#2 決意の狭間で

6月7日 18時04分

二間市 未土 住宅区

桜蔭館 中庭




乱れ切っていた感情は、冷めていた。


それでも未だに波立つものはあって、それを鎮めるに部屋の中は静か過ぎた。


やがて、思い立った光弥は、中庭の渡り廊下の半ばに呆然として座っていた。


小雨のもたらす僅かな水音と冷えた空気を感じながら、光弥はじっとあの”座禅”の構えを取る。


そうして行うのは、心に打ち寄せる暗い波を鎮める、精神統一。


剣技と一緒に爺様から教わったのが、禅の心得だ。




――――「坐禅というのは、ただおツムを空にして呆ける事に非ざりぞ。

己は己でしかないが、同時にこの現世そのものでもある。

個ではなく全、然れどその全が総てではない事を知らねばならん。

・・・・まぁ、この歳でそれが理解できるのなら、大したもんじゃがな!!」――――




今でも、その言の意味するところはよく分からない。


心を鎮め、自己と自己に触れるもの、関わる物事の虚実を想う。


そういう相対的な考え、思想だという認識はあった。


最近になって、お寺で本職のお坊さんに聞いた所によると、その捉え方で大体あっているらしい。


ついでとばかりに、爺様とは比べ物にならないに難しい説法をもとくとくとされたが。




その時、寒々しい雨夜に、ふと明度が増していた。


月に少しだけかかっていた雲が退いて、雨月となったのだ。


「・・・・・・・・・」


時間が止まっているかのように身動ぎしなかった光弥だったが、ここに来てゆっくりと目を開く。


光弥の精神統一が、終わりを告げた。


と言っても、心の内の揺らぎ自体はさっきまでとあまり変わっていない。


違うのは、何がその揺らぎに変わっているのか、それを洞察できていることだ。




――――貴方に、人を救うなんて出来ない――――




そう"彼女"に言われた時、感じるものがあった。


微睡まどろみの中で視る、やたらとリアリティに溢れた夢。


そこからふと覚め、現実に引きずり降ろされるのに、それは似ていたように思う。


この期に及んでまだ、光弥は自分が甘い夢を見ていた事に気付いた。


もう一度、"彼女"と語り合い、笑顔を交わし合えたなら――――。


きっと、そんなふうな身勝手な期待が、まだ心の片隅に残っていたのだろう。


だから光弥はいつも尻込みして、"彼女"を前にして言葉は、言葉にならなかった。


期待とは裏腹な、氷の壁に手をつく苦痛を恐れていた。


望んでいたはずの決着が訪れ、可能性が完全に潰えるその瞬間を遠ざけたがっていた、と。


(それでも、始めからこうしていれば良かった。

やっと、そう向き合えた――――)




思えば、不思議な縁だった。


かつて、全く違う道に分かたれた筈の"彼女"と・・・・今になって、同じ街、同じ場所で、交錯した。


そして今日、あの一時・・・・2人は、かつてないほどに歩み寄り、隣り合って言葉を交わした。


泡沫の夢のようだった僅かな時間は、そして脆く弾けた。


無益なまでに時間を重ね、無駄な回り道の末に、残酷に。




「・・・・8年、経ったんだ。

僕と"彼女"には、もう幾つもの繋がりとそれぞれの居場所が出来上がってる。

何のことはないんだ。

それを大事にする――――それだけで全部上手くいく」




光弥の独白は、この雨夜に紛れこませたがるように小さかった。


誰かに聴かせるためでも、自分へ刻み込むためでもないから、そんな扱いでも構わない。


結論へ至るために、邪魔な感情を言葉と成して、削ぎ落としているに過ぎなかった。


「僕の居場所が今あるように、"彼女"にも居場所がある。

もうその場所は重なり合ってはいけなかったんだ」


日神 光弥には、正木と香がいる。


眞澄 梓には、明癒と遼哉がいる。


そして光弥にとっては、皆が傷付けたくない大事な人だ。


触れ合いたい、共に在りたい。


そう願う心は確かにあって、それは決して悪ではない。


けれどもその果てに、絆を乱してしまうこともある。


そして今の光弥は、"彼女"達の絆に歪な亀裂を引き起こしかねない"異物"だった。


"彼女"のいる輪に波紋をもたらして、優しい顔を曇らせてしまうのだ。


「・・・・ああ、やっと気付けたんだ。

・・・・夢から、眼が覚めたんだ」


だから、と、光弥は多分に勢い任せだったとは言え、自分の意地を貫くことを選んだ。


あの時の判断は、間違っているだろうか?


