5章 「幾会」
#1 Relation -繋続-
ゆらゆら、ゆらゆら。
微睡みの淵で、私は揺られていた。
海の上で、波に揺蕩っているようで、けど水の冷たさはそこにはない。
代わりに、なんだか懐かしい、安心してしまう温もりが傍にあった。
私はそれに優しく揺られて、その懐かしさはまた、ずっと昔の頃の記憶と繋がった。
その中の私はまだ幼い。
無垢に笑う私、そしてその周りにいる人達の姿は鮮明で、周りの景色と違ってぼやけてなんていない。
・・・・こんなに時間がたっても、大切に想うものは決して消えることはない。
むしろ時間が経てば経つほどに、思い出は優しさを増して蘇るようになる。
少し、残酷なくらいに。
”この光景は、夢なんだ”。
不意にそう、はっきりと自覚することができた。
なぜなら、何度となく私はこの光景を見たから。
強く焦がれているから。
それは私の"幸せ"がまだあった頃。
お父さん、お母さんと一緒にいた子供の頃。
そして傍に、"あの子"がいた頃の事。
・・・・まだ、”絶望”なんて知らない頃の事。
まだ幼稚な言葉を言う私。
お父さんが微笑む。
お母さんが手を振っている。
傍らの"あの子"が、振り向く。
―――― ・・・・ああああアアアア・・・・ !!!!――――
叫び声。
そして、真っ青な光が目の前に広がっていく。
海の底から太陽を見上げた時のように。
そして、その強い光に押し潰されて行く最中のように、眩さは急速に広がっていく。
私は、為すすべもなくその眩しさに押し流されて・・・・夢は、潰えた。
・・・・
・・・
・・
・
「ん・・・・」
呻く声と同時に、徐ろにその瞼が開かれ、黒曜に輝く瞳が露になる。
眠りから覚めた梓は、しかし続けざまに眼に飛び込む昼日中の明るさに、すぐにまた眇めさす。
遅れて、変な匂いがすることにも気付く。
しかし、寝起きでぼやけたままの思考では、それの正体がすぐに思いつかなかった。
「・・・・んぅ」
二度寝をするには気怠さが勝っていたので、とにかく起床を試みる梓。
「――――痛っ・・・・!!」
だがその途端、骨の髄から締め付けられているような強い痛みが走って、大きめに呻く。
それによって、寝ぼけていた頭もようやく弾みがついて回り始めていた。
(・・・・そう、だ。
私は、昨日っ・・・・)
「おや、目が覚めたようですね」
予期しないタイミングで声をかけられたのと、思い出していた剣呑な記憶のせいで、梓は思わず大袈裟に身を引いた。
その所為で、特に胸のあたりがまた強く痛んでしまう。
「大丈夫ですか!?
あまり無理に動かないでください」
そんな様子に慌てて駆け寄ってきたのは、男性の医師、のようだった。
白衣と、名札と、眼鏡に聴診器だし、恐らく間違いない。
「大、丈夫・・・・です。
なんとも・・・・」
ともかく、人に・・・・というより、男性に詰め寄られるのは、あまり好きじゃない。
梓はやんわりと、それでいて頑なに白衣の男性を押し退ける。
そんな勢いにやや面食らった風な男性だったが、それでも嫌な顔ひとつもせず、柔和な笑みを浮かべた。
「・・・・ですが、何かあれば遠慮なく仰ってください。
何せここは病院で、私は医師ですので」
その瞬間、引っ掛かっていた疑問が唐突に解れていた。
(そう、これ・・・・病院の匂いだったのね。
・・・・それとも、薬の臭いなの?
