#2 帰還の朝に

――――空。


なぜだかは知らないが、目覚めた光弥は抜けるような青空の中にいた。


って言うぐらいだから、それはもうどこもかしこも、一面が真っ青。


但し、一方で雲や太陽、大気の流れすらも感じられない。


そうと気付いたなら、このにわかには信じ難い光景から更に現実感が失せて、これは夢なのかもしれないと腑に落ちる。


(・・・・何にせよ、ここどこだ?

それに、そもそもどうしてこうなってるんだ?)


夢だったとして、この景色の不思議が解消される訳も無く、改めて辺りを見回す光弥。


こうも何も無くて、そして自分の体勢すら定かにならない頼りなさは、あの霧の立ち込めた三途の河原を、ふと思い浮かばせた。


(自分がまるで空気になって、漂ってる内に消えてしまいそうな、感覚・・・・。

立ってるのか浮かんでるのか、何も分からずにただその場にいるだけ、みたいな感じが、いやに似てるっていうか・・・・)


そこまで考えて、しかし今回はそこまで心細い状態でないことに気付き、光弥は少しホッとしていた。


(――――まぁ、とりあえず前ほどは頼りなくはないな。

白じゃなくて青一色だし、それに今回は"身体"もちゃんとある。

じゃそれすら無かったから、はまだ良い方・・・なのかな?)


手足を動かそうとしてみれば、確かに手と足は存在する感触があった。


拳を握ればきちんと分かるし、足を動かせば重みを感じられる。


また、全身どこもかしこも半透明にはなっておらず、血色良く存在しているのがしっかりと目視できる。


(・・・・不思議だな。

月の表面って、きっとこんな感じなんだろうな)