答え合わせは、きっと出来ないだろう。


選択は選択でしかなく、結果はそれに付随する、人の価値観に左右されるものでしかない。


ただ・・・・意地を通す、考えを示すとは、それだけ他人に、状況に、変化を与える。


それが小さなものか大きなものかはわからないが、確実に今のままではなくなる。


その事を光弥は知っていたし、それなりの覚悟を持ってやったつもりだ。




頭ではそんな風にこじつけて、考えられる。


でも、己の胸の奥までは誤魔化しきれずに、疼くような痛みがのたうっていた。


選択は選択でしかない。


けど光弥の選択は――――意地は、"彼女"をまた傷つけた。


光弥にとって、譲れないものだった。


されど、悟ったようにあの痛ましい涙を受け流すには、光弥はあまりに梓を想い過ぎていた。


そして、そんな執着を持つ自分が、ひどく浅ましくも感じた。


(分かっているんだ。

"彼女"にとって僕は、その心を、掻き乱して、傷付けるだけの存在なんだって・・・・もう十分思い知った)


――――あるいは、現状を突き詰めたその先には、今と違う結果があったのかもしれない。


だが、仮定は無意味で、結論はこうして出されてしまった。


"彼女"の傍にいる事を、光弥はもう望まない。


過去の桎梏から解放されて、眞澄 梓が幸せになること。


それだけが、日神 光弥が望むべき事だ。


光弥と梓は、他人であるべき。


もはや相容れない。


だからこそ、縁を断ち切るという選択に、光弥は満足している。


その、筈。




―――― 本当に、貴方は勝手なのね ――――




「・・・・っ」




咎められたような気がしていた。


光弥は、まるで自分の想いを誤魔化すようにたくさんの理屈を考え続けていた。


これ以上、傷付けたくないし、悲しませたくないとか。


光弥が傍にいれば、"彼女"にそれを与えるだけとか。


(――――でも、結局は泣いてた。

・・・・今も泣いてるのかな。

泣かないで、幸せになって欲しいって、僕はそう思っているだけなのに・・・・)




最後に"彼女"へ投げつけたのは、光弥の意地と、弱音。


そして、諦めだった。


その時見た、"彼女"のかおが――――どうしても脳裏から消えない。




「・・・・僕は間違っちまったのかな。

もっと、違うものを求められて・・・・延ばされていた手に気づかなかったのかな・・・・」




――――記憶は、付き纏う・・・・全部諦めたくなるくらいに、重く・・・・――――




不意に思い出した自分の言葉が、まるで嘲るように頭の中をぐるぐると回り続ける。


この惑いが、単なる光弥の独り善がりでしか無かったという、何よりの証左か。


すっかり暮れた空は雨雲に覆われ、光は弱い。


冷え切っていく身体を省みることも忘れ、光弥はじっと薄闇の中に迷い続けていた。




そのまま、どれぐらいそうしていただろう。


惑いは解決の糸口のないまま、気持ちはわだかまって、淀む一方。


その内、暗い気分に引っ張られるように体の方にまで、弱い毒に当てられるような倦怠感が浸透し始める。


息苦しさに堪えかねて、光弥は何時になく気を緩ませ、ひたすらに楽な胡座姿勢へと変えて、脱力する。


(・・・・こんなに背中を丸めてだらけてると、昔はじーさまに文句言われたっけな・・・・)


