1章 「始導」

#1  懊悩の少年




気づけば、少年は闇の中にいた。




黒に黒を何百回も上塗りしたような、まるで先の見えない暗闇。


あるいは、本当に先なんてないのかもしれない。


現に、少年はこの悪夢を振り払えないままでいた。


時間だけはただ過ぎて行って、それなのに少年の心は、ここに置き去りにされていた。


だから、苦痛しかないこの闇に何度でも戻ってしまう。


そして・・・・ここから見える光景に何度も心を抉られてしまう。




―――― ・・・・嫌ああああぁぁぁぁっ・・・・ ――――




甲高い悲鳴が聞こえる。


少年にとって、それはとてつもなく悲痛で、一秒だって聞いていたくないものだった。




―――― ・・・・きゃああああぁぁぁぁっ・・・・ ――――




―――― ・・・・うわああああぁぁぁぁっ・・・・ ――――




続けざま、幾つもの悲鳴が重なって響く。




―――― よせっ・・・・やめろっ・・・・!!!! ――――




少年は、必死に叫ぶ。


けれど、あの少女を苦しめる"アイツ"には届かない。


それでも"アイツ"には微塵の躊躇いもない。


そんなもの、根本的に持っていないのだ。


泣き叫ぶ少女を憐れむ、悲痛な叫びに痛める、心を。


あるのはただ、破壊衝動。


目に写るもの全てを壊すことしかできない、まるで悪魔じみた・・・・いやそのもの悪魔だ。


少年と、"同じ姿をした悪魔"。




「・・・・グ・・・・」




そこから先を、少年は何度も、何度も忘れようとした。


悪魔が、少年の腕を高々と振り上げさせた。


その手の凶器を、大好きなその人達に振り下ろそうなど、少年が間違っても考えるわけがない。




でも、それでも・・・・動いたのは"少年の体"であり、冷たい刃を振るったのは少年の腕だった。




「 オ"オ"オ"オ"ア"ア"ア"ア"ッ !!!!」




故に、どんなに忘れようとしても、身体は覚えている。


この身に、刻み込まれてしまっている。


忘れることなんか、出来る筈が無い。





< ザシュゥッ >




生々しい感触は、生涯の哀しみと罪罰の淵獄に堕ちる証。


赤い血が飛び散る。


止めどなく迸り・・・・そして、悲鳴は潰える。


眼の前で、生命の灯が消える。


少年に出来るのはただ、その無常と無力に、慟哭することだけだった。




「 うわああああぁぁぁぁっ !!!!」




・・・・

・・・

・・




6月6日 6時02分

S県西部 二間ふたま

未土みずち町 住宅地区




「 うあぁっ!? 」




早朝、朝焼けの光が夜の帳を払っていく頃。


閑静な住宅街の一角で、まるで断末魔のような叫び声を上げて目覚めた少年がいた。




「はぁっ・・・・はぁっ・・・・っ!! 」




年の頃は15~6に見える。


まるで猛々しい猛禽の毛並みのような、鮮やかな濃い鳶色の髪が目を引く少年。


だが、今の彼は顔を引き攣らせて青ざめさせ、冷や汗と共に全身を震わせていた。


とびきり恐ろしく、醜悪なものを目の当たりにしたように。




「―――・・・・はぁ・・・・」




やがて、跳ね回って悶えていた心臓がようやく落ち着きを取り戻しだした頃。


少年は深く、徐なため息をつき、光るものが滲む目元を押さえてうなだれた。


その時、東向きの窓から見える山並みを乗り越えて昇った太陽が、寝室に光を差し込ませる。


布団の敷かれた畳の和室を照らし出し、薄暗い部屋に光を行き渡っていくのを、少年はただ呆然と見詰める。


殊更に赤みの強い朝陽が、少年の影を長く黒く、部屋の中に落とした。


(まるで血の色だ)


