#5 涙雨の結末

6月7日 17時13分

上赤津馬 住宅街

ディライトクレイドル赤津馬 玄関ホール前




本当に、全く予想しなかった出会いだった。


2人にとって、あまりにも唐突な再会に、鏡写しのように呆然としていた。




光弥がその道を通ったのは、偶然だった。


にわかに降り出した小雨の中、近所の商店街へ買い物に向かう、その途上。


まだ身体の調子は戻っていなくて、坂や階段の少ない、普段はあまり通らないルートを選んで、ゆっくりと歩いていた。


そしてその結果が、これだった。


"彼女"の姿を前に、その胸に来居するのは困惑。


せっかく、ここでまた出会えたというのに、思考はまるで纏まらない。


(なんで、だ・・・・?

これ以上ない機会なんだ。

・・・・なのに・・・・僕は)


そして"彼女"の方もまた、沈黙したまま立ち尽くしていた。


高級マンションらしい、ガラスサッシ張りのエントランス前で身動ぎ一つしない様は、写真の一枚でも見詰めている気分になる。


肌を打つ小雨の感触がなければ、本当にそう勘違いしたかもしれない。


「あの」


無意識に光弥は呟いていた。


この金縛りのような状況に耐え兼ねての事だった。


その声は、世界に2人しかいなくなったように静止していたその場に、溶ける様に消えていく。


"静"から"動"へ移ろったのは、そんな僅かな切欠からだった。


「――――っ!?」


次の瞬間、"彼女"は大げさに身を震わせていた。


まるで悪夢に直面したかのように慄き、そして形の良い口許が引き攣り始める。


身体は震え出し、丸い珠のような眼は大きく見開かれ、幽霊でも見るような狼狽しきった表情となって光弥を見詰める。


その混乱の理由を訪ねようとするより先に、"彼女"は引き結ばれていた唇を開いていた。


「 嫌ぁっ !!!!」


「眞澄さん!?」


発せられたのは甲高い悲鳴だった。


思わず駆け寄ろうとする光弥だったが、"彼女"はそれにすらも反応して一層取り乱す。


度を越した困惑に我を失っているようで、光弥は動くに動けず、怯む。




「・・・・な・・・・で――――」




先刻とは違う種の金縛り状態。


しかしその時、震え戦くだけだった"彼女"が僅かに呟く。




「――――なんで・・・・ここっ・・・・。

貴方は・・・・あなた、は・・・・、あの時・・・・っ・・・・死・・・・っ」




その言葉を聞いて、光弥はようやく彼女の恐慌の原因に思い至っていた。


(そ、そうか・・・・僕があの事故にあってからの事を知らない、のか)


それは些か意外な事実だったが、ならばこの反応も納得がいく。


"彼女"は今日、学校に来なかったし、香も連絡が取れないと言っていた。


事の顛末を知る人物と会えないまま、そして今まで知る機会も無かったのだろう。


幽霊でも見たような、という表現は正にその通りだったらしい。


(それなら、さっさと事情を説明して・・・・ここを離れれば良い、のか。

・・・・それで、良いんだ。

"彼女"の為になる、っていうのはそういう事で・・・・僕に出来る事は、他には何も――――)




果たして、決めていた通りの行動が有るはずだった。


こんな風にしていたずらに混乱を与えるより、割り切った対応をして、早く"彼女"の前から去れば良い。


光弥がすべきはそれだと、理性では分かっている。




(――――筈、なのに・・・・)




けれど、光弥は目を逸らせなかった。


震え慄き、怯懦に震える、その姿。


見開かれた眼からは涙の雫が溢れてしまいそうで、痛ましく追い詰められている、その様。


誰あろう、そこから目を逸らせる筈が無かった。




――――幾日を過ぎ、幾年を経ても、未だ光弥を苛む記憶・・・・"悪夢"を思い出す。


その中の少女と、同じ泣き方をする"彼女"。


未だにそこに囚われ、沈み込んでいる姿を目の当たりし、焼け付くような無念の想いが、心の表層に引きずり出される。


(何が、"ケリを付ける"、だ。

あそこでも、ここでも・・・・ただ、見捨てているばかりじゃないか。

何も出来ないからって、まま・・・・!!)