視線を空に逃がせば、その先の月にはまだ、あの"眼"が残っていた。


「――――昨日と、同じだな」


縦に大きく裂けている黒い闇は、眩しく大きい赤い月の上に、ふてぶてしい迄に居座っている。


あまりに大きく、見ているだけで意識を乱されそうになるその月は、今宵も空からじっと光弥を見下ろしていた。


「獣の月、か・・・・うまく言ったもんだ」


眼のような月、そしてその周りを取り囲むように黒い雲がたなびいている。


まるで、あの怪物の顔に見えた。


あくまでも偶然なのだろうが、光弥の目にはそう映った。


怪物が、凄まじい殺意を込めて此方を睨み付けている。


そんな錯覚を覚えた。


「・・・・・・・・・」


ため息にもならないほど細く息を吐き、今度は板張りの廊下に寝転がる。


体重のかかった床板がキュッ、と甲高い音を立てて軋む。


身体はもうすっかり底冷えして、なんだか震え始めてもいた。


夜とはいえ、初夏にこの冷たい空気は絶対にありえないはずだった。


そして昨日、あの怪物に襲われたのも、ちょうどこうして冷たすぎる風が吹いていた。


そう考えると、光弥の身に寒さによるものとは別の震えが走らざるを得ない。


光弥は恐れていた。


あんな命を懸けたやり取りなんかに、もう関わりたくない。


そう思って、知らないふりで眼を逸らしたかった。


しかし光弥は、それと同時に奇妙な感覚も感じていた。


「出来る事は、ある。

その力を今の僕は・・・・持っている」


光弥は、悟っていた。


怪物の凶行は、まだ続くだろう事。


それに因って失われるであろう命もあるだろうという事。


光弥の右腕にあるこの腕輪が、それを止められるかもしれない唯一の手段であろう事も。


誰かを守ることができる、その事実に高揚感を覚えていた。


(でも、それに従おうとするなら・・・・僕はもう一度、あの化け物に挑まなきゃならない)


右肩の傷に、そっと手をやる。


包帯で簡単な応急処置しかしていないが、傷自体はもう塞がっている。


よくよく考えれば、こんな程度の傷だけで昨夜の襲撃を乗り越えたのは、奇跡のような戦果だろう。


(運も良かったんだ。

危険な場面は何度もあった。

それに、そもそもアイツがもっと万全な状態だったなら、こんなものじゃ済まなかった・・・・)


もしかしたら、これよりさらに大量の血を撒き散らすことになり・・・・今、ここにこうしていることも出来なかったかもしれない。


他の犠牲者達と同じように、怪物の餌食となっていたのかもしれないのだ。


(生き延びたんだ・・・・もう、逃げ出せるんだ。

もう、わざわざ戦いの中へ進まなくたって、良いんだ)


ぐっ、と拳を握り込む。


しかし、その手は抑え難いほどにブルブル震えていた。


「ったく・・・・人に偉そうに言っといて、これだもんな・・・・。

何が、悔やみたくない、だよ。

それ以前に、動き出す事すら躊躇ってるってのに、さ」


身体を投げ出したまま、自分自身を嘲笑った。




――――光弥を躊躇させているのは、何も命の危機だけではなかった。


光弥は、生まれて初めて、明確な”害意”を以て、この手で凶器を振るい、生物を斬った。


それはとても重く、気色が悪い感触だったと思う。


仕方がない事、己の命を守るための事。


そう自分を納得させようとしても、嫌悪感は拭いきれない。


いかに自衛のためでも、他者を傷つける事を簡単に割り切れないのが、光弥という人間だった。


しかし一方で、この事態にどうにかして抗したいという思いもまた、止まない。


このままなら、確実に犠牲は増え続けるだろう。


脳裏に、幾人もの友人達の顔が浮かび上がる。


――――件の猟奇事件は赤津場、鶴来浜の両地区で頻発している。


正木の家は、赤津場公園のすぐ隣、鶴来浜商店街の一角という、正に渦中のど真ん中にあった。


香の家もまたそこに近い、鶴来浜の住宅地にある。


明癒と遼哉の家は分からないが、光弥の帰り道で出会った以上、その方角に住んでいると思っていいだろう。


そして・・・・その2人と馴染み深そうだった、"彼女"の事。


昔から仲が良いと言うなら、家同士もそう遠いわけではない筈だ。


明癒達の危険は、"彼女"の危険でもある確率が高い。


見知った人達が皆、等しく危険にさらされている。


それを黙って見過ごして良いものか。


想いは強く、戸惑いと恐れに塗り潰されそうになっても、なお消えてくれない。


二つの相容れない感情が、胸の家をぐるぐると回り、決着の無い問答は繰り返す。


いつしか光弥は瞼を閉じ、じっと考えんでいた。




「・・・・僕に――――」




何が出来るのか。


そして、何をすべきなのか。


戦う力を、光弥は持っている。


また、それを何に用いるべきなのか・・・・実はもう、半ば予感してもいる。


(・・・・でも、きっとそれだけじゃ足りない。

本当の本当に、どん詰まりまで追い込まれてた昨日とは、状況が違う。

半端な思いで首を突っ込めば、あっという間に飲み込まれる)


