分かったのさ!!??」


「顔に出 て ま す っ!!!!

ってっか、ほんとにそう考えてたんだ!!??

もサイテー光弥くん!!!!」


「か、顔・・・・?」


さも当然の分析、と言わんばかりに憤慨している香だったが、しかしにわかには信じがたい内容である。


冷静に考えて、表情だけで本当に内心まで分かられては堪ったものでは無い。


今のはもはや読心術の域でなかろうか、とか狼狽える光弥だったが、しかし香の剣幕を前にしては迂闊に口も挟めそうになかった。


「そんなことより・・・・あぁ、もぅ、言うこと増えちゃった!!

その包帯、どうしたの!?」


「え?

あぁー・・・・」


ところが、意外にも香の方から水を向けられて、途端に光弥もまた思い出す。


現在、周りがみんな半袖のワイシャツで過ごしている中、光弥だけは長袖のワイシャツを着ていた。


それはもちろん、今朝がた巻かれた大量の包帯やら絆創膏を、むやみに見せないためである。


袖まで下ろして、珍しく第1ボタンも留めてまできっちり着込んでいた筈なのだが、しかし香には一目見ただけでバレてしまっていた。


何故か、と言われれば、答えは単純。


死に物狂いで走ってくる間に袖は捲り、ボタンは外し、そういった注意を自分で全部フイにしてしまっていたからだ。


まぁそもそも、左頬にでかい絆創膏を貼っている時点で、もともと無意味な気配りだったのかもしれないが。


「え、ホントだー!!

どしたの日神くん?」


「おおすげぇ、光弥がミイラになってら」


「なにこれ、”いいんちょ”がヤったの?」


「んなわけないでしょが!!」


厳しい表情を引っ込め、代わりに気遣わしげな眼差しになる香。


すっかり注目を集めてしまったが、その点だけは素直に良かったと思う光弥だった。


「今朝、"待ち合わせ"に来なかったのもそのせい?」


「あー・・・・うん、まぁ・・・・」


8時半に浅磨橋のたもとのバス停で待ち合わせとは、光弥達の朝の日課だった。


だが、今朝の目覚めは病院で、学校には始業時間ギリギリにどうにか滑り込み。


そしてなにより、今の今までそのことが完全に吹っ飛んでいた光弥が、その約束を守れるはずが無いわけで。


「た、確かに、今日のこの失敗は、まぁ、この包帯のせいと言えばせいなんだけど。

・・・・でも、そうでなくとも今日はちょっとやばかったというか。

あぁでも、この包帯を巻くような事が無きゃ、そもそもちゃんと時間通り約束通りいつも通りに行動できてたとも思えるわけで」


「 はっきりする !!!!」


「ハイッス!!」


とうとうクラス中の視線を集めてしまう。


またやってるよ光弥のやつ、とか、いいんちょもおっかないなー、とかいろいろ聞こえてくるが、香の射抜くような眼差しは全く緩みを見せない。


「て、手厳しいな・・・・」


「当たり前です。

あたしは今、尋問してるんですから」


思わず冷や汗と共に視線を彷徨わせるが、全方位余さず救いは無い。


流石と言うべきなのか、香は生徒会の書記にして風紀委員の一員なだけあって、規則や約束事に対して厳格な性格である。


(まぁ、それとは別に、元々おせっかい屋というか、口出したがりと言うか。

おかげで「いいんちょ」呼ばわりも、すっかり定着したしなぁ・・・・)


勿論、実際に委員長なわけでは無い。


さておき、ここで普段ならば、なんだかんだと優しい性格の香はの追求で済ませてくれるのだが、しかし今回ばかりは大変ご立腹の様子。


どうにもただでは済ませてくれなそうだった。


(よっぽど正木に絡まれたんだろな・・・・)


「目ぇ逸らさないの!!