少年は背に走る悪寒に耐えながら思った。


紅に、黒の混じる・・・・まるで乾き掛けた血の――――


「っ・・・・!!」


――――その時脳裏に再び走ったフラッシュバックに少年は頭を押さえる。




それは自分の心理の底に根付いた、トラウマ。


記憶と言うにはあまりに生々しく、リアリティに満ちた傷痕。


少なくとも、寝起きに思い返すにはショッキングすぎるものだった。




「・・・・まったく、朝からツイてないな・・・・」




まるで自嘲するように、少年――――日神 光弥ひのがみ こうやは、一言だけそう呟いた。




・・・・

・・・

・・




――――それから暫しの後。


光弥は布団を片付けた後の畳の部屋でじっとしゃがみこんでいた。


片膝を突いてうずくまり、握った右拳を床に付けて静かに深呼吸だけを繰り返す。


それは、光弥が座禅と呼ぶ姿勢だった。


座ってもいないし、実際とも異なるこれは、悩んだりむしゃくしゃしたりした時、光弥が行っている自己流の精神統一だった。


元は光弥が習っていた、とある"武術"から着想を得たものだ。


頭の中で泡立つ様々な想念を呼吸とともに整え、"空"にしていく。


その過程が光弥は好きだった。


実際、僅かな呼吸の動作を除けば、彫像のように不動で瞑想する姿は堂に入っていた。




「――――よし」


一際大きく息を吐くと、光弥はゆっくりと身体を起こす。


途端、飛び込んでくる曙光の眩しさに目を眇める。


それなりに長く瞑想に耽っていたのか、既に日はだいぶ上って、白熱とした光を発している。


希望、活力。


そんな暖かな気持ちを見る人の胸に宿らせるようなすばらしい朝日だ。


そして、それを感じられる心を自分の中に認めた光弥は、座禅を終えてすっくと立ち上がった。




良い寝覚めを迎えられなかった不満をバネに、きびきびとした動きで部屋を出る。


そして朝の洗顔のため、光弥は洗面所へと足を向かわせる事にする。


「くぅ~・・・・完全に目が冴えちまったよ・・・・やれやれ」


言葉通りに足取りはしっかりとしていて、そのまま光弥は板張りの細い廊下をさっさかと歩いていく。


だが、生け垣のある小さな庭に面したその廊下は、普通の日本家屋とは思えないほどに長く伸びていた。


実際、光弥が廊下の先、すなわちこの家の隅っこに辿り着くまでに、何枚もの襖や引き戸を通り過ぎる必要があった。


たっぷり4、5分はかけて、妙に広い洗面所に入った光弥は、あくび混じりに鏡台の前の歯磨き道具一式を手に取った。




「せっかく久方ぶりの快晴だってのに――――」


<シャコシャコ>


「――――しゅいへないっはらツイてないったら


上の歯を磨き、下の歯を磨き、前歯、奥歯も念入りに。


<シャッカシャッカ・・・・パシャ>


そして口内をゆすいで、吐き出す。


<シャコシャコ・・・・>


さらに、それをもう1セット。


<バシャッ!!>


最後に顔をさっと洗い流して、光弥はふぅと一息つく。


気だるい表情は消し飛び、しゃっきりと引き締まった顔に変わった。




――――背丈は平均的で、全体的に細身。

だが、痩せぎすではないしっかりとした体格は、引き締まった筋肉がきちんと身についているのがその由縁だ。

背筋もしゃんと伸びたしなやかな立ち姿には、ひ弱さや鬱屈さは一切感じられず、寧ろ若さとそれに伴う活力が漲っているのが、一目瞭然である。

この健やかさは、それなりに厳しいのもとに育ってきたのと、昔から修練してきた"武術"とによって培ってきた賜物だった。

先述したように、直毛寄りの髪は赤みを帯びた暗い鳶色で、髪質も良く、艶めいている。

無造作だが邪魔にならない程度の長さで整い、動く度にさらりと動く様は、風に撫ぜられた羽毛のよう。

ついでに、この頭髪自体の他に眉、睫毛も同じ色であり、染めている訳ではなく何れも地毛である。

目鼻立ちははっきりとして、なおかつ整っており、かなりの二枚目であると言って差し支えない。

少年のあどけなさ、同時に青年の精悍さもそこに同居し、今の彼が成長の過程にある事を如実に物語る。

その中で特に印象的なのは、髪と同じくやや赤みの強い褐色の眼である。

しっかりと見開かれ、そしてともすれば鋭利に感じられる程に、眼差しは力強い。