これも、あまり嗅いでいたくない、かな・・・・)
ずいぶん遅れて思い当たった事実に、梓は微かに眉を顰めた。
先述の鼻につく不快感と、それから何故自分がこんな場所で目覚めたかという疑問によって、だった。
「私、どうして・・・・?」
思わずそう問い返し、同時に辺りを見回す。
天井からベッドを囲うように吊り下げられた清潔感のあるカーテンと、光沢あるベージュ色の床面が目に入る。
やはりこの男性医師の言うとおり、見るからに此処は医療施設のようだった。
「はい、此方は"二間総合病院"です。
・・・・ええと、眞澄 梓さん、でしたね。
昨夜遅くに気を失った状態で、搬送されて来られたんですよ。
お気に障られましたら申し訳ありませんが・・・・その"前"のことは、覚えていらっしゃいますか?」
「・・・・・・・・・」
思わず身体が震えていた。
昨夜、梓は降りしきる雨の中、あの"異形の怪物"に為す術無く追い詰められた。
物凄い力と獰猛さに、散々に痛めつけられた恐怖と焦燥感は、当面は忘れたくても忘れられそうにない。
(・・・・ううんっ。
今はそれよりも――――)
だがしかし、今の梓はそんな事には構っていられなくて、忙しなく部屋中に目を配っていた。
ここは個室のようで、ベッドは梓の寝ている一つきり。
また、右手側のカーテンの向こうにおそらくは、朝日の差し込んでいる窓。
左手側には花瓶の乗った、いかにも簡素な白いサイドラック。
その上には、梓が昨夜持っていた手荷物と衣類、そしてあの形見のチョーカーが置かれていた。
「ああ、申し訳無いのですが、身元をお調べする為、お荷物を勝手に開けさせていただきました。
それから首飾りの方も、外させて貰いました。
あ、もちろん、大変高価な物のようでしたので、扱いには細心の注意を―――-」
にこやかに、聞いてもいないことまで律儀に教えてくる医師。
しかし、梓はそんな呑気な言い草も・・・・それどころか、昨夜を思い出した動揺すらも放り出してまで、別の心配事に集中していたのだ。
(・・・・”あの子”がいない!?
絶対に手放したりなんてしてないっ。
確かに一緒にいたはずなのにっ。
・・・・ただでさえ衰弱してて、しかも後にはあんな事に、巻き込まれて・・・・まさか――――)
梓は、止め処なく募る不吉な予想を振り払い、窄まった喉を無理矢理にこじ開け、声を張り上げていた。
「あの、"子猫"を知りませんか!?
私と一緒にいて、私がここに運ばれたのなら、あの子もきっと一緒に・・・・」
「子猫――――」
怪訝な顔で言葉を詰まらせる男性医師。
そのほんの一瞬の間にも、梓の胸は締め付けられるようだった。
「失礼しまーす」
不安に焦がされ、今一度詰め寄ろうとした、まさにその時だった。
まるでそれを制するようにノックの音がして、次いで1人の女性が部屋に入ってきた。
此方は見るからに看護師と分かる白衣姿で、妙に間延びした口調の彼女は、小さなダンボール箱を抱えていた。
その蓋は開いていて、またそこからは何か・・・・見覚えある”黒いもこもこ”が、中でもぞもぞと動く姿が覗けていて。
「あぁ、それなら彼女が――――」
「 あぁーっ !!!!」
中身が判別した梓は途端、横の医師が思わず仰け反る様な、調子っぱずれの大声を出していた。
矢も盾もたまらず、とばかりに駆け寄ろうとするが、身体は痛み、喉も痛み、おまけに興奮した拍子に目頭まで熱くなって、色々と整わない。
「わ、お、落ち着いて!!
