#3 Downpour -襲雨-
6月7日 18時45分
上赤津馬 南部
赤津場自然公園
―――― ・・・・オオオオォォォォ・・・・ッ ――――
梓がその"声"を聞き取ったのは、新しい家族となった子猫を抱いて、改めて立ち上がろうとした、その時だった。
小雨と、身震いする寒さの中に高らかと響き渡るのは、テレビや映画の中でしか聞かないような"獣"の遠吠え。
「っ・・・・!?」
はっと身を震わせ、梓は振り返った。
遠吠えに驚いたというのもあるが、それ以上に心の方を酷くざわめかせた"感覚"に対し、身体が勝手に反応していた。
(なん、なの・・・・?
私のことを、誰かが・・・・いいえ、何かが見てる・・・・?)
そして、梓の感じた"意思"とは、感情と言えるほど上等なものでもなく、もっと単純で鋭いものだった。
例えるなら、汚泥のような黒に染まった刃物。
その切っ先を、少しのブレも無く突き付けられているような焦燥感。
少しでも身動ぎすれば、すぐにでも突き刺さってきそうな緊張感をも、同時に感じられていた。
「・・・・っ・・・・」
気が付けば、息が知らぬ間に荒らげられている。
逸る気持ちで辺りに目を凝らしても、当然のように闇の帳は分厚い。
この場に今、まともな光源などほとんど無い。
闇は、まるで梓を包み込み、押し潰そうとするようにどこまでも深かった。
そしてその中で、不快な意思は強まり続けている。
<ミー・・・・>
腕の中の子猫が苦しげに鳴くのを聞いて、今の切羽詰まった状況が思い出される。
のんびりしてなどいられないのだ。
こうして立ち止まっている今も、この子猫は寒さに震え、刻々と命の危機に晒され続けている。
(・・・・でも、本当にそうなの?
この子が震えているのは・・・・この感情が、気の所為なんかじゃない、から・・・・っ?)
ゾクリと、それまでとは明らかに質の違う悪寒を梓は感じた。
込み上げる、焦燥の入り交じった恐怖。
意思は、いよいよ強まりだしている。
不快感は刃物どころか、次第に槍の穂先のように冷たく、重くなっていく。
< ドクンッ !!!!>
「 ぁあぅっ !!??」
その刹那。
感じていた気配が、ついに突き刺さったかのような激痛が、遂に梓に襲いかかった。
「ぅぐっ、うっ!!??
っうぅ、ああっ、ぁ・・・・ぁっ!!!!」
痛い、いたい、イタイ。
泣き叫び、転げ回りたくなる様な激痛に、塗り潰されそうだった。
(――――でも、変に力を入れたら、この子が・・・・っ!!)
それでも、梓は紙一重で、腕に抱いた子猫の為に耐えていた。
衝撃に身を強張らせ、傘を軋むほど握り締め、唇を噛んで血が滲んででも、抱きとめた小さな命を潰してしまわぬよう、必死に己を律していたのだ。
やがて、そうして堪え忍ぶ内に、到来した衝撃の正体に気付く。
今までにない悶絶の苦しみの出処は、胸だった。
ついに本当に穴でも開いたのかと思うも、直ぐに間違いだと知る。
より正確には、”心臓”。
激しい動きをしたわけでもないのに狂ったように心臓が動悸し、そのせいで息までもが荒だてられていたのだ。
<カタカタ・・・・>
手に持った傘の金具が小刻みに音を起てる。
「・・・・やだ・・・・震え・・・・お、収まら、な・・・・っ」
やがて、胸の激痛はどうにか収まり出す。
しかし、それにつれて梓は、自身の身体が異様に震えていることに気付く。
季節外れの寒さによるものだけでは、無い。
"何か"が、梓を見ている。
この闇の向こうに、人間では有り得ない威圧感がいると、梓は確信めいた予感を抱いていた。
その”何か”の視線の先に立ち続ける恐怖と危機感こそが、このどうしようもない震えの正体だったのだ。
(どう、しよう)
ただならぬ気配の源は、未だ動きを見せてはいない。
だが、この後何も起きないという保証など、有り得ない。
(――――息、まだ苦しいけど、走れる・・・・!!
走らないと・・・・!!
・・・・逃げ、ないと・・・・っ!!)
咄嗟に、この公園の地理を思い描く梓。
そう複雑な地形でもないし、自分が今どこにいるかはだいたい分かる。
ここからなら、とにかく真っ直ぐに行けば、西側の出入り口へ・・・・人がいる場所へ、出て行けるはず。
公園の遊歩道を辿っていけば、迷いもしない。
梓は意を決し、不意を突くように急激に踵を返して駆け出した。
そうして逃げ出し始めた瞬間、梓の予感は確信に変わった。
「はぁ、はぁっ!!
