4章 「逢戦」

#1 Wish -呼子-

6月7日 18時21分

上赤津馬 南部

赤津場自然公園 東側入口付近




1時間程前・・・・梓が家を出た時から降り出していた夕立は、未だ止む気配なくしとしとと降り続けていた。


目的地である明癒と遼哉の生家は、そう離れた場所でもない。


最後にこの自然公園を通り抜けていけば近道になると言うので、普段からも利用しているルートである。


ただ一方で、梓本人の歩みは、普段とは比べ物にならない程に遅々としていた。


何度も道を間違え、何度も脚をもつれさせて、いつもなら15分程の道程を、倍以上の時間をかけて歩いている。


雨で自転車を使っていないという事を差し引いても、異常な遅さだった。


だがおそらく、本当に異常なのは、そんな現状に全く気付いていない梓の方だった。


加えて、公園に入ってからは雨粒が遊歩道脇の木々に落ち、より大きな音となって騒ぎ立てている。


その"嫌いな音"は、もはや耳栓替わりのイヤホンでも防ぎ切れず、梓の耳に飛び込んで来ている。


しかし、さっきは過剰反応気味に拒否していたその音すらも、今や梓の意識を些かも煩わせてはいなかった。




――――「まだ生きて、ここにいるんだよ」――――




雨音はすでに遠く、代わりに梓の脳裏にあるのは"彼"の姿と、その言葉。




(・・・・死んで、ない。

・・・・生きていた・・・・)




目の前で死んだと思っていた"彼"は、何食わぬ顔で梓の前に現れる。


心を斬り裂かれ、痛みに喘いでいた、梓の前に。


妄想か幻覚か、それとも霊魂の類いなのか。


理性は限界を超えて、彼が夢幻でない本物の存在だと知っても、しばらくは混乱していた。


それはあるいは、今もまだ。


(――――何、してるの、私・・・・。

そもそも、明癒ちゃん達に連絡しないまま、結局こんな所まで来て・・・・バカみたい。

・・・・これじゃ、一体なんの為に来たのか・・・・分からないじゃない)


今からでも連絡は取れるし、それで当初の目的は果たせるだろう。


無邪気で、可愛らしい笑顔の明癒。


少し小憎らしいけど、とても頭の良い遼哉。


2人の大事な幼馴染の姿を見たい思いは、確かにあった。


だからこそ・・・・梓は、会いたくなかった。


傷付き、憔悴しきった今の自分を取り繕える自信が無い。


そして、そうやって弱った自分の逃げ先を、彼女らに求める真似はしたくなかった。


「・・・・疲れたな」


様々な事に翻弄されて、心底そう思っていた。


早く帰って、何もかも忘れて、ベッドに倒れ込んでしまいたかった。


真っ白になって、麻痺しかけている思案の中に浮かぶのは、この苦痛を忘れてしまいたいという弱音。


胸を締め壊そうとするような切なさから楽になりたい、という、情けなくも覚えのある一心だった。


(――――哀しい気持ち、つらい記憶。

乗り越えなきゃいけないもの・・・・とか、言うだけだったら、簡単なの。

時間が忘れさせてくれる・・・・そんなのも、絶対に嘘。

だって・・・・どれだけ時間が過ぎたって、この傷は無くならない。

いつまでも同じ場所にあるまま。

・・・・ただ遠ざかって、やり過ごしてるだけでしかない)


だからこそ、ふとした時にこうして懲りずに顔を覗かせ、現実と擦れ合う。


何度と無く味わう、されど未だ鮮明な痛みに、梓は無意識に、軋むくらいに傘を握り締める。


気休めにもならない、所詮は当事者でない者達が言う"詭弁"の気楽さに、僻みのようなんだ感情が、のたうつ。


理想はいつでも遠く、難しい。


だからこそ人は悩み、その抱えきれない重荷に心引き摺られてしまうのだから。


(・・・・"彼"を忘れられた事なんて、ない。

いつだって、どうしても。

・・・・歪んだ形ででも、想い続けていた。

苦しくて切ない、記憶の底で、いつも・・・・)


"8年前"と、言葉にすればたったそれだけ。


けれど、実際に流れる時の中で、積み重なってきたものの重みは、途方もないものだと思う。


(分かってるの。

私には・・・・ずっと、"彼"への気持ちが燻ってた。

消せもしないでいた。

・・・・今さら、取り繕おうなんて、思わない――――)


