#3 無影の追跡者

6月6日 21時40分

二間市 未土

住宅区





は、その少年達が言葉を交わし合い、それからばらばらに分かれて歩き去って行くのを、息を潜めて見ていた。


どこからか?


それは獲物達が、その縄張りにやたらに乱立させている、石で出来た高い棒の上から。


影に潜み、闇に溶け込み、誰にも知られる事なく佇むは、甚だしく餓えていた。


元々その飢餓とは、決して尽きぬ焦熱の業であり、いくら獲物を狩り続け、喰らっても満たされることを知らなかった。


そして、やがて陽が落ち、狩りに適した夜闇が訪れると、その飢えと"力"とは、いよいよ抑え難いものとなっていた。


獲物はそこら中にいた。


ピカピカと不快に輝く巣の中で、不安定に後ろ足だけでうろつく、脆弱な生き物達。


本能に刻みこまれた”至高の獲物”であり、そして"忌むべき眷属"である、惰弱な"餌"ども。


奴らを狩り、喰らいたいと、限界に達している飢餓は叫き散らしている。


しかしながら・・・・腹立たしくもそれは今、酷く難儀な事だった。


なぜならば、もしもそうして迂闊に痕跡を現せば、あの"敵"が姿を現すからだ。


は焦っていた。


あの恐るべき、眩い力を振るう"敵"のせいで、の群れは壊滅に追い込まれた。


生き残りこそまだ居た。


しかしそれは、危険を増長させる事にしかならなかった。


群れは、飢餓に喘ぎながらも"敵"を恐れて狩りも出来ず、ただただ穴蔵に潜み続けていた。


程無くして、"餌"の不足となるのは必然。


直ぐ様に限界は訪れ、そして共食いにまで至るのは必定だった。


は飢えに狂った同族によって左腕を失わされ、ほうほうの体で"逃げ延びる"という選択を以て、此処にいた。


この身に負った深い傷・・・・特に、焼け爛れた多くの傷口は、癒える兆候すら無い。


本来ならば、飛ばされたのが腕だろうが首だろうが、さしたる影響もない筈だった。


この身を満たす"力"は、脆弱な反撃程度で脅かされることなど無い筈だったのだ。


だが、此度の"敵"の灼熱の攻撃は、恐るべき威力を持って、次々と同族を斬り裂き、焼き尽くしていった。


この躰を治すことは、今や急務だった。


例え姿を隠していても、いつまたあの"敵"に見つけ出されるか分からない。


そして同族の下にも、もはや戻れない。


焼き尽くされるか、食らい尽くされるか。


何にせよ、この状態では"次"など無い。


事は、早急に成さねばならなかった。


幸い、の身体は治癒力に優れている。


"餌"の1つや2つさえ貪り喰らえば、この傷もすぐに癒えることだろう。


そしては、絶好の機会に遭遇していた。


隠れ潜むのに適した、暗がりの多いこの一帯で、細っこい"餌"が3つ、警戒も何も無くのんびりと歩いている様子を捉える。


手負いの身とは言え、この程度は敵にはなり得ない。


そして、肝心の最初の"餌"は、ただ1人で歩いて行く、細く小さな獲物と決めた。


想像しただけで、興奮が掻き立てられる。


待ち遠しい。


あの柔らかい肌を爪で引き裂き、弱々しく抵抗する華奢な身体をこの顎で噛み砕く、その瞬間が。


狂喜に吠え上がりたい衝動を必死で堪える。


ここでばれては元も子もない。


"そいつ"は音も無く、されど大翼の猛禽よりも高く、凶暴に、そこから跳び上がった。




・・・・

・・・

・・




「・・・・っ!?」


光弥は、素早く振り向いて辺りを見渡した。


だが、連なる家々の生垣や垣根で挟まれた路地には、自分以外に何の姿も無い。


もう何度となく繰り返してきたその行為に、光弥は嘆息する。


・・・・これを単なる過剰反応だと思えれば、どんなに楽だろう。


香達と分かれた直後から、光弥はある奇妙な現象に悩まされていた。


(・・・・いったい何なんだろう?

視線、って言うのか。

そんなのを感じる・・・・)


最初はストーカーの類いかと思ったが、それも違うようだ。


この辺りは電柱などもまばらで、隠れる場所が無い。


さらに、光弥自身はそういった輩に追け狙われる理由が無いのだ。


年頃の女性であるならまだしも、自分はただの男子高校生である。


こんなのを執拗に追いかける奇特なやつなど、世界中を探してもそうはいまい。


「と、なると、コウモリかな?

