#3 師の教え

6月7日 16時02分

二間市 未土 郊外

桜蔭館 管理人室




「ふぃーっ・・・・」


溜息と一緒に、光弥はばふっ、と管理人室の敷きっ放しの布団に倒れ込んだ。


尻を突き出して潰れた格好なので、絵面は些か情けない。


「・・・・学校に行くのってこんなに大変な事だったんだなぁ・・・・。

あー、体中痛い・・・・」


歩いて30分と、言うは易し。


しかし、普段ならば若さに任せて何のこと無く通う道も、実は如何に過酷であろうか、と知った光弥である。


さらに言うと、当然の事ながらその30分がずっと平坦な道程な訳も無く、坂道も砂利道もアリのワイルドなコースである。


重度の筋肉痛と共に、これぞまさしく痛感の至り・・・・なんて、しょうもないことを思いながら、またも光弥はため息を付いていた。


「・・・・今日ぐらいは自転車使うべきだったか」


海晶学園は、別に自転車通学を禁止されていない。


父親が使うために自転車を使わない香と、なぜか乗りたがらない正木に合わせているだけである。


(でも、せっかく迎えに来てくれた二人を置いて行くのもなんだし、それで良かったかな)


億劫に唸りながら、光弥は体中に貼ったしっぷの上から体のあちこちを擦った。


動く度に筋肉痛特有のあの痛みがするもんだから、まったく堪らない。


見るに見兼ねた香に保健室まで支えてもらい、朝一番に張ってもらったのだが、一向に良くなった感じがしない。


「・・・・とにかく安静に、だな。

はは、オッサンみたい・・・・」


ちなみに、これを貼ったのは正木だ。


保険医さんはちょうど朝練で怪我をした生徒を見ている時で、一先ず貰うだけ貰い、貼るのは自分達でとなったからだ。


しかしその際、正木のヤツがついでとばかりにやたらバシバシ叩くものだから、あちこち赤くなっている。


ちなみにそのとき、正木の顔はとても嬉しそうにテカテカしていたことは言うまでもなかろう。


「・・・・あいつめ、後で覚えてろ」


ここにはいない悪友をなじってやる。


光弥は徐に姿勢を仰向けに変えて、大きく息を吐いた。


やがて、そうして一息入れた後で、今日学校であった事を順繰りに思い返し始めていた。


「・・・・登校して、授業を受けて、体育は見学して・・・・。

昼ご飯を奢って、正木と香ちゃんが喧嘩して、ついでに昼寝もして、今に至る・・・・と」


まさに、それらはいつも目にする出来事ばかり。


どれもこれも、あまりにも普通な”日常”の情景を通り抜けてきたと思う。


光弥が一年とちょっと過ごした、今までの海晶学園での生活と変わらない、自然な一日。


だからこそ、”不自然”。


「――――結局変わらない。

僕にがあったとしても。

・・・・周りは何にも変わらない」




あの戦いから、一夜。


襲われて、戦って、そしてからがら生き延びて。


自分の世界観が根っこから引っくり返り兼ねない大事に遭遇したと言うのに、周りの環境はあまりにも変わりなく動いている事に、光弥は気付いていた。


変わらない日常があるということは、確かに一時は光弥の心に安堵を与えた。


しかし今は、ただどうしようもなく不安を煽り立てるのだった。


「僕は一人きりだ。

助けてくれる人はいない。

・・・・心細い、な」


味方のいない、孤独。


その苦境はやはり揺るぎない。


(・・・・奴はまた襲って来るんだろうか?

また僕を殺そうとしてくるんだろうか?

もしそうなら――――)


あの時はどうにか切り抜けられた。


でも、もう一度同じ事が起きたのなら・・・・最後に立っているのは・・・・。




「じーさま・・・・」




不安を打ち消したがるように、光弥は急激に立ち上がると、足早に駆け出す。


痛む身体に鞭を打って、目指すしたのは果たして、桜蔭館の中庭だった。




「・・・・やっぱり、すっかりぼろぼろになってるな」


果たして、行き着く先は、あの時に命からがら逃げ込み、反撃のきっかけを掴んだ、"茶室"だった。


ただ、陽の光の下で改めて見れば、そこは酷い有様だった。


入り口の戸板と門枠だが、怪物の衝突で歪んでしまっている。


内部はと言えば、光弥が踏み荒らしてしまって、畳は泥だらけ。


そして、怪物が壊した壁の破片がやたらに飛び散り、その被害も惨憺たるものだ。


茶室に仕舞い込んでいた家具等は尽く打ち壊されてしまい、壁の真正面にあった障子などはもはや原形を届めていない。


部屋中央に据えられた立派な囲炉裏や茶釜も、ひっくり返って灰がぶち撒けられている。


そんな惨状を見て、光弥は大きく嘆息していた。


(どこもかしこも目茶苦茶だ・・・・くそ・・・・)