例えるなら、眼の前に真っ暗な、無数に枝分かれした道。


その前で、光弥は自らの脚を踏み出す場所を探り続けていた。


先へ進みたいと思う。


でも道程を知ることは出来ず、道の先に何が待つかもまた分からない。


出口のない問答。


それはやがて、光弥の意識を眠りへと引き込んでいくのだった。




・・・・

・・・

・・




その時に見た夢を、光弥ははっきりと思い出せた。


うたた寝程度の浅い眠りに垣間見た、しかし映像のように鮮明な夢。


触覚も嗅覚も伴った、不可思議なビジョン。




「・・・・なんだ、これ・・・・」




――――始めの景色。


光弥は、あの交差点にいた。


他には人っ子一人いないが、見える情景は光弥の記憶している場所と一致している。


そして、其処には更に、最近では最も光弥の記憶に強く残る"物"もまた、存在していた。


(あ、あのトラック・・・・昨日の・・・・!!??)


然り、光弥を撥ね、明癒と遼哉を・・・・"彼女"を轢き殺しかけたあの大型トラックが、今また突っ込んで来ていた。


やはり速度を少しも緩めずに、白くぼやけた光弥の記憶の中を暴走している。


そしてその場には、もはや逃げようのない距離で、なすすべなく震え慄く”彼女”達の姿もある。


果たして、どうやらこれは光弥が撥ねられた、まさにその時間の光景らしい。


とは言え、状態は少し現実と異なっている。


まず、この光景が進展するスピードはとてもスローだった。


それに伴って周囲の音も引き伸ばされ、ぐおんぐおんという、変に唸るような怪音となっている。


第二に、この中で動いている光弥の身体は、"今の光弥"とは別物らしかった。


そのため、限界を超えて身体を動かしていた当時の疲労は全く伝わってないし、激しく動く視界に映るもの一つ一つを、じっくり観察することが出来た。


自分の視点のビデオ映像を見ている、不思議で少し愉快な感覚だった。


(・・・・今更だし、余裕なんて無かった訳だけど、思えば酷い事しちまったもんだな。

怪我は無いって、言ってくれたから良かったようなものの・・・・)


危機を救う為とは言え、"彼女"達を強かに放り投げる瞬間を改めて振り返らされると、思わず光弥は眉を顰め、申し訳無さに胸が痛むのだった。


やがて、光弥の視界が正面に向き直りだす。


突っ込んできたトラックが、縁石やガードレールをぶち破って跳ね上がる。


見ているだけなら映画のワンシーンのような空恐ろしい光景を、光弥は再び至近距離で目の当たりにする。


やはり、身体はびくとも動かせない。


光弥はただ記憶の通りに、迫る鉄塊を為す術無く見ているしかなかった。


とは言え、結果がどうなるかは分かっている以上、気分は平静のままである。


なんなら、自分が致命的な事態に巻き込まれるのを他所に、この不可思議な現状についての考察を展開する余裕すらあった。


(・・・・なんでか、最近しょっちゅうこういう世界を見るな。

夢とも少し違う。

完璧に内容は覚えられてるし、感覚もある)


時期的にも、光弥が夢を見るようになったのは”腕輪”を手にした前後からだ。


まるで、あの神秘の武器・・・・”嶄徹”に見せられているようだ、と光弥は考えた。




(えっ?――――)




すると、変に平静な頭で、光弥は奇妙な事に気付いた。


跳ね上がり、横転しながら突っ込んでくるトラックの運転席が、だった。


始めに遠目から目にした時は、そういう色の内装なのかと思った。


しかしその赤色は、中でペンキでもぶちまけたかのように、フロントガラスにまでも付着していたのだ。


やがて、目と鼻の先までトラックが近付く。




(・・・・っ!!??)




刹那、異常の真相を垣間見た光弥は、戦慄した。




――――運転席は、天井からの強い力を受けて、無残に潰されていた。


そしてその真下にいたであろう人物の上半身は潰され、原形が分からない程に肉を抉り取られていた。


運転席に飛び散っている赤とは即ち、その犠牲者の肉片だったのだ。




(誰がどうすれば、こんな事が出来る・・・・!?)