さあ、訳をしっかり話してもらうからねっ」


そう言うと香はずずいと身を乗り出してくる。


眼鏡の奥の瞳だって、いつに無く据わっていた。


「そいつは俺も聞きたいところだなー」


と、不意に横から聞こえてくる声。


そこには、浅黒い肌に金髪の悪友が立っていた。


「あ、正木。

おはよーございます」


「おう。

おはよーございます」


とりあえず挨拶は大事、ということで。


それから、「で?」と言わんばかりの視線が、2人から注がれる。


・・・・気が引けるが、ここはやはり適当な理由で誤魔化すしかない場面か。




「いや、その・・・・今朝、うっかりガラスを割って、その破片を派手に被っちゃってさ。

病院に駆け込んで、手当とかしてもらってたら遅くなっちゃって・・・・。

れ、連絡もし損ねちゃってホント、ゴメンて、二人共・・・・」


「「・・・・・・・・・」」


そして、2人の醸し出す、やっぱりとでも言いたげなこの空気である。


嘘の話とはいえ、話を聞いても意外そうな反応は一切無い。


つまり、「ドジって何かやったんだろうな」という予想は織り込み済みだったらしい。


「やっぱりなぁ~・・・・」


なら、それくらいは納得だわ」


「あはは、そういう系だと思った~♪

けど、今回はお爺さんと強盗を追っかけたり、イノシシに襲われたり、他所んチ片付け中に荷物雪崩に巻き込まれたりとかじゃなくって良かったね、日神くん」


「・・・・良く覚えてるね、そんな昔のことさ」


周りにいる中学生からの友人達も、ついでとばかりに容赦なく良い連ねてくる始末。


己の信用の低さが、居た堪れない。


「「はぁ~・・・・」」


ややあって、香と正木は揃って盛大なため息をつく。


「・・・・ま、そんな事だろうと思ったけど。

怪我は大した事ないんでしょ?」


しかしそれも束の間、不甲斐なく縮こまる光弥を許すように、香がふっと笑みを浮かべた。


その優しげな様子は、今の光弥には菩薩像のように神々しく見えた。


実際には多分、呆れと諦めの破顔一笑だったのかもしれないが。


「うん、まぁね」


「昨日に一昨日、それから今日と・・・・厄日なの、光弥くん?

悪いコトは続くって言うけど、もっと気をつけなきゃダメだよ、もぅ」


「てか、来ないなら来ないであらかじめ連絡寄越せよな。

お陰で危うく俺まで待ち合わせに遅れるとこだったっての」


「だから、ごめんって・・・・ん?

でもそれ僕には関係な・・・・「まー、まー、こまけぇこたぁいいんだよ!!」


「うわ、テキトー・・・・」


大袈裟な身振りを加えつつ、相変わらず勢い任せな正木に、冷やかな眼差しを向ける香。


一転、今度は荒神像のような厳しさである。


しかも、今回の範囲には光弥までも含まれていた。


「もともとはっ!!

二人があんまり遅刻ばっかするから、監視がてら一緒に行くことになったんだし、しっかりしてよっ。

というか、本当に遅れる時は連絡のひとつもしてよ?

・・・・てゆーか、ケータイ持ってるでしょ?

この前買ったばっかりじゃん」




その刹那。


恐るべき危機、ないし大いなる災いの予感に、光弥の脳裏にけたたましくレッドアラートが鳴り響いた。




「え・・・・あー・・・・そういえば、どこかにあるはずかなっ!?」


「いや、聞いてるのこっちだろ・・・・」




然り、光弥は携帯電話を・・・・使っているかどうかは別として、持っている。


とぼけりゃいいのに、と一瞬思うも、あいにく香達と一緒に買った物なので、その手は通じない。


そしてそうなると、出先で連絡できなかった、という都合の良い言い訳も、同時に潰される。


光弥としては、あいにくの扱い方が未だによく分かってないという言い分もあったが、理由としては弱いだろう。


というかそれよりも、今まさに携帯電話を持ってないという事実の方が、今はもっとマズい。


「・・・・こっちからかけても繋がらないのは、もしかしたら最近噂の電波障害のせいかと思ってたけど。

でも、そーじゃない、と。

言ったよね、持ち歩いてねって?

でも君は、ケータイを持ち歩かず、思いつきもせず、そして約束もすっぽかしたと?