怪物への怒りと、大事な場所を壊された悲しみが混じった、やるせない想いが光弥の胸を衝く。


尚も一縷の望みをかけて辺りを見回すが、やはり無事なものは何一つ――――


「あっ、これ!!」


――――否、なんと破壊された壁のすぐ傍らという意外な位置に、1つだけある。


加害範囲ギリギリの死角、という場所が幸いしたのか、その漆塗りの小さな仏壇だけは傷一つないまま鎮座していたのだった。


「もしもこれまで壊れてたりしたら、かもしれないからな。

・・・・無事で良かった」


と、光弥は苦笑しながらも心底ほっとした気分で、その前に座り込んでいた。


「・・・・ごめんな、じーさま。

じーさまの茶室、壊れちまったよ」




線香を勾配に差し、静かに手を合わせる。


そして暫しの間の後、光弥は遺影に写る老人の姿へ、静かに語りかけていた。


映っているのは、白髭を顎に蓄え、同じくもうほとんど白い部分で埋め尽くされた髪を短く切り揃えた姿。


顔中に年輪のように皺が走るが、それは老いというより、年を経たことにより得た、剛毅さと厳格さを表しているかのようだ。


表情は優しげだが、猛禽のような鋭い輝きを宿したその目は、真っ直ぐで力強い。


そして、その眼差しは一際、光弥とよく似通っていた。




(じーさまは・・・・偏屈っていうか・・・・不思議な人だった。

じーさまなりの考え方がいつも芯にあって、それを信じて行動する人だった。

「頑固者の、ただの片意地」。

・・・・そんな風に、悪し様に言ってばかりだったけど。

でも、間違った事は・・・・誰かを悲しませるような事だけは、決して見失わなかった)




傷付けられてしまった思い出と、されど今も変わらず、鮮明に思い出される記憶。


その合間に、こうして座り込んだ光弥は、ふと懐古の念を掻き立てられ、すっと目を閉じていた。




・・・・

・・・

・・




――――あれは・・・・もう8年も前になるか。




「あの坊主かの?」


「ええ、でもずっとあの調子で・・・・」


「・・・・ふん」




――――まず初めに僕が覚えているのは、孤児院の先生とのそんなやりとりだった。

・・・・その頃の僕は毎日毎日、預けられた孤児院の隅でうずくまっていた。

周りにいる大人も、子供達も全部避けるようにして。

怖かったんだと思う。

いつもいつも、「自分は悪いことをした、罪がある」って心の中で思っていた。

責められる"理由"があって・・・・誰かと一緒に笑うなんて、考えられなくて。

だから僕は、温かく話し掛けてくれる周りの人達に、いつまでも心を開けずにいた。




「よぅ、坊主」


「・・・・・・・・・」




――――じーさまが、僕の所へやって来たのは、そんな時だった。

白い髭に白い髪の、厳つい爺さん。

まるで仁王像みたいに堂々としてて、鬼みたいに怖い顔。

・・・・あの頃はただ威圧されてて、そんなこと考えてる暇なかったけど・・・・。




「お爺さん、誰?」


「ワシは、見ての通りのジジイよ。

じゃが、ジジイなりに思うところがあってな。

今日、ワシはヌシの"おじいちゃん"になってやろうと思って来てやったのじゃ」


「おじーちゃん・・・・?」




――――会話をしているようで、その実、本当は僕は、どうでも良いと思っていた。

その時の僕の心は、どうしようもなく閉じていた。

誰の姿も、誰の声も、ただ目に映るだけ、耳に響くだけ。

何もかも意味無く、ただ"感じていた"だけだった。




「・・・・何でもいいよ。

放っておいてよ。

オレは・・・・ずっとこのままで良いから・・・・」




「――――カァ~・・・・まったく怖気づきおって。

泣いた犬とは斯くの如し・・・・しょぼくれた童め」


「・・・・いいだろ、別に。

オレはこうしていたいって、 っ !!!!」




――――ゴチッ、と、目の前に火花が散った。

殴られたんだ、軽くだけど。




「っ・・・・!!」


「はっはっ、やっとワシを見たな、童。

・・・・どうした、何を恐れておる?

