#4 光弥の”意地”
6月6日 14時16分
二間市 鶴来浜
住宅区
夏の昼下がりは、最も暑さの厳しい時間帯である。
まだ初夏とは言え、空のてっぺんを通る太陽は強烈な日差しを放って、眼下を歩く人々に眩い光と紫外線を浴びせかけていた。
「あ"~、暑いってんだよ~・・・・参るぜ、コリャ」
「だね〜・・・・頭の天辺で、卵でも焼けそうだよね〜・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・いや、焼ける訳ないだろ、なに言ってんだし」
「あーあー、もうそういう無粋な人は相手にしません、暑いからー・・・・」
それはこの3人組も例外ではなかった。
今朝方話していた特別日課はつつがなく終わり、今は帰路の途中である。
しかし、先述した日差しに加え、アスファルトからの反射という上下からの二段攻撃にその足取りは重かった。
香達が今いるのは、未土地区に繋がる陸橋の手前の十字路だ。
その下には、二間市の中央を通る大きな河川である、浅磨川が流れている。
この炎天下で川の水が蒸発しているのか、辺りはムッとしたうっとうしい湿気に包まれていた。
――――しかし、である。
今、3人の間にはそれとはまた違った、酷く淀んだ空気が漂っていた。
その原因は無論、光弥にあった。
遡って、あの絶世の美少女・・・・眞澄 梓との邂逅以来、彼の様子はどこかおかしかった。
そして、香と正木は、そんな普段とは異なる距離感を敏感に感じ取っていた。
傍目にはいつもと何も変わらないように見えるも、その違和感は3人のやり取りにギクシャクとしたぎこちなさを生み出していたのだった。
「あ、そうだ。
コンビニにでもよってかない?
ちょっとアイスとか買おうよ」
「そうだな~。
ついでに立ち読みでもしたろうか」
「また成人向け雑誌のところで読むのはやめてよ・・・・」
「・・・・」
いつもなら途切れなく続く3人の会話も、今はなんだか途切れてしまうことが多かった。
明るい性格で、上手く聞き手に回ることの多い光弥の出す相槌が無いと、香と正木の掛け合いもどこか宙に浮きがちであった。
パスを受ける相手が足りなくて、中途半端に会話が途切れてしまうのである。
やがて、香は傍らを歩く正木に小声で話しかけた。
「・・・・ねぇ、大丈夫かな、光弥君」
「・・・・何がだよ」
「あれからなんか全然元気がないし、・・・暗いって言うか」
思い返すは香にとって見慣れていたと思い込んでいた、2人の友人の出会いの一時。
ところが、2人は顔を合わせた途端、突然人が変わったように冷淡な顔を垣間見せた。
香はその出来事の原因を光弥に問うてみたかったが、同時に怖くもあった。
彼の見せたあの暗い一面に、香は驚き、戸惑いを禁じえなかったのだ。
だが、そんな憂いを正木は即座に切り捨てる。
「そんなに気にしたって仕方ねぇだろ?
あれこれ考えたって時間の無駄だっての」
「ちょっ、そんな投げやりな事・・・・!!」
あんまりなもの言いに、香は眉をしかめる。
正木は溜め息混じりの口調で、香の反応など眼中にないような様子だ。
「あんな光弥君を見て、心配じゃないのっ?」
「だから、それが無駄だって言ってんだよ」
「なっ・・・・あんた、親友なんでしょ!?
少しぐらい光弥君のこと心配したらどう・・・・っ!?」
「ん、何?」
前を行っていた光弥がくるりと振り向く。
迂闊にも、思わず大きくなった香の声が聞こえたのだ。
「今、なんか呼んだ?」
「え、え、あぁ、うん・・・・」
そして、呼んでいないと言えばそれで済む話なのに、不意打ちされた香は思わず頷いてしまう。
(って、もぅ、あたしの馬鹿!!
素直に言っちゃったら、もう誤魔化せないじゃんっ!!)
自分で自分を叱責するのは良いが、肝心の光弥への対応については下手も良いところ。
一目で何か言いたげだと分かる上に否定もしないとなれば、聞いた方もそこに触れねば収まりが悪いだろう。
どうかした?と身を乗り出すして質問する光弥。
当然、一連の葛藤のせいで、香は何も言い出せないまま。
それを見て、呆れてものも言えないといった顔で正木は溜め息をついた。
「――――二人とも、どうしたのさ?