・・・・ほぉ・・・・」


「い、いあ・・・・うあ・・・・いあ・・・・いあ・・・・」


もはや人語を話す余裕すら無く、ただ首を振る事しか出来ない光弥の様は、まるで壊れた扇風機。


携帯電話を持ってない件については、しかし昨日の"のっぴきならない状況"もあって、仕方がない面もある。


言えるものならそう言いたいが、もちろん今の香には関係ない話である。


「い、いや、違うんだっ。

あーいう電子機器って、どうにも苦手で、だったら公衆電話で良いかなって。

でも最近充電してなくて、多分ケータイは電池切れで、持ってても意味なかったろうなーって。

あ、でももしちゃんと持ち歩いて、それを見たら多分思い出して、そうしたら公衆電話には駆け込んでて・・・・」


「 はっきりする !!!!」


「 ハイッス !!!!」


「・・・・怖ぇ~。

横の髪が逆立って真上向いてるし」


夜叉の顕現と化した香の大喝。


光弥はパン、と柏手めいて両掌を合わせ、ついでに90゜頭を下げ、反省のオーラをずずいと押し出して謝り倒す。


これぞ、光弥の持つ最大にして最低姿勢の奥義であった。


大体の場合、ここまですれば香なら水に流してくれて、一件落着と相成るのだが・・・・


「――――あのね、あたしだってね、あんまりこういうこと言いたくないのよ。

でも、光弥君も正木も遅刻癖が治らないし、授業はたまに聞いてないし、ノート取りだって手は動いてるけど頭は動いてなさそうだし、そうでなくても普段からピンぼけしてるし、正木なんか制服のシャツ全然洗ってないみたいだし、テストも毎度赤点ラインをうろうろしてるし、心配で心配で――――」


やはり、今回はそんなに甘くは無く、頭を抱えておもむろに愚痴り始める香。


(危険な兆候だな。

香ちゃんが、オカンモードになっている。

最近フラストレーション溜まってそうだし、これは・・・・長くなるな)


「バカ、毎週月曜には洗ってるっつうの!!」


「そういう問題じゃないっ」


「そういう問題じゃないって」


そういう問題ではない。


「・・・・なんか今、3人くらいから総スカン食らった気がすんぞ・・・・」


「2人ならまだしも、何よ3人って・・・・」




するとその時、朝のホームルームと、そしてそのまま始まるであろう1時限目を告げる予鈴が高らかに響き渡った。


ほぼ同時に、黒板側の扉がガラガラと音を立てて開く。


教室中の喧騒が一瞬、大きく高まって、それから努めて小さく変わっていった。


「おっ、浜さん来たよ!!

さささっ、香ちゃん、もう席座ってた方が良いって!!

あと正木も」


「え、う、うん・・・・もぅっ」


「俺はついでかっ」


「まぁまぁ」



機を逃さず、光弥は早口で香達を追い立てる。


大変に不服そうな香ではあったものの、とりあえずは自分の席へ向かっていく。


そして正木も、光弥の真ん前にある自分の席にドカッと座って、嘆息した。


「良い時にチャイムが鳴って助かったな」


「いやはや、まったく・・・・」


悪友2人は、そうして互いにほっと胸を撫で下ろたのであった。




・・・・

・・・

・・




「出欠を取る。

静かにするように」


手短にそう言い、この2-B担任・浜松 充郎はままつ じゅうろうは出席簿を広げた。


「阿部――――、伊坂――――」


普段はお世辞にも静かで、行儀の良いとは言えないクラスなのだが、しかしこの男が来てしまった今や、これに逆らおうとする命知らずはいなかった。


それは、浜松のかなりコワモテな外見もさることながら、彼の所作や発声がいちいち押し潰さんばかりの迫力を放っていることが、一番の要因だろう。


柔道部の顧問なだけあって、大柄でジャージを身に付け直立不動。


おまけに荒くれ熊のような野性味溢れる厳しい顔付き、とくれば、もう鬼軍曹という呼ぶ方がしっくり来る感じ。


最も、光弥と正木については、浜松をまた別の呼び名で呼んでいた。


「――――金丸」


「 ハイッスッ !!」


名前を呼ばれ、敬礼まで一緒にしかねない勢いで返事をする正木。


教室のそこかしこからくっくっくっ、と忍び笑いが聞こえた。


「くっ、ついでやっちまった・・・・。

お前らはあの"閻魔大王"の恐ろしさを知らんから、そんな笑ってられんだ・・・・。

ぬぁっ、田所の野郎、思い切り笑いやがって・・・・!!