ヌシが恐れるのは、ワシか?

それとも己自身か?」


「何・・・・言ってんだよ・・・・、!!」




――――周りはなんだかざわついていたけど、じーさまは構わず、僕の頭をぽんと撫でた。

今しがた殴ったところを、そっと。

いきなり殴ってきて変な爺さんなのに、僕はなんとなく安心してしまったのを覚えてる。




「・・・・人が受ける傷というのは、いろいろあるなぁ。

とりわけ心についた傷とは、転んでこさえた傷より、大層治り難い。

だのに、人はどうにも目に映らないものを軽く見がちだな。

苦しんでいるはずの当人が、苦しくないと強がっていたらば、尚の事。

・・・・どれだけ"血"を流してるのか、見えないんじゃなぁ」


「・・・・・・・・・」


「なあ、童よ。

ワシはな、ヌシを迎えに来た。

助けに来てやったのよ」


「え・・・・?」


「童、ワシがヌシを殴った時、どう思った?」


「・・・・どうって・・・・。

・・・・痛かった、それに・・・・怖かった」


「悔しい、とは思わなかったか?」


「・・・・思わなかった」


「何故じゃ?」


「・・・・だって、オレはだから。

から・・・・罰を受けなくちゃいけない・・・・」


「・・・・そうか。

だから殴られようが、黙って堪え忍ぶか?

例え、今以上に痛い目に遭おうと、ヌシは同じ事を言うのか?」


「でも!!