その様は、本人の髪色や壮健さも相俟って、まるで若鷹を思わせるような勇猛さを醸し出させていた。 ――――




「さってと・・・・そんじゃ、そろそろ朝飯の支度だ」


徐にそう独り言つると、光弥は洗面所から廊下へ出ていく。


「うーん、今日は洗濯日和っと・・・・次の日曜まで続くと良いんだけどな。

にしても、そろそろ"新館"は掃除の時期かぁ。

一人じゃ面倒くさい・・・・けど、これも約束だしな」


光弥はガラスのはまった引き戸の向こうにある広大な部屋を見ながら、渋々と呟いた。


そのまま来た道を戻っていく間、家の中は光弥の出す音以外、全くの無音だった。


この建物は、元々広大な敷地をぐるっと生け垣に囲んでいるため、そもそも外の喧騒があまり入らない。


おまけに立地的にも、人や車があまり通らない場所であるため、朝夕は本当に静かなものだった。


そんな、時々は不気味に感じてしまうほどの静寂を、不意に鳴り出した大きな電子音が破いた。


「おっと、電話か」


呼び出し音は、この家を横切る主廊下の先と、光弥の背後の両端から聞こえていた。


光弥は踵を返し、洗面所に追いてある電話子機を取りに行くことにした。


微妙な距離だったが、おそらくこっちのほうが近いだろう。




ここまでの様子から分かるように、邸宅と言っていい大きさのこの家は、"1人"で暮らすにはいささか大きすぎるものだった。


使っていないが汚れは溜まるということで、2ヶ月に一度の掃除は考えるだけで憂鬱になる程の手間ごと。


電話子機も更に2階に1つ、洗面所や中庭に面した側の廊下にもう1つ用意しているが、今のようにそれなりに急いで動かないと、おちおち受ける事すら出来なかったりもする。


「はい、もしもし――――あ、景山さん。

おはよーございます」


<おはようございます、光弥君。

すいません、こんなに朝早くに。

起こしてしまったのだったら、すいません>


電話口から聞こえてきたのは礼儀正しい口調の、妙齢の女性の声。


挨拶だけで、それが誰か思い至った光弥は、子機で話しながら再び廊下を自分の寝床の方へ戻っていく。


「いやぁ、全然。

ちょうど起きてたんで、大丈夫です」


<それはよかった。

ふふ、お二人はいつも、早起きでいらっしゃいましたね。

本当は昨夜に連絡するはずだったんですが、遅れてしまって・・・・>


「本当にやたら早起きなのは、一人だけでしたよ。

景山さん、やっぱり今も忙しそうですね。

身体、気をつけてください。

僕の方は平気ですから」


<そういう訳にはいきません。

17歳の少年が、身寄りもなく一人暮らしなんて、やっぱり危ないです。

もし君になにかあったら、私は後事を任されたものとして、申し訳が立ちません>




彼女の名は、景山 芹子かげやま せりこという。


本人の言う通り、身寄りの無い光弥の後見人となった女性だ。


血の繋がりがある訳ではないが、なんでも光弥の"育ての親"に大恩があり、その縁で後見人を引き受けたのだそうだ。


美人で真面目、人当たりも柔らかいのだが、融通が効かないところが玉に瑕、というのが光弥の持つ印象だった。


彼女と光弥とはそれなりに親しい知り合いだったが、しかし最後に顔を合わせたのは、果たしていつだったろうか。


芹子の仕事は、とある偉い人物の秘書、ということらしい。


あまり頻繁に会う訳ではないし、詳しくは知らないが、とりあえず分かるのは芹子がかなり忙しいということ。


最後に話したのも、ひと月前の同じ様な電話越しの会話で、そうやって顔を合わせないことの方が遥かに多い。




<――――あれから、もう2年経ちます。

後見人の私としては、もっと人の多く、防犯もキチンとした場所へ引っ越してもらいたいんです。

まして、特に"今は"とても物騒な時世でもありますし。

その家も、一人で使うには不便ではないですか?>


「・・・・確かに、一人で使うにはでかすぎるし、色々古臭くって管理が大変、ってのはあります。

余計な心配を、景山さんにかけてるのも、分かってます。

けど、やっぱり自分の家だと思うこの場所を、簡単には捨てられないんです」


思い返しながら、光弥はこの広い邸宅の中で、自分の生活スペースと定めている一角へと戻ってくる。