なんか、妙に大人しいっていうか、いつもより絡んでこないっていうか」
「妙なのはお前の方だろ。
そんなにあの娘が気になるのか?」
「ちょっ!?
正木・・・・!!」
「香はな、お前に朝のアレを聞きたいんだとよ」
あまりにも真っ向から疑念をぶつける正木に、面食らう光弥と香。
同時に、光弥の表情に困惑と動揺が目に見えて浮かび上がる。
「――――実際に聞かなきゃ、こういう事はいつまでも分かりゃしねぇんだ。
そうだろ、光弥?」
おろおろする香を尻目に、正木は更に、容赦なく言葉を続ける。
「眞澄 梓・・・・あの娘のことを知らない奴は、ウチの学校にはいねぇだろうな。
成績優秀、謙虚で物静か。
それにともかく、あのとんでもない美人っぷりだ。
校内の女子じゃぶっちぎりだが、高嶺の花過ぎて誰も近寄れないんだと」
「・・・・・・・・・」
「俺だって気になってんだ。
"顔見知り"だってことは、前にちらっと聞いてたけどよ。
・・・・あんなに険悪なのは、ちょっと普通じゃ無いぜ」
「・・・・ケンカ、しちゃったの、光弥くん・・・・?」
正木の尻馬に乗っかる形であるが、ひとまずは望んだ通りの話に持ち込めた。
香は、此処ぞとばかりに抱え続けていた心配を吐露する。
それに対し、光弥は首を振って否定の意を示す。
しかし、そこには絶対に、ただ事ではない何かがあるはずだった。
香は、豹変した2人の友人の姿を、どうしても信じられなかった。
尋常ではなかった光弥の様子はもちろんの事。
なによりあの時の、"敵意"とまで言っていい程、酷薄さを剥き出しにした、梓の事もだった。
「――――確かに梓はいつも冷静っていうか、言葉少なでちょっととっつきにくいかもだよ?
けど、いつもはあんなに冷たい態度を取る人じゃないのっ。
何かあったんなら、遠慮しないで話してよ、光弥くん!!
あたし、梓とは仲良いの!!
だから、もし何かあったんなら、あたしも一緒に行って、許してもらお――――」
「違うんだ」
自分でも、強引で押し付けがましいと感じられたが、善意・・・の筈の想いは、止め処なかった。
本気でなんとかしてあげたいと思って、香は捲し立てた。
光弥もそれは分かっていたのか、口端に浮かべた笑みは柔らかいものだった。
それでも、光弥は静かな、しかし口を挟むのをきっぱりと躊躇わせる断固たる調子で言い放つ。
「――――ダメなんだ。
僕は・・・・昔、"彼女"に酷い事をしてしまった。
だから"彼女"には、僕を絶対に許さない理由があるんだ」
理由を語る口調は極端に平坦であり、あたかもやりきれない思いを無理にでも抑え込みながら発しているような、抑揚の無さだった。
"彼女"と、不自然なくらいに代名詞を使っているのも、それほどに畏れ多いと感じていると、暗示しているのだろうか。
婉曲な言い方をする光弥へ、言葉に出来ないまでも疑問の視線を向ける香と正木。
だが、光弥はそこから逃げたがるように背を向けた。
「・・・・今朝も、ちょうどその事を夢に見たんだ。
それから幾らも経たずに、"彼女"と会って・・・・なんか、見図られてるみたいに思えてさ。
楽になるなんて許さないって、言われてるみたいで・・・・正直、堪えた」
「こ、光弥くん・・・・?」
「――――心配してくれてありがとう、二人共。
でも平気だ。
これは僕と"彼女"の問題で・・・・もう、"取り返しの付かない事"だから。
けど、償い切れないならせめて、抱え続けるしかないって、もう決めてる。
・・・・だから平気だ」
何処か唐突に、光弥は明るい表情で振り返った。
話を結ぼうと、取り繕った表情だった。
また同時にそれは、助けになろうと差し伸ばされた手に、先んじて一線を引いたという事でもあった。
他ならぬ当事者がそう言ってしまうのなら、部外者から何か言うことは、もう出来なくて。
「・・・・けっ」
「光弥くん・・・・」
気遣わしげな香と、苛立ったように鼻を鳴らす正木。
二人共に、この結論に納得なんて出来ていない。
だが光弥は、それに向き合おうとしなかった。
隠そうとも、弁解もしようとせず、わざとらしく背を向けて沈黙する。
それは、追及されるべき罪が有る、という無言の肯定。
誰かの優しさを否定しない。
しかし、受け入れもしない。
そうして野晒しにされているのが相応しいと言わんばかりに、光弥は何もかもを呑み込み、堪えようとしていた。
周りにある全てに目を瞑った、頑ななその背に、香はかける言葉を見つけられなかった。
「・・・・・・・・・」
――――だが、その時だった。
「なんだろう、あれ」
「っゑ!?」
「なにチワワみてぇに鳴いてんだ」
「や、だって、ぃ、いきなりだったから・・・・!!」
突然に光弥が口を開いたことで、思わず赤面ものに声が引っ繰り返る香。
呆れつつも絶妙な間で入れられる正木のツッコミは、条件反射か温情か。
そんな背後のやり取りを尻目に、光弥はじっととある方向を見つめていた。
「あの子達、どうしたんだろう?