・・・・だって・・・・分からないんだ。

なんでオレ、" あんな事 "をしたんだろうって・・・・」


「――――童よ、よく考えよ。

罪というのは責任を負うこと。

そして罰というのは、その責任を果たすことぞ。

それは痛み、恨みつらみに甘んじることでも、己の行く末を他に委ね切ることでも無い。

ヌシは、ここでぼーっとしてるだけで、その責を果たせると思うのか?」




――――座り込んだままじゃいられないのは、分かってた。

けど、その時の僕は過去の"過ち"に憑かれていたままだった。

絶対にしちゃいけない。

・・・・そう、子供心に思ってた筈の事を、間違えてしまった。

どうしようもなく臆病になって、何も成すことが出来なかった。

・・・・じーさまに出会ってなければ・・・・もしかしたら、今も立ち上がれずにいたかもしれない。




「・・・・オレは・・・・オレは一番、でいなきゃいけないのに・・・・っ。

"皆"に・・・・嫌われたくない、のに・・・・っ。

・・・・なのに、もう二度と・・・・っ!!――――」


「・・・・ワシは、答えを与えられはせん。

だが、成すべきを教えてやる事は出来る。

ヌシが成すべきとは、まずは立ち上がる事よ」


「立ち・・・・上がる?」


「今は、何もせずとも構いはせん。

だが、下を向いたまま固まっちまった顔を、もう一度上げてみろ。

己を見て、周りを見て、そして知れることがある。

いつまでもそんな有様では、床板の節目は分かれど自分の"贖罪"なんて分からぬだろうよ?」


「食材・・・・?」


「む、字が違うの・・・・。

果たさなきゃいけない責任、成さねばならない事。

そんなような事じゃ。

・・・・いいか、童――――」




――――この言葉を僕は決して忘れない。

僕の生き方、心のあり方を定めた、この言葉。




「 己が意地に向き合い、退くなかれ。

 そして、"人"の為の正しきを成せ。

 それこそが人の道というものよ 」




――――じーさまが教えてくれた景色は、今までの僕の世界とは、なにもかもが違った。

下ばかりを向いていた今までとは見えるものが違う、感じれる事が違う。

広大で自由で、格好いい姿。

・・・・でも、眩しすぎて、広すぎて、僕なんかあっという間に飲み込まれてしまいそうな、大きな言葉。

強い意志で前を見据え続けて、でも優しさを忘れない力強い生き方で・・・・。




「人がいるから、"己"がある。

己があるから、"人"はある。

その眼を開き、その身を挺して進めばこそ、何にも勝る"己"が生まれ出るのだ」


「・・・・できないよ。

そんな、難しい事・・・・オレは・・・・」


「否や、出来るとも。

このワシが、鍛えてやるのじゃからな」




――――じーさまが差し出した、大きな手。

その手を握って、僕は立ち上がった。

身体も、そして心も。

全てはあの瞬間から、また始められたんだ。




「・・・・ねぇ、おじーさん」


「うん?」


「オレ、知らない人にはついていくなって言われてんだけど・・・・」


「くははっ、いかにも!!

ワシは、日神ひのがみ 鵯出丸ひでまる

一つ、よしなにな、童」


「ひの・・・・なんか、変な名前」


「ぬぅ、ご挨拶じゃのぉ。

これはとても由緒正しい姓名なるぞ」


「そうなんだ」


「そうだとも」


「・・・・オレは、光弥だよ。

今は、


「そうか。

・・・・よし、ならば今日この時からヌシは、ワシの孫だ。

童・・・・否、"日神 光弥"よ」




――――こうして新しい名前を得て、"僕"は"爺様"と暮らし始めたんだ。




・・・・

・・・

・・




「――――っていうか、一番大変なのはそこからなんだよな」


鍛える、という言葉通り、爺様の"修業"は実際に容赦なかった。


まず、それは日常生活からして、既に始まっていた。


「いくら鍛えるって名目があるったって、10歳の子供に家事を丸々ぶん投げるのは、未だにどうかと思うんだけどさ。

・・・・おかげですっかり身に付いたよ、家事全般」


半眼で、遺影へとぼやく光弥。


嫌いじゃないけどさ、と続けて呟いて、苦笑する。


掃除に洗濯、料理、等々。


光弥の非凡なまでの家事の手際とは、実はで身に着けざるを得なかったようなものだったりする。


というのも、爺様はそれら家事の一切合切において、光弥の分をやることは無かった。


つまり、光弥は身の回りの事を全て1人で粉避ければならない状況で今まで育ってきたのだ。


そしてなんと、光弥が体を崩して寝込んだ時までも、爺様はその姿勢を貫いた。


曰く――――


「笑止!!

男がこの程度の事、手前で出来んで何とするか!!

斯様な体たらくで、天下の荒波は乗り切れまいぞ!!」


「い、いやいや、この際それは関係ないっしょ!!

普通の男の子は、やらないまでも多少は手伝ったり、もらったりするわけで・・・・」


「 いいからやれぃっ !!!!」


「 まず流しまで届かないっての !!!!」――――




そんなこんなで、破れかぶれながら単身で身の回りを切り盛りする光弥の腕前は、着実に上がって行ったのである。


8年間のの効果は、彼の生活科の成績が常に学内トップクラスという結果にも現れていたりする。


元々の器用さに、光弥本人が炊事洗濯という行為をわりと楽しんでいる、という側面もあるのだが。


(まぁ・・・・じーさまと暮らした日々は・・・・楽だ、と思ったことは確かに無い、けれど。

でも、つらいと思ったことも、絶対に無かった)




――――「うわっ!?

じーさま、それ塩じゃないよアジノモト!!

って、あぁ!!」


「ぬぅっ!?

なんと、蓋が外れおったわ!!

まずい、不味いぞ!!」――――




爺様は、光弥と同じく身の回りの事を全て自分でやろうとしていた。


決して光弥の手を煩わせようとはせず、むしろ光弥と同じ場所に立とうとしていたのだ。


(まぁ、たいてい僕より失敗してたけど・・・・)




――――「じーさま、僕あのロボットが欲しい!!」


「ほう、これか」


<パンッ>


「違う!!

その隣の赤くて角があるやつ!!」


「ほうほう、これかっ」


<パンッ>


「違ぁうっ!!」


「・・・・射的、もっかいやりたいなら200円だよお客さん」――――




(縁日や公園ヘ、二人で何度も遊びに行った。

いっしょに笑って、喜んで・・・・楽しかった。

僕が苦労していた時、じーさまは確かに、何かをしてくれた訳じゃない。

でも、じーさまはいつも側にいて、見守ってくれていた。

・・・・まぁ、邪魔もされまくったけどさ)




――――「???