そっと肩に手を置く。


そこに"彼"の手が触れた時、信じられないくらい暖かな気持ちが、それまで痛むばかりだった胸中に生まれたのを感じた。


今までにないほど傍で感じられた温もりは、梓の心に穏やかに触れて、やがてそれは見失っていた感情に息を吹き込んだ。


安らいだ気持ち、同時に胸躍る高揚感の芽生え。


そんな自分に戸惑いながらも、決して不快な感覚ではなかった。


(――――死んで、ない。

・・・・生きていた。

其処に、生きていてくれた。

・・・・その事が、嬉しかった)


あの時、確かに2人の距離は、ほんの僅かなものでしか無かったと思う。


手を伸ばせば、ほんの少しでも踏み入れられれば、そこに求めていた"熱"があって。


それは凍えていた身体を陽の光に晒したように暖かくて、心地良いもので。


そしてまた、裏腹にも陶酔とするような疼きも伴っていて。


けれども、あまりにあっけなくその感覚は失われることになった。




――――ごめん――――




最後に告げられた、"彼"からの決別。


積年の想いは寄るべを無くし、呆気なく萎んで消えた。


痕に残ったのは、心に空いた大きな風穴。


ぽっかりと空いたその虚には、たぶんまだその残滓が残っている。


でも、その感覚はあまりに僅かで、捉えどころがなく、梓はそんな曖昧なもの悲しさの前で、さ迷っていた。


それは、あるいは・・・・きっと、これから先も、延々と。


「あっ!?」


不意に、がくんと体が傾いでいた。


転ぶのを防ごうと咄嗟に踏ん張った足が、鋭く痛む。


「・・・・サイアク・・・・っ」


思い詰めていた意識を現実に引き戻すには、いささか不快な呼びつけだった。


ややあって、呻きと愚痴とがいっしょくたになって漏れる。


こうして足をもつれさすのは、もう今日は何度目かも知れない。


ただ今回は、些か反応が遅れてしまった。


鬱憤混じりのため息をつきながら、そっと右足を地に着けてみる。


「痛っ――――」


やはり体重をかけると鈍く痛んだ。


歩けないほどではないが、その度に眉をしかめる羽目になりそうだった。


「・・・・痛い・・・・」


思わずそんな言葉が零れ出る。


ひどく痛む。


ズキズキ、ズキズキと、いたぶられるように続く。


次第にそれは大きさを増し、痛みは呻き声に変わって漏れ出す。




(・・・・痛い、よ・・・・)




耐え難くて、遂にはその場に座りこんでしまう。


燃えているように熱く、締め付けられるように苦しい。


そんな切ない悲痛は、弱った心ではもう負いきれなかった。


キュッと息が詰まって、目許に熱い疼きが溜まる。




――――今日は泣いてばかりだ、そう思った瞬間に限界は訪れた。




「・・・・何なの。

・・・・なん、なのよぉ・・・・っ」



もうとっくにぼろぼろになっていた梓の心が、これ以上はもう抱えられないと、悲鳴を上げていた。


なのに、やり場のない悲しみと憤りは、どんどんと募っていく。


その重みに、今とうとう器はひび割れ、止めど無く溢れ出し始めてしまっていた。


弱々しい咽び泣く醜態を分かっているのに、でもどうしようもない。


一度弾けた心のタガを、せめて自分で抑え込む。


それすらも出来ない弱い心を、梓はもう嫌というほど思い知っていたから。


「ふぇ・・・・えっぅ・・・・ぅあぁ・・・・っ!!」


身体を丸め、顔をくしゃくしゃにして、収めようない激情に、また押し流されてしまう。


重たい枷のような感情も思考も、放り出してしまいたかった。


同時にそれを思うままに振り回して、目茶苦茶に当たり散らしたかった。


翻弄される心は、自分の本懐すらも見失ってしまう。




(――――いつだって、そうだった。

こうして傷付くのを・・・・曝け出すのを怖がって、ただ無意味に鬱憤を投げつけるだけだった。

・・・・"彼"に、何も見えてない、だなんて・・・・当たり前じゃない。

だって・・・・私が、何もしてないんだもの。

もしも、私の願いが拒否されてしまったら、って。

疑ったままで、向き合えないでいた、だけ。

でも・・・・"彼"は、それを厭わないで・・・・決めてしまった)