・・・・なんか、変だ」
「変、って?」
言われるままに香達は指差された方を見てみる。
そこには、見知らぬ少女と少年が連れ立っている姿があった。
身長差のあるが、どちらも小学生らしい。
赤と黒の、清々しい色のランドセルを、それぞれに背負っているからだ。
目の前にある横断歩道を渡ろうとしているのか。
信号は・・・・青だ。
「――――まただ」
なぜか、その二人はじっとしたまま渡らなかった。
歩き出そうと言う素振りは見せているのだが、どうしてだか動こうとしない。
再び信号が赤に変わり、そしてまた青に変わる。
やはり動かない。
「・・・・何だってんだよ、そんなに気にすることかよ?」
光弥の関心が理解できず、正木が唸った。
その思いは香も同じで、単に話を逸らしたがっているのかと、問い詰める語気が強まる。
「光弥くん、今はそれより、さっきの取り返しのつかないって、いったいどういう――――」
やっぱり、香は黙ってはいられなかった。
強引にでもその事情に触れようとして、香は意気込み、光弥の前に回り込む。
「――――!!」
ところが、だった。
いざ、そうして光弥の顔を目にした途端、香は口を噤んでしまっていた。
そして光弥は、そんな香の様子よりも先を見つめ続け、やがて歩き始めた。
二人の小さな人影に向かって、その足取りは速くなってゆく。
歩みに迷いは無く、ひたむきで真っ直ぐだった。
「――――まったく、もぅ。
・・・・どんなになっても、光弥くんは光弥くんだったね」
「・・・・だな。
・・・・ったく、あの大ボケお節介野郎」
光弥の背を見送る香と、悪態をつく正木。
しかし、そんな2人の顔は、どちらも微笑んでいたのだった。
・・・・
・・・
・・
・
「――――ねぇちゃん、平気?」
「うん、平気、心配しないで。
あたし、お姉ちゃんなんだよ?