地球よりも重力が低い、といわれる月面の話を不意に思い出す。


立っている感覚と浮いている感覚が同時にあって、もっと身近なところでは、プールの中で全身を投げ出して浮いている感じだろうか。




―――― ・・・・こ・・・・や・・・・光弥・・・・ ――――




まさかこんなところまで同じなのかと、辺りを見回す。


しかし予想に反し、あのキラキラ輝く無数の人魂達は、この青い空間にはいなかった。


それに、そもそも今度の声は、などではなかった。


とても身近で、大好きだった・・・・懐かしい声だった。


「全く、いつまで寝ておる。

いい加減に起きぬか、わらしめが」


「・・・・"じーさま"」


厳しい言葉とは裏腹に、爺様じーさまの声はとても優しい。


いっそ、涙が流れ出してしまいそうな程に。


「なにが、"じーさま"じゃ。

呆けた声を出しおって。

・・・・もう時間じゃ、さっさと起きんか」




光弥は、本当に懐かしく、そして嬉しく思っていた。


もう二度と聞けないこの声が聞けるなら、やはりこれは間違いなく、夢なのだろう。


だが、その割には自分の思う通りに動けるので、光弥は思わず意地を張っていた。


例え夢の産物でも、爺様に震えた声を聞かれたくなくて、光弥は答えなかった。


目を瞑って、寝ている中で寝た振りをする事にする。




「・・・・はぁ、全く。

やれ、仕方のない小僧めよ。

然らば、仕方がない。

ヌシが起きるまで、ワシは仕方なく昔の思い出を振り返って、待つとするかのぉ・・・・」


気のせいか、仕方ないを連呼しながらも、妙に楽しそうに呟く爺様。


更には、光弥の方もどうしてか、例の"予感"めいた危険の悪寒が走った気がした。


そして結果的に、それは気の所為ではなかったのだった。


「――――そうさのう、あれは師走の頭じゃった。

いつも早起きのヌシが珍しくなかなか起きんというので、ワシが起こしにいった時じゃ。

呼んでも返事一つせんし、はてさてと無理やり布団を引っぺがして見たら何と、お前の股座がビッショリ濡れておった。

いやはや、十と二にもなって寝小便とは情けない。

しかもその時の言い訳が・・・・何じゃったか。

おぉ、そうそう「幽霊がをしていった」だったか。

全く、寝小便垂れだけでまだしも、そのツケを他に押し付けようなどと、いやはや・・・・」


我慢である。


第一、あれは寝る前に爺様に怪談を話され、その所為で見た夢が原因で起きた、悲しい事故だ。


つまり、半分は間違い。


故に光弥は我慢を貫く。


「おぉっ、それにこんな事もあったの。

ありゃぁ、ワシが商店街連中から饅頭をもらって来た時じゃった。

取って置いたそれをヌシが全部食っちまったのを誤魔化すのに、泥饅頭をたくさん拵えたんじゃったな。

饅頭とて、盗みは盗み。

だが、ワシがそう言うと、ヌシときたら「こっちだって旨い」とか言ってかっこんで、腹下して3日ぐらい寝込んだんじゃったのぅ」


「だーっ!!!!

はいはい、起きりゃ良いんだろっ!!!!」


絶叫しながらカッと目を見開き、光弥は遂に跳び起きるのだった。


前述のように、寝ているのかそうでないのかすらよく分からない状況なので、あくまで気持ちの話である。


「もう無理、もう我慢できん!!

よりによって思い出しくないこと上位の奴ばっかをピンポイントに、このじじぃ・・・・!!」


激怒した勢いで言い返す光弥だが、紙一重の冷静さはまだ残っていた。


「わざわざ言われなくても、一々全部覚えてる!!」


・・・・と、啖呵を切るのは流石に情けないと思い至り、それを口走るのはどうにか踏み止まっていたのだった。


「――――言わせておけば、このスケベじじいめ!!

そっちだって、ほっとくとそこかしこにエロ本を放り出してさ!!

時々目に入って、僕がそれはそれは気まずい思いをしてたってのに!!」


「なんじゃい、ヌシも興味津々だったじゃろうに。

嘘はいかんぞぉ」


「興味ねーよっ!!」


「なんとっ!?

はぁー、枯れるにはいささか早すぎやせんか?」


「そういう話でもねぇってよ。

大体お寝し・・・・したのだって、じーさまが遅くまで「酒の肴じゃ」とか言って、付き合わせるからだろ!?」


ちなみに、饅頭のことについては否定の余地なく全て本当のことである。


「ぬぁっはっはっは、そう騒ぐな未熟者め。

まだまだ、ヌシの馬鹿話など、これから幾らでも思い出せようぞ」


「いややめろってば!!

こっちは損ばっかだよ!!」


「おぉ、そうじゃ。

去年の今頃、ワシだと思って後ろから張り倒したのが実は別のジジイで、こっぴどくその息子に叱られたことが――――」


「もういいってのっ!!!!