果たして、"彼"は誰かの危機を、誰かの傷つくのを見過ごせない心を頼みに、迷いを捨てて離別を決めた。


突き放す事も、歩み寄る事も出来なかった、梓を置いて。




(――――私は・・・・、置いて行かれた・・・・)




"彼"の決心が顕にされた、あの瞬間だってそうだった。


梓の発した悲鳴のような糾弾は、本当に唯の悲鳴でしかなかった。


感情のままに放った、ただの不平不満で、肝心な"想い"を乗せきれなかった。


だから何も伝わらないし、何も返って来ない。


その内に、"彼"は自分一人で早々に結論づけてしまった。


馴れ合うことも語らう事も無い。


そこに痛みしか無いのなら、後は背を向け、離れていくしかないと。



(私・・・・そんなの、嫌だった。

私は不安でいっぱいで、ずっと抱えていた"願い"すら、信じ切れないでいた。

・・・・けど、無意味に終わらせたくなんてない・・・・。

・・・・なのに・・・・それすら、言えなかった――――)




何故ならあの時、"彼"の諦めはもう覆せないと、勝手に諦めてしまったから。


咄嗟に脳裏を過ぎった過去に、囚われてしまった。


今は遠く、されど未だに癒えない"かつての傷跡"に、梓は怖気づいた。


そうして勝手に折れてしまって、梓は大切な一瞬を見逃してしまった。


何よりも、自分のその臆病さが悔しくて、切なくて、哀しくて、胸が張り裂けそうだった。


「――――・・・・届かない想いを、抱えて・・・・・生きるのが、どれだけ辛いか・・・・っ。

・・・・分かってる・・・・っに・・・・。

わたし・・・・もう、繰り返したく、ない・・・・のに・・・・。

なのに・・・・っ」


あるいは、このわだかまりを、形にして曝け出せていたのなら。


どんなにみっともなくても、自分の願いを伝えられていたなら。


未練がましく、そんな仮定がいくつも浮かぶ。


いちいち都合のいい想像をして、導き出される「別の結果」に縋りたくなる。


そんな有様が情けなくて・・・・惨めで、また涙がポロポロと零れ落ちる。


「・・・・もっと、違う結果が・・・・あったの・・・・?

・・・・こんなに痛くて、切ない気持ちを抱えなくていい道が、あったの?

理解わかって・・・・もらえたの、かな・・・・?」


結局、踏み出せずに背を向けた梓を他所に、"彼"は自分の思う先を定めてみせた。


去っていく梓を引き止めもせず、その姿を静かに見守り、見送った。




――――知っている人、関わった人が傷つくのをみすみす見ていることなんてできない。

何よりも、それを認める自分を、自分が許せないんだ――――




"彼"のその決断は、確かに強いのかもしれない。


うじうじとしたみっともない逡巡を、容易く終わらせられる。


目の前の苦しみを終わらせたいその瞬間、確実に1つを選び取れる心は、立派なのかもしれない。




(――――でも・・・・そうじゃ、ない・・・・っ。

だって、私達は、を全然知らない!!

どうすれば良いのかなんて・・・・まだ分からないっ!!

・・・・そうじゃ、ないの?

どうして、いなくなってしまう方が良いなんて・・・・簡単に結論を出してしまえるの・・・・?)




まるで、迷子になって助けを求める幼子のように、梓は泣き濡れる。


過去に繋がる"彼"の存在が、今以上に無力で幼稚だった頃を、顕にさせる。


どんなに時が過ぎ、身体だけは大きく成長しても、乗り越えられない根底の弱さ。


誰にも見せられない、脆くて柔らかい場所が引きずり出されてしまう。




「・・・・どうして、こんなにも傷付けるの・・・・?

傷ついて、泣いてるのに・・・・どうして助けてくれないの?

