#4 逢魔の時




「――――・・・・うっ・・・・ぐ・・・・」




一瞬、意識が飛んだようだった。


気が付くと、光弥は地面にうつ伏せに倒れ込んでいた。


「・・・・げほ・・・・っ、ごほ・・・・っ!!!!」


激しくせき込み、背中からのしかかる重力にもがく。


全身の強い痛みに呼吸すらままならず、酷く息苦しかった。


(・・・・どう、なったんだ・・・・?)


目眩と甲高い耳鳴りとが纏わり付く。


平衡感覚も麻痺しかかっているようで、光弥は酷くふらつきながら立ち上がっていた。


「――――ぐっ・・・・なんだ、ってんだ・・・・!!??

不発弾でも・・・・あったのか・・・・!!??」


凄まじい衝撃だった。


まさに今日の、あのトラックに轢き潰されかけた時並みの。


しかしながら、今回は周りにそんな衝撃を齎すような物体など無かった筈だ。


となれば、次に考えつくのは地中の爆弾、と言う答えでも不思議はない。


(でも、もし爆弾だったとしたら、「痛い」だけで済むのはおかしいか・・・・。

それこそ体がばらばらになってるはずだ・・・・)


未だに眼の機能は戻り切っておらず、視界が滲む。


それでなくとも、巻き上がる濛々とした土埃に何もかもが閉ざされていた。


辺りは車の通りの少ない郊外だけに、轟音の反響もまだ辺りに残っている。


ビルの解体工事さながらの猛烈な煙幕に目を眇めながら、光弥は推測の真偽を求めて辺りを見回す。


「・・・・!!」




< ・・・・ルルルゥォォォ・・・・ >




次の瞬間、光弥は凍り付いたように硬直していた。




(・・・・・・・・っ!!??)




爆轟の残響の中に混ざる、全く別種の音。


次いで、今度は視覚の方が、異様なものを捉える。




――――土埃の中心に、巨大な"何か"が蠢いている。


熊のようにでかい。


だがこれの放つ"気配"は、それ以上に遥かに強大で、禍々しい。


黒く、寒々しい"予感"に震え上がった光弥は、無意識の内に2歩3歩と引き下がる。


自分の身体が、ここから離れたがっている事に気付いた。


(・・・・あれは、やばい・・・・っ!!!!

逃げないとっ・・・・!!!!)


即座に光弥は、結論を下していた。


頼みの綱だった筈の木刀やらも、気がつけばどこかへ飛んでいってしまったらしい以上、他の選択肢などあろうはずも無い。


この「中庭」は桜蔭館の「入口前」と、細い小道で繋がっている。


そこまで行けば、何とかなる。


その後どうするかなど、光弥は欠片も考えていなかった。


"ここから離れる"という一念を、光弥は逡巡無く選び取っていた。


脱兎の如く、煙幕の向こうにいる巨大な影から逃げ出す。


脇目も振らず走って、小道まであと少しの距離まで迫る。


その刹那。




< オオオオォォォォッッッッ !!!!>




何か分からない、とにかく大きな爆発音が鳴り響く。


しかし、似て非なるその音圧は、耳どころか全身を貫き、思考も身体も瞬時に竦ませる。


それ程に、恐ろしく巨大で、低く、野太かった。


「うあっっっっ!!??」


遁走する最中、訳も分からず身体の竦み上がった光弥は、不格好に尻餅を付くように倒れ込む。


果たして、それによって僅かに狂った立ち位置が、だった。


同時に、硬直した隙を狙い澄ましたようなタイミングで、"何か"が煙の中から飛び出す。


物凄い勢いで飛びかかってくる"それ"は、しかし目標を捕らえ損ねて目前の地面に落ち、再び爆轟を巻き起こす。


< ドゴォォォォッ !!!!>




内臓までも打ち震わせる爆音。


その元凶を、ついに光弥は垣間見る。




「・・・・なんだよ、これ・・・・」




光弥は、目前に張り付いた巨大な"腕"を見て、絶句していた。


(腕・・・・?

本当に、こんなのが・・・・!?

嘘だろ・・・・っ!!??)