傷にわざわざ塩を塗るなっ!!!!」


「ぬわっはっはっはっはっはっはっは!!!!」


爺様の声は、それはもう楽しそうに大笑いしてみせる。


相手はどこにいるか分からず、声しか聞こえてこないというのに、此方は言われ放題。


爺様はもともと、自分を振り回してイジるのが大好きだった事を、今更のように光弥は実感していた。


「あー、ちょっとでも感動した僕がバカだった、腹立つ!!」


「――――あぁ、そうとも。

いい加減、目は覚めたじゃろう。

さぁ、さっさと立ちませい」


すると、ここに来て急に冷静な口調に戻って、そう言われる。


それはふざけていない、真面目な時の爺様の声で、釣られて光弥も思わず背筋が伸びる。


悲しいかな、これはもう条件反射のようなもので、こうやって静かに言われた途端、光弥もこれに準てしまう癖がついてしまっているのだった。


光弥は、何年もこうして色々な事を教えられたり、怒られたりしてきた。


なんだか躾けられた犬みたいでヤだな、とか思うも、そう言う考えとかも咄嗟に引っ込んでしまうだから、尚タチが悪かった。


「・・・・はいはい、起きますよ・・・・」


せめてもの抵抗と、渋々に時間をかけて、光弥は身体を起こすことにした。


これ以上妙なことを言われて、身悶えするのはうんざりだった。


ふわふわと浮かんでる感覚のような中、何とか身体を垂直だと思う角度に揃える。


これが立つ、という事になるのかどうかは分からなかったが、一先ず文句の一つも言ってやろうと声の方に振り向く。




「然り、ヌシは行かねばならんのだ。

ワシがその様、見届けておいてやろうぞ」




・・・・

・・・

・・




光弥はまたも、パチッと目を見開いていた。


途端、いきなり飛び込んで来た日の光に目が眩む。


見上げた先は鉛色の空、背中には硬い地面の感触。


あの青空の中の心地良さは、無い。


「・・・・夢か」


分かっていた筈の事なのに、光弥は溜め息を付いた。


「――――当たり前だよな。

じーさまが、いる筈がないんだ。

もうとっくに・・・・」




喪った人は、二度と現実に戻ってきたりはしないのだ。


懐古と失望の思いが胸の内で混じりあう。


言い様のない、締め付けられるような寂寥感になって、胸に寒々しい空洞を作った気がした。


仰向けのまま、光弥は不貞腐れたように横に顔を背ける。




そこに、それはいた。




「・・・・ぬ」




学名をLumbricina。


英語では、Earth worm。


日本に於いては、特に種類に関わらず、”ミミズ”と一括りに言われる。


しかも、滅多に見ない特大サイズであった。




「 ぬわぁっーっ !!??」




・・・・

・・・

・・




6月7日 7時30分

二間市 未土 住宅区

桜蔭館 中庭




桜蔭館の大きな柱時計が、30分に1度の短い鳴動を行うのを、光弥は遠耳に聞いた。


太陽の位置的にも、そろそろ学校に行く支度をせねばまずい時間であろうというのも。


「・・・・こいつがいるのは土が豊かな証拠。

・・・・んだけど、朝っぱらからドアップで見たくはないよな・・・・」


先ほど本気で悲鳴を上げさせられたミミズを石でつんつん突きながら愚痴る。


のたうつ細長い軟体は、やたらにプニプニグニャグニャしてて活きが良い。


いつもは何とも思わない光弥だったが、今はなんだか引き気味に呟くのだった。


さておき、と光弥は尻餅をついた状態から立ち上がろうと考える。


「・・・・いつもなら、とっくに起きて諸々始めてる時間だ。

急がないと、また遅刻ギリギリになりそうだな・・・・」


しかしながら、いざ身体を起こそうと力を込めた途端、全身に痛みが走る。


内側の骨の辺りが引きつって、じくじくと疼き散らかす感覚は、紛うことなき筋肉痛。


それもかなり重度のヤツだった。


(――――昨日の全力疾走でも、こうはならなかったってのにな。

手足なんかパンパンに腫れてるし、立ったりするだけでも辛いな)


なんだか辟易としてしまって、光弥はやがて、呻き混じりに庭を見回し始めた。


辺りは、ひどい有様だった。


地面の至る所に、爆撃にでもあったかのような穴が開き、土くれがゴロゴロと飛び散っている。


隅っこに立つ大きなケヤキの幹には、深く何かが突き立った痛々しい傷跡が残ってしまっていた。


まるで戦場跡のような惨状だった。


言ってしまえば、その通りなのである。


誇張でも何でもなく、間違いなく数時間前まで此処は”戦場”だったのだから。


「・・・・こっちは夢とかじゃ・・・・なかったんだな・・・・」


然り、この場に残っている幾多の痕跡。


そして身体の至る所で暴れる痛みが、全てを物語っていた。


昨夜のあの激闘は、事実であった。


そして、あの怪物は実在して、しかも未だに逃げ延びている。


圧倒的な力、目の前で荒れ狂う死の嵐は、思い出しただけでも震えが来る程だった。


(・・・・未だに信じられないな。

よく生きてられたもんだ)