だから大丈夫」
光弥がその2人に近づいてみると、そんな会話が耳に入ってきた。
(・・・・日本語、だ。
それも、流暢だ・・・・)
思わずそんな不思議な感想を浮かべてしまった理由とは、件の2人が色素の薄い"金髪"をしていたからである。
当然、英語で話すだろうと思いこんでしまっていた光弥は、軽く面食らっていた。
ともあれ、それなら言語の方は心配ないと、前向きに考えることも出来た。
光弥の見立て通り、彼女達が何らかの問題を抱えているのは間違いないだろう。
姉らしい、背の高い女の子の方。
横合いから見えるその顔は、言葉とは裏腹に青褪めていて、額には脂汗まで浮かべていた。
それを、彼女より背のだいぶ低い、弟らしき少年が心配そうに見つめている。
気持ちの逸る光弥は、その2人の傍に近寄って行った。
「ねぇ、どうしたの、君たち?」
そして声を掛けた途端、それに対して2人はびっくり仰天という言葉がぴったりな反応を見せた。
女の子の方は後ろに仰け反るように後ずさったし、男の子は目を真ん丸く見開いて光弥を凝視してきた。
(・・・・思っていた以上に警戒されてしまったな・・・・)
順序を間違ったかと、光弥は内心で呟く。
悪意などなくても、突然横から話しかけた光弥は、2人の不意を打った形になってしまった。
おまけに今の御時世、知らない男性に話しかけられるのは、かなりリスクのある状況でもある。
まずは2人に警戒を解いてもらわねば、話を聞くどころではないだろう。
「あ・・・・あ、の・・・・」
がちがちになっている女の子へ、光弥は努めて自然な物腰であるよう心がける。
硬い顔だったり、変ににこやかであるのもこの場合は良くないだろう。
次いで、光弥は片膝を着いて少女たちと目線を合わせた。
「驚かせて、ごめん。
大丈夫、僕は決して怪しいものじゃないから。
えっと・・・・ただ君達、ここで青信号なのにいつまでもじっとしてるから、どうしたのかと思って。
それだけちょっと気になってさ」
「・・・・・・・・・」
呆気にとられ、戸惑った表情で、2人は光弥の顔を見つめていた。
それに対して光弥は落ち着いて、じっと反応が返って来るのを待った。
知らない人物と出会い、不安なのはどちらも同じ。
むしろ、受け手で幼い彼女達の方こそ、それは大きいだろう。
どんな事を言えばいいのか分からず、不用意な事を言って怒らせてしまうかもしれない。
それどころか、もしかしたら自分達に害を為そうとするのかもしれない。
初めて会う人物に、そんな疑いを向けて警戒するのは当然のことだ。
まずは善意を理由に踏み入り過ぎないこと、その上で信頼してもらえる人柄であることを、分かってもらうこと。
焦らずに誠実に、彼女達の反応に応じるべきと、光弥は待った。
「あの――――」
やがて、少女が恐る恐る、と言った様子で口を開いた。
ひとまず、不審者扱いで逃げられる、という事態は避けられたようだった。
「何だい?」
光弥はそっと先を促す。
「ホントに、それだけ・・・・なん、です?」
「ああ、それだけ。
――――はは、今思うと、ちょっと変なハナシだね」
と、光弥のあけすけな笑顔に、少女は少しだけ警戒を解いてくれたようだった。
表情が少しほぐれて、硬い緊張感が和らぐ。
そして、女の子は僅かな雪解けの笑みを浮かべて、言った。
「変ですね」
「・・・・あはは」
自分で言ったことだったが、直球で言われるとそれなりにグサリと来る光弥であった。
「――――僕は、日神 光弥っていうんだ。
よろしく」
「その制服、海晶学園のですよね、知ってます。
あたし・・・・
――――明慰はそう言って、肩下程までの金髪を左側に纏めて結ったサイドテールを揺らし、小さくお辞儀をした。
くりくりと愛らしい、碧色の大きな目が印象的な女の子だ。
その外見からしてやはり、彼女は純血の西洋人のようだ。
日本人とは根本的に質の異なる肌の白さに、鼻筋の高いはっきりとした顔立ち。
可憐な顔つきは未だ幼さが残っていて、張り艶ある肌と髪も合わせて、爽やかで健康的な可愛らしさがあった。
一方で、華奢ながらも光弥の胸元ほどまである背丈は、おそらくは同世代の平均値から文字通り頭一つ抜けているだろう。
桃色のブラウスにフレアスカートという私服とランドセル姿でなければ、中学生にでも見えていたかもしれない。
そんな明慰は、先程までの不安げな様子は消えたものの、相変わらずどこか顔色が悪げだった。――――
「明慰ちゃん、か。
なんか、いい響きだ。
明るくて、綺麗な感じがする」
「あ、あ、ありがとーございます・・・・です」
光弥の言葉に明癒は顔を少し赤らめて答えた。
それに釣られて光弥も赤くなった。
誓ってわざとでなかったが、今のセリフはまるで口説き文句のようで自分でも照れ臭かった。
誤魔化しついでに、光弥はもう1人の方に視線を移す。
それを見て意を察した明慰は、ジェスチャーと一緒に口を開く。
「それと、こっちは弟の・・・・」
「りょう」
その少年は、これ以上無いほどシンプルに返事をしていた。
「こら、りょう・・・・!!」
明慰が小声で嗜めるものの、彼はケロリとしていた。
「――――
ひどく申し訳なさそうに後を継ぐ明癒。
――――そんな姉の様子には構わず、相変わらずの無愛想で光弥を見上げる遼哉。
彼の方もまた、姉と同じ色合いの金髪碧眼の少年だった。
丸みを帯びているも、どことなく力の有る碧色の眼差しが殊更に印象的だ。
艶のあるも野放図な印象を受ける短髪、そして身体は随分と小柄である。
Tシャツに半ズボンという格好から覗く手足は些か痩せぎすな感があるも、ともかくこちらは姉と違って年齢相応の見てくれだった。
しかし、大きく違うのはその佇まいだ。
偏見じみているかもしれないが、彼は子供らしくないくらいにクール・・・・というより無表情だった。
表情もそうだが、眼差しや所作まで、子供にしては大人しすぎる。
なんだかちぐはぐな印象に、光弥はそんな感想を抱いた。――――
「はは・・・・よろしく」
「ども」
本当に、飄々とした少年である。
ともあれ、今はとりあえず本題の方に入る事にしよう。
「えっと、それで話を戻すんだけど・・・・。
さっきからどうしたの?