あっれ、できないぞ?」


「笑止。

まったく、成っとらんのぅ、童め。

いいか光弥。

駒というのは・・・・こう回すんじゃぁっ!!」


「おおっ!?

コマがすごい速さで回りながら、空を飛んで・・・・!!」


<ガシャーンッ>


「「あ」」――――




(・・・・じーさまからは数え切れない位、たくさんの事を教わった。

今の僕の在り方は、殆どがじーさまに会ってから形作られたものだと思う。

じーさまは僕の人生の師であり、反面教師であり、尊敬する人だった。

想い出は、たくさんある。

・・・・なんか、いろいろいたずらをされた記憶も多いけど)




そして、なにより忘れてはならない。




――――「良いか、光弥。

その生命の続く上で、"闘い"とは避けて通れぬ。

ヌシの、その"宿命"にはワシが・・・・いや、他者が力を貸せぬものもある。

しかしヌシを、身勝手な"力"で歪めようとするものを、退ける術を与えることは出来る。

古くより日神家に伝わる"わざ"。

今からお前の骨身と性根に、叩き込んでくれようぞ!!」――――




爺様に伝えられた力と、わざ


それこそが昨夜、絶体絶命の窮地から光弥を救ったのである。




思い出せど思い出せど、在りし日の景色は尽きることなく浮かんでくる。


その温もりを感じるたび、光弥は言葉に尽くせない安堵を覚えた。


同時に、寂しさもまた。




今も、克明に覚えている。


忘れもしない、こんな風に暖かくて、麗らかな昼下がりだった。


光弥と爺様は、この茶室の縁側に腰掛け、外を眺めていた。


ずっとずっと、堂々と力強くて、全くそんな事が訪れる気配なんて無かったのに。


呼びかければ今にも、目を覚ましてくれそうなくらいに、安らかに、静かに。


眠るように、爺様は逝った。


ほんの2年程前の、出来事だ。


「・・・・いや、まだ、か・・・・。

まだあと、一ヶ月くらいで、二年目になるのか」




一昨年の7月7日――――七夕の日。


その日が、愛する光弥の師との、今生の別れだった。


その頃、正木や香には悟られないよう振舞ってはいたけれど、家に帰ればずっと泣き悲しんでいた。


涙と声を枯らすまで、泣いて・・・・でも、思う様吐き出しきったなら、次は立ち上がらなくては。


それこそが、他ならぬ敬愛する"師の教え"なのだから。




(・・・・だから、今はもうそんな"昔"を吹っ切れてる・・・・と、思う。

それは、つらい記憶を、きちんと"じぶん"に受け入れること。

反対に・・・・忘れるって言うのは、全部を否定して、目を逸らすこと。

それは、昔と同じ・・・・、なんだよな。

結局、そうやって向き合えなかったら、回り込んだ先でまた行き詰まってしまう。

・・・・何度だって)




――――「つらき事、悲しきことは誰しもある。

退く事無く、乗り越えねばならぬのだ。

さもなくば、其れは永久にヌシの前に立ち塞がるのみぞ」――――




「・・・・敵わないよなぁ。

お察しの通り、足踏みしてばっかだよ、じーさま・・・・」


そんな事を言いながら、思わず浮かべる嘲りの色とは、他ならぬ自分自身へのものだった。


(・・・・眞澄 梓、さん。

あの人のことを、僕は――――)


艶めく黒髪を靡かせる、美少女。


その姿は、の過去に抱えた、最大の"影"である。


とはいえ、思えば”彼女”を勝手にそんな日陰物扱いにしてしまうなんて、不躾にもほどがあるだろう。


光弥とて、そんな現状にただ下を向いて縮こまってきた訳でもなかった。


つらい記憶を受け入れようと、精一杯の行動で贖ってきたつもりだった。


でも、それでも贖いきれない事はあって・・・・だから光弥は"彼女"の憤りをただ受け入れるしかないと思ってきた。


そうすべきなんだとも思っていた。


(――――でも、やっぱりそれは、間違ってたのかもしれない。

昨日・・・・"彼女"を前に、昔と何も変われなかったあの態度が・・・・その証拠、なのかもな)