み、翠くん、早くその子を!!」
「は、はぁい!!」
看護師があくせくと差し出したダンボール箱を、半ばもぎ取るように受け取る。
そうして、梓はようやく、探し求めていた小さな家族と目を合わせることができた。
<ミーッ>
「・・・・良かったぁ・・・・っ。
元気に、なったのね・・・・」
箱の中で転げる、ふわふわで真っ黒い毛玉。
濡れそぼっていたあの時とは違い、体毛の感触は綿の塊のようだった。
忙しなく体と耳とを動かし、クリクリとして大きな金色の瞳で、子猫は梓を見上げる。
ぐったりとしていた昨日とはまるで違う、幼気で無垢な活発さが感じられた。
「ずいぶんお腹が空いていたみたいでしたよー。
ご飯を三回もお代わりしちゃって。
そうしたらもう、こんな風にすっかり元気になりました♪」
<ミー>
「・・・・ありがとう、ございます・・・・っ」
思っていたのと違う掠れ声で、梓は礼を述べた。
目許の潤みは、正直もう止めようが無さそうだった。
たった今、会ったばかりの人の前で泣き顔になるのは気恥ずかしかったけれど、それ以上に込み上げてくる想いは、抑えられそうになかった。
(・・・・良かった・・・・)
あんな死んでもおかしくなかった状況で、"2人"とも生きられた。
そして、見るに堪えない程に弱りきっていた小さな”家族”は、すっかり元気を取り戻して、ここに生きている。
「良かったぁ・・・・」
抱き上げた手から伝わる、幼子らしい熱いくらいの体温が嬉しくて、尊くて堪らない。
梓は溢れてくる感情のまま、その小さな命の温もりを、胸にそっと重ね合わせていた。
・・・・
・・・
・・
・
6月8日 14時26分
二間市 上赤津場
二間総合病院
梓は、実は病院という場所が苦手だった。
小さな家族の無事に震えた心も落ち着いて、改めて辺りを見回した時、思わず憂鬱そうに息を吐いたのはそういう事だ。
別に、今更のように目の前の人達やこの状況を訝しんだり、あるいは節々に残る痛みが耐えがたかったわけではない。
ただ目の前の男性医師――――
「早速ですが、傷の診察をさせて頂きます。
昨日施した処置の具合を確認したいので。
まぁ、おそらく眞澄さんはお若いので、もう大丈夫とは思いますが」
「・・・・あなただって、随分お若いんじゃないですか?」
・・・・と、勢いでそう口を滑らせかけたのを押し止める梓。
というのも、冗談めかして笑みを浮かべる薬師寺だが、彼とて相当に若く見えた。
――――陽気な雰囲気と、鷹揚とした余裕とを併せ持ちながらも、年齢は二十歳そこそこくらいだろうか。
鼻筋の通った細面は、一見精悍で厳めしげ。
しかし、鼻に引っ掛けた角ぶち眼鏡と口元に浮かべた爽やかな笑みが、その印象をだいぶ柔和に、親しみやすく見せていた。
着ている白衣やズボンはシワ一つ無く、几帳面な性格を伺わせるようだ。
しかし大柄な体躯や、短めに切り揃えた髪という様相は、むしろ体育会系の印象を受ける。
加えて、ベッドの傍の丸椅子に腰かける彼の足の長さ、上背の高さは、はっとさせられるほどスマートだった。
医師というインテリな職業よりも、ファッション雑誌のモデルとでも言われた方がしっくりと来る気がした。――――
(なんとなく違和感、というか・・・・白衣の格好が不自然って訳じゃない、けど・・・・)
かように"しっくりこない"医師・薬師寺は、しかし依然としてにこやかな表情を保ったまま。
横にいる女性看護師と一緒に、完全無欠の笑顔で梓と向き合っている。
確かに、愛想というのは上手く使えば人に安心感を与えるものだ。
医者という、時に命に関わる事実をも包み隠さず話さねばならない職業にとって、重要なスキルの一つなのかもしれない。
「では、始めましょうか。
卯津起くん」
「はぁい。
じゃあ触診と問診をしますので、服を脱いでくださーい」
薄緑の制服に、
――――垂れ目で細目、黒々としたショートカットの髪を、更に後ろで尻尾のように結っている女の子・・・・もとい、女性だった。
ぱぁ、という擬音が聞こえてきそうなくらい、人よりワンランク上の笑顔がとても似合っていると思う。
そのお陰で、梓よりも年上であろうに、なんだか凄く可愛らしく、そして幼気に見えてしまう。
背が低くて童顔、そして動くたびに小さく跳ねる後ろの結髪も、この印象に拍車をかけていた。
実はきっちりメリハリのある体つきではあるのだが、しかし先述のミニマム感のせいで、どうにもデフォルメが効いて見えてしまうというか。
言ってはなんだが、格好によっては中学生にも見えそうくらいに、年齢不詳で掴みどころ無い雰囲気を醸し出していたのだった。――――
果たして、そんな卯津起の不思議さに惑わされた梓は、うっかり重大な発言を聞き流してしまいそうになっていた。
「あ・・・・えっ、ま、待ってくださいっ!?