・・・・私を置いて、逃げないで・・・・っ。

そんなの、全然・・・・優しくなんて、ない・・・・っ」




追い詰められて、泣き言ばかりが連なる。


いっそ・・・・このまま、こんな失望と未練、バラバラに砕けて、消えて無くなってしまえばいいのに。


そうすればもう、叶わなかった願いの骸に、こんなにも苦しめられなくて済むのに。


弱音が、後悔が積み重なって、真っ黒な場所に独りで沈み込む。


惨めなくらいに、覚えのある重みだった。


それは、"眞澄 梓"は未だに、"もう取り戻せない過去"に囚われているという証拠。


底なしの泥沼に座り込んで、立ち上がれまま泣きじゃくっている。


それは、"眞澄 梓"が、為す術もなく戦慄わななくばかりだったあの頃と地続きである何よりの証、だった。




(――――だから、身勝手でも優しさが欲しかった。

もっと曖昧で、もどかしくたって良いから・・・・今の、息苦しくて寒々しい場所から、助けて欲しかったの。

私は・・・・臆病で、一人じゃどこにも行けない、から。

・・・・心からの願いが、裏切られる。

信じたいのに、通じ合えない。

・・・・その結末が、恐くて堪らない。

私の時間は・・・・"あの時"から止まってしまっているの・・・・)




悪夢の中に、落ちたようだった。


眠りに弛緩する無力な身体を、意識から湧き出る思いつく限り最悪の想像が支配する。


そんな呪詛のような、哀惜の夢なら覚めて欲しい。


逃げ出せるものなら逃げ出してしまいたい。


苦しみ、打ち震える自分の体を、梓は強く抱き抱える。


そうでもしないと、自分の全てが砕けてしまいそうだった。


全て拒絶したがるように目を伏せて、戦慄く心を抱き竦めて、怯懦の底で思う。




――――変わってなんか、いけない。

私はいつだって、泣きじゃくってばかり。

嫌いたくなんか、ない。

いなくなって欲しいなんて、思ってない。

あの時、どんなに不安でも、そう言えれば・・・・何かは変われた。

けれど、大事な事を言えなかった。

・・・・同じ過ちを、私は繰り返した。

こんな我儘すら言えなかった、弱い私。

何も変われていない、私。

・・・・大嫌い・・・・――――




しゃくり上げながら、真っ暗な曇り空をあおぐ。


傘なんてもう投げ捨てていた。


全身が濡れそぼり、涙は溢れ続けていた。




(――――泣こう、大声で)




果たして、そんな自分も顧みれないくらい憔悴しきった心に、そんな考えがポツリと浮かんだ。


どうせ周りには誰もいないから、だから良いかと思った。


みっともない嗚咽と一緒に、今度こそ全部を洗い流して、そして今度こそ空っぽにしよう。


そこに大きな、大きな傷が在った事など、分からないように。


そうして梓は、自らの情念を弔う術を決めたのだった。


(今だけ・・・・思い切り、泣こう。

私一人だけの内に、我慢なんてしないで・・・・。

どうせ、私だけしかいないんだから・・・・今だけ思い切り・・・・)




<カタン>




半ば言い聞かせるように、誰もいないと念じていた、その矢先。


やや大きめで不自然な物音が、前方から響いた。


「っ・・・・!?」


感情の高ぶりっぱなしな梓は、大袈裟に身を震わせて驚く。


そのお陰、と言うべきか、追い詰められていた精神状態は、僅かに冷静さを取り戻した。


見られていたかも、そんな気まずさを一瞬覚える。


だが、そんな気持ちは次の瞬間に思い出した、ある"重大な事実"に押し退けられてしまった。


――――実は、この赤津場自然公園は、今や巷を席巻する"連続猟奇殺人事件"の、5件目の現場近くだった。


普段から使う道に関わる事件なので、よく覚えている。


事件が起きたのはもう一週間以上前のこととはいえ、梓は用心の為、この場所に近づくことを控えていた。


だというのに今、茫然自失の梓は、こうしてうっかり入り込んでしまっている。


その迂闊を後悔するも、事態に直面しながら行うそれは、ただの愚かな言い訳でしか無い。


「・・・・っ・・・・なに・・・・っ?」


音は、梓のいる位置から5m程先の辺りから聞こえた。


生憎、そこに立つ街灯は電灯切れなのか僅かたりとも光を発しておらず、その一角は黒く塗り潰されたように何も見えない。


「・・・・どうして、誰もいないの?