まず足を踏み入れるのは、畳張りのかなり広い居間だ。


だいたい15畳ほどはあろうかという、一人で使うにはかなり贅沢な空間である。


外に面した大きなガラス戸と、そしてもう一つのこれまた大きなガラス窓の二面からは、燦々とした陽光が注ぐ。


タンスやちゃぶ台、テレビと言った簡素な家具が置かれて、光弥の寝室へ通じる小さな襖もここにあった。


衣服や雑誌などでやや散らかっているが、注意する者もいない今、油断すると何日もそのままにしてしまうこともある。


そもそも、そこまで几帳面でもない光弥は、自分の生活空間でさえそんな有様。


正直、一人暮らしではこの広大さを持て余していて、実際に不便を感じることも多い。


だがそれでも、長く住んだ思い出と愛着というのは絶ち難いものであるのだった。


「・・・・それに、約束しましたから。

一人前になるまでは、ここをしっかり守って真面目に生きること、って。

僕も、"あの人"には色々なことを教わった、でっかい恩があります。

今となってはもう返せやしないけど、だからこそせめて、大事にしてたこの家ぐらいはしっかり面倒見たいって、思うんです」




然り、もう一つの、そして最大の理由として、そもそも光弥が此処にいる切欠となった人物への義理立てがある。


それに嫌々従っている訳でもなく、所詮は口約束に過ぎなくても、守ってやりたいという気持ちが先にあった。


そうすることが、光弥の抱く感謝と敬意を表すための、通すべき筋だと思っていたのだ。




<・・・・相変わらず、決心は固そうですね。

分かりました。>


「・・・・我儘言ってすいません、景山さん」


<いいんです。

君の意思を尊重するよう、私も申し付けられていますから。

・・・・それでは、くれぐれも身の回りには気をつけてください。

また連絡しますから>


「はい、それじゃあ・・・・」




挨拶をして電話を切った、その直後。


光弥は、心に鋭く刺さるものがあった。


(・・・・酷い話だよな。

恩人とはいえ、他人の・・・・それも"養子"を、あんなにも心配して世話を焼いてくれている、ってのにな。

そんな芹子さんの事を・・・・僕は、なんだかんだ言いながら自分の都合で振り回してばかりなんだ。

我儘な言い分を並べて、でも結局は呆れ混じりに折れてくれて・・・・申し訳無いし、すごく生意気な話だ。

だけど――――)


だが、それでも、やはり譲れない事だと、光弥は同時に思っていた。


恩返しの義理、大事な約束、理由は幾つもあって、それら全部をひっくるめても、こんなものただの"意地"に過ぎないのだろう。


だからこそ、譲れない。


きっと見失ってはいけない大事なものだと、光弥は感じていたから。


(――――なんて、な)


10と6、7年生きた程度の子供が知ったような事を、と少し皮肉な気持ちになる。


なんだか今日は、朝から陰鬱になるような考えが過ぎる気がする。


ため息を一つ、それを区切りに光弥は努めて明るい心持ちに切り替えようと深呼吸をする。


少なくとも今はこれ以上、落ち込んだ気分を重苦しく引き摺るのはうんざりだった。


「・・・・こんな時こそ、顔を上げて前へ、だ。

ともかく、飯の支度をしよう。

しっかり食べなきゃ、良い一日は始められない、ってもんだ」


起床から30分ほど経ったということで、ちょうど腹の虫も本格的に騒ぎ出してきていた。


光弥は居間から廊下と繋がる引き戸と斜向かいの、もう一つの引き戸をくぐる。


そこには、2、3人が余裕を持って動き回れるだけの広さがある、大きめな炊事場があった。


向かって右手の壁面にあつらえられたL字型の台所は、腰上の高さ程の調理台に深めの流し台も備えた、大きなものだ。


水切り棚やまな板、鍋蓋等々、基本的な道具ももちろん置いてあるが、それでもなお十二分に空きスペースが確保できていて、普段使いには広すぎる程である。


実際、昔からある大きな食器棚一つで収納は事足りてしまっていて、上下に幾つもある収納戸棚は空きが多かった。


ちなみに、よく勘違いされるのだが、日本家屋ながら未だに竈とかがあったりする訳もなく、ちゃんと今時のガスコンロや換気扇が備え付けられているし、コンセントも引っぱってある。