鬱々とした気分で、溜め息をついて空を仰ぐ。


吹き荒ぶ空っ風が身体を撫ぜる。


6月の朝とは思えない、乾いた感触だった。


「・・・・寒いなぁ。

それに、腹だって減った。

・・・・風呂も入ってないし、洗濯もまだだ・・・・」


半ば現実逃避に、現状から目を逸らしたがってしまう。


それくらいに、光弥は疲れ果てていた。


肉体的な部分もさる事ながら、精神的にも。


一人暮らしゆえ、やらなければならないことが山積みなのだが、それ以上に身体が重い。


昨日から着っぱなしで泥まみれ、汗まみれの制服だって着替えたいが、上記の理由でその気も挫けてしまう。


結局、どうにか外廊下の木張りの部分に乗り上げるまでが限界で、そのまま光弥はまた仰向けに寝転んだ。


視線の先には、小さな鳥が大きな群れをなして飛ぶ、朝の空の光景があった。




「――――あれは、一体なんだったんだろうな」




やがて、光弥は当然の疑問について、思考を巡らせ始めていた。


昨夜、突如として自分を襲ったあの・・・・"怪物"の事。


振り返ってみても、やはり光弥にはそう言う以外の表現を思いつけなかった。


「熊・・・・みたいだったけど、違うか」


あの体躯に、物凄い力と凶暴さ。


例えるなら、まさに人食い大熊と言ったところ。


「そんな風には見えなかったな、スマートだったし。

・・・・あと、頭は犬っぽかったな」


何度も自分の肩口や、頭めがけて食らいついて来た鼻面を思い出す光弥。


前に細長く伸びたあの輪郭は、イヌ科の顔立ちに似ているように思える。


「・・・・でも、それにしては体毛が一本もなかったんだよな。

それに、いくらなんでも人より大きくて、腕と爪でブンブン殴りかかってくる犬なんて、なぁ・・・・。

・・・・所々に、灰色の殻みたいなのが・・・・蟹」


そんな訳あるかと、言い切る前に自分で突っ込んでボツにしていた。


「――――そういえば、たてがみがあったな。

頭から背筋にツーッと・・・・。

て、ことは・・・・馬?」


自分の分析力の不甲斐なさに、自分で呆れてしまう。


人食い熊やら二足歩行の狼ならともかく、爪を振りかざして襲いかかる凶暴極まる馬なんて、流石に冗談が過ぎる。




ならば、と・・・・あれがのなら、妖怪とでも決めつけるべきか。


無理やりに普通や常識に当てはめようとするより、そこから飛び出して考えてしまえば、心当たりは幾らでもあった。


「怪物・・・・モンスター・・・・。

確かに、そう考えるのが一番しっくりくるんだよな・・・・」


本当にそうだとするなら、最も近いと思われるのは、やはり"狼人間"だろう。


人の形を留めながらも、体や精神は野獣のように強靭で凶暴な、半人半獣の魔物。


(イメージはぴったり、だな・・・・)


そして、更にまだ気がかりな点はある。


光弥は自分の右手首を見た。


黒鋼色に光る腕輪が、そこにはめられていた。


「――――一番分からないのはだよな・・・・。

この・・・・じーさまが持っていた、腕輪」


改めて陽の光の下で見てみれば、腕輪はいっそみすぼらしいくらいに古ぼけたものだ。


はめ込まれている宝石のような物も、くすんでしまっていて輝きなどまったく無い。


これでは本来の用途であろう装飾品としての価値は、お世辞にもありそうもなかった。


「でも昨日、これは剣に変わった。

とにかくでかくて、頑丈で・・・・強力な武器に」


そう、確かに変わった。


光弥の身の丈ほどもある巨大剣・・・・"重撃剣"こと、"嶄徹"。


そして左半身を装甲する鎧と大籠手、"撃煌"。


しかし、こうして持っていてもそれなりに立派な作りな以外は、単なる金属製の腕輪。


"光と共に変形した"、なんて夢幻のような事を起こせるようには見えない。


加えて、この腕輪にはまだ幾つも腑に落ちない点がある。


腕輪は今、光弥の手首をがっちりと挟みこんでいる状態で着けられている。


大きさもそこにぴったり合うくらいのタイトさで、引っ張っても抜けそうにない。


それなら、この硬い金属の輪はいつ、どのようにして、そこまでしっかりとはまったのだろうか?


「あの後・・・・僕は気絶して・・・・その時は剣を持っていて、杖みたいにして気を失った、筈。

そして、こうして起きてみれば、その剣も鎧も、いつの間にか無くなって・・・・いつの間にか、これが腕にはまってた・・・・。

着けた覚えも、どうやって着けるのかさえ分からないのに。

――――じーさまは、どうしてこんなものを持っていたんだ?

こんな、とんでもない代物を・・・・」


恐る恐るに呟く光弥は、忘れる事ができないでいた。


身を守る為とはいえ、、その感触を。


結局、分からないことばかり数有れど、手がかりは何一つとして無い。


必然的に、思索は直ぐに行き止まりに至ってしまう。


降参の白旗代わりに、また溜息をついて瞑目するのが関の山であったのだ。


光弥は、この事を誰かに話したいと思った。


一人で抱えるのは、どうにも荷が勝ちすぎる気がした。


そして怖かった。


この状況を知っているのは自分だけ。


何かあっても、それに対処できるのは自分一人だけだ。


それが心細く、恐ろしかった。


(・・・・でも、こんなことを話して、いったい誰が信じてくれるんだ・・・・?)


警察に言うのだって、もちろん考えた。


民間人が一番頼れる存在であり、本来なら一も二も無く連絡を取っているだろう。


しかし、その内容が問題だ。


目の当たりにした光弥自身でさえ、未だ受け止めきれていない出来事なのである。


他人に話だけ聞かせたところで、こちらの正気を疑われるのがオチだろう。


もしくは、例えば熊や猪が出たと言う事にして、助けを呼ぶ手はあるかも知れない。


だが、それでもしも他の人々をあの魔物の前に引き出したらば・・・・それはきっと、光弥が殺すのも同然の所業だろう。


普通の手段であの怪物の相手が出来るとは、とても思えない。


光弥は、昨夜の・・・・火箸で頭蓋を貫かれても平然と動き続けていた怪物の光景が、頭から離れなかった。




「・・・・一体、どうすればいいんだろう」




光弥のその呟きは、半ば恨み節めいて、震えてもいた。


"日神 光弥"は、ただの学生のだった筈だ。


まだ未熟で、心意気だけは立派で・・・・でもそんな日常は、突然に暗転してしまった。


直面させられたのは、とんでもなく危険な非日常。


何も知らないし、関係もない筈が、いきなりそんな物騒なものの前に立たされてしまった。


藻掻いて足掻いて、こうしてどうにか生き延びた。


けれど、今の光弥は独りだ。


孤立無援なまま、この不安を、危険を、抱え続けなくてはならないのか。


誰にも理解されない後ろめたさを感じながら、今までとは別の側に立ち続けなければならないのだろうか。


孤独な境遇は重く、身体の奥に沈殿していく。


そうやって気持ちまでも澱んでいくのが嫌で、いつしか光弥は思考を止ませ、瞼を閉じた暗闇に浸り続けていた。




―――― ・・・・!!・・・・ ――――




ところが、深く落ち込んでいたはずの光弥は、途端に跳ね起きていた。


そして勢いそのまま立ち上がって、走り出す。


傷の痛みも、全身にのし掛かる疲れも忘れていた。


"あの2人の声"を、光弥が聞き違えるはずがなく、確信を持って桜蔭館の玄関へ突っ走る。





「――――おい、そっちから来たぞ」


「あ、ホントだ。

おはよう、光弥く・・・って、わ!?

ど、どうしたの、その格好!!??」


「・・・・正木、香ちゃん・・・・」




そこには香と正木の2人が、昨日と全く変わりない様子で立っていた。


集合時間にはまだ早いのにな、と、頭の片隅でふとそんな事が思い出された。


「な、なんで・・・・ここに・・・・?」


「何でって、昨日の今日で光弥くん平気かなって、見に来てみたんだよ!!」


「いや、それより、お前の格好はなんだよ?

今度はショベルカーにでもぶつかられたのか?」


「そ、そうだよっ!!

光弥くんったら、泥だらけじゃない、もぅ・・・・!!

って、あぁ!?

肩から、血が出てるよ!?」


訝しげに顔を顰める正木。


対して、光弥のぼろぼろな格好に、香は目を白黒させて駆け寄り、そっと右肩を気遣う。


その優しい手つきと温もりが、じんわりと光弥の傷に、心に沁み入る。


「・・・・あったかい」


「え?」


口を滑らせた誤魔化しついでに、光弥はするりと香の手から抜けて、怪我した肩を手で覆い隠す。


「い、いや、平気さっ。

これは・・・・釘で引っ掛けちゃっただけなんだ。

ほら、門のところにあっただろ?

最近、看板がよく落ちて、釘だけむき出しなってることが多くてさ!!」


と、昨夜の負傷については掠めた程度の小さな傷だったため、その誤魔化し方でも説得力はあった。


しかし、わたわたとして何とも挙動不審な光弥には、まだまだ突っ込みどころが残っている。


「・・・・それはまぁ良いとして、そのYシャツが昨日より薄汚れてる、ってのはどういう了見でぇ」


「あ・・・・あぁ~っ!!

これは、ほら、中庭のじーさまのをちょっと・・・・掃除、してたんだ!!

その、だいぶあの建物自体傷んでてきて、それでちょっと思い立って」


「でも、埃ってより、やっぱり泥の汚れに見えるよ・・・・?」


「いや、というかお前そもそもその制服って、昨日ののままだろ。

それを着替えてないって事は・・・・」


「あー、はいはいっ!!

帰ってすぐにふとやりたくなったから取り掛かって、そしたらもう、本当に疲れちゃっててさ!!

ちょっと横になって一休みするつもりが、今の今まで寝落ちしてたんだ。

もう、ご飯も作れないくらいぐったり来ちゃって・・・・」


<グーッ>


と、空腹をダシに使った瞬間、見計らったように腹の虫が鳴いてくれる。


実際、昨日の昼から何も食べていないのは事実で、光弥は今更のように強烈な空腹感を覚えていた。


「そうなの?

・・・・ご飯はまだしも、血と汗と泥が染み込んでるのに・・・・」


嘘も方便と誤魔化し続ける光弥だったが、察しの通り、その代償は重く、大きいものだった。


数年ぶりに洗ってない雑巾を見つけた時のような、香の半眼が痛い。


「・・・・っつう事は、だぜ?

着替えてねぇうえに、このってことはつまり・・・・うっわ、!!!!

汗臭男子!!!!」


「あ、そっか!!!!

光弥くんったら、やだっ、もぅっ!!

っ!!」


「ふ、二人して、人をバイキンのよーに・・・・」


迫真の勢いで鼻を摘んで罵倒する2人。


確かに多少は埃っぽいかもしれないが、しかし決してそこまで不潔ではないと、光弥は反論のボディランゲージ。


だが、それを目の当たりにした香も正木も、若い脂が飛び散るのを恐れ、マジで後退る始末。


言い逃れの出来ない身上ではあるのだが、ちょっと傷つく光弥であった。


「・・・・え、そんな臭ってる?

ヤバい?」


「ヤバいな」


「ヤバいね。

・・・・はぁ、今日は来てみて良かったわよ、もぅ。

まだちょっと時間あるし、軽くシャワーでも浴びて、着替えたほうが良いよ。

それから、台所借りるね。

なんか食べる物、作っといたげる」


「え、そりゃ、凄い助かるんだけど、時間の方は――――」


「ささっと済ませれば、まだ大丈夫でしょ。

このままお風呂入らないでもう一日なんて、ちょっと近寄りたくないもん。

ほらほら、良いから、任せなさいっ」


「まぁ、確かに・・・・。

じゃあ、今鍵開けるよ」


斯くして、急かされるままに中から回り込んだ光弥が玄関を開けると、そのまま2人はさっさと扉を潜り抜ける。


なにせ、勝手知ったる他人の家である。


幼少からの付き合いで桜蔭館の間取りは知り尽くしていて、こうして躊躇なく上がり込もうとするくらいに慣れ親しんでいる。


「いやー、香さん?

実は俺さんも、今日は朝飯抜いていまして・・・・」


「図々しいんだから、もぅ。

仕方ない・・・・光弥くん、良い?」


「昨日の残りのご飯と、乾物くらいしかないけど・・・・」


「お前も、何ボーッとしてんだ。

せっかくやってくれるっつーんだから、さっさと済ませてこいよ」


いそいそと靴を脱ぎ、家主よりも先にさっさと上がり込む2人。


呆気に取られる光弥だったが、次第にトントン拍子に話を進めていく遠慮のない調子が、可笑しくなってきていた。


昨夜、光弥が不気味な追跡に慄き、謎の激痛に転げ回っていた玄関口。


でも今はそこで、幼馴染3人ズケズケと言い合いながら、いつもの調子で過ごしている。


それがなんだか・・・・凄く、痛快な気分だった。


「・・・・なんか、世話かけちゃってごめ・・・・ありがとう、二人共。

それに香ちゃんも、なんとかご機嫌を直してくれたみたいで」


「む。

ちょっとー、一体誰のせいでそうなったか、分かってます?」


「分かってますって。

昨日は気が利かなくってごめん、香ちゃん」


「本当に思ってるの、もぅ。

・・・・ま、いいよ。

あたしこそ、ごめんね。

なんか色々あって、むしゃくしゃしちゃって・・・・」


あの怪物との戦う中でも忘れなかった、香との気まずい擦れ違い。


光弥にとって、この言葉を伝えるのは大きな目標の一つだったが、それを受けた香の反応はあっさりしたものだった。


それもその筈だ。


これぐらいのケンカは、今まで何度もあったのだから。


「――――帰りがけに、正木にも言われたんだ。

光弥の、まっしぐらっぷりも、と決めたらそれしか見えない単純な所も。

それから、あたしが拗ねちゃった時の事も、もう全部今更だろって」


「ついでに、どれくらい鈍ちんなヤツか、ってのもな」


もう慣れっこ、と事も無げに笑う香。


どうやら、正木もあの後、香を宥めるのに働きかけてくれていたようだ。


それは確かに感謝するが、しかし鈍感という言葉は正木にだけは言われたくないというのが本音だった。


とは言え、今回は礼を述べるしかない訳で。


「・・・・ああ。

情けないけど、僕は昔っからこんなんだ。

それで次の日にいつも、こんな構図でどうにか収まってた。

じーさまにもよく、仕方ないヤツだって言われてたの、思い出したよ」


「まったく、感謝しとけよ


「あー、はいはい、で面目ありませんですっと」


「そう言う事。

から、あたしも許してあげる・・・・ふふ」




厳しいことを言ったり、時に啀み合ったりしてしまう事もある。


それでも根底にある相手への心配と敬意は、各々の間に確かに繋がっている。


紆余曲折を経ても、結局は元の鞘に綺麗に収まる光弥達であった。


それは、極めて身近で他愛なさそうに見えて・・・・その実はとても難しく、そして尊い事なのかもしれない。




「――――じゃあ、お言葉に甘えるよ。

でも、貰ってばかりじゃなく、ちゃんと返さないとな。

昼にでも、なんか奢るよ」


「えー?

それ、ご機嫌取りも兼ねてる?」


「はは、まぁ身も蓋もない言い方すれば。

昨日は色々あったからさ。

感謝とお詫びを兼ねて、謹んで好きなものを奢らせていただこうかと」


「へぇ・・・・?」


、という一言は、もしかしたら余計だったかもしれない。


不敵な微笑みを浮かべる香を見て、光弥は咄嗟に思った。


あれは、"遠慮"という和の心を都合よく忘れ去った目だ。


「じゃあね、サ○ウェイ!!」


(・・・・そこは、甘いものとかじゃないんだな)


海晶学園の学食棟にある件のチェーン店は、ちょっと良い物を食べたい時の香のお気に入りだった。


ファミレスで好きな食べ物ありったけ、なんてふっかけられなかった事に一安心の光弥。


しかし、相手は今や"懐具合"という制約から遂に解き放たれ、原始の貪欲さを醸し出し始めている。


そんな香を前にここで気を抜くのは、まったくもって油断も良いところであった。


「チリチキンでしょ。

それから、トッピングはチーズ・・・・マスカルポーネかなー。

それから卵とエビも行っちゃって、当然サラダもねっ!!」


「が、ガッツリいくっすね・・・・」


「おぅ、待てよ兄弟――――」


そしてこの男の参入によって、短慮は身を滅ぼすという光弥の予感は決定的なものとなる。


目の前にぶら下げられた、文字通りのに目をいやしく輝かせる今の正木には、"遠慮"なんて言葉は雀の涙よりも些細なことであろう。


「――――恩を返すって話なら、当然俺も貰う権利があると思うのだが、さっきはお前さん、なんと言ったね?」


「・・・・謹んで好きなものを奢らせていただこう、と」


「おー、そうかそうか、心の友よ!!

なら俺は、ピザとか食いてぇなー。

あの、限定の味が四種類乗っかってるやつ」


「え、それ、かなり高いんじゃ――――」


「あ、知ってる!!

あれ美味しそうなんだよねー。

じゃあ、あたしも食べたいなぁ」


言質を取ったのをこれ幸いと、案の定にふっかけだす正木。


おまけに、何故か大奮発でランチを奢る確約を取り付けている香までも横入りしてくる始末。


「えぇ、香ちゃんはパンを食べるんじゃ――――」


「太るぞ、腹だけ」


「つぁっ!!」


刹那、剣豪の太刀打を思わせる威力をもって、揃えた両手刀が正木を切り裂いた。


「おぉ、ダブルチョップ」


「ねぇ、なんなの?

ついでにあたしに嫌味言わないと、あんたは気が済まねぇって、のっ!?」


刹那。


そこに降臨せし夜叉は、悪行狼藉の正木の手首を引っ掴む。


同時に、無防備に開いた脇にもう一方の腕が滑り込み、目にも止まらぬ速さで絡め捉えた。


その戒めはあたかも、仏身がその手に携える、悪を縛り上げる羂索けんさくの如く。


使い手に滾る憤怒がその縛りをより強くし、捉えた腕を容赦無く捻じり上げる。


苛烈に、凄絶に、武を持って煩悩を降す、理智と仏罰の概念図をそこに成すのだった。


「ま、待てっ!!

アームロックは、捻れちゃ、あ、アッーーーーー!!!!」


「っはははは――――」


香の容赦ない折檻に撃沈させられる正木の姿に、光弥は爆笑した。


あまりにくだらなくて、いつも通りの愉快さで、止め処なく笑っていた。


「――――くっくく・・・・ははははっ!!」


「ど、どうしたの、光弥くん?

ツボっちゃった?」


「だ、だって・・・・ほら、香ちゃん・・・・正木が、曲がって・・・・くっ、あははは!!」


「そ、そんな、泣くほど笑っちゃって。

これぐらい強めなの、いつものことじゃん」


「かお、るぅっ・・・・。

むしろ、むしろ俺が泣ける・・・・技を・・・・技を外し・・・・ ヴェっ !!!!」


「「あっ」」




――――光弥は孤独なまま、歪な世界に放り込まれたと思っていた。


そこで垣間見た、この世ならざる幾つもの出来事、脅威。


文字通り、"死ぬほど恐い"思いを何度も感じて、それでも足掻いて。


そして今、ここにこうして帰って来る事ができた。


この居心地の良い喧騒。


自分の日常いつもどおりへの帰還。


怪物の脅威も、数多の謎も、未だにそのままではある。


それでも、例え己の見える世界が様変わったとしても、その中には変わらないものも、こうしてある。


少なくとも、光弥が今まで生きてきた居場所とは、こんな風にいっそ呆れる程に近く、いつもどおりに隣り合っていた。


目の前に光明の見えない暗闇が立ち込めていても、振り返ればきっとそこに、この場所はある。


明るくて温かい世界が、自分を待ってくれている。


その確信が、何よりも光弥を励ましてくれていた。


桜蔭館の大時計が、今度は午前8時を告げる鐘を鳴らすまで、光弥はたっぷりと笑い続けていたのだった。




――――To be Continued. ――――

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