まだ、そんなに遅い時間でもない、のに・・・・」


6月にしては、いやに早く空が暗くなってきていた。


普段の数倍は色濃い夕闇の覆い被さる遊歩道には、先のように梓以外には誰もいない。


つまり、ここで"なにか"があっても、助けは期待できない。


梓は今、自分が途方も無く危険な状況にいると、自覚せざるを得なかった。


不安と恐怖で、自然と身体が尚更に小さく縮こまる。


手放していた傘を取り戻し、肩掛けのポシェットをも縋るように握り締めながら、梓は暗闇へと目を凝らした。


小雨の降り続く暗闇は、まばらに立つ街灯の灯りをものともせずに黒く、そして深い。


必死に目を凝らしても、梓ではその奥の音の正体は見極められなかった。


(・・・・今のは何?

なにか物が落ちただけ?

・・・・それとも・・・・)


自分の予想が外れることを祈りながら、梓は必死にしゃくり上げるのを堪え、自らもこの闇へ溶け込もうとしていた。


<・・・・ガサ・・・・コトン>


やがて、再び物音が響く。


「ひっ・・・・!!」


恐怖の度合いがまた一段と上がり、身体が震え始める。


比例して、嗚咽を堪えて苦しげだった息遣いも更に乱れ出す。


(――――なにか、いる・・・・っ!!)


そして、その音の瞬間、梓は暗闇の向こうに垣間見てしまった。


ほんの数mほど前方に、僅かに浮かぶベンチとゴミカゴのシルエット。


その傍で、小波のようにして蠢くものがあるのを、梓は見出してしまったのだ。


(・・・・どう、しよう・・・・っ)


緊張のせいか、喉の渇きを強く感じた。


そんな場合ではないのに。


頭は完全に醒め、これからどうすべきかを全力で考えている。


言うまでもなく、この場から離れた方が良い。


しかしこのまま通り過ぎるのは、有り得ない選択だ。


だが踵を返して引き返すというのも、目の前の"それ"に背を向けると言うことで抵抗を感じた。


(でも、逃げないと・・・・!!)


かの連続猟奇殺人事件の犠牲者は皆、死体も見つからず、そして犯人については姿、目的、すべてが不明。


しかし、それら一連の事件は全て、この二間市の界隈で起こっている。




――――今、梓の目の前にいる"あれ"はなんなのだろう?


見間違いならそれでいい。


いや、見間違いであって欲しかった。


もし、あれが・・・・もしも、梓の想像通りなら・・・・次に"消える"のは――――




「・・・・い、やっ・・・・嫌・・・・っ」




無意識の内に、這いずってでも離れようとするが、上手くいかない。


身体が重たい鉛に変わったかのように動かしにくかった。


その違和感に、不安が焦燥へ変わる。




その時だった。




「――――え?」




先ほどと同じように、梓は驚きに目を見開く。


しかし、その表情は一転して、いっそ滑稽なまでに呆然としていた。


原因は、小雨に紛れてまたも微かに聞こえた”音”に、梓の意識が強く引き付けられたからだった。


しかもそれだけでなく、今回のそれは、これまでの不安が全くのであるのを証明するかもしれないものであったのだ。


そして、もう一度音が聞こえる。


今度はしっかりと聞き取れた。




<・・・・ミーッ・・・・>




果たして、それは細く甲高い――――とても可愛らしい声だった。




「・・・・猫の鳴き声?」




立ち上がって、目を凝らして見てみると・・・・いた。


子猫だった。


それも、見事なまでに全身が真っ黒な毛で覆われた黒猫。


件のベンチの下にちょこんと居座って、誰かが捨てていったらしいコンビニ弁当の食べ残しをつついている。


この暗さの中では、こうして近づいて、本当によく見てみないと分からなかっただろう。


それぐらい真っ黒で、小さな猫だった。


「・・・・貴方の仕業、なの?」


梓の声に答えるように、子猫は顔を上げてまたミィ、と鳴く。


その姿は小さくて弱々しくて、そしてやっぱり可愛いと思えてしまう。


しかしながら、である。


それと同じくらい、散々に震え上がらされた元凶が"コレ"という事実に、梓は猛烈な理不尽さを感じざるを得なかった。


「――――もぉ~っ!!」


途端、身体の芯をかぁっと熱くさせ、思わず叫んでしまう梓。


怪人の正体見たり、黒子猫。


何とも間抜けな結末に、情けないやら恥ずかしいやら。


そして、それにびっくりしたように子猫が震える様は、まるでさっきまでの自分だった。


(あ、有り得ない・・・・なんで、こんな時なのっ・・・・!?