ずっとここから動いていないみたいだけど」
光弥がそう聞くと、明慰は表情を曇らせて視線を下へ落とす。
「・・・・あたし、ちょっと足を捻っちゃったんです。
それで、上手く歩けなくって・・・・」
「足?」
見ればスカートから覗く左足だけ靴下を履いておらず、踝を剥き出しにしていた。
「・・・・ひどいな」
そこを目にした光弥は、思わずそう呟き、顔を顰めた。
よくよく見れば、明慰の足の怪我は、彼女がいう「ちょっと」という言葉ではとても足りない具合だった。
足首の所はひどく腫れていて、素人目で見ても分かるくらいにはっきり紫色に変色していた。
そして、その上の膝には、真新しく痛々しい、大きな擦り傷があった。
「こ、こっちは、さっき転んだんです・・・・。
そのせいで、余計に痛くって、どうしようって・・・・。
・・・・ここを渡らなきゃ帰れないのに、痛くて、全然動けなくて・・・・です」
言葉にする内に顕になってしまう激しい痛みと、つらい気持ち。
それを必死に堪えながら、絞り出された震え声に、光弥もまた痛ましい思いで胸をつまされる。
「この辺りだったら、
なら、ここまで歩いてくるのも大変だったろうに・・・・」
十旗小――――
今いる場所から十旗小までは、随分と遠い。
光弥達の足でも10分はかかる距離を、おそらく明慰はこの足のままずっと歩き続けてきたのだろう。
思えばいくら怪我しているといえ、顔が真っ青になるほど追い詰められるような事はそうそう無い。
無茶な事をする、と光弥は眉を寄せた。
理由までは分からないが、彼女がどれだけ無理をしてここまで歩いてきたかは、想像するに余りある。
そして、この怪我はこれ以上、不用意に動かしていいものではないとも。
「――――よし」
故に、光弥は決めた。
このまま放っておけない、と言う想いで、その手を差し出していた。
「それじゃあ、僕が手伝うよ」
「え・・・・?」
明慰は思わず声を出して驚いていた。
だが、光弥の顔は大真面目だった。
「この辺は人も車も多いから、そんな足で歩き回るのは危ないよ。
だから、僕も手伝う」
「でも、そんな・・・・悪いです・・・・」
「ああ、僕の事は気にしなくていいから」
そう言いながら光弥は明慰の足首に視線を送った。
「――――それでなくてもこの足、結構ひどい捻挫だ。
早めにお医者さんに見てもらった方がいい。
・・・・あ、迷惑じゃなければ、・・・・なんだけど」
突然の事に明慰は戸惑っているようだった。
あまりに狼狽しているので、カッとなっていた光弥の頭も少し冷える。
半ば我を忘れて咄嗟に言ってしまったが、いきなり言われたら向こうだってびっくりするだろう。
と、その時だった。
それまでずっと黙って成り行きを見ていた遼哉が口を開く。
「ねぇちゃん」
飄々としていて、正直考えの読めない子だと思っていた、遼哉。
だが、今の短く小さな言葉には、姉を案じる確かな思いが感じ取れた。
「――――まだ会ったばかりで、変かもしれないんだけど。
放っておきたくないんだ、君達の事を。
こんな怪我してるんだったら・・・・いやそうでなくても、困ってるなら力になってあげたい」
真っ直ぐに明慰を見て、光弥は言ってのける。
その強い言葉を受け止めた明癒だったが、だからこそ少しどころでなく恥ずかしそうに顔を俯かせる。
しかし、光弥の本気は疑いようは無く、明慰もまた心を決めたようだった。
「・・・・それじゃあ・・・・お願い、していい・・・・ですか?」
「――――よっし、任された」
おどけてそう言うと、明慰もまた笑顔を返した。
それを見届け、光弥は次に遼哉の方を向いて、話しかけた。
「君はお姉さん思いなんだね」
すると、予想と違ってきょとんとした顔になる遼哉。
「じゃなくて」
「え」
否定から入る遼哉。
加えて残念ながらそれは、照れ隠しとかそういう可愛い理由をもっているようには見えない小癪な顔であった。
「もうお腹空いたよ、行こ」
「「・・・・・・・・・」」