ふ、服に手をかけないで・・・・!!」
然り、冷静に観察している場合ではない。
目的はともかく、脱げと言われているのだ。
医者とはいえ、年若い男性の前で。
いくら医療行為とはいえ、抵抗を覚えてしまうのも致し方ないだあろう。
しかしながら、そんな言い分はどこ吹く風と、卯津起は構わず梓の服を剥ぎ取らんとしている。
「ちょっ・・・・っどんどん進めないでくださいっ!!」
「でも、脱がないと診察できませんよ?
・・・・あ!!
じゃあこのままやりましょーか!!
服に手、入れて」
「 絶対やらないですっ !!!!」
挙句の果てに、とんでもなく危うい絵面になる提案をのうのうと言ってのける始末。
思わず本気で身を引く梓。
「・・・・う、卯津起くん、ちょっと下がっていてくれるかな?
大丈夫ですよ、眞澄さん。
下着は着けたままで構いませんし、触診の方は女性の卯津起が行いますから」
いそいそと執り成しに加わる薬師寺。
彼もきっと、日々苦労しているに違いなかった。
さておき・・・・もちろん梓とて、本気で我儘を言っている訳ではない。
ただ、うら若い乙女としては心の準備というか、覚悟を固める時間が欲しかったと言うだけで。
むしろ、こうした譲歩案を提示される事は、嬉しい誤算とも言えた。
(それならそれで、もっと早く言ってくれればいいのに・・・・)
「はーい、それじゃあ脱がす・・・・じゃなくって、捲りますよー」
うらぶれた顔でそんなことを考えていると、いつの間にかまた卯津起は、梓の衣服に指を掛けようとしていた。
やはり待った無しの手の速さに、梓は慌てて思考を現実に引き戻す。
「じ、自分でやれますから・・・・」
言うが早いか、これ以上余計な介入をされないように、率先して簡素な入院着の紐を解いていく。
<ミー>
しかし、脱ぎかけた辺りでそう言えば、と思うところがあり、傍らで暇そうに転げている子猫を持ち上げていた。
「・・・・あ・・・・――――」
そのお腹側も、やはり真っ黒である。
そして・・・・そのお尻の下と言うか、後足の間と言うか。
ちんまりと、しかし確かにぷらぷらとしているそれを見つける。
・・・・オス、か。
「――――貴方も、しばらく見ないでね?」
<ミー>
ちょっと頬を赤らめながらそう呟いた梓は、"彼"の収まったダンボールの蓋をそっと閉じるのであった。
「どうかしましたかー?」
「いえ、ちょっと・・・・」
自意識過剰。
しかも、子猫を相手に・・・・そう思いつつも、気になるものは気になってしまう。
なにせ梓は、自分の身体にコンプレックスがあった。
特に――――
「 ふぁー、やっぱり胸大きいですねーっ !!!!」
「なっ!!??」
患部が鳩尾の辺りなので当然、前をはだけさせる訳だが、その瞬間に卯津起は心底驚いた風に声を張り上げた。
「そ、そんな大声で言わないでも!!」
「あぁ、ごめんなさーい!!
でも昨日見た時からもう、私より全然大っきくて、びっくりしちゃって。
すっごいですよねー!!