後で覚えてろよっ・・・・!!」


「まぁまぁ・・・・そう怒りなさんなって。

一回でも"閻魔のお裁き”を受けてみれば、そういうトラウマ植え付けられんのも無理無いって」


と、光弥は我知らずにいやに達観した表情で、正木を諌めていた。


「分かるさ・・・・さっき僕も香ちゃんに尋問されて、久々に思い出したからさぁ・・・・」


「トラウマ、だぁ?

おい光弥・・・・そいつはでっけぇ間違いってなもんだ。

俺は、別に、あんなヤツなんか、ちっとも、怖か、ねぇ!!」


いちいち言葉を区切って、分かり易くムキになる男である。


(それって逆に「気にしてます」って明言してるようなもんだぜ、正木・・・・)


「な、なんだよ・・・・そ、そんな目で俺を見んなよ・・・・」


「――――日神」


「 ハイッスッ !!」


と、なんだかんだと言ったのは口から出任せではなく、光弥もまた名前を呼ばれた途端、活きの良い条件反射で返すのだった。


「何だよ~、お前もビビッてんじゃねぇかよ~・・・・」


「も、って事は認めたな、正木」


「んなっ・・・・!?」


そんなひそひそ話をしていると、それまでスムーズに名前を読み上げていた浜松が、不意に流れを止める。


ジロリと、本人はそんな気は無いのかもしれないが、物凄く険しい目つきを光弥達に注ぐ。


2人の背筋がビシッと伸びた。


「――――今日も、ちゃんと両方揃っているようだな。

結構」


「や、やだなぁ・・・・そんな毎日遅刻したりはしませんて」


「ならばいい、が・・・・まぁ気を付けろよ。

正直、俺もお前たちの顔は見飽きてる」


「「う゛」」


言うだけ言うと、浜松は再び出席取りに戻った。


光弥も正木も、揃って横風に引っ叩かれた気分だった。


そら見たことか、と教室の真ん中辺りから、眼鏡の少女のため息も聞こえた気がした。




――――さて、何を隠そうこの鬼軍曹こと浜松は、風紀委員の元締め・・・・もとい、顧問であった。


何者も見逃さない厳しいチェックは、その筋の生徒達から学園の"閻魔大王"と畏れられ、その手の閻魔帳にはこの海晶学園の全ての無法者が記してあるのだとか、ないのだとか。


そして、光弥と正木もこの男とは知らない仲ではなかった。


もちろん、悪い意味で。


正木のトラウマもその時に生産されたものと思われる。


「だから、別にトラウマじゃねぇっ」


「いきなり誰に向かって言ってんのさ、正木?」




こうして、光弥達の愉快な無様さが少し場を賑わせた以外、特に問題なく朝の点呼は終えられた。


「今日は二三の連絡事項がある」


そして、いつもならすぐに授業と相成るところを、今日の浜松はなにやら億劫そうに、資料の間から一枚のプリントを引っ張り出した。


「――――まず、皆知っての通り、今この街で横行している"猟奇事件"についてだ。

この事件が昨夜、赤津場自然公園の近くで発生したそうだ」


教室が一気にざわついた。


そして、言うまでもなく”当事者”である光弥も、思わず眉を顰めていた。


(・・・・あの怪物は、"彼女"の前にも誰かを襲ったんだろうか)


と、思うところは、”昨夜の闘い”は公園の中で人知れずケリをつけたはずが、こうして情報が出回っている。


ならば、あの赤黒い体躯の怪物は、もしかすれば光弥の知らない被害を出していたのかもしれない。


その可能性を考えるだけで、自然と暗澹たる気持ちになっていた。


一方、周りの生徒達も、自分達の生活圏内で事件が起きたと知って、動揺もひとしおの様だった。


隣近所と顔を付き合わせ、それぞれ意見交換をしている模様に、光弥も少し耳を傾けてみる。




――――凄い近い場所じゃん


朝のパトカーってこれだったんだ


それ、俺んちの周り、警官がすごいうろついてたぜ


こわいね~・・・・


あたしんチ、めっちゃ近いんだけど平気かな・・・・


大丈夫だよ、ケーサツが何とかしてくれるだろうし・・・・――――




「――――その為、犯人がこの近くに潜んでいる可能性が高い。

それを受けて今朝、改めて特別日課が組まれた。

完全下校は16時。

部活動は取り止めとする」




――――ええっ、マジでっ・・・・!?