光弥は苦笑いのまま固まり、明慰は凄いジト目で遼哉を睨んでいた。
その胸中は、果たしていかばかりか。
が、しかしその視線の矢面に立たされている遼哉は澄まし顔を貫いていて、随分とまあ立派なものである。
(なるほど、この子はこういう子なのか・・・・・)
なかなかどうして、大物かもしれない。
「「あはは・・・・」」
なんとなく、乾いた笑いを交わす光弥と明慰だった。
・・・・
・・・
・・
・
「――――にしても二人共、日本語が流暢だね。
最初に見た時は、言葉が通じなかったらどうしようかって、実は少し心配だったんだ」
「あたし達、両親がアメリカ人ですけど、日本生まれで、住んでたことは無いです。
だから、英語も喋れないんです。
・・・・よく、勘違いされるんですけど」
「ああ、なるほど・・・・そうなんだね」
疑いよう無く外国人の見た目の明癒達が扱う、癖のない日本語。
そう言う事もあるものかと、その少し不思議な光景のからくりに感心する光弥。
「あ、あ、信号変わりましたよ、日神さん」
「あ、本当だ。
んじゃぁ、行こう」
そして、歩行者信号が青になったのを見計らい、光弥は明慰の身体を支えて、彼女の歩調に合わせて歩き出した。
自分の足で歩くのは、明癒の希望だった。
最初は背負っていくつもりの光弥だったが、そこに顔を真っ赤にして割り込む明癒。
「そ、そこまで頼れません!!・・・・です!!
・・・・あ、あたし、重いし・・・・」
との事である。
とはいえ、やはり明慰の足は相当酷いようで、ほとんど自重をかけることもできず光弥に寄り掛かる様に歩いていた。
(こんな状態で歩き続けるなんて・・・・)
彼女の我慢強さ・・・・というより頑なな様子からは、何処か意固地な部分が感じ取れる。
理由までは分からないが、自分の苦境を押してまで拘る様子には、光弥は複雑な思いを抱かざるを得なかった。
「辛かったら言ってね。いざとなったら担いででも連れて行くから!!」
冗談とも本気と持つかない光弥の言葉に、明慰は微笑んだ。
どうにか光弥は、彼女と打ち解ける事ができていた。
話して見れば、よく笑う子だ。
こっちが彼女の本来の性格なのだろう。
「――――でも、大丈夫ですか?」
「ん~、腰にちょっと来るかも・・・・なんて」
「そしたら、二人して動けなくなっちゃいますね、ふふ・・・・」
冗談にも素直に反応してくれるし、間違いなく良い子だ。
・・・・微妙に間違っている気がしないでもないが。
「りょう君は平気?」
「うん」
と、返事はよろしかったが、気のせいかなんだか先ほどより明慰から離れて歩いている。
と言うよりは、どうやら光弥から距離を置いているようだ。
彼は飄々としていて、ついでにけっこう用心深い性質らしい。
もしかしたら、この無愛想さもポーカーフェイスと考えると、中々侮れないかもしれない。
(・・・・にしても、こんな怪我してるなら、普通は母親とか迎えに来そうなもんだけどな。
聞いて見たい気もするけど・・・・)
2人の顔を盗み見る。
彼女たち姉弟のなんだか冷めた様子は、なんとなくただ事でない事情があるように思えていた。
特に、初めに明慰を見た時、彼女からはどこか悲壮な色すら感じ取れた。
大いに気にはなるものの、結局おそらくその込み入った事情に迂闊に踏み入るのは躊躇われ、光弥はその違和感を飲み下したのだった。
「にいちゃん、信号」
その時、遼哉からの聞き慣れない呼び方にふと我に返る。
「え、あ!!」
見ると歩行者信号が青から赤へ変わりかけていた。
思い出したが、ここは交通量の多い道路を跨ぐ横断歩道で、切り替わりの間隔がかなり短かった。
「明慰ちゃん、ちょっと急・・・・」
「痛っ・・・・!!」
だが、歩くのもやっとな今の明慰にそれを言うのは酷だろう。
それ以上は言えず、されどそんな光弥たちの都合はお構いなしに信号はパッと赤へと変わってしまった。
「ゆっくりでもいいよ。
そっと行こう。
僕も、あんまり足が痛くならないよう気をつけるから――――」
「 おいお前ら !!!!