大きくって、合う下着探すの、大変だったんですよー!!」
梓は、自分の顔がかーっと熱くなるのが分かった。
なにが「でも」なのか。
大きい大きいと連呼するな。
謝ってるのかあてこすってるのかどっちなんだ。
同性だからってそれはセクハラじゃないか。
言いたいことは色々あったが、羞恥心でうまく口が回らず、あーだのうーだの変な声しか喉から出てこない。
「う、卯津起くん?
そういう事は、少なくとも友だちになってから言わないと、怒らせ・・・・」
「 変なこと言ってないで、早くしてくださいっ !!!!」
薬師寺の咄嗟の気遣いも、なんとも微妙でむなしいものと終わる。
一方で、我慢の限界を超えた梓の、普段の倍はあろうという怒声は、建物中に響かんばかりに発せられたのだった。
「――――はい、結構ですー。
もう服を着ていただいていいですよー」
(・・・・もう、いっそ寝てる間にやってくれればよかったのに・・・・)
思わずという風に、梓の口からは深いため息が漏れ出る。
まずは、胴体に巻かれていた包帯を外しての触診。
それから、痛みの度合いや、どうしてこんな事になったのかの経緯を確認したりといった問診。
その間、梓は延々と晒し者にされているかのような心地であった。
薬師寺からの指示に応じて診察する卯津起なのだが、暇さえあれば胸元に目をやって「感心しきり」といった風に嘆息するのは、本当にやめて欲しい。
(これ、セクハラで訴えたら多分勝てるんじゃないかしら・・・・)
今すぐ身体を隠してうずくまりたい気恥ずかしさなのに、背筋を伸ばして不動に耐えねばならない、二律背反。
そんな矛盾を必死で堪え続けていた梓は、起き抜けだと言うのにすっかりその精神をすり減らされていたのだった。
「・・・・大きい、大きいって・・・・好きで大きいんじゃないのに・・・・。
・・・・わざわざ言わないでも・・・・気になる人は気になるの・・・・」
色々と限界の差し迫っているゆえ、ブツブツと文句を漏らして憚らない。
最後の意地で、背を丸めたりしないよう気をつけたまま、少し乱暴に入院着を羽織った。
こういうゆったりした服は、少しでも気を抜くと、体型が変に見えてしまうのである。
それもまた、梓の抱えるコンプレックスの1つであり、またどんな疲労感に襲われようとも決して気の抜けない、終わりなき戦いの一端でもあるのだった。
「・・・・えぇー・・・・やはり、特に問題はなさそうですね。
もう帰っていただいていいと思います。
今貼っている湿布薬が効いて、夜までに痛みが引かなければ明日、もう一度いらしてください。
恐らくは大丈夫と思いますが」
ともかく、そのような苦労と葛藤など知る由もないだろう薬師寺は、ひどくバツの悪そうに説明を始める。
「そうですか」
対して、すっかりやさぐれた気分な梓の返事は、もはや絶対零度の冷ややかさで発せられる。
そんな状況を引き起こした卯津起へ、恨めしげに目配せする薬師寺。
しかし、横に控える彼女はと言えば、これまたどこ吹く風とおっとり微笑んでいた。
見た目に反して、大物かもしれない。
もしかしたら良く分かってないだけかもしれないが。
「・・・・・・・・・・」
さて一方、梓の意識は既に、目の前のやりとりへは向かってはいなかった。
そっと鳩尾の辺りを撫でてみる。
次いで軽く押すと、鈍く痛んだ。
だが、少なくとも病院で手当を受ける必要は感じられない程度の、穏やかな痛みだった。
もしくは麻酔か何かが効いているという線もあったが、触覚はある。
軽くなにかにぶつけた後のような、痛みそのものが弱い感じだった。
(なら・・・・本当に、大した怪我じゃなかったのかもしれない・・・・?)