とはいえ、ここは全体的に古びた雰囲気漂うこの家の中でも、かなり分かりやすく年季が入っていることが見て取れた。


使用頻度が高いのか、掃除は頻繁にしてあるようだが油の黒い染みや煤などが、壁や柱に染み付いてしまっていた。


「・・・・こっちもそろそろまた掃除、だな」


台所のすぐ手前には、食材の下ごしらえをしたり、時にはそのまま食べたりするのに使う洋机が置いてあり、光弥はそれを回り込んで、食材を物色するために、冷蔵庫の前に立つ。


「卵が1個に・・・・アジの干物(少量)とニラ・・・・だけかぁ。

昨日買い物行きそびれたから、なんにも無いな。

いささか、さもしい・・・・。

白米だけは必ず用意しとくようにしといて良かったな・・・・」


そんな事を言いながら光弥は上記の食材を取り出し、流し場に並べる。


同時に使い込まれたフライパンを出して、ほんの少し油を引いて火に掛ける。


(さて、と・・・・何作ろう?)


光弥は顎に手を当て、考え始める。




光弥にとって料理は、どちらかと言えば得意な事に分類されるものだった。


むしろ、作る事自体が楽しい、という、男子にしては一風変わった嗜好も持ってもいた。


台所がとても使い込まれているのは、主にそのためなのである。


素材や食べ合せにもこだわりを持ち、作り上げた自己流レシピもちょっとした数になる。


とはいえ所詮は男の一人料理。


生活に必須な技能の延長であり、知識は未だ家庭料理の領域から抜け切れていなかった。


しかし侮るなかれ、技術の練度、味覚の修練は既に一端の料理店で勝負できる程度には磨かれていた。


・・・・最も、そこまでに至るには、料理が好きという以外にも、光弥のある"事情"が関係していたのだが。




「よしっ」


ともあれ、やおら光弥は顔を上げた。


「―――ニラ玉でも作りますか!!」


気合を入れるように声を大きめに張り上げる。


ちょうどよく、フライパンが適温まで熱せられたようだ。


フッ素樹脂加工の表面を水のようにサラダ油が流れる。


こうして準備が整うと、光弥はニラを投入。


次いで卵を割り入れフライ返しでまるで回すように均等にそれらを火に当てて炒めていく。


調味料はもちろん"適量"。


自分好みの味となるよう、経験と勘で加えていく。


光弥の表情がだんだん生き生きとし始めた。


<ジュージュー・・・・>


満面の笑顔を浮かべながらも、その手つきたるやまさにプロ顔負け。


簡単な料理だと言う事を差し引いてもかなり手際よく要領よく、とても少年とは思えない円熟した手さばきを見せている。


そこに少しだけ醤油を垂らし、隠し味は鰹出汁。


ジュウ、とフライパンから食欲をそそる音が出る。


「ん、上手くいった!!」


などと言いつつお皿に盛って完成だ。


――――が、汚い。


グチャッと適当に、「盛る」と言うより「ぶちまける」と言う感じに皿に開けただけであった。


調理過程はともかく、見た目にはあまり頓着しないのも、"男の料理"というものである。


いい匂いと湯気の立つ「会心のニラ玉炒め」を満足げに見ると光弥は端っこのほうにアジの開きを乗せる。


そして、このままでは些かさもしいという理由で、並行して鶏ガラと乾燥ワカメ、他調味料数種を用意。


沸かしておいたお湯と共に茶碗に注ぎ、即席の中華スープの完成だ。


ここで、更にザーサイでもあればと悔やまれたが、是非も無し。


「うっし、っと・・・・今何時だろ・・・・」


一仕事を終えた光弥は、視線を振り仰ぐ。


だがすぐに首を振って視線を戻してしまった。


彼の視線の先には壁掛け時計があったが、壊れているようで秒針が止まったまま動いていなかった。


「まったくおんぼろめ・・・・今度また直してやらにゃ・・・・」


なので、光弥はテレビを付けて見る事にした。


<バチン・・・・>


いまどき珍しいブラウン管テレビの画面がつくとそこにはやたら深刻そうな顔をしたニュースレポーターが写っていた。


画面に躍る赤い大文字が、時計よりも早く光弥の目に入って来る。


<"殺人事件">


「・・・・・・・・・」


あからさまに眉を褒めると光弥はチャンネルを変えた。


だがその先のチャンネルでもまた殺人事件のニュースを読み上げているところだった。


隣家の住人を殺した、とか・・・・まぁそんな内容らしい。


光弥は諦めたようにため息をつくと、お盆に載せた料理を持ってちゃぶ台のところへと移動する。


「・・・・いただきます」


沈んだ声でそう言う。


口にした朝食はなぜかとても不味く感じた。


さっきはとてもおいしかったのに。


(少し塩気が少なかったかな)