い、嫌っ・・・・っ!!!!」
追いかけて来ている。
闇の中から”何か”が。
あるいは、闇そのものが。
さっきのような見間違いなどでなく、今度こそ本当の驚異に追いつかれようとしていた。
先刻、想像した事が現実味を帯びる。
否・・・・現実になるのだ。
後ろからくる"何か"から、逃げ延びられなければ。
< グ――――ゥッ >
時々、僅かに耳に入る、唸り声のようなもの。
断じて人のものではなく、獰猛な獣のそれだった。
その正体までは分からない。
だが、獣とは恐ろしく、無慈悲である。
人間など・・・・矮小な、梓のような少女など、敵うべくもないほどに。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!!!!」
走る。
傘までも投げ捨て、ひたすらに、闇雲に。
それでも、どんなに必死に走っても、この距離感を振り切れない。
すると、やがて前方に十字路が見えてくる。
(でも、どっちに行けば!?)
舗装された遊歩道は走りやすいが、蛇行するように曲がりくねっていた。
焦りも相まって、梓は咄嗟に方角を見失ってしまう。
(曲がったりはしたけど、そんなに大きく外れてないはず!!
まっすぐ、行けばっ・・・・!!)
そして、正面には煌々と光る街灯も見えた。
明るさに自然と惹かれたのか、梓はその道を突っ切ろうとする。
< バヂィッ !!!!>
だが、けたたましい破裂音がするや否や、突如目の前が真っ白になって、次の瞬間には真っ暗になる。
そして、内蔵を直接押し込まれるように低く、大きな金属音と振動とがやって来る。
街灯が、倒された。
「・・・・っ!!??」
梓はその倒壊に作為的なものを感じ、反射的に右側の道へと進んでいた。
――――その行動が、獣の仕掛けた恐るべき罠だとも気付かずに。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!!!!
やだっ・・・・やだっ!!!!
たす、けて・・・・っ!!!!」
もう、限界が近かった。
体力も、道順も、方向感覚までも何もかも失いつつあった。
もはや梓は、出口へ辿り着くのを祈り続けながら、必死で逃げ続けるしか無かった。
(お願い・・・・私は、まだ・・・・なにもっ・・・・!!!!)
――――もうすぐ、走れなくなる。
ただならぬ気配を感じ取っているのか、腕の中の子猫は怯えるように震え、静かになっていた。
この小さな家族を、絶対に見捨てない。
家族になると言ったこの仔を、また独りにはさせられない。
(・・・・日神・・・・くん・・・・っ)
――――まだ、終わってない。
まだ、なにも整理なんてついていない。
"彼"への想いはぐちゃぐちゃなままだった。
(終わりたくないの!!
終わらせたくないの!!!!
だから・・・・お願い・・・・っ!!!!)
――――だが、切望の逃避行の結末は、非情な現実にたどり着く。
真っ暗な方へと追い立てられ続けていた梓は、不意にだだっ広い空間に飛び出た。
「そん、な・・・・っ!!!!
行き止まり・・・・っ!!??」
無骨な鋼材で作られた、見上げるくらいに大きい骨組みにかかる、ブルーシート。
何らかの建造現場である周りをオレンジ色のガードフェンスが囲い、更に周辺は密集した木々で取り囲まれ、円形の広場のようになっていた。
遊歩道も途切れ、その先には続いて無い事を物語る。
その鬱蒼とした木立を、何の灯りも無く走り抜けることなど不可能だ。
「――――戻るしか、ない・・・・!!??
でも・・・・そんなのっ・・・・!!!!」
刹那。
< ズシンッッッッ >
"何か"が梓の背後に飛来した。
腹の底まで響くような音と震動に、思わず身を捩らせて振り向く。
その先の黒一色が、暗闇ではなく追跡者の大きすぎる”影”だと気付いたのは、一瞬遅れてからだった。
「ひっ―――― きゃああああぁぁぁぁっ !!??」
驚きに一瞬漏れ出た、押し殺した悲鳴。
しかしそれは次の瞬間、絶叫に取って変わる。
遂に目の前に現れ出たそれは、梓から一切の思考を吹き飛ばす程に禍々しく、そしておぞましい存在だった。
眼を血走らす狼のような顔。
見るだけで寒気を催す、鋭い牙。
見上げるような赤黒い巨体、それを覆う硬い岩盤のような黒色の甲殻。
鞭のように太く黒い、背筋に乱立する無数の鞭毛。
長い四肢、その先の凶悪な光を放つ大爪。
この世のものと思えぬ異形から放たれるは、突き刺さるように甲高く、醜悪な咆吼。
< ギェアアアアァァァァッッッッ!!!! >
狂気を孕んだ、赫い双眸が、真っ直ぐに梓を見据えていた。
その眼差しから逃げろ、と本能は全力で警鐘を鳴らしている。
だが、梓は言葉を失い、その場に立ち尽くすしかできなかった。
とうとう姿を現した"怪物"の、醜悪で、禍々しい姿。
そして、放たれる凄まじい殺意に、茫然自失となるほどのショックを受けていたのだ。