とてもそうは思えないような状況だったが、しかし否定し切ることもできない。
事実として、梓の打ち身は軽傷らしく、また仔猫も傍でピンピンしているのだから。
「一つ、聞いてもいいですか」
相変わらず助手への無言の抗議を投げかけていた薬師寺へ、出し抜けに梓は問いかけていた。
「さっきの・・・・私をここに運んできた人の事、聞けないですか?
私、全然覚えてないけれど、やっぱりお礼はきちんとしたいので」
と言うのも、梓の記憶は、いよいよ止めを刺されようとした、あの瞬間で途切れている。
物凄い圧力と息苦しさのせいで、前後のことは全く判然としないくらいだった。
自分がどうやって助かったか、どうして梓と仔猫が今こうしていられるのか。
その秘密は、あの時から此処で目覚めるまでの出来事が、鍵を握っているのだろうと思う。
「・・・・それでしたら、私よりも年齢の上くらいの男性だったと聞いています。
生憎とそのまま直ぐに立ち去られてしまって、身元や名前も分からないままでした。
通りがかりに騒動を見た、とも仰ってたようですよ」
少し考えるような素振りの薬師寺だったが、しかし彼の語った情報は正直、なんとも頼りないものだった。
いくら何でも、怪我をして気絶した少女を抱えた男性が現れたのなら、もう少し詳しく事情を確認しそうなものだが。
(・・・・それなりの年配。
"同い年くらい"、じゃない・・・・)
そして、この時。
梓は、その断片的な情報から予想した救い主の姿に――――正直、不思議なくらいに落胆のような気持ちを覚えていた。
単に、正体が分からないという失望だけから来ている訳もない。
自分の心の、少し場違いな部分が、何故か大きく落ち込んだような感触だった。
「なんでも、眞澄さんは"野熊"に襲われたそうですよ。
災難でしたね。
山林が近いとは言え、こんな街中にまで降りてくるとは・・・・。
ああ、しかし件のヤツは既に警察等の組織が、昨夜の内に捕獲したようですよ。
今朝のニュースも、その件で持ちきりです」
「・・・・熊・・・・」
「ええ。
・・・・ああ、そう言えば、あの辺りにはおいしいハニートーストを売ってるベーカリーがあるんですよ。
もしかしたらそれが目当てだったのかもしれませんね・・・・なんて、はは」
(――――そんな訳、無い。
あんなの、熊なんかじゃない。
何か、もっと別の・・・・”悪魔”、みたいに言ったっておかしくない、はずなのに・・・・)
強い違和感が、
しかし、目の前の世間体の良い話に向かって、そうじゃないとごねる気にもなれなかった。
あの常軌を逸した姿と狂暴な力、そしてはっきりと感じられた殺意。
思い出すだに背筋が震えて、夢に見るのだって二度とごめんだった。
そして、それだけ拒絶している出来事故に、梓はあの体験をうまく他人に言い表せる自信が持てなかった。
ただでさえ非現実的で、自分でも半信半疑な瞬間を、その時の記憶と感情だけで説明しなくてはならない。
証拠のようなものもないし、更に肝心なその記憶も、途中からぷっつり途切れている。
言ったら言ったで、妄想事をのたまう狂人扱いされかねないのも嫌だった。
(運が良かったって・・・・そう思うしかない、のね・・・・。
・・・・気持ち悪いし、落ち着かない。
乱暴で、気休めの思い込みだって、分かってる。
でも、そう受け止めるしか、ない・・・・)
果たして、そんな結論に行き着いたところで、あまりにも楽観的で、気持ちはまるで追いついていかなかった。
その落差に
「もー、相変わらずジョークのセンス無いですね、センセったら。
ほら、眞澄さんたら溜息ついちゃってますよ」
「え、い、いやぁ、和むかなって・・・・」
「いいですか?