にわかには信じられないも、それは確かに"腕"のようであった。


肘があり、手首があり、掌があり、指がある。


しかし、その"手首"だけで光弥の胴ほどもあり、全体の太さは丸太のよう。


筋肉も険しく盛り上がり、所々に岩塊が張り付いている。


いや、違った。


その"腕"を覆ってびっしりと張り付いているのは、岩と見間違えるほど硬質な、灰色の甲殻らしきものだった。


人間のような5本指の掌の、第二関節から先が変質して生えた”爪”は、重厚で金属質。


そのいずれもが、寒気を催すほどに鋭く、焼け焦げたような鈍い灰色にギラつく。


どれ程の力で叩きつけられたのか、馬鹿でかい牙のような形状のそれらは全て、乾いて硬い地面に根本まで突き立てられ、凶悪な痕跡を残していた。




< グルルウ"ウ"ゥゥゥッ >


「・・・・っ!!!!」




やがて、濃密な煙がようやく薄れ、その向こうから"そいつ"はゆっくりと、全貌を表した。


縦に瞳孔の裂けた赫々たる眼光と、視線が交わったその時、光弥の心臓は一瞬、確かに止まったように思う。


それほどに・・・・肝っ玉どころかあらゆる臓器、細胞までもを縮み上がらせる至上の恐怖が、光弥の総身を貫いた。




「・・・・怪、物・・・・っ!!??」




――――それ以外に、光弥にはそいつを形容する言葉を思い付かなかった。

巨腕の先の体は、やはり筋肉質だった。

まるで、高熱に焼かれ続けた火山岩のような灰白色の甲殻は全身に存在し、隆起した肌に張り付いている。

どういう訳か、引き千切られている左腕から血を滴らせ、唸りを上げる。

その姿はひどく歪で、そしてとてつもなく大きい。

光弥が熊の様、と思ったあの影は、あくまでそいつがに過ぎなかったのだ。

姿を現したその身体は、さらに一回り以上も大きかった。

まるでトカゲか、狼の如く伸びた鼻面は、やはり灰色がかった硬い表皮に覆われている。

鋸のような牙が居並んだその口は、耳まで裂けていた。

そして、下顎からは更に巨大な、出刃包丁のような牙が突き出ていた。

身じろぎのたび、額の辺りから背骨に沿うように生える真っ白な鬣がざわめき、青褪めた月光によって瞬く。

その様は一種異様ながらも妖美ですらあった。

禍々しい巨躯も、頑強で剛健な生命の証明としては、究極の形であると言えるかも知れない。

問題は、その究極の肉体と秘めたる"力"の全てが、殺戮の為にあるだろう、という事。

動かぬ草を食むだけなら、鋭利な爪牙も、強靭な肉体も不要。

逃げて暴れる獲物を斃し、捕食する。

そんな原始の暴力を体現する為にこそ、この灰白色の魔物は姿であるのだ。

そして、言うまでもなくその大きさは、人間が抵抗できる範疇を遥かに凌駕している。

まさに、"怪物"と呼び、恐れる他に無い存在だったのだ。――――




光弥の思考はその時、既にあまりの事態に停止しかけていた。


それでもただ一つ確かな事は、目の前の怪物が途方もなく危険なものである、という事。


(逃げるんだ)


本能が命じたその考えは、タイムラグ無く直ぐに実行に移されていた。


思考を介していない為に、身体は動くも、夢でも見ているように現実感が無い。


走っている感覚もほとんど無く、ふわふわと空中でバタ足でもしているようだった。


しかし、心臓がひっきりなしに収縮し、大袈裟に拍動する感覚。


この止まない痛みだけは間違い無く本物で、それが光弥の精神の糸を張り詰めさせていた。


(――――逃げるんだ!!!!)


一目散に目指す、桜蔭館の横手。


裏庭と玄関前を渡る、あの細くて狭い道。


(あそこまで逃げればっ!!!!)


だが、怪物はそれすらも許さなかった。


巨体からは想像もつかない凄まじい速さで、瞬く間に光弥の前に回り込む。


「 っ!!?? 」


怪物は、獣と同じ形の後足で、2本足に直立していた。


まるで伝説に残る"人狼"のように、光弥の前に立ち、その逃げ場を塞ぐ。


そして、唸り声を重底に響き渡らせながら、一歩、光弥へ踏み出す。




< ガア"ア"ア"ア"ァァァァッッッッ !!!!>




瞬間、凄まじい絶叫が轟く。


怪物は弾かれたように跳躍し、光弥目掛けて飛び掛かった。


そして光弥は、咆哮自体に吹き飛ばされたようにもんどりうって倒れる。


倒れ込むと同時に、背後でくぐもった轟音。




「 ――――っ !!!!」




まともな受け身も、悲鳴すら上げられずに地面に叩き付けられる光弥。


(苦しい・・・・目の前がクラクラする)


全身の痛みを堪えながら、どうにか立ち上がる。


その前に巨大な影が立ち塞がる。


「・・・・う・・・・あ・・・・っ」


声にならない声が、光弥の喉から漏れ出た。


目の前に立つ、巨大で邪悪な姿。


赤黒い舌が怪物の口腔から這い出し、気持ちの悪い音を立ててむき出しの牙を舐める。


血のように赫く、幽光する眼が、光弥を見据える。


指を解すかのように怪物が手を握り込むと、爪同士が擦れあい、シャリシャリという音をたてた。


その音を聞いて、恐怖で麻痺していた光弥の思考は、唐突に動き出し始めた。




(――――猟奇事件。

・・・・




巷で、悪魔の仕業とまで言われているその手口は、不明のままだった。


その被害者達の"痕跡"は、未だほとんど見つかっていないという。


謎に包まれた不可思議な事件の真相が、目の前の光景を糸筋に、次々に繋がっていく。


彼ら・・・・いや、彼らの"死体"が見つからない、あまりに単純でおぞましい、その理由。







そのギラつく爪で。


その凶悪な顎で。


人を引き裂き、喰らい尽くし、死体は消えた。




(・・・・こいつ、だったんだ。

・・・・こいつが、事件の犯人・・・・!!)