あ、安心したら・・・・また・・・・)


ひとまず、張り詰めていた気分が緩んだ拍子に、またぽろりと零れ落ちてしまった涙を急いで拭い取る。


「驚かさないで、もぉ・・・・!!。

・・・・ぐすっ・・・・・私、今・・・・余裕、無いんだから・・・・!!」


と、必死に呼吸と体裁とを整えながら、虚勢混じりに憤慨する梓である。


とはいえ、その興味はすぐに子猫そのものの方へと移る。


こんなにも無邪気で、愛くるしい生き物が目の前にいるのだ。


いつまでも膨れっ面でいる方が無理だし、損していることだろう。


「・・・・大きな声出して、ごめんね。

でも、貴方って小さくて、見えないんだもの・・・・」


と、軽やかな動きで、その小さな姿へかがみ込む梓。


本当に小さな猫だった。


恐らく身体を丸めたなら、梓の両掌にさえすっぽり収まってしまうだろう。


そして、緑がかった金色の瞳以外は、体毛も肉球も見事に真っ黒だった。


まだ生まれてそう経っていないのか、近付いてくる梓に警戒の素振りを見せず、じゃれつくように鳴く。


なんだか眠たそうな半眼に、へたった耳が忙しなくピクピクする姿は、思わず抱きしめたくなるように愛くるしく、梓は自然に柔らかな笑みを浮かばせていた。


「本当に、びっくりしたのよ?

でも・・・・ふふ、可愛い」


たしなめるように言いながらも剣呑な様子はなく、梓は穏やかに手を伸ばし、指の腹でそっと頭を撫でてやる。


「こんなに濡れて、寒くないの?」


<ミー>


小さな口を大きく開けて、発せられる鳴き声は温もりと思い遣りを求めるように声高に響く。


そんな姿は、梓の庇護欲と母性とを強く喚起した。


今し方までの自分のどん底の境遇を一時忘れ、その子猫に夢中になってしまう。


(・・・・人懐こい、な・・・・)


と、今まであまり猫と接した経験の無い梓は、構おうとすれば逆に逃げていく、警戒心の強い性格、という漠然とした印象があった。


でも、この子猫はそれとは正反対で、今はつんつんと自分を撫ぜる梓の指に戯れつこうとしている。


幼いからなのか、あるいはそういう性格なのかもしれない。


どちらかといえば、この仔には後者の方であって欲しいと、勝手に考える。


(・・・・そうして私を好きになってくれるなら、私も・・・・好きになれる)


想いが届く。


愛して、そして愛される。


それはとても心安らぎ、嬉しい事だと思う。


家族のように愛し合い、お互いの事を尊重し合う。


誰もが理想とするだろう関係であるが、特に梓は強い憧憬を抱いていた。


自身の過去と、そのしがらみに翻弄され続けてきた彼女だからこそ、それは殊更に素晴らしいものに思えてならないのだった。


「貴方、お母さんは?