近頃よく飛んでるし・・・・」


最近、この近くの自然公園にコウモリが住み着いたという噂を聞いたことがあった。


何処かは知らないが巣を作ったらしく、夜になるとたまに街灯の周りに群がっていることがある。


「あれはあれで、夜に見るとなかなか不気味なんだよな・・・・」




軽い口調で言ってみせたが、実際は全くそんな気分ではなかった。


態度とは裏腹に、足取りも普段よりだいぶ急がせている理由は、言わずもがな。


偏に、今日の"嫌な予感"の的中率を思えばこそだった。


もしかしたらまた、"何か"が起こるのではないか?


飽くことなく疑ってかかり、ちょっとした物音にも臆病に反応してしまう様は、さぞかし滑稽に見えるだろう。


しかし、少なくとも今日、この日が終わるまでは、これを軽んじる事などとても出来ないだろう。


光弥の緊張は、さっきからずっと張り詰めっぱなしだった。


「う゛・・・・っ」


するとその時、いきなり異様な寒気を感じ、光弥はぶるっと体を震わせた。


原因は不意に吹き付けてきた"冷風"だった。


しかも、冷房装置やエアコンやらから出る冷風程度とは訳が違った。


どういう訳か、それは真冬の木枯らしのような、鋭さすら伴う強烈な寒風であった。


冷夏、という言葉は世にあれど、はっきり言って有り得ない冷たさだ。


「・・・・いくらなんでも、寒すぎる。

六月とは思えないな。

・・・・上着、持って来ればよかった」


気がつけば、辺りの気温はもう薄手の夏服では耐えられないほどに下がっている。


両手で両の二の腕を摩って熱を求めるが、気休めにもならない。


このままでは夏だというのに凍えそうだった。


(・・・・確かに、今年は気温の寒暖差が激しいけど・・・・流石にこれ、異常じゃないか?

ニュースでも、天気の話題と"例の事件"の話を聞かない日は無いって印象だし・・・・)


疑問は最もとは言え、今は一刻も早く帰路に着こうと、光弥は身震いしながら足を更に速める。


早足で歩けば、少しは体も温まるだろう。


(でもそれはそれで、汗ばんできてまた寒いんだよな。

痛し痒し・・・・いや、暑し寒しか?)


ままならない、と光弥はまた嘆息しつつ、空を仰いでいた。


今日は、月の出る夜で本当に良かったと思う。


こんなに戦々恐々としている心持ちの今は、弱音を吐いてでも、寒々しくも確かに輝く月灯りを求めたかった。


ただでさえ薄暗いこの通りは、加えて街灯の間隔すらも長めであり、月の光が弱い時期は本当に暗い。


今この状態で新月の時期だったりしようものなら、この倍はゆうに疲弊していただろう。


そう思って、光弥は今宵の夜道の案内役である、大きな月の姿を再び探す。


満月は昨夜だったようだが、それでもほぼ真円の形で、大きく明るく夜空に輝いている。


筈だった。


「え?――――」


一瞬の違和感。


それは、あまりに大きな異変が突然に提示され、理解が遅れた故だった。


果たして、光弥は頭上の月がかつて見たことない程に大きく、怪しく輝いている事に気付く。


暗幕のような黒一色の夜空の、一点。


そこに光弥の視線は釘付けになる。


「――――なんで、あんな色に・・・・!?」




今宵の月は、不可解にも赫く染まっていた。


降り注ぐ光は、いつもと同じ青ざめたもの、だがその光源だけは気味の悪いほどに深い赫色をしている。


滴る血の一滴のように不吉な色合いは、見るだけで肌が泡立つような不快感を感じさせる。


そしてなにより、その月には異様な形の”闇”がかかっていた。


昏く輝く球の中央に、細長く黒い傷痕のように口を開けている”闇”。


まるで血走った獣の瞳孔のようにも見えるそれは、まるで黒い空という巨大な化物に見据えられているかのような、人知を超えた恐怖感を光弥に与えた。


同時に、あの霧の河原の出来事が、脳裏を過る。



「・・・・"獣の眼"・・・・!?