この前も短くされたのに!?


でも早く帰んならいーや、遊べるし


笑ってんなよ帰宅部・・・・!!


早過ぎだって、部活できないじゃん・・・・!!――――




若干の好奇心はあれど、それ以上に普段の日常が大きく侵食されている事態に、生徒達は不安を顕なようだった。


特に、部活動関連の話題が揉めているらしい。


帰宅部の光弥にはやや縁遠い話題だったが、前の席の正木(サッカー部のポイントゲッターだが、遅刻常習犯)も、少し離れた所の香(弓道部・副主将である)も、共に眉間に渋面を浮かべている。


しかし、やはりいくらも経たないうちにそれらの声が次第に小さくなっていくのは、これも浜松の影響力の賜物といったところか。


「――――これを補うため、夏期休暇がやや短くなり、授業日数が増えることになっている。

部活動の予備日も、その期間に提供される。

要するに、遅くなって暗い時間に外出させるのを控えさせよう、と言う判断というわけだ。

もちろん事件が解決すれば、すぐにこの体制は解除される予定である」


一応の救済措置を伝える浜松だったが、尚もクラス中で不満が燻っている気配は絶えなかった。


元々運動部に所属してる者が多く、さらには夏に催される幾多の大会も間近なこの時期は彼らにとって最後の追い込み時だ。


そんな目標に、水を差される・・・・と、安易に言い表せるような気持ちではないとは、想像に難くない。


「――――また、日が落ちてからの外出は改めて原則禁止である旨を、改めて通達しておくぞ。

特に、アルバイトをしている者・・・・校則上は禁止だが、やってるやつも少なからずいるだろう。

するな、とは言わんが、絶対に遅くまで出歩かないように。

我々教師も、夜の警邏に出るので、要らない"指導"を受けたくなければ、素直に大人しくしているのをお勧めしておこう」


「・・・・わりと、本格的だな」


何気ない調子で言う正木だったが、言葉の裏にある苦々しい気持ちが容易に察せた。


その気持ちは、光弥にも分からないでもなかったが、しかし今回の件ばかりは、学校側の判断が正しいと言う他無いだろう。


「それでも、これだけの用心をして損は無いさ。

この事件は、それだけ物騒なもんだしさ」


「確かにそうだがよ。

にしたって、ただでさえみんな短い時間でどうにか練習をやりくりして来たんだぜ。

この上、更にこの時期に部活動をやるなってのは、いくらなんでもよぉ・・・・」


「心配無いって。

・・・・たぶん、この事態はすぐ落ち着くだろうから」


「なんだよ、それ。

まるで事件がもう解決してるみたいな言い草だな」


「あ、うぅん、まぁ・・・・」




妙にはっきりと断言する光弥に、正木は訝しげな表情を見せた。


事実、そうであるのだ。


件の事件を起こした怪物は光弥が倒しているし、少なくとも赤津場公園の件に関しては、実質解決していると言って差し支えは無いはずだ。


「今日の昼休み、臨時集会が開かれる。

そこで、校長先生の方からまた、お話があるだろう。

ひとまず、これはもう決定事項だ。

留意するように」


最後に、浜松はこの衝撃的な報告を、そんな軽い調子で締め括った。


そして、未だクラスから動揺が抜け切らぬ中、平然と取り出したるは記号と数字がたくさん描かれた、シンプルなデザインの教科書。


その暖色系を多く使ったカラーリングは、見るものの心を和ますようである。


しかし、それを見て本当に和む者がいるかどうかはまた別の話であり、そして少なくともこの教室に該当する者はいないようだった。


「さて、連絡事項はここまでとして、授業に入るぞ。

教科書・48P――――」


浜松の担当教科は数学・・・・光弥の一番苦手な科目である。


だがしかし、今日の光弥は闘志に燃えている。


よく分かんなくて、ついちょっと早いお昼寝に走りがちなとは、一味もふた味も違うのだ。


(来たな、テスト対策!!