一緒じゃないの?」


まるで童子に話しかけるように、梓はそう言う。


答えるようにまた一声鳴く子猫。


もちろん答えになっていないし、答えたつもりもないのだろうが。


「・・・・はぐれ、ちゃったの?」


見渡す限り・・・・といっても、周りは暗闇ばかりだが、それらしい姿は見当たらない。


こうして子供一人で、ひっきりなしに鳴いているのに、それを無視して姿を眩ませている親。


微かに、その薄情さに不快感を覚える。


それとも、梓がいるから出てこないのだろうか。


「・・・・?」


考えを巡らせながら子猫を見ている内に、梓はふと奇妙なことに気がついた。


子猫は、立てないようだった。


ふらついていて、身を起こそうとすれば急に脱力して、反対側に転げてしまう。


なにより、身体中が痙攣するように酷く震えているのに、妙に動きが鈍い。


「・・・・こ、凍えているの!?」


両手で子猫に触れてみると、その推測は間違っていないことに気付いた。


ぐっしょりと濡れそぼり、その下の肌まで異様に冷えている。


――――そして、まだ身体機能の成熟していない仔猫にとって、特に体温を管理することは、生命に直結する重大事項である。

飼い主でもない梓には知る由も無い事とは言え、この状態がいかに深刻であるか、この時になってようやく認識したのだった。――――


「だめっ!!」


梓はにわかに血相を変え、迷うこと無く子猫を腕に抱いた。


それだけで着ていたキャミソールに、冷たい水が更に染み込む。


一体この雨にどれほどの間晒されていたのだろうか。


まるでたっぷりと水を吸ったスポンジのように滲み出る水気を、まずはどうにかしなければならない。


そう考えるも、今の梓の持ち物で使えそうなのは、雨を被ったポシェットの中にある湿ったハンカチ1つきりだった。


「これじゃっ・・・・でも、やらないと、この仔は・・・・!!」


梓は躊躇う事なく地面に跪き、幸いまだそこまで濡れていないポシェットの裏をベッド代わりに子猫を寝かせる。


傘を被せ、少しでも雨を遠ざけながら、梓は必死で水気を拭き取ろうとする。


白無垢の上質なハンカチはすぐに汚れ、何度も何度も絞るせいで生地も痛み出す。


それでも足りない。


小さな命の火を凍てつかせようとする、無慈悲な冷苦を拭い去るには、全く足りない。


こんなにも寒がって、苦しんでいるのに、苦難は止むこと無く増すばかり。


堪らなくなって、梓は先ほどよりも強く子猫を抱き上げ包み込んだ。


「ダメ・・・・!!。

私が、少しでも温かくするから・・・・負けないでっ。

・・・・死なないでっ・・・・!!」


それでも、やはり足りない。


雨に打たれて、梓の方もとうに冷え切ってしまっている。


少しでも暖かい場所を求め、梓は焦慮して辺りを見回す。


ふと、街灯とは少し違う暖色の灯りが、遠くに見える。


(この先は確か、小さな四阿があったはず・・・・!!

そこなら、少なくとも雨風に直接は打たれない。

それからは・・・・、っ・・・・どうすればいいの・・・・!?)


酷く混乱して、ろくに行動指針も纏まらないまま、それでも梓は駆け出していた。


幸いにして遠く見えた灯りまでの距離は、それほどでもなかった。


だがその間にもいつ、胸に抱いた小さな存在がひっそりと消えてしまわないか、梓は気が気ではなかった。


少しでも熱が伝わるよう、でも弱った身体に負担をかけないように腕の力を強くする。


脇目も振らず、挫いて痛めた足は無理やり動かした。


(・・・・寒い・・・・!!

吐く息が、白い・・・・!?

本当に、今は夏なの!?

こんな異常な冷え込みに・・・・この仔は、耐えられるの!?

急がなきゃ・・・・急がなきゃ・・・・っ!!!!)