光弥ははぁと一つため息をついた。


<・・・・○○容疑者は以前から被害者とのトラブルが絶えず、それ以外にも職場の人間等ともたびたびいざこざを起こしており、周りからの評判は悪かったようです・・・・>




「―――勘弁してほしいな」




思わずそう愚痴っていた。


ここで言っても、詮無い事だとはもちろん承知している。


それでも、我慢できなかったのだ。


せっかくの食事に水を刺された不快感を隠さず顔に浮かべていた。


今朝見たあの夢を思い出して、殊更に堪えたという事情も否めない。


「なら見るな」と言われれば、なるほど、この場合なら賢い意見だろう。


しかし、意識をそれで逸らしても、気持ちの方はまた別である。


なんだかふてくされた気分になった光弥は、料理を摘む箸を休めて机に突っ伏した。


「・・・・どんな理由の上であったって、他人を傷つけて、誰かを悲しませて・・・・。

その記憶は、付き纏うんだ・・・・全部、諦めたくなるくらいに、重く・・・・」




――――人を、何かを殺す。

命を奪うという行為は最も罪深く、やってはならないことだと、光弥はそう思っていた。

それは、人が人として生きるうちに培って来るであろう倫理観。

そして人との関わりから教わってきた知識と、両方を合わせての結論であり、人間としての本能的な忌避とも言われる思考である。

命は、たった一つしかない。

失われたら、戻らない。

そして、失われるのはそれだけではないのだ。

殺す、とはその未来を、現在を、そして過去さえも奪い、消し去ってしまうこと。

そして奪った重みは総て自分に圧し掛かる。

一生涯、消える事なく付き纏い、それは自分の周りの人達にも容赦なく降りかかる。

恨まれ、蔑まれ、憎まれる、耐え難い連鎖。

人を呪わば穴二つ。

然り、言ってみればこれは、相手も自分も、その人生も感情も居場所も何もかも。

周りの全ても纏めて全部引きずり込まれる、底なし沼のようなものなのだろう。

だが、それでも、やんぬるかな。

敢えてそうせざるを得ない時は、確かにあるのだろう。

綺麗事だけで済まない事柄がこの世界には少なからずあると、今となっては分かっている。

それでも光弥は、仕方ないとかそういう言葉で切り捨てるのに抵抗を感じていた。

問題の先延ばし、タチの悪いごまかしだとか、物知らずの妄言だとか、色々言われるだろうけど・・・・それでも良い。

あの、暗くて、昏くて、押しつぶされそうなくらいのやり切れなさを負うのに比べれば――――




「・・・・はぁー、嫌になってきた」


ぐるぐると空回りする思考は、生きる為に豚肉を食べることの是非に至ったあたりで、一旦放り捨てた。


さっきもぼやいた通り、こんなの寝起きで考えることじゃない。


ならいつ考えるのかと聞かれても、困ってしまうが。


ともあれ、光弥は嘆息してリモコンを手に取る。


これ以上、せっかくの朝食を不味くはしたくなかった。


<ブッ>


いったん画面が暗くなり、今度も他局のニュース番組が映る。


〈――――最近は都内近郊で電話が繋がりにくいとか、電波障害の情報を聞きますね。

なんでも原因は関東地方の上空に停滞する、"見えないオーロラ"。

宇宙線の乱れで発生した電磁場カーテンと言われてますが――――〉


「ふーん・・・・」


穏やかそうなスタジオでのトーク場面にひとまず安心し、食事に戻ろうとする光弥。


しかしそれも束の間で、程無くしてどこかの町並みの映像が映り込み、また何か事件の報道に戻るテロップが画面に現れる。


またか、と今度は思いっきりため息をつく。


画面には現地取材なのか、住宅地の中でキャスターがマイクを持って歩く様子が映し出されている。


すると、それを見た光弥は、ある事に気付き、思わず食事から完全に意識を離して釘付けになっていた。


<―――こちらが事件のあった二間市、鶴来浜つるぎはま町です。

ご覧の通り、ここはとても静かな住宅街と言った感じで、このような凄惨な事件が起こったとはとても思えません・・・・―――>


「・・・・鶴来浜って・・・・うっわ、すぐ近くだ!!