「ひっ・・・・!?」




"彼女"が短く悲鳴を上げる。


傘を取り落として、光弥は歩み寄っていた。


拒絶するように身を捩らせ、"彼女"は後退る。


「――――大丈夫だから」


光弥は、その両手を優しく、震える華奢な肩に触れさせていた。


同じ高さの"彼女"の目線と、これまでにない程の近さで、見つめ合う。


泣き濡れるその姿を間近にし、浮ついた気持ちなぞ微塵も沸かない。


ただ、忌むべき記憶と残酷なまでに重なり、古い傷跡が抉られるだけだった。


その痛みは、様々な感情を想起させる。


目の前で悲痛な涙を流す少女への憐憫。


それを自分の手で何とかしてやりたいという思遣。


そんな考えを捨てきれないでいる、割り切れない未練がましさ。


"彼女"を傷つけていると分かっているのに、助けたいと願うのを止められない。


矛盾に焦れ、板挟みのその場で足踏みしている。


そうして、どっち着かずな自分を乗り越える道は、今ここに至っても見つけられないでいて――――


「僕はまだ生きている。

・・・・生きているんだ。

ここに・・・・まだいるんだよ」


――――そう囁く光弥の表情は、自責と自嘲の念に、酷く歪んでいた。


「あ・・・・」


すると、次第に両手から伝わる"彼女"の震えが、ゆっくりと収まっていった。


戦慄いていた眼も、やがて理性の輝きを取り戻していくようだった。




果たして、涙の潤いを帯びたままの黒曜色の瞳は、間近で見れば本当の宝石のように綺麗だった。


そして、深く艶めく漆黒の瞳に囚われているように、自分の姿が映り込む。


そんな光景を呆然と眺めていると、どこか浮世離れした不思議な感覚を覚えてしまう。




――――いや、それは嘘だった。


光弥の意識はいつしか、目の前の美貌に、魅入られてしまっていたのだ。


(・・・・本当に・・・・綺麗、だな・・・・)


真白く、張り艶に溢れる細面。


瑞々しい緋色の唇。


うっすらと化粧をしているせいもあるのか、普段の"彼女"とまるで違って見えた。


怯懦によって流れた涙も、今ではその美貌を輝かせる要素でしかないようだ。


この世のものとは思えない艶めきを帯びた"彼女"を、光弥は時間の感覚も忘れ果てる程に見詰めていた。




「あっ・・・・っ」




しかしながら、その時だった。


文字通り、目と鼻の先にある美少女の顔に、さっと赤みが差した。


光弥の方も、燃え移ったように顔が熱を帯びた。


自分が今どんな状態でいるか、数十秒ぶりに光弥は理解した。


頭からお湯をひっ被ったみたいに火照る。


「ごめんっ」


一声、びっくりしたのもあって大きめな声を出して、光弥は文字通り飛び上がって梓から身を離す。


マラソンの後のように身体が芯から熱く、ついでに心臓は高鳴りっぱなしだ。


(ど、どうかしてるっ・・・・なにやってんだか・・・・!?)


人の出入りの多かろうマンションのエントランスだと言うのに、今は周りに誰もいなくて本当に良かったと思う。


(――――いや、どちらにせよ、"彼女"相手に何やってんだ!?

女性相手にこんなに近くまで・・・・一番身近な香ちゃんとだって、ここまでやらかしたことなんて無いってのに・・・・っ。

た、他意は無い・・・・無いぞっ!?

肩を抱いた辺りまでは・・・・今思えば凄い事だけど、正真正銘、"彼女"が心配だったからで・・・・)




だが・・・・そこから先は、"不覚"と言うしかない。


本当に・・・・眼を奪われてしまった。




(――――!!

だから思い出すなってば!!)


羞恥に身悶えする光弥である。


自分の想定を頭4つ分は飛び越えた奇行に後悔が止まないも、つい視線は"彼女"を見てしまう。


すると、悩ましさの中心たる"彼女"はといえば、光弥ほど取り乱してはいなかった。


表面上は落ち着いて、掴まれた肩を両手で撫で擦るようにして、特に刺々しい態度は見られない。


ただその頬は分かりやすく真っ赤になっていて、仕草もどこか惚けていている様であった。


すると、不意に持ち上げられた上目遣いの視線とかち合って、光弥はまた更に90゚、身体ごと向き直る。


"彼女"は何かを言おうと口を開いたようだが、結局黙したままに目を伏せる。


そして、やっぱり動揺が抜けきらない足取りで、玄関扉の脇の軒下、喫煙スペースに誂えられたベンチに腰掛けてしまった。


その背を見送った光弥は・・・・割と深々と悩んだ末に、其処の対面に立つ、柱の1本に身体を預ける。


このまま背を向け、「僕は元気でした、さようなら」と立ち去るのは、あんまりに無責任で情けなさ過ぎる気がしたからだった。




果たして、奥まった構造の玄関ポーチの軒下で、2人は黙りこくっていた。


左手からは、エントランスホールの常夜灯からの光が差し込まれ、そして正面には物憂げに座る"彼女"がいる。


とは言っても、目の前のその横顔へ、何かをしようとする気概があるわけでもない。


先程の行動も合わせ、己の優柔不断さに酷く落胆する光弥。


気付けば、軒から垂れ落ちる雨滴の方に、逃げるように視線を向けていた。




「ねぇ、どうして?」




どのくらい、そうしていただろう。


唐突に、遠慮がちに囁くような声で、"彼女"が言葉を発した。


何がどうして、なのだろう?


問い返すように視線を向ける。


「目の前で、撥ねられたのに。

・・・・絶対に、もう・・・・って・・・・そう、思ったのに」


大いに逡巡し、迷いながら繋ぎ合わせたその言葉は、純粋な疑問だった。


邪気は無く、今ここに光弥が居ることを不思議がっていた。


何故だかホッとしてしまう。


「あぁ、うん――――」


誤魔化すように唸って、しかし言葉は出せずに言い淀む。


言いかけたが、躊躇っていた。


その気になれば、光弥は昨日の午後から今に至るまでの事を事細かに語ることが出来る。


忘れてしまうには、あまりに苛烈な出来事が多すぎた。


知らず、光弥は自らの右腕の腕輪をじっと見つめていた。


「――――色々あったんだ。

本当に色々な事があって、誰かに話すどころか・・・・自分でもどこから整理してけば良いか、迷うくらいに・・・・」


「・・・・・・・・・・」


ふと顔を上げると、神妙な表情をした"彼女"と眼が合う。


質問の答えを待って、静々として光弥を見詰めている表情。


(・・・・もしもここで、今までの事を全て話したとしたら・・・・その内のどれくらいを、"彼女"は信じてくれるんだろうな・・・・)


少し興味はあったが、実行できる勇気は無かった。


ともなれば、詰まるところ何も言えることは無い。


あの事故の事に限ったとしても、半分以上が分からない事であるし。


"彼女"の物言いたげな視線は感じるが、頭の中は真っ白だった。


「正直、なんでこんな結果になったのか分からないんだ。

・・・・分からないけど・・・・でも、今あるのは、誰も悲しまない結果なんだ。

だからそれで終われたんなら、素直に受け止めて良いかな、とは思う」


だが、意思に反して、言葉は抵抗なく口から滑り出ていた。


なぜか"彼女"には自然と言うことが出来た。


真実ではないが、しかし紛れもない自分の本音を。


「――――訳の分からないままで、それでも必死でやった。

酷い目に遭ったけど・・・・それでも、何もしなかったよりも、ずっと良い結果に出来たと思う。

身体を動かせて、息を吸えて、人と話ができる。

・・・・ここに今、生きている。

そんな結果に、こうして立てていて・・・・凄く良いなって、思う」


「・・・・・・・・・・」


心臓の鼓動がいつもより早かった。


衝動のままに言葉を発したまでで、聞いてる方はそれが一体何に対しての感想なのか、分からないに違いない。


高みから飛び降りるような、そんな気持ちで一息に行った言葉だった。


ただそれゆえに、きっとそこには嘘偽りのない気持ちが込められていた。


それを"彼女"も解ってくれたのだろうか?


あるいは、喜色を浮かべる光弥に釣られただけかもしれない。


けれども、確かに"彼女"のその横顔には、僅かにでも微笑みがあるように見えた。


「・・・・そうね」


その表情を目にした光弥は、それまで感じていた重い帳のようなものが、取り払われた感触がした。


互いに押し黙っている点は、変わらない。


ただ、その静けさはもう、ただ息苦しいだけのものでは無くなっていた。


「心配だったんだ。

何事もないって聞いてはいたけど、状況が状況だったから自信なかったし」


「・・・・皆、心配いらない。

貴方の、おかげで」


やや間を置くも、返事はくる。


それは、確かに光弥と、そして"梓"とが、会話をしている証だった。


「・・・・ごめん、思い切り突き飛ばして」


「・・・・うん・・・・」


今までの2人の関係からすれば、有り得ないと言えるまでの光景だった。


しかし今、光弥と梓は、不思議なほど純粋に言葉を交わし合えていた。


「凄い所に住んでたんだ。

キレイで新しくて、有名な所だよね」


「・・・・ここはただのだから、本当に私の家って気はしてないの。

それに・・・・独りじゃ、広すぎて・・・・あまり好きじゃなくて・・・・」


「一人・・・・?

でも、君は僕よりも先に――――」


「”眞澄”の家は、私を引き取ってくれた。

・・・・でもそれだけで、全て上手くなんていかない」


そう言って、梓は物憂げに俯く。


彼女の長い前髪が枝垂れ、表情が覆い隠される。


光弥の観察が間違っていなければ、その口元には自嘲じみた、寂しげな笑みがあった。


「私・・・・ずっと遠巻きにされてたの。

・・・・私の方も、心を開けないでいて・・・・。

嫌いあってる訳じゃない。

そんな事、無い。

けど・・・・信頼できないまま、ずっと・・・・」


初めて聞かされる、梓もまた同じ様に塞ぎ込んでいたという過去の話に、光弥は聞き入っていた。


とても新鮮であり、しかし同時にどこか共感をせざる得ない気分を掻き立てる。


そして梓もまた、聞いて欲しい、という気持ちが透けて見えるように、饒舌だった。


しとしとと絶え間ない雨音の中でも、梓の涼やかな声はよく耳に届く。


光弥には、それがなんだか、とても心地良かった。


「――――この街から引っ越すって話だって、言われたのは急だったの。

でも・・・・私はついて行きたくないって、

・・・・"あの二人"は、「貴方は優秀だから、きっと大丈夫」って・・・・住む場所も世話してくれて、お金もいっぱい送ってくれている。

・・・・そうすれば、もう連絡だって取り合わないでいいもの」


"あの二人"――――仮にも、自分の育ての親へ、そんなぞんざいな言い回しをした事に、光弥はどきりとする。


揶揄する色は無い。


だが、傍で聞いてもはっきり分かるくらいの、遠慮と距離感とが滲み出ていた。


臍を噛むその口元からは、2人への申し訳なさと同時に、僅かな苛立ちが読み取れる。


きっと梓の親御達は、形の上では彼女の決断を応援して送り出した事になる。


でもそれはたぶん、梓の欲しかった反応ではなかったのだろう。


奥にある気持ちを、光弥は少しだけ予想できた。


――――例えば、同じ屋根の下で最も近くにいる人、敬いたい人が、そっぽを向いて何一つ親身になってくれない。


それは想像するだに悔しくて、そして悲しい事だろうと、光弥にも思えた。


「でも・・・・別に、それで良かったの。

・・・・私がまだ、ここを離れたくないのは、本当だったから」


その呟きは一見、ただの強がりのようだったが、簡単にそうだと決めつけさせない、はっきりとした強い語調が伴っていた。


そうして凛とした姿でいられるのは、苦悩や確執を経ても挫けないもの・・・・彼女が"眞澄 梓"として歩む内に見つけられた、譲れない何かを基底にしているから、なのだろうか。


「――――貴方は、買い物?」


「あ、あぁ。

僕も一人暮らしで家に食べ物なかったから、出来合いのものでも買って楽しようと思って」


「・・・・一人、なの」


「今は、ね。

・・・・僕にも、僕を世話してくれた大事な人がいた。

大事な事を、たくさん教えてくれた。

その感謝は、きっとしてもしきれない。

今までも、そしてこれからも、一生」


今度は、梓が質問を投げかける。


それに対し、大恩ある師の姿を脳裏に浮かべながら、光弥は同意を示す。


思い悩む様子なんて一切無いその言葉を聞いた梓は、どこか眩しそうな微笑みを浮かべる。


「あのさ・・・・あの子達も平気、だよね?」


「明癒ちゃんと、りょう君?」


ややあって、もう一つ光弥が気がかりだったあの姉弟のことを聞く。


元々元気の無い様子だったのに、目の前で起こった事件で余計な傷を受けてはいないか、ずっと気がかりだった。


「あぁ・・・・でも、何事も無い訳ない、か。

明癒ちゃん、足痛めてたよね?」


「あれは、ただ捻っただけみたい。

・・・・それでも、歩けないくらい痛いのに、迷惑かけたくないからって一人で我慢して。

・・・・心配させて」


そうして身を縮こませる梓は、その2人の事を心底案じているようだった。


光弥は、そんな彼女の想いの深さが、少し不思議に感じられた。


「ホントに、仲が良いんだ。

・・・・本当の姉弟、みたいだ」


梓は、光弥の問を聞くと、思わずと言った風に小さくはにかんで微笑んだ。


なにか、とても大事な光景を思い出したかのように、その眼は優しげに細められていた。


「もしかしたら私も・・・・そう思ってる、かもしれない。

きっと、小さな妹や弟がいたなら、こうして・・・・心を許せる、とても近くに感じる存在なんじゃないかなって・・・・」


「・・・・そう、なんだ」


「・・・・あの子達と最初に会ったのは、5年くらい前なの。

けど、もっと長い気もするの。

それぐらい、いつも近くにいた、気がする――――」


ぼんやりと、夢物語をするかのようにとりとめもなく話す梓。


だが、ふとその彷徨わせていた視線をしっかりと光弥へ向ける。


その眼差しの先へ、強く何事かを訴えかけたい。


そんな気持ちが顕れた動作。


勘違いかも知れないが、光弥にはそのように思えて、胸が高鳴った。


「――――あの子達は"似ていた"から。

だから、出会った時から放って置けなかったの。

私がなんとかしてあげたいって・・・・そう思えて、ならなくて・・・・」


しかし、そこまで口にした途端、梓はふと口を噤んでしまった。


俯き、まるで触れ得ざる事に触れた自分の饒舌さを戒めたがるように、頭を振る。


果たして、それきり黙りこくってしまった梓の心情は、光弥の理解の及ぶところではない。


ただやはり、梓があの姉弟を想う気持ちは本物で、それが故に心を痛めているのだとは、かろうじて分かる。


分かった所で、光弥がどうすればいいかは正直、判然としない。


だから、分からないなりに光弥もまた、自分の気持ちのままに動く事しか出来なかった。


「僕はこの通り、大丈夫さ。

心配かけて、ごめん。

それから、びっくりもさせて・・・・ごめん。

そう・・・・会ったら、言っておいてくれないかな?」


明癒と遼哉に近付かないでと言った、あの時の梓の剣幕を、光弥は忘れられないでいた。


だから、些か情けなくも、こんな風に伝言を頼むくらいしか、行動を起こせないでいる。


でも、それくらい慎重に、乱暴に立ち入ってはならない関係というのもある事だろう。


梓にとって、あの2人とはそれくらい大事に思う人物であるようだから。


そして、梓はこくりと、投げかけられた言葉をゆっくりと呑み下すように頷いて、極々か細い寝息のように小さな音を発する。




「・・・・ぅん・・・・」




併せて見れば、かろうじて首肯だと判断できなくもない。


だが、そんな見間違いのような"YES"を受け取れただけでも、光弥の気持ちはとてつもなく軽くなった。


自分の行動、そしてそこへ懸けた命に、今ようやく意味が与えられた気がしていたのだ。


本当の弟妹のように案じている明癒と遼哉に何かあれば、梓はきっと深く悲しみ、そしてあの痛ましい涙を流すだろう。


それは、逆もまた然り。


そんな痛みを、昨日の光弥の行動は防ぐ事が出来た。


自分では酷い目に遭った事しか覚えてないが、決して小さくはない成果となり、そして彼女を"助ける事が出来た"。


今更のように、光弥はそう実感していた。


「良い結果に、なったんだな。

・・・・だったら僕も、身体張った甲斐があったってもんだな。

無駄にならなくって良かったよ、はは・・・・っ」


茶化し半分、一方でどこか誇らし気な気持ちを、思わず声に出す光弥。




「――――なんでもないような顔で、笑わないで」




ところが、それに対して返ってきたのは、憤った強い声だった。


吃驚した光弥が梓の方を見ると、視線同士がぶつかり合う。


ひどく苛立った、剣呑な表情がこちらに向けられていた。


火が付いたように、急に現された激情に、光弥は言葉を詰まらせる。


「本当に分かってるの!?

貴方は・・・・死にかけた、のにっ!!

・・・・どうしてそんな事をするの・・・・っ」


それすらもまたもどかしそうに、梓は身を乗り出して激しく光弥を問い詰める。


本当に分からないと思っているだろう、焦燥した表情だった。


梓の剣幕に困惑する光弥だったが、何か誤解を与えてしまっているかもしれない、とは咄嗟に思い至る。


しかし光弥は、強がった訳でも、あの危難を軽く考えている訳でもない。


まずそこは、伝えなきゃいけない所だろうと、順序立てる。


「・・・・確かに、恐かった。

下手をすれば、死んでいたかもしれないんだ。

それだけじゃなく、その後もいろいろあってさ――――」


しっかりと答えなきゃならない。


こんなにも近くで言葉を交わせている今こそ、"今の光弥"の想いを伝える、絶好の機会なのだから。


「――――死ぬ。

"自分"というものが消える。

それは、凄く恐かった。

その瞬間が迫った時、僕は確かに死にたくない、生きたいって叫んでた。

・・・・そういう想いは確かにあった」


何の因果か、同じ日にニ度も、光弥は生命の危機に瀕した。


その両共に、光弥は自分の命を失う瞬間を覚悟し、恐怖していた。


恐怖を生み出す大本は、生存本能。


全ての命あるものが持つ、当然のものだ。


光弥にだって無論、それはある。


「・・・・でも、それよりも恐い事があったんだ。

少なくともあの時は、"また"何も出来ずに終わってしまう方が、ずっと恐ろしかった――――」


けれど、あの事故の瞬間・・・・梓達が危機に陥っている姿を見た瞬間、そんなは頭から吹っ飛んでいた。


光弥はもう、気づいていた。


今の自分が、本当に求めるものに。


「――――己の意地に、向き合え。

そう言われてきた。

だから僕は、そうしたい。

例え、もう一度同じことがあっても、僕は絶対に助けるよ。

知っている人、関わった人が傷つくのを、みすみす見ていることなんて出来ない。

"出来るはずが無い"んだ。

何よりも、それを認める自分自身を、許せないから」


その時、光弥の鳶色の瞳は、愚直なほど真っ直ぐに、梓に向けられていた。


その口から発せられる言葉は、一切の淀み無く、力強く響いた。


それが偽り無い意思を示している証だと、分かり過ぎる程に分かってしまう。


頑迷なまでに真っ直ぐな誠意は、ともすれば向ける相手を威圧しかねないほどに強い。


「眼の前で、誰かに、何かが起こるのだとしたら、僕はそこに手を伸ばさなきゃならないんだ。

もう後悔したくない。

皆を・・・・"君"を傷付けた、あの時を・・・・繰り返したくないんだ」




今までとはまるで違う、決然とした姿に、梓は目を見張った。


ところが、それに対する梓の応えは、その眦から流す涙の一雫だった。




「――――やっぱりあなたは・・・・何も分かってない」




唐突に流された涙に動揺したのも束の間、反論を許さないような強い眼差しが光弥に突きつけられる。


言葉に詰まる光弥に、梓はなおも激しく言葉を投げかける。


「・・・・皆、心配してたの。

当たり前じゃない。

香達も・・・・明癒ちゃんもりょう君も・・・・!!」


そこで一旦、梓は言葉を切った。


何かを言いかけたようだったが、激しい逡巡の末に不自然に言葉を飲み込んだようだった。


「それは・・・・」


「・・・・どうして、それを裏切るの?

どうしていつも、傍にいる人を無視するの?

――――それが、何よりその"関わった人"を傷つけることになるって、でしょう!?」


斬りつけるように放たれる声は、これ以上ない正論だった。


正木が、香が傷ついていた。


梓にだって、きっと傷は刻まれている。


それは、自分でも目にしている。


心苦しさを覚えなかったわけじゃない。


「・・・・怖かったんでしょう?

死にたくなんてないんでしょう?

・・・・今も、そんなに怯えてるのに・・・・なのに・・・・」


驚くあまりに、迂闊に体を強ばらせてしまう。


それが図星を突かれた何よりの証拠か。


「――――凄いな、自分でも気付かなかったよ」


「話を・・・・逸らさないで」


あくまで梓の声は厳しいままだった。


答えを聞くまでは、決して手を緩めない気持ちなのだろう。


引っかかるものがあって、光弥はグッと押し黙った。


怖くて、不安で、だとしてもそうして縮こまっていては何も掴めないと、光弥は知っていた。


生命の危険を・・・・そして、異形のバケモノを恐れようとも、光弥は戦い抜いた。


諦めずに進み続けたから、大事な人がいる今、ここに居られる。


苦難を退けたことへの、感謝や称賛が欲しい訳じゃない。


ただ、蹲って下を眺めていても、未来は変えられないと思っているが故に、光弥は・・・・"日神 光弥"は、立ち上がらねば済まないのだ。


「・・・・誰かが傷つく。

誰かを喪う。

そんなこと、無い方が良いに決まってる。

自分が動けば、助けられた。

手を伸ばせば、届く時だった。

だったら、全力でそれをやり切るしかない、だろ」


「――――だからって!!

それで傷ついて、死にそうになって!!

それでも・・・・まだそれで良いって言えるのっ!?」


「良いも悪いもないんだ。

あの時、誰かが動かなきゃ、皆は大変なことになってたんだ!!」


仮にあの時、光弥が何もしなかったらどうなっていただろう。


猛スピードで突っ込んでくる鉄塊に梓達が気づいたのは、もう逃げることもできないほど接近された後だった。


あの時、他に誰かが何か出来たとは思えない。


光弥、梓、明癒、遼哉、あるいは皆が命を落としていたかもしれない、瀬戸際だった。


結果論だが、全員が大した怪我なく済んだのは奇跡と言っても良い。


それは、光弥を命を懸けて呼び込んだ奇跡の筈。


責められる謂れなんて無い、筈。


そんな風にだんだん熱くなっていく自分の思考を感じた。


「バカっ!!」


そんな傲慢さを見抜いたように、梓は声を張り上げる。


「誰も・・・・助けて欲しいなんて言ってない!!

なのに、自分の理由で勝手に飛び込んできて、勝手に死にかけてっ。

・・・・こんなに心配させて、苦しませてっ。

なのに、関係無いなんて顔で、勝手に納得してないで!!」




――――なんなんだよ!!


そう怒鳴り散らしたい衝動に駆られた。


助けない方が良かったのか?


光弥はどうすればよかった?


大事な人を見捨てて、"また"みっともなく長らえれば満足だったのか?


どうしてそんなにも辛そうに泣く?


その涙は何のために流れている?


一体、何を求めている?――――


「・・・・無責、任よ・・・・。

わた、し・・・・私は・・・・っ」


心の中で憤りと疑問がうねり荒ぶって、梓の悲痛な表情が尚更に感情を乱れさせる。


思考はめちゃくちゃで、訳が分からなくなっていた。


そして、それら全てを整え直すには、光弥はまだ若すぎた。


思考は飛び散って、過程をすっ飛ばして結論に至る。


まだ幾つも言うべきことはあるはずなのに、激情と一緒に自分の本懐だけが漏れ出てしまっていた。


「それでも"オレ"はっ!!――――」


まるで癇癪を起こした子供のような、見苦しい激し方だと思う。


光弥が言わんとするのは、ただ自分の"意地"だった。


自分勝手の押し付けであって、理屈なんてまるで伴っていない。


でも、決して曲げられなかった。


これは光弥が、"日神 光弥"であるための意地だったから。


「――――オレはもう、何もしないまま、終わりたくはないんだ!!」




身を捩って光弥を見上げていた梓の体が、ゆらりと揺れる。


風に吹かれたロウソクのように、2人の怒りの火は霧散していた。


互いの、諦観と憔悴を宿した、色のない瞳を見て、分かってしまった。


2人は今、出会って、言葉を交わした。


それによって平行線だった間柄は、確かに変化した。


互いの想いは、まるで方向性を違えている事に気が付いてしまった。


平行線は寄り添い交差し――――そして突き抜け、遠ざかったのだ。


されど、この想いのぶつけ合いに、是非は無いのだろう。


ただ、譲れなかった。


これまで築き上げてきた互いの"我"が、合わない鍵と錠のように、互いを認められなかった。


光弥は、切り立った崖と分厚い壁が、同時に目の前にある気すらしていた。


声を張り上げ、手を伸ばして、ようやく気付いた行き止まりの閉塞感。


2人の想いの行先は、こんなにも遠く隔てられてしまっていた。


(――――なら・・・・もう、終わろう。

もう・・・・繰り返すのは・・・・嫌だ)


思っていたのとは違う結末、その幻に踊らされて・・・・行き着く結果は、結局同じ。


あるいはそれはただ、諦めただけなのかもしれない。


それでも光弥は、”ケリをつける”と決めた。


そうする事で、もう"彼女"を、解放してやりたかった。




「・・・・ごめん、"眞澄さん"」


「・・・・!!」


「分かってたのに、また僕は、繰り返した。

・・・・やっぱり、ダメなんだな。

どうあっても僕は、眞澄さんを傷付けてばかりだ。

・・・・だからもう、これで終わらないといけないんだ」


「――――っ」


俯きながら呟く光弥の耳に、小さく息を呑む音が聞こえる。


勝手な言い分だとは十二分に分かっている。


けれど、やっぱりどうあがいても、時計の針は戻せない。


だったらせめて、光弥は今の"彼女"を取り巻くもの達と共に"未来"へ進んで欲しかった。


このまま啀み合っているより、その方がきっと、ずっと良い。


甘ったれた、希望的観測が大部分。


それでも、光弥は真摯な想いで、ここまで抱え込んできた決心の中身を、"彼女"へ明かす。


「身勝手で、ずるくて・・・・本当に、ごめんなさい。

でも、もう眞澄さんはきっと、今のまま変わっていけるんだ。

眞澄さんの周りにいる大事な人を、大切にして欲しい。

やっぱり、過去は・・・・僕が失わせてしまった全部は、埋め合わせることなんて出来ないんだ。

なら、せめてその先で・・・・幸せになって下さい。

こんな・・・・大事な物を奪った酷い奴は、何とでも思ってくれて良い。

見捨ててしまって構わない。

それでも・・・・僕も、"日神 光弥"として、最期まで生きてみせる。

もう取り返せない、”あの時”に、報いるために」




光弥の答えと、願いとを聞いた"彼女"は、やがてふるふると、儚げに頭を振った。




「・・・・本当に、貴方は勝手なのね。

そんなにも・・・・自分の意思をぶつけて・・・・。

そうして、押し退けて・・・・行ってしまう――――」


か細くそう告げる声は濡れていた。


「――――もう、やめて。

もう・・・・聞きたくない」


否定の言葉は、こうして全てを投げ捨てた光弥への失望から湧き出たものなのだろう。


どんな想いで、それを口にしたのか。


怒りなのか、悲しみなのかも、分からない。


ただ、そこに込もっているのが、あの時と同じ拒絶の意なのは、はっきりと分かる。




やがて、気が付くと"彼女"は立ち上がっていた。


小雨の中に歩き出し、傘を広げる。


去りゆくその背中を、光弥は見つめていた。


止めようとは思わない。


ただ、改めて思い知っていた。


2人を隔てた時間と想いの、その大きさを。


胸を貫かれるような悔恨と失意に、絞り出す声は震えていた。


それでもどうにか、光弥はもう一度"彼女"に謝罪を伝えた。


心からの言葉を表せる、最後の機会のつもりで。


「――――ごめん。

やっぱり・・・・償える事なんて、言える言葉なんて、何も無かった。

・・・・これじゃ結局、"昔"と一緒だった」


「・・・・分かっているのに、どうして来たの?

何かが出来るって、思って来たの・・・・?」


「・・・・うん」




会話は、それきりで途切れる。


光弥の呟きに、"彼女"は押し黙り、応えようとしなかった。


まるで、痛みをじっと噛み殺しているような沈黙だった。


光弥は・・・・こんな風にまた傷付けてしまわずに、もっと優しく、穏やかな別れを選べたのではないのか。


そんな苦い悔いは、いつだって後からやってくる。


やがて、ゆっくり、ゆっくりと"彼女"は歩き去っていく。


遠ざかる背を、ただ黙って見送る。


それで良いと、心に決めた。


・・・・決めてしまった、から。




ふと、"彼女"が立ち止まっていた。


そして徐ろに光弥を振り返ったのは、自分を苦しめ続けた元凶を最後に見届けたかったのだろうか。


光弥には、もうきっと分からない。


でも、こちらを見詰める"彼女"の潤んだ瞳は、やっぱり綺麗だった。


「・・・・貴方に、人を救うなんて出来ない。

ただこうして、傷跡を深くする、だけ。

・・・・結局、”何も見えていない”・・・・残酷な人」




"彼女"からの最後通牒は濡れて、震えていた。


ドクンと、心臓が跳ね上がる。


それでも光弥は何も言えなかった。


光弥の応えを待つように佇むその背に、何の返事も出来なかった。


なぜならば、光弥の積み上げてきた意志、全てを否定するその言葉を・・・・そうなのだろうと諦め、認めるしかなかったから。


悲しみ、その事実を投げかける"彼女"が、全てを証していたから。


光弥は目を伏せ――――


「ごめん」


――――頷いた。



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