熊さんに襲われた人に熊ジョークを言ってウケると思うか、胸に手を当てて良ぉく考えてください。
はい、いーち、にーの、さん!!」
「・・・・うん、ダメそうだね」
「100%ダメです」
(変な人達・・・・)
ひっそりと毒を吐く梓。
しかし一方で、如何にも呑気な掛け合いに気分が和み、口元も緩まっているのも確かだった。
(――――それでも、私とあの子と・・・・二人で一緒に助かって、此処にいる。
名前も知らない誰かに、助けられて。
それだけでも御の字、よね)
そして、眼の前でやいのやいのしているこの2人だが、此処までに見てきた処置の動きや判断は的確だったし、きっと腕は確かなのだ。
そんな彼らが太鼓判を押すのなら、梓の身体ももう問題はないのだろう。
たぶん。
信頼はしていい、はずだ。
(・・・・やっぱり、少し不安かも)
ともかく、サイドラックのデジタル時計を見れば、時刻は既に昼下がり。
学校に向かうにはもう今更な時間だし、また休む他無いだろう。
そして梓自身としても、身体にまだつらい感じが残っているし、このままじっとしていたいというのが本音だった。
「・・・・退院させて、もらいます」
だが・・・・子猫の姿を見て思いついたことがあった。
一つ、どうしても今日中にやらねばならないことが出来ていた。
経験の無い事だし、正直いって、怖い。
けれど、それでも欠かす事のできない"通過儀礼"が。
それから1時間ほど後。
少ない荷物と新しい家族を抱え、梓は二間総合病院を後にしたのだった。
・・・・
・・・
・・
・
「・・・・ああ、翠くん。
眞澄さんは?」
「はい。
先程荷物を纏めて、退院していかれましたよー」
あてがわれた診察室の椅子に腰掛けた薬師寺は、傍の看護師の名前を、気安い調子で呼びかけた。
それに対し、彼女もまた特に動じる様子もなく、相変わらずにこやかに答えていた。
「なにか気になることでも、ハル先生?」
なんのことはない、ただ2人は普段からこうして呼び合っているというだけだった。
彼女とは、数々の"任務"でパートナーとして行動してきたし、それに"指導者"と"教え子"という立場でもある、長い付き合いだった。
「いえ・・・・それだけ元気なら、結構。
・・・・やれやれ、怒ると怖いのは"彼女"譲り、か・・・・」
軽口めいた呟きもそこそこに、薬師寺はふと真剣な面持ちに切り替え、2つのカルテを読みふけっていた。
「センセ?」
「・・・・すまない、翠くん。
また、しばらく部屋を出ていてくれないか?」
「はい」
「・・・・さて・・・・――――」
気の置けない仲の助手をわざわざ遠ざけてまで、薬師寺はこの眞澄 梓のカルテに、真剣に向き合う必要があった。
そして、そこに記述された"有り得ない事態"に、細く息を吐く。
これらを見返すのは、これで3度目ほどになるか。
そこに書かれた内容を疑い、昨夜から何度も確認してきた。
そして、今しがた意識を取り戻した眞澄 梓に改めて診察も行い・・・・それでも、この事実は揺るぎないものだった。
「・・・・右前腕部の亀裂骨折。
両第3から第9までの、肋骨骨折。
折れた肋骨による、右肺及び心臓の損傷、出血。
・・・・到底、手術無しに済む怪我ではないし、数時間で治るはずもない。
そして、一緒にいたあの子猫・・・・極度の栄養失調、発育不全。
だがそれ以上に、外部からの強い圧迫で、内臓破裂。
・・・・即死・・・・しているはず――――」
声に出して読み上げてみれば、その異常さに薬師寺は寒気すら覚えた。
眞澄 梓の怪我は、間違いなく重体に値するものだ。
緊急手術を行ったとしても、助かる確率は半分を切っている。
そして、もしも成功したところで、数日は目覚めないであろう。
あの子猫も似たようなものだ。
ここに専門の備えが無いことを差し引いても、もはや手の施しようのない状態だった。
本当ならば、食事など与える前にとっくに死んでいる。
「――――だが、しかし。
両者ともこれを"自然治癒による回復"で、1時間もしないうちに"痕跡"に変えてしまった、と。
・・・・全く、ナンセンスだ・・・・」
果たして、この事態をどう捉えるべきなのか?