< グゥゥゥゥオ"オ"オ"オ"ァァァァッッッッ !!!! >




怪物は再び咆哮する。




――――逃げろ――――




大気がビリビリと震える。




――――これは人が相対して良いモノじゃない――――




身体の震えが、止まらない。




――――これは人が敵う相手じゃない――――




歯の根が噛み合わず、ガタガタと音が鳴る。


その音は異様に大きく響いているように感じ、それすらも恐怖を加速させていた。




――――出来るのはただ逃げ惑う事だけ、歯向かう事は許されない――――




我知らず、涙が溢れそうになっていた。


絶対の存在への畏怖に、魂の底から震え上がらされ、戦慄いている。




――――さもなくば、跡形もなく――――




目の前の異形が微かに身じろぎした。


同時に手足の感覚が僅かに戻る。




――――コワサレル――――




恐怖が弾けた。





「 うわああああぁぁぁぁっ !!??」




光弥は走った。


この正真正銘の怪物から、一刻も早く離れたかった。


その為に、光弥は背を向け、走って走って走り続けた。


だが背後からは刻一刻と、重たい足音が近付いていた。


怪物が、追って来ている。


それも自分より遥かに速い。


(誰か・・・誰かっ!!)


光弥は助けを求めて辺りを見回す。


あの怪物と自分の声、もしかしたらどちらかを聞いて、誰かが様子を見ようとしているかもしれない。


「誰かっ・・・・助けてっ!!!!」


息も絶え絶えに、今度は声に出して叫ぶ。


だがその声は、何にも届くことなく夜の闇へ消えていくのみ。


(――――来るっ!!??)


刹那、光弥の背筋に悪寒が走った。


咄嗟に身を低くしたその瞬間、光弥の頭のすぐ上を唸りを上げて、剛碗が薙いだ。


後頭部を風圧が掠め、髪の毛が引き千切られる感触を感じた。


「う・・・・っ!!」


転びそうになって、咄嗟に手を伸ばし、這い蹲る姿勢になりながらも走り続ける。


どんなに無様でも、肺が潰れ、心臓が弾けようとも、恐怖と本能のままに逃げ続ける。


その行く先には、瓦屋根に漆喰の壁で作られた小さな建物があった。


(あそこしかないっ!!)


死に物狂いで走り続け、その小屋の中に飛び込む。


かたや怪物は、勢い余って門扉に巨躯をぶち当てた。


<ドオォンッ!!!!>


余波でよろめくほどの衝撃だったが、意外なほど頑強に小屋は耐えぬいた。


光弥は靴のまま室内に駆け上がる。


同時、目の前の囲炉裏に突っ込んであった火箸が目に入る。


(――――武器!!)