何ちんたらやってんだよ !!!!」
間近からいきなり響いた野太い男の声に、光弥は慌てて顔を上げた。
見れば、すぐそばのトラックから厳つい赤ら顔をした中年の運転手が顔を出して、恐ろしい形相でこちらを睨んでいた。
慌てて謝ろうとする明慰。
「あ、す、すいませ・・・・」
「もう信号赤になってんだろ!!早くしろよ!!!!」
だが、そんな事に構おうともせずに男は激高し、赤らむ顔はまるで赤鬼の形相だった。
大型トラックのエンジン音が霞むぐらいの怒声でがなり立てている。
そして、明慰は、始めに光弥が話しかけた時のように、顔を真っ青にして、目に涙を浮かべてしまっていた。
だが、先ほどと違うのは、相手が明確な悪意をもって接しているという事。
< ヴーーーー !!!!>
「ひっ・・・・!!」
とうとう、けたたましいクラクションまでも鳴らしだす男。
そのあまりにも理性を欠いた態度に、周囲からは白い目を向けられるも、気にする様子は無い。
光弥の見る限り、それはただ自身の苛立ちを振り回しているだけの八つ当たりに過ぎないように見えた。
だが・・・・そんなもののために今、明慰は今にも声を上げて泣き出しそうに震えている。
そして、そんな姿を見る光弥の顔が、次第に険しく変わっていった。
腹の底に燃え滾るように熱く、強い感情を感じていた。
――――道を塞がれて、苛つくのは分かる。
だが、足を引きずって、ふらつきながら歩いている子がいるんだ。
そして、その子は今にも泣き出しそうな顔をしているんだ。
なんとも思わないのか?
理解してやれないのか?――――
すぅ、と光弥の眼が細まる。
「 あぁ!!??
何だよお前 !!??」
一歩、悠然と踏み出した光弥は、憤りを込めてそいつを真っ向、睨み返す。
別に喧嘩を売るわけじゃない。
だが・・・・かなりムカついていた。
「 少し、待っててくれっ !!!!」
「「「!!」」」
――――その時、運転手の男・・・・・そして明慰も遼哉も、驚きに目を見開いていた。
今まで、一見細身で押しの弱そうな青年でしか無かった光弥はこの瞬間、見間違うほどの変貌を遂げていた。
光弥は、相手の怒気を物ともせず、聴く者を打ち震わすような大音声を張り上げていた。
それはまるで、武道家の鬨のように張り詰めた凄みを込めた一喝だった。
同時に、満ち満ちる烈火のような気迫が、その立ち姿をも一変させる。
光弥の人懐こかった雰囲気と視線は、今やまるで面を上げた猛禽のような、猛々しい鋭さに変わっていた。
時に、王者とも形容される存在さながらの風格と面差しは、堂々と起つ光弥の姿を、更に何倍も力強く見せる。
すると、真正面からその意気に当てられた男は、言いかけた文句を不格好に呑み込み、すごすごと運転席に引っ込む。
一回り以上も年下だろう光弥に呑まれ、完全に気迫負けを喫したのだった。
「・・・・ざまみろ、ぺっ」
そんな姿に、遼哉が小声ながら痛烈に投げつける。
「気持ちは分かるけど、あまり言うのは良くないよ。
実際これは僕らも悪いんだし。
――――明慰ちゃん、ごめん、やっぱりおんぶして行くよ」
早口にそう言う光弥を、明慰は唖然と見つめていた。
向き直って明癒達に話しかけるその姿は、もうさっきまでの柔和で温厚そうな青年だった。
体も細くて、なんとなく頼りなさ気で、けれどもおせっかいなぐらいに親切な青年。
けれど、大の大人に真っ向から立ち向かう、意外なほどの度胸があるのを、明癒達はもう知ってしまった。
「――――不思議な人」