昨夜、ここに運び込まれた直後の眞澄 梓は、間違いなく半死半生だった。
子猫に至ってはもはや死に体で、あのダンボールはそのまま棺桶になるはずだった。
だが現実として、彼女はたったの半日足らずで完全に快復してしまった。
そして同じく息を吹き返した子猫と共に、「用事があるから」と自分の足で帰宅していった。
「いや・・・・それどころか昨夜、私は見た。
眞澄 梓の傷は、私の目の前でたちどころに癒えていった。
まるで巻き戻しの映像でも見ているように、傷ついた身体に生命力が満ち溢れていったのだ。
これはそう・・・・"天"の現象によるものによく似ている。
・・・・ならば、やはり彼女もまた・・・・」
正直、実際にこの眼で見ても、未だに信じきれないでいる。
だが、件の現象は確かに現実のものとなり、薬師寺はこれを見届けたのだった。
そして、わざわざ客観視を意識して独り言つるのは、その重大さをしかと己に言い聞かせ、律する為であった。
薬師寺は、実は既にこの超常現象めいた"超快復"の正体について、確信を持っていた。
同じような、まるで奇跡の御業を、彼は何度なく目にしたことがあったからだ。
しかし・・・・だからこそ、そんな事態が梓と子猫を救った"理由"について、考えるだに頭痛を感じる気がして、薬師寺はこめかみを軽く押さえていた。
(・・・・今のこの街は、異常の群集地だ。
あってはならないはずの異常事態が次々と起きている・・・・)
目の前の問題の重さに引き摺り下ろされたように、薬師寺は机に両腕をついて、懊悩する。
自分が突如として、極めて重大な”分水嶺”に立たされてしまったことを、自覚するしかなかった。
「もしも、本当に彼女がそうであるなら、隠し立てするのは重罪。
・・・・"あの言葉"の意味を、こんな時に知るとは。
まったく・・・・8年越しにとんだ難題を投げかけてくれる・・・・」
脳裏に浮かぶのは、未だ色褪せない輝きを己に残す、憧れの女性の姿。
だが、それは所詮、薬師寺以外には何の意味も持たない、ただの感傷でしかなかった。
今、こんなにも切迫した状況で、個人の情が介在する余地などない。
それでも、煩悶する薬師寺は、これまでに見てきた、幾人もの”同じ運命を背負った者達”の姿を思い描かずにはいられない。
あの、あまりにも苛烈な生き様を、"彼女"もまた辿ってしまうというのか。
悩みを抱えたまま、しかし僅かな希望を探そうとするように薬師寺は顔を上げる。
視線の先に捉えるのは、梓のカルテ・・・・ではなく、もう1枚の方。
「――――可能性は3つ。
・・・・だが、彼女は恐らくはまだ、"第一の条件"を満たしていないはずだ。
そうでなければ、此処に彼女がいる筈がないのだから。
ならば、次点は彼女の"力"が、特殊な発露をしている。
あるいは、"報告"に無い間に"啓発者"共が介入した。
・・・・それとも、やはり・・・・また"君"の仕業なのだろうか?」
そのカルテは、眞澄 梓より数時間前ほど早く、同じように退院していった人物のものだった。
同じく大怪我を負い、されど、同じくものの数時間で回復しきってしまった、異様な患者。
明らかに人外の回復力であり、また一方で、"戦士"としてはこの上なく有利な能力を得たであろう、少年。
「日神 光弥、君」
果たして、その名を見つめる薬師寺の眼は、まるでそこに書かれたものを忌避するような、畏怖の光が灯っていた。
――――To be Continued.――――
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