光弥は自問し、そして自答する。


考えるまでもない。


何があったかは容易に想像することが出来た。


つまり、"そいつ"は運転席の天井を力任せに突き破り、その下にいた人物を引き裂き、絶命させた。


そんな事が出来る存在は、たった一つ。


そして、凶行の《爪痕》を睨み付けながら、やがて光弥の視界は暗転した。




――――・・・・タスケテ・・・・――――




いつの間にか、2つ目の景色が広がっていた。


その中で、が息を切らして走っている。


さっきと同じなのは、その疲労感や感触などが、光弥とは切り離されている点。


そして違うのは、その進行がスローではない点。


加えて、この視界がまるで、昔のテレビの砂嵐の様な歪みが差し込み、不安定なことだった。


断続的に揺らぐ映像は、雨の降りしきる夜道を走る光景が続く。


この特徴ある遊歩道と街灯は、赤津場自然公園か?


しかし、光弥は腑に落ちなかった。


最近、雨の夜にこんな場所を全力疾走した覚えはない。


それにこの荒い呼気なのだが、なんだか妙に


いつも聞く、自分の声ではない気がした。




―――― タス、ケテッ ――――




声のようなものが、再び聞こえる。


周りの音はぼやけていて遠いのに、その声だけは光弥の耳に直接届くようにクリアだった。


女性の声、だろうか。


なんだか聞き覚えのある声だった。


耳に心地良い、それでいて変に胸がざわつく。




――――オネガイ・・・・ワタシハ、マダ・・・・ナニモ・・・・ッ!!――――




また別の言葉が聞こえる。


女性らしい、柔らかな言葉遣い。


しかし、かなり切迫した調子だった。


するとその瞬間、声の孕む焦りが伝染したかのように、光弥の見える映像が激しく明滅し始めた。


強く揺らぎ、そしてそれまでとは別の光景が一気に押し寄せ始める。


奔流のように光弥の視界に映されるそれらは、どれもこれもが見覚えのない映像だった。


この景色が、自分の見たものではないと確信する光弥。


しかしそれなら、これは一体何だ?


そして、焦ったように急激に密度の上がったこれらの情報は、一体何を伝えたいのか?




――――雨と暗闇。

妙に低い視界は、しゃがみ込んでいるせいか?

しゃくりあげる、女性とおぼしき嗚咽。

高い声と低い声が、混ざり合う。

激しい光・・・・これは、雷?




――――おそらく、さっきと同じく公園の中。

濡れた小さな猫を拾い上げる。

俯くと、視界に映る膨らんだ胸元と、艶のある黒髪。

美しい漆黒の流髪。




――――次いで一転、明るくなる景色

明癒と遼哉が、マンションらしき通路で笑っている。

ランドセルは付けていない。

傍らにいる背の高い女性は、2人の母親か?

”犀樹”と書かれた表札が、背後のドアの傍に見える。




――――昼下がりの惨劇。

縁石にぶち当たり、跳ね上がる暴走トラック

その間に立つ、1人の少年の姿。

自分の知っている景色の、少し後ろからの光景。




――――少し薄暗くなって、雨の降る只中。

振り返ると、そこには諦観に沈んだ顔で立つ、光弥じぶん

それから目を離し、背を向けて歩き去る視界。

白く滑らかな手に握られているのは、藤色の傘。

それはあの時、"彼女"が持っていた、傘。




< ・・・・オオオォォォッ・・・・ !!!!>




そして、視界が暗転する最後の刹那。


聞こえたのは怪物の遠吠え。




――――・・・・ヒノガミ・・・・クン・・・・!!――――




助けを求める、"彼女"の苦しげな声。




・・・・

・・・

・・




――――気がつくと、光弥は桜蔭館の渡り廊下に寝転がって、息を荒げていた。


異様に寒いのは、多めに流れ出した寝汗が、夜風で冷やされている所為だった。


大きく息をしながら身を起こすも、かつてない不思議な夢見のせいで光弥は少し呆けてしまう。




「・・・・夢、だったのか?

でも、あれは・・・・」




夢にしては、まるで実際にその場にいるような、異様な臨場感があった。


しかも、見も知らない誰かの見聞きした事までも、鮮明に理解できた。


(・・・・夢・・・・本当に・・・・?)