その小さな呟きは、光弥の耳には届かなかった。
傍らの弟だけが、まるで同意するように明慰の手に触れた。
・・・・
・・・
・・
・
少し離れた場所から、光弥達3人のやりとりを、香と正木は見守っていた。
面倒くさそうな奴に絡まれた時はどうなることかと思ったが、結局は光弥1人で収めてしまった。
事態が一段落ついた事で、香は安心して溜め息をついた。
「ふんっ、ざまぁ見ろってね、あの自己チュー野郎」
「確かにな。
俺が行くまでもなく、噛み付いちまいやがった」
「皆、びっくりしちゃってたね。
・・・・でもやっぱり、光弥くんはああじゃなきゃ」
微笑みながら光弥を誇らしげに見つめる香。
普段の陽気な姿、唐突に表した鬱屈とした姿。
様々な面があれど、やはり光弥の芯は、あの堂々たる強さにあるのだろうと思う。
「いつもは柔らかい感じで、人を悪く言ったりなんてしないのに。
でも、許せないって思ったことは絶対に見逃さない。
真っ直ぐで、困ってる人を放っておけないし、相手が誰でも、"正しさ"を曲げたりしない。
意地っ張り、なんだよね、ああ見えて」
「意地っ張りっつうか、頑固者っつうかな。
時々鬱陶しいくらいだ。
――――だからこそ、嘘をついて隠し事をしたり、誰かを騙したりはしない。
根っからそういう性なもんだからな」
だからこそ、光弥が眞澄 梓との因縁を話さないのは、生半な重さの決め事ではないのだろう。
それくらいは香たちにも分かっている。
そしてきっと、光弥が罪悪感と責任感をもって、そののっぴきならない事情を、この先もずっと抱え続けて行こうとする事も。
でもそれは、必ずしも1人で抱え続けなければならないという事ではないはずだと、香は思う。
こうして知ってしまったからには、気付いて無い振り、何も無い振りをし続ける嘘は、誰しもに伸し掛かる。
その重さ、苦しさは、きっと分かち合えるはずなのだ。
例え、その事情がどれほどに重大で、踏み込まれたくないものであったとしても、香には力になりたいと願うのを止められなかった。
「――――もどかしい、ね。
つらいならつらいって、言って欲しい。
いっぱい、心配してあげたいよ」
すると、不意にポンと、正木に肩を叩かれる。
らしくない気遣いだと思っているのか、素っ気なくそっぽを向いたままだったが、優しい手付きだった。
「・・・・アイツだったら平気だって。
打たれ強い奴だからな。
それに、周りに迷惑かかってるって分かってんなら、そのうち変わるだろうさ。
そういうのだって、アイツにとっちゃ譲れない事だろうからな」
「そうだよね。
・・・・そうだといいね・・・・」
よく知る姿と、知らなかった一面。
そのギャップに当惑している最中で、なにか一つに答えを決めることが恐く感じてしまう。
正木の言葉へ返せたのは、迷いで鈍った曖昧な首肯だった。
そんな香達のやり取りを知らない光弥達は、道路を渡り終えて何か話し込んでいる様子だった。
「こっちがこんなに気を揉んでるのに、和気藹々しちゃって、もぅ」
「小学生くらいとは特に気が合いそうだよな、あいつ」
――――そこに、一つの人影が近づいていた。
長い髪を靡かせる彼女は、何処か急いだ足取りで、まっすぐに光弥達に近寄っていく。
予想外の遭遇と展開に、香と正木の表情が強張る。
「香、ありゃぁ・・・・!?」
「え?・・・・あっ――――!!」
――――To be Continued.――――
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