浜さん、いつもちゃんとやってくれるからな。

その分いつも難しいけど・・・・)


言わずもがな、来る期末テストとの闘いを見据え、奮起して止まない光弥。


なればこそ、今日だっていつも以上の気合を胸に登校したのだ。




――――あるいは、強く「日常」を感じさせる要素を、無意識に渇望していたのかもしれない。

この2日間、あまりにも「非日常」に触れすぎて、そういうものがひどく遠く思えたからだ。――――




ともかく・・・・光弥はいざやと、勉強をしに此処まで来たのである。


その本懐を前に、居眠りなんかするものか。


「・・・・よっし、やるぞ・・・・っ」


独り言ちて、気合を入れる光弥。


教科書・ノートを開き、右手にペンを、左手に消しゴムを。


「ふあ~ぁ」


その決意の構えで、しかし欠伸を一発。


とてつもなく眠かった。


(・・・・考えてみれば、昨日はろくに寝ていないし、朝からめっちゃ走ったしで、すんごい疲れてるんだよな・・・・)


と、一度そう自覚してしまったが、最期である。


座って少しのんびりしたらば、その収まりのいい感じとか、カーテン越しの柔らかい日差しとかが相俟って、ダメ押しとばかりに眠気が催されたのだった。




(ぐ・・・・く・・・・し、しんどくなってきた・・・・)




「・・・・この公式を応用してこの式を解くことにより、定数が・・・・」




ふと気がつけば、いつの間にか進んでいる授業。


もはや浜松の講義の声は、遙か遠い。


ほっぺを抓って耐えようとする光弥だったが、しかし襲いかかる睡魔は強烈だった。


「・・・・あ、あかんて・・・・。

せめて、一時限目終了までは起きていたい・・・・」


そう思いつつも、もはや早々に集中力は限界に達してしまっていた。


目を開いているのすらやっとの思いだわ、目的と手段がすり替わっている始末。


ちなみに前の席の正木は、既に夢の中へ旅立って久しい。


「ZZZZzzzz・・・・」


「くっそ・・・・気持ちよさそうに安眠しやがって・・・・っ」


金髪のあんちくしょうへ、思わず悪態をつく。


漫画だったら鼻提灯をプカプカ浮かべていそうな能天気な寝顔に、手が届いていたら確実にパンチしていた。




(・・・・だ、ダメかもしれん・・・・。

・・・・い、いやっ、退くなっ。

落ちるなっ!!

あんだけ苦労してここまで来て、10分経たずにこれは・・・・情けないだろ、いくらなんでもっ。

耐えろ、耐えろ、己の意地に向き合い、退くなかれ!!

意地を見せろ、日神 光弥・・・・っ!!――――)




――――笑止、眠気と食い気には逆らわんのが、生きるを楽しむコツじゃてな。

然り、ワシはやらんぞ、はっはっはっ――――




「 じじいっ・・・・ !!!!」




こんな時に限って、余計な事を思い出す。


あっという間にやる気とかそういうのが根こそぎ吹っ飛んで、へなへなと机に突っ伏す。




――――爺様はとてつもなく厳しかった、という光弥の回想であるが、実はそれには続きがある。


確かに爺様は、一大事にあたっては妥協や手抜きを許さない人だったが、あくまでそれはと言う時の話。


普段は、酒好きの遊び好き。


何かと言うとごろごろしたがって、子供みたいに物臭なぐうたら屋であった。


それを思い出してしまうと、なんだかもう、底が抜けたように果てしなく脱力する。


そして、静かな教室と、浜松の声が程よい喧騒となって更に眠気を誘っていく。


やっぱり、もうダメかもしれなかった。




(・・・・あぁ・・・・あ~・・・・しかし・・・・ぼ、僕は・・・・ぼ・・・・くは・・・・)




「ZZZZzzzz・・・・」




数秒後。


そこには、あえなく撃沈する光弥の姿があるのだった。




――――To be Continued.――――



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