咄嗟にそれを引っ掴み、背後を振り向く。


瞬間、目に飛び込むのは赤黒い口腔と、ぬらぬらと光る無数の牙の切っ先。


本当に目の前に、今しも光弥を噛み砕かんとする怪物の顎があった。


死の恐怖が弾け、狂乱のままに光弥の体が動き出していた。




「 ああああぁぁぁぁっっっっ !!??」


<ザブシュゥッ>




雄叫びのような悲鳴が上がり、直後にくぐもった、何かが引き裂かれるような音。


次いで、液体がぶちまけられる音が続けて響く。


土間に飛び散った血は腥く、粘っこく歪んだ光を反射する。


光弥は、その"返り血"を浴びながら呆然としていた。


無我夢中で突き出した、火箸。


それは、迫っていた怪物の口腔を貫き、頭蓋を突き抜いていた。


どこにあるかは知らないが、おそらくはあの怪物の脳漿を貫いている。


即死、だろう。


そうであってくれ。


脊椎動物の姿をしている以上、頭部は例外なく急所の筈だ。


そこを損傷して、生きていられる筈がない。




<・・・・グゥゥゥゥ・・・・ッ――――>




もし、これで死なないのならそれは――――




<―――― ・・・・アア、オオオオッ >




――――完全に、この世の理から外れた、化物だ。




「なっ・・・・!!??」




グラリと後ろに下がった怪物はそのまま倒れるかと思いきや、なんと足を踏みしめ、仁王立つ。


そして、突き刺さった火箸を、鉈のような爪を生やす掌で器用にも握り掴む。




<ブシュウアァッ!!>




胸の悪くなるような粘り気のある音を立て、火箸が引き抜かれていく。


噴水のような血飛沫を上げ、しかし痛みに怯む事も無く、淡々と。


やがて、あまりの事態に絶句する光弥の目の前で、火箸はあっさりと引き抜かれ、忌々しげに投げ捨てられていた。


虚ろだった怪物の目が、光弥を見据えた。


赫い両眼が自分を捉えるのを、茫然自失のまま見つめる。


怪物の頭蓋に穿たれた穴は、逆再生でもしているかのようにみるみる塞がっていく。


わずか2秒ほどで傷は跡形もなくなり、そしてグバリとその顎が大開きにされる。


< ギャアアアアァァァァッッッッ !!>


激憤の絶叫が叩きつけられる。


光弥の悪足掻きは、全く効いていなかった。


普通なら致命傷な筈の傷は、無意味なままに消え果てたのだった。


「 うああああぁぁぁぁ !!??」


混乱の極みに至った光弥は、ついには腰が抜けて立ち上がる事すら出来なくなる。


そして、真っ白になった思考は現実を拒絶し、あろうことか怪物の目の前で目を瞑るという行動を選んだ。


殺されるという確信に本能が命じた、最期の自己防衛だった。




「嫌だ・・・・嫌だっ・・・・僕は・・・・っ!!」




もはや逃げることもできず、死の恐怖に震えるのみ。


しかし、はなぜか、いつまでたっても訪れなかった。


ふと、恐る恐るに光弥は目を開く。


そこにあるのは小屋の戸口、そして月光に照り映える庭の景色のみ。




「・・・・いない・・・・?」




然り、怪物の姿は、どこにもいなくなっていた。


唐突に訪れた静寂に光弥は混乱する。


だが、少なくともこれで難を逃れられたなどと、甘い考えを浮かべられはしなかった。


「・・・・まだどこかに・・・・っ!!??」


気を抜かずに用心深く、ゆっくりと部屋の中央に移動する。


慎重に、臆病に、光弥は散らかった室内を這い蹲って進んだ。




――――ここは、今でこそ雑然と荷物が置かれて半ば物置と化してしまっているが、もともと"茶室"として使われていたものだった。

その証拠に、火箸のあった囲炉裏には、品の良い使い込まれた風の茶釜がある。

少し色あせているも状態の良い畳は、光弥の靴の泥で汚れてしまっていた。

入口から見て左手にある障子からは薄く月明かりが差し込み、部屋の中をほんのりと照らす。

正面には、水墨画の掛かった床の間と押し入れ。

上方には繊細な彫り物のなされた欄間があり、見る人が見ればその作りの丁寧さと品格を感じ取る事であろう。

もっとも、その何れもが、今の状況には絶望的にそぐわないものであるが・・・・。――――




光弥は、何度となく周りを・・・・特に、障子の辺りと入口周辺を見回し、怪物の影を探す。


息を潜め、短いとも長いとも分からないままに、光弥はそれを繰り返した。


時間の感覚なんて、極限の緊張感に押し潰されてしまっていた。




(・・・・諦めてくれた、か?)




希望的観測だった。


正直、光弥は全くそうは思えなかった。


あの怪物が、諦める筈なんて無い。


絶対的な力の差。


そして偶然に負わせた手傷も、一瞬で塞がってしまった。


己を害し得ない脆弱な獲物を見逃す理由など、微塵も無いだろう。


(・・・・これからどうすればいい?

朝が来るまで、ここに立籠もるか?

・・・・電話も無いし、助けも呼べない・・・・)


今この状況で、携帯電話を鞄に入れっぱなしに忘れてきたのは、致命的な失敗だったと後悔しようと、もはや後の祭りだ。


篭城も1つの選択肢だったが、はっきり言って望み薄。


これから何時間もここに篭もったところで、いつまでも向こうがはずが無い。


かといって逃げに入っても、あの速度の前ではとても逃げ切れると思えない。


八方塞がり。




「畜生・・・・」




出来るものなら、大声で泣き叫びたい。


握リ込む手も、どんなに強く握っていても、がたがた震えて止まらない。


昼間のように、考える間もなく死の恐怖を押し付けられるのとは、訳が違う。


訪れる苦痛、喪失・・・・その恐怖を、嫌というほど噛み締めさせられて、気が触れてしまいそうだった。




「――――いったい、どうすればいいんだよ・・・・」




<カタンッ>


「っ!!??」



その時、何らかの音が光弥の背後で鳴った。


過敏に反応し、首筋が痛むほどの早さで振り返る。


だが、幸いにもいつの間にか回り込んでいた怪物の姿は、そこには無かった。


あまりの驚きに一瞬で湧き出した冷や汗を拭う。


「・・・・?

これ、は・・・・――――」


果たして、うっすら埃の積もった雑多な品々の中、唯一澄んだ光沢を放っている"それ"に気付いたのは、ややあって少し呼吸が整ってきた時だった。


畳の上に、さっきまでは無かった、小さな飾り箱が転がっている。


ひっくり返って、埃の積もっていない底板が上を向き、そして中に入っていた物も、外れた蓋と共に転がっている。


そして、気付けば光弥は、いつの間にかその"入っていた物"へと手を伸ばしていた。


こんな状況にも関わらず、まるで魅入られたかのようにそれを拾い上げていたのだ。




――――それは"腕輪"であった。

鉄のような黄金色の金属の下地に、中央に金のラインが入っているように見えるよう、両縁を黒い別の金属を重ねて装飾されている。

全体的に飾り気のない素朴なデザイン。

しかしただ一箇所、幾何学的な装飾のされた大きな紋章が存在するのが、何とも印象的だった。

加えて、そこには鈍く光る灰色の石までもはまっていて、他の部位とは異彩を放っている。

不思議なのは、デザインもそうだが、その材質もだった。

という表現は、その金属が質感こそそっくりなものの、重量が比べ物にならないくらい軽かったからだ。

しかし、かといってアルミとかステンレスと言ったありふれたものには無い、不思議に重苦しく、ただならぬ気配を感じる。

重厚で荘厳なこの風格のようなものは、古めかしく年季の入った見た目のせいなのだろうか?――――




そしてこの時、震え戦いていたはずの光弥の心は、どうしてかすっかり凪いでいた。


同時に、不思議な感覚が胸を満たしている。


恐れや焦りが、溶けて消えていくような、安心感。


共にあるべき大事な何かが戻ったような、充足感。


なにより、なんだかとても懐かしく、穏やかな気持ちが、滾々と沸き上がってくる。




「そうだ。

これは・・・・確か、じーさまの――――」


< ズガアアアアァァァァッッッッ !!!!>




反応をする間も無く、気付けば光弥は宙を舞っていた。


すぐ傍の壁に大穴が空き、太い腕が突き出しているのが視界に映る。


油断の代償は、あまりにも大きかった。




<ドシャアッ>




三度、地面に叩き付けられた。


息が出来なかった。


分かったのはそれだけ。




(――――痛くないって、痛い時よりやばいんだっけ・・・・)




破壊された壁の破片は、まるで散弾銃のように光弥の全身を打ち据えた。


それによって、身体中の神経が死んでしまったのだろうか。


何の痛痒も感じない。


その代わりに、身体中を痺れたような感触が満たしている。


脳味噌以外の全身、指の先に至るまでも、別の何かに取り替えられたように重たい。


どんなに動かそうとしても、ピクリともしない。


光弥は無防備に横たわり、ともすれば意識すら今にも途絶えそうな中、怪物が一歩一歩近付いて来るのをぼんやりと見ていた。


(僕は・・・・死ぬのか)


牙を、爪を打ち鳴らしながら怪物は迫る。


(殺されて・・・・死ぬ)


もはや逃げる事は叶わないだろう。


誰かの助けも・・・・来たところでどうなる?


こんな、とんでもない化け物を相手に何になる?


諦観染みた冷めた考えが、澱のように淀んでいく。




(今度こそ、僕は本当に――――)




不意に、数多の想い出が脳裏を過った。


それは、今度こそ生じた死出の手向け・・・・走馬灯。




――――・・・・お前も、無理は大概にしとけよ――――




(・・・・ごめん、正木。

今度こそ、マジでどうにもならないみたいだ・・・・)




――――皆して、人のことを散々驚かして、だんまりだったり、能天気に笑ってたり、なによっもぅ――――




(・・・・ごめん、香ちゃん。

また明日なんて言ってないで、僕はあの時、ちゃんと言わなきゃいけなかったんだ・・・・)




――――光弥さんは・・・・優しい人ですね――――




傷ついていた2人の姉弟。




――――私には、関係ない――――




・・・・美しく、酷薄な"彼女"の貌。


何も言うことのできなかった、光弥の"罪"の象徴。




「 ・・・・ごめん・・・・ 」




・・・・

・・・

・・




<諦めるのか?>




不思議なこえが聞こえた。


遥か遠くから木霊すような、すぐ近くから響くような。


男性のような、女性のような。


1人のような、大勢のような。


もしかすれば、とうとう黄泉の淵でも覗けたのかもしれない。




<地に臥し、このまま倒れ逝くのを、認めるのか?>




(・・・・だってもう、身体なんて動かないんだ。

指にだって、少しも力が入らない・・・・)




<立ちはだかる困難に、向かい起つどころか目をそらすのか?>




(・・・・そんな事して、どうなるんだよ。

僕に出来る事なんて、何も無い。

・・・・いつだって、中途半端で・・・・無力なのに)




暗くなる世界。


もう音も光も届かない場所に光弥はいて、しかしあの"真っ白な世界"で響いたのと同じ聲は、浪々と響き続ける。


まるで、光弥を蝕む諦観を、静かに諭すかのように。




<己の為すべきを前に、恐怖にうなだれ、屈するのか?>




(――――いったい、何をしろって言うんだよ!!

だってもう、どうしようもないじゃないか!!

もう、動けもしない!!

変えることなんて、出来ない・・・・!!)




語りかける声に、光弥は自暴自棄に言い返す事を選んだ。


今更、諦めない事、屈しない事を選んで、何になるというのか。


自分で言ったように、光弥にはもう、どう望んでも"この先"を変える力なんて無いのだから。




<友を、明日を、命を、全てが潰えるのを、是とするか?>




(・・・・それは・・・・そんなの・・・・!!)




ただ、うらぶれるしかない。


あの白い喪失の中のように、後悔と諦観にふけっているしかない。


だが、それでも。


裏腹な気持ちは、確かにあった。


滾々と湧き上がってくる想いはあった。


立ち向かおうとする気概では無く、さりとてただ大人しく諦められる筈も無い。


ゆえに羨望のように光弥は夢想する。


今しも、超常の"怪物"によって、閉ざされようとしている自分の行末。


その先を望む事など、どうしようもなく遠い理想でしか無い。


でももしも、"それ"が出来たとしたら?


ただ粛々と、最悪の結果を受け入れざるを得ない、そんな理不尽を撥ね退けられたら?


自分の心のままに、閉じゆく未来を拓く、その”力”があったのだとしたら?




<お前は、ここで終わると言うのか?>




最後通牒のように、厳格に声は問うた。


どうしようもないのは、いまさら分かっている。


それ故に答えろ。


流されるまま受け入れるのではなく、覚悟を持って言ってみせろ。


お前は、どちらを選ぶのか、と。




果たして、その答えの形は既に、光弥の内で燃え盛っていた。




「――――終われ、ないっ。

・・・・ 終わって、堪るかよっ !!!!」




地面に這い蹲っていた光弥は次の瞬間、激痛も恐怖も超えて、吼えていた。


すると、まるでその咆哮に呼応するように、光弥の意識は急速に確かに、鮮明になって行く。


「終わって堪るかっ・・・・死んで、堪るか!!!!

生きてるって事を、生命を・・・・暴力で軽んじるのを・・・・認めて、堪るかっ!!!!」




その意地こそは、"日神 光弥"の起源だった。


人生を、生命を奪う事。


暴力が、誰かの心を残酷に壊す事。


それは、他ならぬ


そして同時に、自分に課された、逃れ得ぬ"罪"である。


"日神 光弥"は、絶対にそれを許してはならない。


この身を持って、その過ちを贖わなければならない。


この手を伸ばし、その哀しみを見過ごす事など、もう二度とあってはならない。


その為ならば、ここで、こんなバケモノの前で、呑気に這いつくばっている暇など無い。



<――――偽りなき”心”、示されたり>




その決意に応えるように声の主もまた、高らかに言い放った。




<"人"よ起て、偉大なる"元天"の名の下に!!>




光弥は声に従い、震える腕に力を込めて手中にあった腕輪を強く掴んだ。


感じる。


冷たい金属の感触の中に、火傷をしそうな程の強い”力”を。




<"力"は既に託されたり!!

いかな∣強悪ごうあくも、汝を阻むこと敵わず!!>




全身に痛みが走る。


だがそれと共に、光弥の体は再び自由に動くことを可能にしていた。


悠然と歩む怪物が、びくりとして足を止めた。


悟ったのだろうか?


目の前に這い付くばる獲物が、今や"ただの獲物ではない"ことに。




<未来へ挑み、闘い拓け!!!!

失望の先に進み続ける勇気にこそ、汝の強さは証されるだろう!!!!>




ゆらりと、光弥は立ち上がる。


恐れか、悲しみか、流れていた涙を拭い去る。


そしてそれが、逃げるしかなかった今宵の光弥の、変化の瞬間であった。




「潔いフリして、散々カッコつけて、いざ向き合ってみれば、この通りだ。――――」




もはや、光弥は己の成すべきが分かっていた。


頭の奥に、映像として叩きこまれてくるイメージ。


それに従い、腕輪を握り、頭上に掲げる。


重厚に黒光りする鋼の輪は、降り注ぐ月光を反射し、鈍い光を放つ。




「――――顔を上げて、立ち上がらなきゃ、分からない。

気付ける筈もないんだ。

・・・・"オレ"は大事な人を傷付けて、哀しませた。

救いよう無いくらいの後悔も、わだかまりだって、遺ったまま。

投げ出すなんて出来るはず無い。

なのに、いきなり全てが終わりにされて、未練も無いなんて、言い訳だ。

・・・・そんなに楽に、終われないんだ。

少なくとも、この想いを背負ったまま、行くべき先が定まるまでは・・・・っ」




その刹那、信じがたい事が起こった。




<バシィン・・・・ッ!!>




光弥の手の内にある腕輪が、閃光と共に弾けた。


金属の破片どころか、もっと細かい光の粒子になって飛び散って行ったのだ。


そして次の瞬間、光の粒子はまるで逆再生をするようにもう一度、光弥の目前に集まりだす。


一見、その光は無軌道に集まり、青白い光の塊になるかと思いきや、そうではない。


光弥の前の、ある一点を中心にして、光は円盤の形を取り始めた。


真円を描く青い光の円、その直径は光弥の身長を超えるほどもあった。


まるで盾のように目の前に広がる”それ”に、光弥は掌を翳す。


「だったら、意地でも――――」


瞬間、怪物はそれまでにない猛スピードで光弥へ突進を開始する。


だが、光弥の心にはもう、焦りの波風は微塵も立ちはしなかった。


「――――何がなんでも・・・・ここから先へ、押し通るっ!!」


そして、頭の中に次々と浮かぶ、全く知らない、しかしどこか懐かしく感じる言葉を、静かに口ずさむ。




――――此処におこれ、"破王"はおうの闘志――――




地面を割り砕き、生き物など一撃で粉砕するだろう巨腕の一撃。


それに対し、光弥は身動ぎもしなかった。


なぜならばそれは、からだ。


直後、凶悪な破城槌の如き怪物の爪と、青い光の円が激突。


だが、虚ろな輝きに過ぎない筈のそれは、大軍の侵攻を跳ね返す堅固な城壁よりもなお堅く、怪物の爪を受けきった。


攻撃の失敗を受け、怪物は大きく飛びあがって光弥から離れる。


奴は、光弥の前に呼び覚まされつつある存在を、確実に恐れていた。


光の円の周りに、轟々という風が唸りを上げ始める。


同時に、翳された光弥の右手に、蒼白い光が纏わる。


その風雷の猛りの如き現象こそは、激しくも確かな兆候だった。


今、ここに生まれようとしている、邪を討つ"力"の胎動だった。



<グゥ・・・・ルオォ・・・・ッ!?>




――――うつつたけれ、万邪ばんじゃはぶ無窮むきゅう威氣いき――――




そして、光弥は脳裏に浮んだ最後の詩を叫ぶ。




現界マトリクス(MATRIX)!!!!」




それがキー・ワード。


2つの存在を結び合わせる、契約の言葉。


弱き"人"に超絶の"力"が宿る、その証の言葉だった。




刹那、強烈に発光していた円の中に、変化が現れる。


光がうねり出し、やがてその濃淡は、大小様々な幾つもの記号へ。


蒼い光の円は無数の記号が描かれた円陣と化し、内に秘めたる力を誇示するように尚一層輝き、動き出す。


続け様、光の記号達は、何かに導かれるように円陣の中で整然と居並び出す。


すると、そこから放たれる光は一瞬にして蒼く、鮮烈な光へと変わった。


同時に、円陣が二つに分裂する。


平行に向かい合いながら高速で動きだし、向かい合う一方と接触し、交差した。


その瞬間、目を疑うような事象が起こった。


交差し、擦れ違って遠ざかって行く円陣の間に金属が"生まれた"。


それはまるで、生物が細胞を分裂させて自らの体を作るようだった。


蒼光が瞬き、最初はつぶてにすぎなかった金属は、刻々と体積を増やしていく。


そして、光は光弥の身にも纏わりついていた。


輝きに覆われたその下から、分厚い装甲が織られ、雄々しく厳しい姿を結んでいく。


閃光と共に、響き渡る重厚な音。


それは、電光の走る音にも、炎がうねる音にも、鉄を打つ鍛冶師の槌の音にも聞こえた。


光弥は、目の前の光の中で形作られていく、長大で研ぎ澄まされた"何か"を、その右手で掴み出す。




「 うぅおおおおっっっっ !!!!」


< ガアアアアッッッッ!!!!>



瞬間、"2つ"の閃光が闇を斬り裂いた。




< ガギイィン・・・・ッ !!!!>




激しい


そして、両者の影は激しく衝突し、そのまま拮抗していた。


怪物の爪腕、そして光弥が手にしている"武器"は、渾身の力で押し付け合われ、凄まじい火花を散らしていたのだ。


「――――ぅぁああっ!!」


狼狽して浮き足立った怪物を、光弥は総身の力で薙ぎ払う。


再び咲く、火の粉の散華。


そしてゴウという衝撃波が巻き起こり、∣颶風ぐふうとなって辺りの土埃を吹き飛ばす。


光弥と怪物は、互いに弾かれ合うように後ろへ飛び退いた。


怪物はこちらの様子を見ようと言うのか、その場にうずくまるようにして動きを止めた。


低く身を落とし、四つん這いになったその姿は正しく、獲物の一瞬の隙を狙う肉食獣のそれである。


対して、これを真っ向睨み据える、光弥のは、やがてふと、手中にある武器の方へと向いていた。




「これは――――」




――――果たして、それは"剣"。

研ぎ澄まされた刃を持つ、凄まじく巨大な鋼鉄の"巨大剣"であった。

形状はいわゆる直剣ではなく、槍の穂先を巨大化させたような、中太先細の鏃状のシルエット。

くすんだ鋼色の刀身は、上下から黒い鉄鋼で樋の部分を装甲され、「斬る」ことに適した、凄艶な曲線を帯びている。

両刃ながら切先は左右非対称であり、片刃の大刀のようにも見える刃の全長だけで光弥の首元まであり、非常識なほどに重厚且つ巨大。

また、それに見合った非常に太く長い柄を持っており、まるで”薙刀”や”長巻ながまき”のような特異なシルエットを持ちつつも、今初めて握る光弥の手に吸い付くように馴染む。

刀身を挟み込むように固定する、"コ"の字形をした飾り気のない鍔もまた、左右非対称な2つの構造を持っていた。

片一方、剣を握る光弥から見て手前の面は、鍔が刀身の半ば程まで長く伸び、まるで”峰”のようになっている。

その反対の一方には鈍い赤銅色をした、野太い短剣が在った。

鍔に設けられた着脱の仕掛部に隣り合って番えられ、剣本体と元から一つの刃であったかのような一体感を醸し出す。

短剣の柄は、護拳のように本体の柄の前に伸び、互いの柄尻にある宝玉飾りは太い鋼線ワイヤーで繋がっていた。




「そして、鎧・・・・か?」




剣の出現と同時に、光弥の半身は今まで見たことないような、不思議な光輝を放つ黒鋼くろがねの甲冑で覆われていた。

左半身に装甲を集中した、独特な構造。

大きな肩当てが付き、重厚ながら洗練された形状の胴鎧。

左腕を完全に覆う巨大な篭手。

脚部を堅牢に守る両脚の脚甲。

そして腰元にはこの黒鋼を繊維状にして作られたらしい、腰布型の草摺くさずりが左脚側を覆っている。

それらの強固さ、性能は、心得の無い光弥でも一目で分かるほどに素晴らしいものだった。

全く重さを感じず、更には如何なる動作にも柔軟に沿う感覚。

この見事な可動性は、装甲を幾十にも分割し、人体に完璧に合致するよう細かく接ぎ合わせた、緻密な構造の賜物であろう。

中でも、左腕を根本から鎧う篭手の強固さたるや、特に尋常ではなかった。

胴鎧から繋がって脇下から腕全体、指先に至るまでを覆い包む、黒鋼の鎖帷子くさりかたびら

その"第一層"の上に、黒鋼の装甲、鈍色の結鎖が紡ぎ合わされた"第二層"。

そして"第三層"である、複雑な曲面が組み合わさって構成された装甲群が、再び全体を過剰なまでに防護している。

斯くして、これほどの重装備に覆われるも、しかしその中で最も異様さを醸し出すのは、鎧の全体に脈打つ、"蒼い光"の流れだった。

装甲の表面や継ぎ目を、まるで心臓から送り出された血液のように逞しく流動し、闇夜に鮮烈な姿を象る。

あたかもそれは、戦場を∣おののかせる獰猛な幽鬼の戦士。

その妖気と猛りを使い手に宿らせるようであった。――――




半ば呆気にとられながら、瞬く間に現れた装具の輝きを凝視する光弥。


その最中にふと気付く。


左腕の手の甲と、巨大剣の鍔元には、引っ掻くように刻まれた傷のような彫物があった。


幾つかの、小さくて丸っこく、見たこともない不思議な絵。


見た事もなければ聞いた事すらもない、しかし確かにそれは文字だった。


なぜならばそこには、れっきとした意味が込められていたからだ。




" 始まりのものへ、相克の力を授く。

大嶄たいざんが如き妖悪在りしも、汝を阻むに敵わず。

極煌纏いて、撃ちつらぬかん"




剣と篭手、それぞれには文章が刻まれていた。


それは恐らく二つで一つとなり、誰かの願いが刻み記されたもの。


また同時に、これは"銘"でもあるのかもしれない。


まるで時代に名を残している名刀のように、この文字がこれらに付けられた名ならば・・・・光弥は、その中から一際強く刻まれた文字の意味を読み出す。




嶄徹ざんてつ

そして、撃煌げっこう




――――思えば、今日は朝からトラブルの連続だった。


悪夢にうなされたのを発端に、正木に張り倒され、学校は結局、遅刻。


香には叱られるし・・・・"彼女"との溝も知られた。


どこか憂いを帯びた姉弟と出会い、トラックには撥ねられて、香をすっかり怒らせてしまって、その埋め合わせも出来ていない。


挙句の果てに、季節外れの寒波の中、殺気迸らす妖怪そのものの怪物に襲われている。


そして今、夢みたいな方法で現れた巨大な剣を手に、そいつと真っ向、対峙している。


(・・・・分からない事、納得いかない事。

山程あって、溢れかえってる。

一大事が、嫌ってほど積み重なって・・・・溜め息の一つも付きたい気分だ)


理不尽なくらい嫌な事、そして避けて通りたい事が固まって押し掛けてきた。


そんな波乱の1日"だった"。


さっきも考えたそんな表現。


しかし過去形とするにはまだ早く、ため息なんて吐いてる暇はない。


「今日はまだ、終わってない。

それどころか、今ここからが本番なんだ」


< グオオオオッッッッ !!!!>


雄叫びをあげ、たてがみを打ち振り、怪物が飛び掛かって来る。


叩き付けられる本気の殺意。


それは"獲物"ではなく、"敵"へと向けられるもの。


その姿へ、光弥はありったけの気迫をもって睨み返す。


蒼烈そうれつに輝く眼光が、闇夜に軌跡を刻む。




「こいつを退けなきゃ・・・・戦って、生き延びなきゃ、オレは終われない」




一方的な"狩り"は、もはや終わった。


今から始まるのは、生きるための"戦い"だ。


もはや背後に道はなく、進むべきは前。


そこに強大なる敵が立ち塞がろうとも、道はそこに唯一つ。


それが立ち向かうべき現実であり、ただ一つの真実。


光弥は、己を鼓舞するように剣を頭上に掲げ、そして逆手に持ち換え、構えをとる。


腰を落として斜に構えた身体の右後背に剣を回し、利き腕の右手で逆手に、左手を剣の柄尻に添えて低く構える、独特の臨戦態勢。


かつて、身体に叩きこまれてきた"わざ"が今、鮮やかに光弥の脳裏に蘇り、その身を満たしていた。


「――――そうだろ、じーさま・・・・?

"己が意地に向き合い、退くなかれ。

人の為の正しきを成せ"!!」


恐怖と混乱で麻痺していた思考が、高速で廻りだすのを実感した。


頼りなく震えていた己など、とうにどこかへ消え失せた。


沸き立つは”力”。


そしてこの胸に滾るは、闘志。


「こんなところで・・・・終わって、堪るかっ!!!!」


< オオオオォォォォッッッッ!!!! >




迫る獣の叫びに、雄々しい咆哮で抗する光弥。


互いの獲物を振りかざし、振りかぶり、叩き付ける。


それは死闘の開始を告げる鐘の音のように、闇夜に高らかに響き渡った。




――――To be Continued.――――



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