どんなに言い分を並べ立てても、光弥は"彼女"にまだ何も示せていない。


結局は、はっきりとした答えを示すのを避け、言葉も交わさず、背を向け続けている。


そしてまた、そんな己の怠惰を確信した今こそ、昔の自分を乗り越える時、という事なのかもしれなかった。


(今なら・・・・違う、と思う。

僕は、昨日までより、少しでも強くなれている、筈・・・・だと、思う。

なら、躊躇っている場合なんかじゃ、ないよな)


あの怪物との死闘を生き残った光弥だ。


その勇気はきっとある。


だから、この期に及んで躊躇い、尻込みする意気地無しを、叱咤していた。


本当に"彼女"へのをしたいのなら・・・・きっと今がそうすべき時なのだから。


「――――決着、をつけなきゃな」


光弥は、己の心と、身体にまでも刻み込もうとするように強く、強く、念じていた。




「・・・・さって、晩御飯のおかずでも買ってこようかな。

まったく、こんな事なら一昨日行っとくんだったな。

身体が・・・・痛ぇのなんのって」


やがて、光弥はロウソクの火を吹き消して、徐に立ち上がった。


踵を返して小屋を出る、その間際に光弥は、仏壇に向き直る。


「――――じーさまの部屋は、そのうち必ず直すからさ。

ちょっと待っててくれよな?」


そう言って、光弥は笑いかける。


遺影に写る、優しくも厳格な表情の"じーさま"はその時、少し笑っていてくれてるように光弥は感じた。




――――ずいぶん長く、物思いに耽っていたらしい。


時刻は既に夕方と言える時間に入ろうとしていた。


しかし、今は夏。


見上げた空は明るい鼠色で、あたりは昨日の夜が嘘のような温い空気と湿気とに包まれていた。


少し目を移せば、黒々とした分厚い雲が、頭上に覆い被さろうとするように迫って来ている。


これはきっと、一雨来るだろう。


光弥は、そんな見知った夏の夕方をふと好ましく思った。




「――――”彼女”は・・・・どうしたんだろう。

・・・・今日、学校に来てないし、それどころか連絡も着かないなんて・・・・何かあったんだろうか・・・・」




心配だった。


あの事故に巻き込まれて、やっぱりなにか怪我でもしたのだろうか。


それに、一緒にいた姉弟・・・・明癒と遼哉のこととて、未だに無事である確証が得られていないのだ。


正木達が言うには、昨日のあの時、何事もなさそうに見えたとの事。


しかし、言わずもがな、それはあくまで主観の意見である。


また一方で、香は"彼女"とは仲が良いと自称しているというのに、未だに連絡を取れていないという。


(・・・・もしも・・・・もしも本当に、"彼女"の身に何かあったんだとしたら、その時は・・・・)




―――― 近寄らないでっ!! ――――




「・・・・その時、何ができるって言うんだ・・・・」




痛烈な拒絶の言葉を、咄嗟に思い出していた。


日神 光弥は、"彼女"達に近づくことさえ出来ないのだ。


"彼女"達を助ける事が出来る人だって、きっと他にいる。


光弥が、するべきがあるとすれば・・・・それはただ一つ。


真摯に、その"過去と因縁"に向き合うこと。


ただ一つきり、なのだ。




(・・・・でも・・・・)




惑いは、行く手に迷い、絶え間なく巡るのだった。




「・・・・許してもらう、ってどうすれば良いんだろうな。

返してあげられるものなら、返したい。

・・・・でも、返せるものは何も無い。

謝ることは幾らでも出来るけど、償うってなんなんだろうな・・・・」




思わず口にしていたそれは多分、弱音だった。


自分の手には負えなくて、に答えを請いたがる、光弥の迷いと本音。


しかし、今し方振り返った師の言葉が、それを許さない。


(意地に、己に・・・・向き合い、退くなかれ)


知っているとも、と記憶の中の言葉に返答する。




「決着を、つけるんだ・・・・"オレ"と、"彼女"の為に」




――――そして、光弥は知る由もなかった。


こうして、飽かず想い続けている少女が、今まさに同じように過去と現在の狭間に揺られ、苦悩に苛まれているという事を。




――――To be Continued.――――



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