まさか、これが・・・・っ!?」





―――― ・・・・ォォォォォォ・・・・ ――――




続けざまに、今度はどこかからまるで遠吠えのようなものが聞こえた。


ような、と言ったのは、それが光弥の今まで聞いたことのないような音だったからだ。


野犬にしては低く、そして野太すぎる。


そもそも、動物の声とするにはあまりにおぞましい不快感を掻き立てられる。


例えここが昼間の往来であったとしても、きっと光弥の背筋は震わせられていただろう。


訳が分からないが、この恐怖は脳味噌の底・・・・思考や理性より、もっと奥の方から直接降りて来ている様に感じられた。


未だかつてない不安を掻き立てられた光弥は、おもわず四方八方に視線を飛ばす。


「っ・・・・!?

また、感じた・・・・?

・・・・この気配はいったい・・・・何なんだ・・・・っ!?」




"猟奇殺人"。




不意に、その文字が頭に浮かんだ、その瞬間。


気が付けば光弥は駆け出していた。


全速で真っ暗な路地を走る。


だが、"気配"は尚も振り切れない。


(追ってくる!?)


はっきりと分かった。


間違いなく、この闇の中には"何か"がいる。


光弥は走りながらあちこちに視線を飛ばしていた。


何か、先程とは質の違う、ヒリヒリとしたものが感じられる。


無視して走っても良かったのだが、それは出来なかった。


危機感、あるいは忌避感とでも言うべき"本能"からの感覚が、それを決してさせなかったのだ。


(――――なんなんだ!?

気配は確かにする。

なのに・・・・っ!!!!)


光弥は、走りながら後ろを振り返った。


広がるはただ、街灯も疎らな夜の暗闇のみ。


「・・・・何もいないっ・・・・!!??」


まるで暗闇自体に追い立てられているような錯覚に、光弥は陥っていた。


焦燥が、身体を更に激しく動かす燃料となったように、逃げ足は早まっていく。


走る、ひたすらに走る。


取り繕う気にもならず、光弥は逃げまくっていた。


それでも"気配"は消えない。


全力で走っているのに、全く"気配"は振り切れない。




(――――でも、もう少しだ・・・・っ!!!!)


前方に桜蔭館の門扉が見え始めていた。


息も絶え絶え、足をもつれさせながらも、光弥は門柱をくぐり、飛びつくように扉に手をかける。


鍵はかかっていなかった。


無用心にも朝出て行く時に掛け忘れていたらしいが、少なくとも今この場においては、望外の幸運だった。


光弥は、ガラッと乱暴に引き戸を開け、中に転がり込む。


そして後ろ手に鍵を閉めて、全力で酸素を求めた。


「ぐっはぁっ、はぁっ、ぜはぁっ!!」


息が荒くてなかなか苦労したが、何とか抑え込もうとする。


今しも追いつこうとする"気配"を捉えようとするなら、焦りも雑音も禁物であるからだ。




(・・・・来た・・・・!!!!)




飛び出さんばかりに動いている心臓を感じながら、光弥は必死に息を潜め続ける。


不意を打たれてなるものか。


度を越した緊張に感覚が冴え渡り、冷たい恐怖と共に、爆ぜる火のような激しい感情がないまぜになっている。


パニック寸前のような物々しい精神状態のまま、光弥はじっと待ち続ける。




そして、1分が経ち、2分が経ち・・・・やがて10分程も経った頃だろうか。


気が付くと、辺りを不規則にうろついていたように思えた"気配"は、消えていた。


「・・・・いなくなった?」


思わず、という風な呟きがだだっ広い土間に消えていった後、その場にはせいぜい未だ荒い呼気と、季節外れの寒風が入口の戸を揺らす物音が残るのみ。


やがて、光弥は逡巡の後、引き戸にそっと手をかける。


まだ動悸は収まらず、そして恐怖感も抜けきってはいない。


故に、息を潜め、目立たぬように細心の注意を払いながら、引き戸を少しだけ開けて覗き見る。




(・・・・やっぱり、なにもいない・・・・)