だが、その時だった。


必死で、気忙しい梓の足取りは、不意にピタリと止まる。


行く先に、何かが無造作に転がっていた。


へたばって落ちた、妙にツヤツヤした黒っぽいもの。


初めは、ゴミ袋か何かが落ちているのかと思った。


暗闇の中、傍から見ればそうとしか見えない。


でも梓にはすぐに、これはそんなものじゃない、と気付けてしまった。


嫌が応にも、分かってしまった。


なぜならそれは、楔のように梓の心に打ち込まれた"悪夢"の中で、未だに彼女を苛み続けるのと同じ"もの"だったから。




「・・・・っ!!」




――――大きさは、一抱えほど。

そして、その塊には長い尻尾と四肢、三角系の耳があった。

二つの眼は無念を訴えかけるように薄く開かれ、濁り始めた金色の瞳が覗けた。

半開きの口から伸び切った舌は、血が通わず白く色褪せている。

やせ細った身体にこびり付いた泥。

そして、それとはまた別の、何らかの

ぐったりとして四肢を投げ出し、びくとも動かないその様は、ゾッとするようなおぞましさがある。

生あるものなら誰しもが抱く、"死"を目の当たりにすることへの恐怖を喚起する姿だった。

・・・・ふと見ると、"それ"の膨れた下腹の辺りにいくつも、なにか細かいものが転がっている。

ジャガイモみたいな大きさの、それでいて妙に艶のある、なにかのカタマリ

でもそれらも、よく見れば前後の足があり、尾があり、頭がある。

こんなにも特徴的なのに、最初はなぜ見間違えたのだろう。

果たして、答えは簡単。

それ等は皆、"見事なまでに全身が真っ黒な毛で覆われた黒猫"だったから。――――




「――――っ!!!!」



梓は息を呑み、その場に凍りついていた。


肌が粟立ち、全身に怖気が走る。


悲鳴は喉に張り付いて出てこない。


代わりに漏れ出たのは、声にならない呻き声のようなものだった。


今、目にしたものの意味するところが、あまりに恐ろしく・・・・そしてあまりに哀しくて、涙が止まらなかった。


気付くと、梓はさっきと同じようにその場に泣き崩れていた。


俯いて身を震わせ、そしてやがて咽び泣く声が漏れ出し始める。


「・・・・お母さん・・・・もう、いないのね・・・・――――」


もう二度と動くことない親の姿に、腕に抱いたその"子"は、残酷なまでによく似ていた。


「――――兄弟達も・・・・みんな・・・・」


悲しみを、苦難を分かち合えたかもしれない血の繋がった存在達も、既に死に絶えた。


この仔にはもう、一番に優しさを向けてくれる相手も、有り得たはずの絆も無い。


そして、おそらくはその事を理解すら出来ていない。


(・・・・もう何も残っていない。

置いてきぼりの・・・・独りぼっちの、子供・・・・)


胸の内を掴んで、揺さぶられていると錯覚するほどに、梓は強過ぎるシンパシーを感じていた。


この仔は、誰かが守ってあげなければならないだろうに、しかしもうその周りには誰も残っていない。


孤独に陥って、生きる術すら知らなくて、ただ悶えているしかない。


小さくて弱いその姿は、いつかの記憶の中にいた。




「・・・・私と、同じね・・・・」




梓の知る限り・・・・それは、気が狂いそうな程に苦痛で、寂しい、冷たい時間のはずだった。


冷えきった仔猫の身体へ、熱がもっと、もっと伝われと、より深く抱きしめる。


そして願わくば、一緒に知って欲しかった。


慈しむ事、思い遣る事。


その心を受け取る、温かさも。


<・・・・ミー・・・・>


梓の悲嘆を余所に、子猫はどこまでも無邪気に、愛らしく鳴く。


あまりにも、この子猫は幼かった。


家族が死に、この世界は孤独な子供1人には厳しすぎると知るにもまだ早すぎて、未だ無垢なままでいた。


仮に、このまま梓がいなくなれば、果たしてこの子猫はどうなるだろう?


考えるまでもない。


元からの衰弱、そしてこの過酷な現実に飲まれ、あっという間に野垂れ死ぬ。


誰かが守り、一緒にいてやらねばならない。


そして、梓はその役目をまだ見ぬ"誰か"へ勝手に期待し、目を背けて放り出すような、無責任な事をするつもりはなかった。


この孤独を救えるのは今、自分しかいない。


不思議そうに見上げる金色の瞳を見詰め返しながら、梓の心は既に決まっていた。


「ねぇ・・・・一緒に来ない・・・・?」


言ってから、こんな問いに意味などないことに気付く。


梓は今、母親の死さえ分からない幼子に、一生の選択を迫っている。


その重大さが理解できるはずもない。


そして拒めようはずもない。


選ぶ自由のない、不平等な取引を、梓は押し付けていた。


「――――でも、関係ない。

私と一緒に行こう?」


それでも引けない。


例え偽善でも、自己満足でも構わない。


見捨てるなんて、出来なかった。


親を亡くした仔猫への同情、そして憐憫。


確かにそんな感情もある。


でも、それは梓の心を震わせた感情の、ほんの一部でしかなかった。




「・・・・たった独りなんて、嫌だよね。

独りきりだなんて、寂しすぎるよね。

私にも、分かるよ。

良く、分かるの。

だから――――」




いつか、自分に刻まれた、そして未だ癒えぬ傷痕。


同じ痕跡を、梓は目の前の小さな命の中に見出した。


そして、涙雨に打たれ、寒さと孤独に震える・・・・同じ痛みを、癒やしてあげたかった。


幼子を授かった母親のような、深く慈しむ心を込めて、ずぶ濡れの小さな体を撫でる。


子猫は、ただ不思議そうに梓を見つめていた。


慈母のような優しい微笑みで、梓はそれに応える。




「――――独りじゃないよ。

貴方の傍には、私がいるから。

お母さんにはなれないけど、家族にはなれるの。

こんな寒さも、寂しい思いも、もうさせない・・・・。

だから・・・・このまま一緒に帰ろ?」


<ミー>




仔猫は、己を抱く優しさに甘えるように、身を預けた。


それは確かにYESの合図のように、梓には思えた。




――――To be Continued.――――



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