眠りから覚め、次第に頭も冴えてくる。


そして同時に、形容しがたい熱い気持ちが湧き上がってきていた。


ググ、と両の拳が変に痛む。


節々が白くなるほど力を込めて拳を握り込んでいるせいだと、遅ればせて気付いていた。


ややあって、一つ目の夢の内容を思い返す。


その中の光景が真実なら、あの事故の前から運転手は死んでいたことになる。


そして、それは十中八九、あの怪物の仕業だろう。


あんな昼日中にでも、怪物は跋扈していたようだ。


(・・・・それは、もう十分に分かった。

問題は・・・・、だ――――)




ジリジリと、メラメラと、焼け付くような衝動が喉元までせり上がってきていた。


体中が力み、抑えようなく震える。




(――――あの光景は、"彼女"だ。

"彼女"が見た事と、そして"彼女"の声、だ・・・・!!)




どうしてそんな事が起きたのかは知らないが、そうとしか思えない。


(だったら、あの助けを求める声は、なんだ?

あんなにも焦って、僕なんかに助けを求めていた訳は?

必死に”何か”から逃げるみたいに、息を切らして走る理由は?

・・・・あの恐ろしい遠吠えは、一体何なんだ?)


一瞬の間に頭に氾濫する、幾多の疑問。


果たして、それらの疑問の答えは、見上げた寒空に浮かぶ”異形の月”に結実する。


「っ!!!!」


その瞬間、光弥は驚愕とも怒号ともつかない叫びを上げていた。


跳ね飛ぶように立ち上がり、右腕の腕輪を強く握り締める。


ガンガンと、耳の奥が鳴っているような感じがする。


チリチリと、脳から背筋へ下る、熱く鋭利な電流のような感触がある。


おそらく、これは怒りだ。


それもただ事ではなく強烈な、白炎のような怒気。


「・・・・ふざけるな・・・・っ!!!!」


込み上げてくる憤怒と共に、声を搾り出す。


「――――絶対に許さない・・・・っ!!!!

あのを傷つけるなんて・・・・絶対に・・・・絶対にっ!!!!」


強く、強く、腕輪を再び握り絞めた。


到来した絶大な怒りが、光弥の顔を鬼気迫るものに変貌させていた。


それは、普段の彼を知る者が見れば、思わず目を疑ってしまうような熾烈な表情だった。


鬼面のように表情は歪み、釣り上がった眼には、まるで獣のような凶暴な光を宿している。


次の瞬間、光弥は弾かれるように駆け出していた。


荒々しくも、僅かに残された冷静さで本館のドアを蹴り開け、玄関へ向かう。


夢で見た映像を信じて、こんなにも焦り、あまつさえ血相を変えて飛び出していくなんて、馬鹿げた話かもしれない。


それならそれでいい。


間違いなら、馬鹿を見るのは自分だけだという話。




だが、もしもそれが”現実”だったなら。


その時、光弥はおそらく、真に受けずに見過ごした今の自分を、八つ裂きにして殺す。


あの怪物の危険性、そして相手がなんだろうと容赦なく襲いかかる凶暴性を、光弥は十二分に知っている。


もしもその矛先になれば、"彼女"の生命は容易く失われる。


絶対に失うことの許されない大切な存在は、呆気なく奪い去られる。


その過ちが瞬間を思うだけで、光弥の思考は火に投げ入れられたように焦熱していた。


脳裏に浮かぶのはただ、"彼女"の姿。


だが、やがてその姿は血に塗れ、命を無残に奪われる姿にすり替わる。


「――――そんなこと、させるかよ!!!!」


思考を侵食する残酷な想像を払い除けるように、玄関の引き戸を激しく開け放つ。


そして、逸る気持ちの命ずるまま、全力で走り出す。




(急げ!!)




――――守りたいと、幸せになって欲しいと、募る想いごと切り捨てた。


哀しみ、涙する姿を突き放してまで、光弥は意地を押し通した。


ならばこそ、何があろうと、どんな事が待ち受けていようと、光弥はそれを貫き通さねばならない。




「"オレ"はもう二度と・・・・あの子を傷付けさせちゃいけないんだ!!

だからっ・・・・間に合え・・・・っ!!!!――――」




決死の想いで、光弥は来たるべき"戦場"へ、疾駆する。




――――To be Continued.――――



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