果たして、予想外なまでにあっさりと訪れた静寂の中、再び同じように引き戸を締め、鍵をかける。


そこまでやってのけて、ようやく光弥はふーっ、と長くため息を吐いていた。


「まったく、一体何なんだ・・・・」


憮然としてぼやく光弥。


誰だか知らないが、どうやら自分を追って来た誰かは、早々に諦めてどこかに行ってしまったらしかった。


「というか、こんなにあっさり引き下がるんなら、必死こいて逃げ出したのがなんか馬鹿みたいだ!!」


家に篭城したくらいで引き下がるような易い相手なら、もしかしたら思い切り怒鳴りつければ撃退することすら出来たのかもしれない。


そう思うと、光弥の身体は憤りと、それから同じくらいの恥ずかしさにカーッと熱くなった。


「な、情けね・・・・あーっ、何か悔しいぞ!!」


大きめの声でそう言って・・・・しかし、やたら厳重に玄関扉の鍵をチェックする光弥。


口ではそう言っても、やはり内心は不安でいっぱいだったのだ。


実は、ストーカー等の事件報道を見る度、いつも思っていた事がある。


追われたんなら逆に追い返してやれば良い、と。


だが、こうして現に突然、暗闇の中で見知らぬ気配に追われていると感じられれば・・・・なるほど、確かに冷静ではいられなくなってしまう。


何事もやはり体験してこそと、今まで持っていた未熟な見識に納得するやら、恥じ入るやら。


「・・・・はは、"じーさま"に聞かれたら、ぶっ飛ばされるな~・・・・」


と、その時だった。


己の至らなさを痛感させられた気分の光弥は、ふと脳裏にとある"男性"を思い浮かべていた。


ところが、仮にも"半生の育ての親"という重要人物である筈なその顔を思い浮かべた光弥は、しかしなぜか、苦笑いの様相。


懐かしくも、何処か歯痒くもある、釈然としない表情であった。




――――「ふん、なんともままならぬ青瓢箪ぶりよ。

ヌシとくれば、いつまでもなよなよとして怖じけてばかりじゃの。

童とは言え、キン○マついとる男ならば、正々堂々と構えてみせぃ」――――




男云々のことはともかくとして・・・・確かにその通りかもと、光弥は嘆息していた。


頭を冷やして思い出せば、今日の自分は落ち込んでばかりだ。


どんと構えて、己を譲らず。


なんて粋な事は、なかなか出来ずにここまで来てしまった。


「・・・・んなこと言ったって、こんなに一日で色々畳み掛けられちゃ、そうそう捌ききれるもんでもないでしょーよ」


記憶の中から聞こえてくる小言に弱音を吐く。


しかし、こんな事を言えばそこからどう返されるかも、光弥は分かっていた。


( "その目と心は、下げずに前へ" ってんだろ?

出来なくたって、めげずに目指せって。

・・・・分かってるさ。

まだまだ、道は遠そうだけどさ)


今はもう届かない、遠くからの残響に、皮肉と親愛を込めた笑みが浮かぶ。


とても大事で、正しい事ばかりを、光弥はその声から教わってきた。


そして、それを胸に今日も1日必死に頑張ったつもりだけど、やっぱり難しいものは難しい。


自分の未熟ばかり、嫌というほどに分からされた、そんな波乱の日だった。


「・・・・流石に、もうクタクタだ。

だから、今日の所はさっさと風呂に入って、飯食って、寝かせてもらうよ、じーさま」




後はもう肩の荷を下ろし、疲弊しきったこの身体を布団に沈められれば、今日はもう何も要らない。


少し言い訳がましい気持ちを抱えながら、そう独り言ちる。


光弥はここに来てようやく、自宅に戻った安心感を味わいながら、夕食の支度を始めるために自室へと歩き出す。




< ドクンッ!!!! >


「 っがは !!??」




その刹那に、突如としてそれは起こった。


まるで見えない手に鷲掴みにされたかのように、心臓が激しく収縮した。


音を立てて倒れこむ光弥。


そのまま、息が詰まるほどの激痛に襲われ、頭が真っ白になった。


転げまわり、大声で悲鳴を上げたかもしれないが、それすらも分からなかった。


先程、限界まで走り続けた時と同じように、心臓は激しい動悸を刻んでいる。


すっかり息も整え、病気一つ無い健常体の光弥には、普通なら起こり得ない激変。


頭をガンガンと殴りつけられているような痛みに支配され、気付けば嘔吐までしていた。


胸を抑え、頭を抱え、胃液を吐き散らしながら、光弥は悶え苦しむ。




「はぁ・・・・う、ぐ・・・・ぅ・・・・はぁっ・・・・!!!!」




時間の感覚も定かでない中、たっぷりと苦しみ、やがて苦痛は収まり出す。


苦しさを堪えて、光弥は立ち上がった。


猛烈な倦怠感。


目の前がチカチカして、目が眩んでいる。


それでも、光弥は気がついてしまった。




「・・・・・・・・っ!!――――」




果たして、あの自分を追って来た謎の"気配"。


それを、光弥は今、真っ黒な靄の塊のような視覚的な姿として


鮮明に、如実に、自分ので息を潜めていると、見通せていた。




「――――屋根の・・・・上・・・・!!??」




不思議と距離までもが分かる。


それは果たして、いかなる超常の現象なのか。


五感を超越し、これほどにはっきりと"気配"というものを認識したことなど、思えば光弥には無かった。


それどころか、こんな芸当は"人"という生き物の領分を遥かに超える、超能力とさえ言えるだろう。


だが、そんなことは今、瑣末事だった。


この"気配"が何かは分からない。


だが、もはや放って置くことはできない。


光弥は険しい表情で玄関へ向かい、そこの傘立てから細長いものを引き抜いた。


「・・・・これを持つのは一年振りぐらい、だな」




――――それは、黒い布が持ち手に巻かれ、艶のある漆で塗られた木刀。

だが、木で出来ているとは思えないほどの重みがあり、明らかに普通の品ではない。

それもその筈、これは見た目こそただの木刀であるが、中にはなんと鉄芯が仕込まれている。

故にその重量は真剣と同等であり、こと破壊力に限ったのなら大きく凌ぐやもしれない。

使い手次第では、十二分に凶器となり得る。

そんな物騒な代物だったのだ。――――




昔はこれを使って、光弥の"男修行"などと言うものを行っていたものだった。


ともかく、今となっては多少埃を被っているも、未だ護身用としては十分すぎる威力を発揮できるはずだった。


光弥は、握り締めたそれを勢いよく素振りする。


ヴンッ、という鈍い音がして、その1撃の重さを暗に示す。


「――――今日はまだ、もう一山残ってた、って事か。

・・・・生憎と、福なんてありそうもない残り物だな・・・・」


光弥は更に懐中電灯を手に取ると、土間から上がって玄関広間の奥へ進む。


「 この先、旧館 」と描かれた、古びたプレートの掛かった引き戸の前まで着くや、そこで少し躊躇いがちに足を止めていた。


玄関から入った広間の奥に位置するこれを潜った先には、"中庭"に面するL字型の"外廊下"があり、案内通りに桜蔭館の"旧館"へ通じている。


広くて見通しの良い外廊下なら、あの追跡者に対応するにはうってつけだろう。


剣呑な様子のままに、光弥は引き戸の取っ手に手を掛け、引き開ける。


掃除と手入れの賜物、ほとんど軋むことなく引き戸はスライドし、途端に空いた隙間から吹き込む、夏とは思えない冷たい風。


異様に乾いているその冷ややかさに、光弥は思わず身体を震わせた。


そして、同時に光弥は感じていた。


肌寒さとは別の、もう一つの気味の悪い冷感が背中を走り抜けるのを。


この"予感"を・・・・今日この日は決して軽視するべきではないと、光弥はもう嫌というほど知っている。


(・・・・本当に、行っていいのか・・・・?)


慎重な思考が、警告めいた声を発していた。


だが、それは逸る気持ちに押し潰され、消えてしまった。


「・・・・行こう」


一言呟き、決心する。


言い知れぬ悪寒を押さえ付けながら、光弥は一歩踏み出した。




・・・・

・・・

・・




――――桜蔭館の中庭は、かなり広い。

本館の引き戸を通ってそこに足を踏み入れれば、周囲を緑の生垣に囲まれ、乾いた硬い砂地が均された、ちょっとした公園ほどの面積がある広場が目前に現れる。

そして、向かって右手にある”旧館”は、平屋で横に長い日本家屋で、年季こそ入っているも立派で大きな建物だ。

旧館は、本館と同じく中に多くの部屋があるが、しかし今や掃除以外にロクに出入りをしない為に戸締まりは万全。

中に何者かが入り込める可能性は無いと言って良いだろう。

一方、両者の通用口同士を結ぶ外廊下は、中庭の手前側を横切り、また直接外へ出られるようにもなっている。

中庭の奥には、かつて家庭菜園をしていた耕された土の跡と、煉瓦でこしらえたこじんまりとした花壇があったりもする。

そして、2つの建物の向かいの角、庭の左奥には大きなケヤキの木が植わっていた。

特に夏の時期は強い日差しを遮り、日陰を作ってくれるありがたい存在だった。

だが今や、闇の中で寒風に揺らされ、悶えるように蠢く姿は不気味にしか見えないのだった。――――


いつもとはまるで別の場所のような不気味な雰囲気の中、光弥は警戒しながら外廊下を進んだ。


柵が途切れ、石段から中庭に下りる事が出来る場所に辿り着くと、持って来たスニーカーに静かに素早く履き替える。


そこで、光弥は一呼吸じっくり整えた後、木刀を握り締めながら中庭の中央に躍り出ていた。


そのまま上の方を仰ぎ見るも、桜蔭館の瓦屋根の上には、何の姿形も見受けられなかった。


(・・・・あの時は、屋根の上に気配を感じた・・・・はず。

逃げたのか、それとも・・・・)


なんにせよ、追跡者の影が見えない事で、光弥は一時の安堵を得られていた。


些か早計かも知れないが、しかしいつまでも張り詰めっぱなしでは、事に及ぶ前に逆に参ってしまおうというのも事実だ。


「はぁ・・・・」


警戒は解かないまま、光弥は一息を吐きつつ、身体を解す。


次いで、木刀を握り直そうと指を動かしてみたが、動かない。


あんまり握り締めていたものだから、筋肉が硬直していたようだ。


(・・・・もしかしたら、もうここには誰もいないのかもしれない。

けど・・・・確認したほうが良い、よな・・・・?)




正直言えば、嫌で仕方なかった。


だが一人暮らしの身の上、もしもこのまま見過ごして本当に何かがあったとしたら、助けてくれる人はいない。


その懸念を考えれば、光弥に"ここで帰る"という選択肢は無い。


警察へ通報する、という選択肢もあるにはあるが、今から此処へ彼らを呼ぶのは、些か時期尚早にして、遅きに失する、という感じだった。




「――――となれば・・・・行くっきゃない、な」




何故だか奇妙に昂ぶった気分が、そんな決心を押し通させていた。


後から思えば、今この時に、そのような行動を取るとは、あまりにも無鉄砲だと判断が付いた筈だろう。


しかしながら、この時の光弥は我知らず、に強く拘っていた。


その根底にあるのは何よりも、今日一日様々な出来事に心身を翻弄されてばかりの自分への自戒だった。


事の大小には関係なく、全ては己の身に降りかかる出来事。


ならば、己の意思で何もかもを決定づけられねば、方々にを張って見せている意味がない。


果たして、そんな鬱積が、光弥を駆り立てていた事は否めなかった。




(・・・・いなかったならなら、いなかったで良い。

今日はもう、そのまま布団にくるまって寝てしまおう。

もしも、そうじゃなかったとしたら・・・・でも幸い、今は"武器"もある)




実は、素手の喧嘩はともかく、光弥は"剣術"になら多少なりとも自信があった。


まさに、光弥の師匠たる"爺様"から、一通りのことを教わった時期があったのだ。


(人生、何が役に立つかわからないもんだな、じーさま・・・・)


ともかく、そういう打算もあって、光弥はいささか強気に踵を返した。


ゆっくりゆっくり、庭の隅に立てかけてある梯子へ歩いていく。


「うっ・・・・!!」


ところがその時、一際冷たい風が急に身体に吹きつける。


相変わらずの異様な冷感に、光弥は思わず身を竦ませて立ち止まっていた。




(――――いや・・・・違う・・・・?)




光弥の身動きを止めさせたのは、それだけではなかった。


吹き付けた寒風の中に、が混ざっている。


微かな、しかし明確な違和感が暗く、黒く、胸中に滲んでいく。


その鉄錆を嗅ぐように嫌な臭いを、光弥は知っている。


同時に浮かぶ、フラッシュバック。


赤く艶やかなそれはまるで火のように赫く、なのに全く温もりを感じない。


鼻をつく饐えた臭いは、闇と悲鳴と、咆哮の”悪夢”を瞬時に、鮮明に思い出させる。




「血の、臭いっ・・・・!!??」




その、刹那。


電撃のような衝撃を伴う悪寒が、光弥を襲う。


身体の芯の神経を鷲掴むかのような、今までに感じた事のないそれに、のけ反るように硬直する。


呼気が不自然に詰まり、全身が総毛立ち、本能が全力で警鐘を鳴らす。




―――― ここを離れろ !!――――




その一念に衝き動かされ、光弥はしゃにむに前へと倒れ込む。


それと、同時。


< ドゴオオオオッッッッ !!!! >


光弥の元いた場所が、凄まじい轟音とともに吹き飛ぶ。


訳も分からず、光弥の小柄な体は、吹き上げる土砂と石片に打ち据えられ、軽々吹き飛ばされてしまった。




――――To be Continued.――――



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る