「ひっ・・・・っぃ・・・・や・・・・ぁっ!!??」
自分が今、2本の足で立てているかどうかすら分からない。
無意識に後退っていたのも気付かず、足がもつれ、遂にはへたり込むように尻餅を着いてしまう。
それと、怪物が動きを見せたのは同時だった。
<ギィェッ!!>
鉄材を
指と一体化した5本爪が、梓の目と鼻の先を薙ぐ。
全くの偶然だったが、結果的に梓はその攻撃を、倒れ込むようにして避けた形となったのだ。
さもなければ、この死の一撃に、梓の首は引き千切られていただろう。
梓は、もはや言葉もなく戦慄する。
半狂乱で、力が上手く入らない足を必死に動かし、少しでもその場から離れようと仰向けのまま後ろへ這いずった。
ガシャ、と、不意に背中に何かが当たる。
あのフェンスだと気付いた時には、梓はバランスを崩して横へ倒れ込んでいた。
< バキャアッ !!!!>
「ひっ!!??」
瞬間、耳を劈く金属音が、すぐ横で破裂した。
今し方ぶつかったフェンスが、怪物の恐ろしい力で跡形もなく破壊されていた。
グシャグシャに潰れ、引き裂かれたその有様は、たまたま倒れ込まなかった梓の末路、そのものだ。
思わず想像してしまう。
胴体を、まるで潰れたトマトのように壊された自分の姿を。
「―――― 嫌ああああっっっっ !!!!」
あたかも、限界まで膨らんだ風船が割れるように、恐怖が弾ける。
死ぬ。
殺されてしまう。
絶望的な確信に、あらんかぎりの悲鳴を上げていた。
この現実を否定しようとするように。
そしてありもしない助けを乞うように。
「嫌ぁっ!!!!
来ないでぇっ!!!!
やだっ・・・・やだぁっ!!!!」
怪物は、動きを止めていた。
まるで、震え戦くだけの獲物を、二度も仕留め損ねたのを不思議がるように、首を傾げるような動きを見せていた。
最後の活路めいた、僅かな合間。
今、逃げなければ、今度こそ終わる。
しかし、梓はただひたすらに泣き喚いて、動く事など出来なかった。
絶体絶命の危機に独り陥り、もはや限界だった。
思考も身体も、吐き気を催すような恐怖に呑まれ、身動き一つままならない。
そして、魔の手は容赦無く下されようとしていた。
「ぁぐっ!!??」
強い衝撃。
次いで猛烈な痛みと息苦しさを感じたと思った瞬間、視界が引っくり返っていた。
一瞬、何が起きたのか分からなくなる。
視界に暗い空と怪物の姿が見えて、ようやく理解する。
梓は地面に叩き伏せられるように、仰向けに押さえ付けられていたのだ。
「いや・・・・ぐ・・・・っ・・・・は、ぁっ・・・・っ!!!!」
万力のような凄まじい力に、今度こそ身動きを封じられる。
ぬかるんだ地面に猛烈に押さえ付けられ、少しづつ身体が埋め込まされだしてすらいる。
そして、次第に呼吸すらも出来なくなっていた。
なお悪いことに、凄まじい圧力を受けているのは梓の胸元だった。
そこには、あの仔猫を抱いたまま。
こんな力を受けたら、あの小さな体は、一体どうなってしまうのか。
「ぃ・・・・嫌っ・・・・ぁっ!!!!
もう・・・・っ、やめ、て・・・・やっ、ぁ・・・・っ!!!!――――」
掠れた声で、必死に訴え掛ける。
無駄だと分かっていながらも。
怪物は遂に、無慈悲にその爪腕を振りかぶる。
――――私・・・・殺されるの・・・・?
・・・・どうしてこんなことに。
嫌だ。
怖い。
痛い。
苦しい。
死にたく、ない。
・・・・独りは、嫌。
大事な人と、離れ離れになりたくない。
せっかく出来た"家族"を失いたくない。
独りにさせたくない。
もう、孤独は嫌。
・・・・独りは、嫌なのっ。
だから、もう一度・・・・貴方に会いたい。
鳶色の髪と瞳の・・・・"彼"、に――――
< ――――っっっっ――――!!!! >
それは、あたかも梓の切望が呼び寄せたかのようだった。
この場で聞こえるはずない叫び声が、朦朧とした意識にまで、響く。
傍に、聞こえる。
幻聴かもしれない。
それでも、梓の胸の中にはじんわりとした、しかし大きな喜びが生まれる。
そんな自分の"未練がましさ"に呆れてしまって、でもそれ以上に嬉しくて。
――――臆病で、弱くて、みっともなくって・・・・それでも私は、あなたを・・・・忘れられない――――
「―――― ああああぁぁぁぁっっっっ !!!!」
< ドゴォンッッッッ !!!!>
轟音。
そして、ふっと体が軽くなる。
梓は激しく咳き込みながら、眼の前に舞い降りた、もう1つの影を見上げる。
涙で滲む視界に広がる、どこかで見たような、後ろ姿。
烈火のような怒りと、闘志を身に纏った、大きな背姿。
「――――たすけて・・・・ひのがみ、くん・・・・」
そう、絶え絶えに発するのを最後に、梓の意識は闇へと沈んでいた。
――――To be Continued.――――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます