#4 Hurts -痕責-

――――鈍色の曇天、振りそぼる雨。

煙る視界、その向こうに立つ”彼”。

刹那の雷光、白と赤。

目に耳に、心に刻み込まれたその光景。

悪夢は私に絡みついたまま、決して離れようとはしてくれない――――




6月7日 14時26分

上赤津馬 住宅街

ディライトクレイドル赤津馬 303号室




その真新しい10階建てマンションは、比較的に高級な住宅の立ち並ぶこの地域でも、”中の上”といった物件だった。


低階層とはいえ、角部屋の3LDKともなれば、1人暮らしには些か贅沢な待遇とも言えるかもしれない。


事実、居室内は広さに対して家具が少ないのが目立つが、それでも白色と木目を基調とした内装で上品にコーディネイトされていた。


心落ち着くアロマが香り、派手な色見も少ない素朴な景観は、そのままモデルルームとして使われていても違和感の無いほどの整い具合である。


丁寧に整理整頓を行き届かせた中に、上手に生活感を紛れ込ませる手管は、家主の几帳面さとセンスの良さを伺わせる。


また、清潔な居室は断熱性と遮音性にも秀でており、外の湿気や雑音もまるで届かず、一定の気温と静寂に保たれていた。


しかし、そんな静けさはやがて、”ベッドルーム”に宛てられた一部屋の、掛け布団代わりのタオルケットの柔らかな布連れによって、僅かに押し退けられることになる。


次いで、全身を包み込むように大きなベッドから、徐ろに起き上がる、1人の少女。


その艶やかな黒髪の枝垂れる様は、窓のブラインドから漏れる夕陽を照り返して、煌めいた。


「・・・・んぅ・・・・」


眞澄 梓は、どこか幼い仕草で目元を擦り、それから枕元の目覚まし時計を見た。


「・・・・夕方」


寝起きの少し呂律の回るない口調で呟き、次いでため息を吐く。


重力がいつもより重く感じ、背中が自然と丸まってしまう。


身体を伸ばしてみても気だるい虚脱感の方が大きいのは、あまりいい休息を取れていない証拠だった。


「――――何やってるの、私・・・・」




今日は木曜日、平日である。


学生の身の上である梓は、言わずもがな学校へ行かなくてはならない。


だというのに、そんな彼女が、この時間まで布団に包まって寝ていたとはつまり、自主休校そういうことなのである。


しかしながら、誤解の無いように言っておくと、梓は海晶学園でも指折りの成績優秀者だ。


普段の生活態度とて真面目そのものであり、1年生の時分には図らずも優秀生徒として表彰された事もある。


だから、そんな梓が学校を勝手に休んでまで、眠りに現状とは、実は大いに重たい理由の上だった。


「・・・・・・・・・」


不規則な休眠から、頭や身体が完全に起動するまでは時間がかかる。


寝室には6月らしい蒸し暑さが充満していて、冷房を付けていない現状ではじっとりと汗ばむ。


その不快さを糧に、梓は無理矢理に意識を引き上げ、ベッドに座る体制を取る。


すると、視界の端に、枕元に置いたスマートフォンの光が引っかかる。


隅の小さなランプが、緑色に規則的に発光していた。


その点滅するに至った、メッセージの送り主は、見なくても分かった。


分かった上で、しかし梓はあからさまに、これから目を逸らしていた。


「・・・・・・・・・」


昨日から、随分と溜まっている筈の香からの連絡を無視して、悪いとは思う。


それでも・・・・梓はどうしても、手を伸ばすどころか見ることも避けたがって、逃げるように立ち上がっていた。


寄る辺も定めないままふらふらと進めた足取りは、寝室の隅の大きなスタイリングミラーの前に辿り着く。


「・・・・だらしない」


と、梓はそこに映った自分の身なりに、思わずそう呟いて小さく息を吐いていた。


形の良い目元は、不規則な睡眠のせいで少し腫れぼったくなっていた。


肌は寝汗でべとついていて、腰元までの黒髪も寝癖でぴょんぴょんと跳ねている。


しかもよっぽど寝苦しかったのか、上下一揃いのパジャマはくしゃくしゃに乱れている。


すっかりはだけた胸元からは、身につけた下着。


更には、それに包まれている豊かな膨らみまでも零れかかって、揺れていた。


「・・・・・・・・・」


鏡の中のじぶんに、そんな姿をしげしげと見られ、なんとなく気恥ずかしくなる。


梓は、その視線から身体を庇い、それからふとまた嘆息していた。


「・・・・とりあえず――――」


学校をサボって、連絡も無視し、すっかり寝過ごした。


もはや自堕落の極みのような一日であっても、こんな醜態を晒しているのは女性として我慢ならない。


「――――シャワー、ね」


なので、梓はまずは自身の目覚めの日課を行うことに決めていた。




・・・・

・・・

・・




果たして、梓の向かった先はバスルーム。


基本的に早寝早起きである梓は、毎朝出かける前にゆっくりとシャワーを浴び、寝汗と寝癖をしっかり退治するのが常だった。


脱衣所でパジャマと下着を脱ぎ去り、まろびでる円やかな裸身にバスタオルをきっちりと巻く。


そして、長く黒い髪をヘアピンで留めて、やや手狭ながらも独立した浴室へと、いよいよ足を踏み入れる。


シャワーのノブを捻ると、すぐに適温の温水がノズルから流れ出した。


程好い温度のお湯が、珠のような肌の上を滴り落ちてゆく時の感触に、思わず恍惚としたため息がでてしまう。


砂漠の植物が雨を浴びたときの気持ちが、分かる気がする。


身体も心も潤っていって、同時に奥底の澱みまでもが流されて抜け出ていくようだった。


「・・・・気持ち良い・・・・」


ひとしきり柔らかなシャワーを浴びた後、梓はヘアピンを外し、その長い髪を解く。


漆黒の柳髪は、水気を帯びることによって殊更に光輝を増し、しかもほつれや傷みとも無縁なようだった。


これも偏に、梓が子供の頃からずっと手入れを欠かさずにいた、その努力の結晶である。


芳醇な香りを立たせるシャンプーの真っ白な泡を、黒く艶めく髪へと優しく揉み込み、そして丹念に磨くように洗っていく。


ここまで長く美しい毛並みを維持するには、毎日ひどく手間がかかるが、梓は別段これを苦に感じたことは無かった。


故に、手入れを一日たりとも欠かした事は無いし、またそれに応えるように絢爛な輝きは、梓に相応の自信を抱かせてもいた。


女にとって、髪は命・・・・とまで言うつもりはないが、少なくとも梓の持っているものの中で、一番思い入れの込もったものであるのは確かだった。


(・・・・それに、明癒ちゃんもりょう君も、香も・・・・よく綺麗って褒めてくれるもの、ね。

・・・・私、けっこう乗せられ易いのかもしれない)


真偽はどうであれ、とにかく拘った結果に賛辞を受けようものなら、より一層に費やす時間や、熱意がいや増していくのが人間というものである。


だから、現金なものだと苦笑いしつつも、大事な友達に褒められること自体は、やっぱり悪い気はしないのだった。


だが、その時。


不意に梓の笑顔は萎み、淀みなく動いていた手付きまでも止まる。


少しだけ振り返った記憶の淵に、何か気持ち悪いものが引っかかっている感触。


まるで、忘れていた事を非難するように、ズキリと胸の内が疼いていた。


大事な友達と、2人の姉弟の顔。


けれど、今日はそこに、もう1つの顔が浮かび上がる。


そして同時に、までもが、否応無しに思い出されてしまう。




「・・・・・・・・・」




――――始まりは、風紀委員の3年生に声をかけられる、という普段とは違う出来事から。


最近、遅刻しがちらしい友人への伝言を頼まれ、繋がらない電話に焦れて、もしやと外を見に行けば・・・・案の定。


香の交友関係は知っていたし、正直言えばいずれはこうなるだろうとは思っていた。


そして、梓は・・・・とうとう、もう絶対に関わらないよう避けていた"彼"と、顔を合わせてしまった。


(――――会いたくなんて、ない。

顔を合わせても、ただ不快なだけ。

・・・・何も、変わらない)


卑屈に俯く、その姿。


何も言葉を発さない、その態度。


陰鬱として縮こまる、"彼"の様子。


不快で、そしてそれを見るたびに苛立つ自分がいた。


「・・・・もう、関係ない」


硬い表情のまま、梓はシャワーのノブを捻り、再び温水を噴出させた。


緩い水流を使って、付着した泡を洗い流していく。


先程と同じように、ゆっくり、丹念に。


けれど、どんなに丁寧に洗ってみても、心にこびり付いた暗い澱みを洗い流すまでには至らない。


次第に、長い髪を扱う手付きもどこか上の空なものになっていた。


身体だけは覚えこんだ日課を実行しているも、意識は別の場所を彷徨っている。


次いで、梓は自身の身体を清め始めた。


年齢不相応なまでに艶めかしい曲線を描く肢体を、黙々とボディソープを含んだスポンジで撫でる。


しかし、その最中も脳裏に思い浮かぶのは、ひたすらに"彼"の事だった。


鳶色の髪と、瞳。


少年のような快活な雰囲気、けれど時折鋭い眼光を垣間見せる。


なのに、梓を見詰めるのは、そんな強い光がまやかしだったのかと思うほどに暗く、堕ちた瞳。


見覚えのある、色。


梓の過去に"楔"を打ち込んだ存在。


気付けば、唇が勝手にその名を紡ぎだしていた。




「・・・・"日神 光弥"・・・・」




――――いつになく早く授業の終わった、学校からの帰り道。


"彼"は、明癒と遼哉と、共にいた。


待ち合わせに駆けつけた梓は、その光景に疑問と、何故だかを抱いて、近寄った。


(・・・・明癒ちゃんの怪我は、聞いてたような軽いものなんかじゃない。

私、それに凄くびっくりして、焦って・・・・なのに、あの子ったら、会えた事に無邪気に喜んでくれてたけど。

でも、すぐにでもきちんと治療しなきゃいけないから・・・・そのまま、強引にでも連れて行こうとした・・・・)


それによって、困惑する2人の気持には、目を逸らして。


背後で、何か言いたげで、されど儚い笑みであっさりと諦めた"彼"の事も、拒絶して。


その時、梓が怖がっていたのは、きっと"彼"がのではと、考えていたからだった。


たぶん、そんな気持ちが一番近いかもしれない。


けれど、予想とは違って、明癒も遼哉も"彼"に対して好意的だった。


優しい、良い人。


信頼できる人。


姉弟は、そう言った。


確かに、学校での"彼"はいつも賑やかな輪の中にいた。


そして、あの場所では"彼"を嫌う声も、"彼"を疎む者も、ほとんど見かけない。


穏やかな焚き火のように明朗な振る舞いはいつも分け隔て無く注がれていて、困っている人がいるなら手を差し出すことを躊躇わない。




「・・・・でも、そうじゃない」




優しい人。


信頼できる人。


責任感が強く、困っている人を放って置けない。


そのどれもが事実なんだろう。


けれど、同時にそのどれもが偽りだ。


梓だけは、その真の姿を知っていた。




――――彼は、卑怯者だ。


彼は、嘘を吐き続けている。


何もかもを受け止めているふりをして、何もかもを誤魔化している。


彼は、卑怯者だ。


彼は、決して真実を言わない。


どんな結果でも、どんな理由があっても、周りに悟らせまいと黙りこくる。


全てを、自分の中だけで終わらせたがる。


臆病に断罪だけを求め、贖罪を怠っている。


・・・・"彼"は、卑怯者だ。


なによりも。


そう・・・・なによりも・・・・。




「・・・・奪った。

裏切った。

私を・・・・皆を・・・・っ!!」




激した勢いに任せ、梓はシャワーのノブを乱暴に叩き下ろす。


<ザァー・・・・ッ!!>


梓の抱く憤りを鎮めたがるように、穏やかな水流は荒々しい激流になって梓に降り注ぐ。


(私は・・・・"彼"を許さない。

・・・・許せない・・・・)


それでも、滾る激情は消えるどころか尚も燃え広がり、梓の思考を乱してゆく。


(・・・・私は、"彼"を拒絶した。

・・・・それ以外の結果を、どちらからも求めないままでいた。

これから先も、きっと・・・・ずっと、私達は互いを忌み嫌い続ける。

私を見る"彼"の目は、いつも諦めていて・・・・もう、そのまま変わることなんてない。

・・・・変わりようなんて、無い・・・・)


"彼"のその堕ちた眼を見る度に、言いようの無い苛立ちらしきものを覚えてしまう。


塞ぎ込んで、何も言わない彼に、憎しみらしき黒い感情が沸き立つのを感じてしまう。


そして、目の前の鏡に映っている梓もまた、そんな内心を表明するかのように、歪んだ表情になっていた。


(・・・・でも――――)


見るに堪えない、そんな醜く歪んでいる鏡像だからこそ、見て取れる事もあった。


(――――"彼"だけじゃない。

私だって、卑怯で・・・・同じ、なのかもしれない。

私だって・・・・まだなにも言えていない。

恨むばかりで・・・・向き合えて、いない・・・・)



かつて、梓をその時から、2人の間柄は"平行線"だった。


しかし、その全ての原因が"彼"にあると言い切れるだろうか?


梓に非は無い、と言いきれるだろうか?


寄り添い、延びる平行線。


離れ行くのか、交差させるのか。


行く末を考えようとすらせず、気付く機会をも"拒絶"してしまっていた梓に、果たして"彼"を責める資格はあるのか?


――――何よりも・・・・梓達を、命を懸けて救った"彼"を責める資格は、あるのだろうか?




「・・・・っ・・・・」




ぶる、と寒くもないのに身体が酷く震えていた。


思い出すのは、昨日の


凄惨な事故に、梓達は巻き込まれた。


巨大な鉄の塊が暴走し、それはあらゆる物を轢き潰し、助けに入った勇敢な一人の少年すらも、撥ね飛ばした。


被害を免れた安堵感より、その光景を眼にしたショックの方が、何倍も大きかった。




(・・・・変わる事なんて、無い。

そう、思ってたのに。

・・・・その筈、だったのに・・・・っ)




人形のように動かず、道路に打ち捨てられた"彼"の姿。


それを見た、刹那。


梓は、自分の中で何か大事なものが壊れてしまった気がした。


ぞっとするほど身体が冷え、思考の全てが砕けて散った。


潰れてしまったと錯覚する程に、胸が痛んだ。


そして、同時に何か・・・・とてつもなく醜悪で荒々しいが、胸の奥底から湧き上がるのを感じた。


思うさま罵りたくなる様な。


止めど無く泣き叫びたくなるような。


喉が張り裂けんばかりに、"彼"の名を呼びたくなるような、激情。


(でも・・・・私は、何も言えないままだった。

苦しくて、目を背けて、言えないまま、だった。

・・・・何故かは・・・・そう、きっと――――)


凄惨な事故の光景から、梓は呆然とする明癒と遼哉を連れて逃げ去った。


「―――― 口では、二人を心配して・・・・でも、そうじゃない・・・・っ」


心配していたのは事実だった。


でも根底にあったのは、まるで違う。


「私、本当はっ・・・・」


身体が、声が、止め処なく震え出す。


目をきつく瞑り、梓は自分を抱き締める。


心地良い温水を浴びて火照っている筈なのに、目元にはそれとまるで違う熱い液体が溢れ出している。


胸の奥が痛くて、寒々しくて、堪らない。


「関係ないっ・・・・!!」


自分に言い聞かせるように、声を絞り出し、目を瞑る。


でも、瞼に焼き付いてしまったその光景。


そしてその意味するところを、決して振り切れなかった。


「もうそんなの、関係ない・・・・っ。

思い出したくも、ない・・・・。

だって・・・・っ!!」


梓は、その先を口にしたくもないと咽び、拒否しようとしていた。


拒絶の心を証すように、引きつった顔貌は熱く火照る。


喉元は限界まで引き絞られて、括られているかのように痛む。


それでも、確かにを見届けた梓の理性は、嘘偽りのない絶望の刹那を、現実として認めてしまう。




あの時・・・・"光弥が死んだ"、その光景を。




< ―――― !!>




水音の響くバスルームに、いつしか嗚咽の声が混じり始めていた。


そして、梓の心は激しく軋み、声無き声で怯懦の悲鳴を上げていた。


「私・・・・"彼"がいなくなってしまうのを、怖がってただけだった。

あんな結果・・・・直視したくなくて、誤魔化そうとしたり、誰かの傍に逃げ込みたがってただけ。

嘘をついてまで、この"真っ黒な考え"がのを、認めたくないだけ、だった・・・・っ」


もしも、本当に憎んでいるのなら・・・・許せないのなら、"彼"がどうなろうと知ったことではない筈。


「・・・・そうじゃ、ない・・・・っ」


あの時の衝動、そして今のこの尽きる事ない哀しみも、こんなにも梓を責め苛んでいる。


もう誤魔化すことなんて出来なかった。


きりきりと、心を引き千切らんばかりに締め上げる激情は、梓に目を逸らさせるのを許さない。


けれど、向き合えば"彼"に抱いていた狂おしいほどの想いが溢れ、激流に翻弄される小枝のように梓を乱す。


「どう、して――――」


千々に乱れる心を抑え込もうとするかのように、梓は更にきつく身体を抱き締めた。


それでも痛みは止まない。


涙は、止まらない。


「――――置いていくの・・・・っ!!

・・・・どうしてっ・・・・!?」




絞り出される聲は、苦悶の嘆き。


乱れ切った感情は、とうに梓の制御下を離れてしまっていた。


想いの形は不鮮明で、抱く本人にすらその正体は分からない。


それが堪らなくもどかしく、不快で・・・・そして悔しくて、哀しかった。


分かっているのは、唯一つ。




――――眞澄 梓は、日神 光弥に強く執着していた――――




(・・・・なにもかも、遅い。

なにもかも届かない。

・・・・もう二度と・・・・)




吐き出せなかった、伝えることのできなかった感情は毒のように梓を蝕み、その苦しみが尚更に梓を悶え苦しませる。


もはや行き場のない後悔の連鎖は、止む事なく梓を苛み続けた。




・・・・

・・・

・・




――――気が付いたら、またベッドに寝転んでいた。


その事に、梓は少し驚く。


呆然としたままなんとか着替えを済ませて、そしてなんとなくここに戻って来ていたらしい。


(きっと、ひどい顔・・・・してる)


そんな風に思ったが、取り繕おうとする気力は欠片も出てこない。


つらい、苦しい、哀しい。


絶望した人間に纏わりつく感情全てが、胸の中でのたうっている。


呻き声すら、もう出てこない。


心と言うものが、今もしも目に見えたのなら、梓のそれはきっとズタズタになっているだろう。


どんなに目を閉じて、心を閉じても、あのは無慈悲に浮かび上がる。


受け止めがたい現実は、どんな刃の切っ先よりも鋭利に、梓を切り刻んでいた。


(――――もう・・・・嫌なの。

お願いだから、この気持ちを忘れたいの・・・・。

こんなに痛くて苦しい事を抱えなきゃいけないなんて・・・・堪えられない・・・・)


梓はベッドの上で、まるで胎児のように幼気に身体を丸める。


身も心も打ちのめされて、涙もとっくに乾き切っていた。


今この場にいるのが、自分一人で本当に良かったと、梓はぼんやりと考える。


こうして悶え苦しむ自分が、側にいる誰かにどんな醜態を晒すのか、制御できる自信が無かった。


(・・・・自分勝手に逃げて、一人でいたがって・・・・なのに、つらい時だけ誰かに泣きつくなんて、出来ない。

・・・・きっと、凄く心地よくて・・・・怖いことだと思う)




どれくらい落ち込んでいたのか分からない。


だが、やがて梓は、ぎゅっと唇を噛み締めて、都合の良い逃げ道を思う自分を振り払っていた。




「――――こんなこと、初めてじゃない。

・・・・私は、きっと堪えられるもの・・・・。

だから・・・・しっかり、しないと・・・・」




かそけた声で独り言ちて、弱々しく身を起こす。


初めてじゃないから。


この辛さだって、一度は経験したことだから。


梓はそんな言葉で何度も自分を宥めすかしながら、どうにかという風にして、また"着替え"を始めていた。


選ぶのは、外出用に動き易くも華やかな服装。


素朴だが、愛らしい柄のキャミソールにチノパンというラフな出で立ち。


そこに色味を加えるのと今日の気候に合わせるのとで、少し厚手な前開きの水色のカーディガンを羽織った。


最後に、色々と小物の詰まった肩掛けの朱色のポシェットを持ち出して、着衣の用意は終わる。


鏡台の前に立つと、そこに泣き腫らした顔の梓が映り込む。


生気の薄く、青褪めた顔だった。


幽霊みたいなこんな顔を、他人や――――特に明癒達にだけは、見せたくはなかった。


「・・・・私の方が落ち込んでなんて、いられない。

私が、二人を励ますために行くって、言ったんだもの・・・・」


体裁を取り繕う為に、少しだけ化粧をすることにする。


ただでさえ、今は明癒と遼哉はで、その上軽くない怪我までしている。


更にそこで、梓がこんなにも弱っているのを見せてしまえば、彼女らには大きな不安を与えてしまうだろう。


梓は、幼い2人にとっては、とても頼りにされている"お姉さん"だった。


少なくとも、そうあらねばならなかった。




――――あるいは、もしかすればその自負の裏には、無意識に親しい者との触れ合いを求める傷心からの願いが混ざっているのかもしれない。


とにかく梓は、全身鏡とはまた別に据えられた、こぢんまりとしたドレッサーの前に座り、薄化粧を手際よくこなす。


いつもより少し丁寧に、気取られてしまいそうな違和感を気の済むまで覆い隠す。


それから、一区切りを着けたがるかのように、細長い溜息を吐いていた。


その徐ろさは、少しだけ緊張が緩和した放心というのもある。


だが、それに加えて、ふと思い立ったを実行するか否か、たっぷりと逡巡していた事が大きかった。


やがて、深い思考から戻ってきた梓は、次いで目の前のドレッサーに置かれていた"ある物"に手を伸ばした。


それは、一見して上物と高価な物と分かる、小さなアクセサリーボックス。


少女の持ち物にしては年季の入ったその蓋を慎重に開ける。


すると、内部に収められていた品物に西陽が反射し、梓の顔に照り返した。


「・・・・・・・・・」


果たして、箱の中からとても丁寧に、そして大切そうに持ち上げたのは、極めて華美な造りの"チョーカー"だった。


否・・・・その絢爛さをそうして簡潔に表してしまうには、あるいはまるで役不足であるのかもしれない。


それ程に、その代物は、高校生の少女の所持品にしてはあまりに高級で、豪奢であったのだ。


――――首に巻かれるバンドの部分は、まるで夜空のように濃く、深く、そして上品な黒色を帯びている。

しかも、いったい如何なる素材で出来ているのか、絹のようなしなやかさと柔らかさを持つと同時に、滑べらかで冷ややかな手触りをも有していたのだ。

金属質でありながら、同時に金属でありえないような、不可思議な質感。

そんなバンド部分には更に、全体に渡ってこれまた不思議な幾何学模様めいた金細工が施されていた。

チョーカーの接続部対面、身に着けた時に正面に見える部分には、煌々たる満月をあしらったような、銀と白金で彩った華美な細工のエンブレム。

そして、そこから提げられている、青みがかった乳白色の宝石をあしらったチャームが目を引く。

親指ほどもある涙滴型の宝石は不思議な透明感を持ち、その周囲を更に、高貴なドレッサーのような白金の細工が取り囲んでいる。

もしも、これら繊細な意匠の全てが本物の貴金属で出来ていたとしたら、その価値はとても値段のつけようのない事だろう。

もはや財宝の粋にも達しているチョーカーは、曇り一つない優美さで以て、西陽の中に光り輝くのだった。――――




梓はしばし物憂げに、その素晴らしい装飾品を見詰めていた。


このチョーカーは、元は梓の"母"の持ち物だった。


古くから梓の家に伝わってきた物であり、代々宝物として大切にしてきたという。


単純に宝飾品として、という意味合いももちろんある。


だが、である梓にとっては・・・・今や単なる"物"以上の大切な価値を、これに感じていた。


普段なら身につけるどころか、保管している箱の蓋すらみだりに開けはしないのだが、しかし梓はやがて、厳かな所作でこれを首に巻き付ける。


<パチッ>


首の後ろで留め金を止め、いざ身に着けた自分の姿を鏡で見る。


差し込む西日に照らされた宝物チョーカーは、子供心に見た昔日の輝きを変わらずに宿していた。


大事な思い出は未だ薄れることなく残っている事に、梓は言い知れぬ安堵を覚えた。


――――例え、振り返れば痛みを伴う古い絆であっても・・・・それでも今だけは、それに縋らせて欲しかった。


「・・・・パパ、ママ・・・・。

今日は私に付いていて・・・・」


今や、たった1つ遺された”過去”へ繋がる存在に、梓は指先を触れさせ、縋るように呟いた。




・・・・

・・・

・・




パンプスを引っ掛け、いそいそとマンションの内廊下に出る。


小窓から外の景色にふと目を向けると、そこは雨に濡れていた。


夕立と言うには、雨粒の音は柔らかい。


今日の過ごしやすい気温の為に、廊下には程良い冷感が漂っている。


穏やかな風情すら感じる、夏の夕方。


けれど、そんな景色や空気感も、梓の心を感じ入らせるには至らなかった。


というより、梓は外を一瞥したきり、後は見ようともしない。


理由は単純・・・・雨は嫌いだった。


「・・・・・・・・・・」


梓は足早にエレベーターの前へと向かって、スイッチを押し、扉の前に佇む。


しかし立ち止まれば、否応なく意識は周囲の音に集中してしまう。


普段はなんでもないようなことでも、心の弱っているときは思わぬ重荷となることがある。


今、この微かな雨音ですら、梓にとってはそうだった。


既に下がりよう無いくらいに落ち込んでいた筈だったが、それは間違いだったらしい。


気分が墓穴の底に達する前に、耳栓替わりにイヤホンを突っ込む。


そして、やって来たエレベーターの中に駆け込めば、音は一切聞こえなくなった。


「・・・・はぁ」


溜息、そして知らず知らずのうちに胸元を抑えていた。


ずっと付き纏うシクシクとした痛みに、本当に今日は穴の一つも空いているのではと疑問を抱いてしまう。


そう思って視線をやっても、そこには何時からか同年代の誰よりも大きくなった、自己主張の過ぎる豊満があるだけだった。


「・・・・・・・・・」


エレベーターの動き出す振動と、自分の息遣い。


そんな程よい揺らぎは、時として懊悩に没頭させすぎてしまう。


気を紛らわせたくて、ポーチからスマートフォンを取り出す。


突然訪ねる前に、明癒に一報を入れて置かなければならなかった。


しかしその前に、香からの連絡と電話が合わせて5件、画面に表示される。


昨日から一度も、目を通そうと思う事すら忌避していたその通知に、思わず手が止まる。


梓は、そこに何と書かれているのか、見るのが怖かった。




(・・・・嘘。

何て書いてあるかは、きっと分かる。

・・・・昨日のあの時、誰が、どうなったのか・・・・。

でも、それを読んだ私が平気でいられるか、分からない。

・・・・もうこれ以上は恐い。

・・・・傷付きたく、ない)




ふともう一度、首のチョーカーに触れる。


期待していたほどに、苦しみは和らぎはしなかった。


落胆と、それから鬱憤のような感情が、ジリと心の隅で揺れる。


なんにせよ、このチョーカーは、みだりに見せびらかして良いものではない。


梓はカーディガンのボタンを首元までしっかりと留め、大きくて邪魔な胸の膨らみと一緒に、悪目立ちしないように閉じ込めておく。




「――――雨、止まないのかな」




エントランスからマンションの外に出れば、道は黒々と濡れそぼり、薄暗い空からは雨が止むこと無く降りしきっていた。




(・・・・今でも鮮明に思い出せる。

あの日もこうして、雨だった。

・・・・視界は煙って、その向こうに"彼"がいる。

雷の白が、飛び散った赤を、照らして・・・・)




雨音は、そうして梓の心に刻まれた古傷を痛ませた。


もう8年も前の事なのに、癒える気配はない。


忘れたいのに、忘れられない。


忘れたいのに・・・・忘れたくない。


いつまでも捨てきれない重荷は、梓に伸し掛かって、行くべき先を見失わせる。


(・・・・悪い夢と思うには・・・・あの一瞬は、焼き付いて離れない。

・・・・"あなた"と一緒ね・・・・)


に知らず語りかけていた自分を、少し滑稽に思った。




――――認めたくはないけれど、諦めてしまっていた。


だから、心構えもとっくに無くしてしまっていた。


もう一度"その時"が訪れるなんて、梓はもう思ってもいなかった。




「っ!!――――」



梓は、あまりにも無防備なまま、失ったはずの"刹那"に再び直面する。



「眞澄、さん」


「・・・・うそ・・・・っ」


果たして、鳶色の髪と瞳の"彼"は、梓と同じように目を見開き、雨の中に佇んでいた。




――――To be Continued.――――



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