どうりで見覚えがあるはずだ・・・・」


聞き覚えのある地名に光弥は驚き、思わずそう叫んでいた。




なぜなら、鶴来浜地区というのは光弥の住む未土地区の、すぐ近く。


隣接する真東の場所だったからだ。


そして、光弥の通う学校がある場所でもある。


毎日のように足を運んでいる場所なのだし、見覚えがあって当然だったのだ。


慌てて画面の右上辺りを見るとそこにはこうテロップが出ていた。


「"連続猟奇殺人・死体消失事件"・・・・――――」


ここ数日見慣れたその文字列を見て光弥は顔をしかめる。


「――――またか・・・・。

これでもう、7度目か」




――――事件の始まりは、今から三週間ほど前。

その頃を境に光弥の住んでいるここ、二間市で頻発している、ある不気味な事件があった。

それは比喩でも誇張でもなんでもなく、まさに不気味としか言いようの無い怪事件。

あまりの奇怪さに、巷では"悪魔の仕業"、なんて噂もまことしやかに囁かれているという――――




「・・・・・・・・・」


光弥自身も、この話題については気に留めていた。


何せ、近所の人の話を漏れ聞いた次第では、この事件の被害者は全て"見つかっていない"のだという。


見つかっていないのに、死亡だけは報じられているとは、なんとも奇妙な状況である。


その上、この事件に関しては、異常な程に情報規制が厳しかった。


新聞、ニュース、どんなメディアの情報でも、公開されるのはせいぜい被害者が誰か、場所がどこかぐらい。


捜査の伸展、犯人像が論されるようなことは奇妙な程に無く、このように中継や映像付きで流れるのすら、極めて稀な事だった。


<被害者は、会社員の”飯沼 瞬”さん、27歳。

また付近では、近所に住む”アメリア・ルビッジス”さん、35歳が重体で発見されました。

警察では、これまでの同一の手口の事件を全て同一犯の犯行と見て、捜査を進めている模様です>


「・・・・いったい、何なんだろうな・・・・?」


神妙な顔をしたアナウンサーに釣られて、光弥も自然と顔を強張らせて一人ごちた、その時さった。


<ボォーン・・・・ボォーン・・・・>


「って、いっけね!?

遅れる!!」


不意に聞こえてきたのは、先程の廊下に置いてある大きな柱時計が、午前8時を告げる音だ。


それを聞いた光弥はにわかに慌てた。


なにせ、自宅から光弥の通う学校までは徒歩で片道約25分と、かなり遠い。


バスは通ってはいるが、毎朝混雑していて、当てにするには少々不安なものである。


そして始業時間は9時丁度。


身支度の時間も含めれば、もう準備を始めないと間に合わなくなってしまう。


加えて、それ以前に光弥にはとある"約束"があり、その時間まではあと10分しかなかった。


「かっかっ・・・・んぐっ・・・・っ!!

ごちそーさんですっ!!

うわ、急げ急げっ!!」


<ドドドド・・・・!!>


使い終わった食器を適当に水に浸け、慌ただしくUターン。


<・・・・ダダダダ!!>


かなりの広さのはずの居間を、所狭しと駆け回り、着る物持つ物をドタバタと集め始める光弥。


学校の制服とリュックサックを出そうとしているだけなのに、肝心のそれらはなぜか部屋中に散らして置かれていた。


しかもタンスの足の"下"、テレビの上、座布団の下、台所の調味料入れの棚など変な場所が多い。


ただ単に服の整理が苦手なのか、それとも何か理由があるのか。


「あっれ・・・・こんな所に置いたっけか・・・・?」


どうやら前者のようだ。


ともあれどうにか光弥はそれらを全てかき集めると、身に纏う。


刺繍の入った白いワイシャツに、赤のネクタイ。


紺色のブレザーにグレーのズボンと言う、至ってスタンダートな出で立ちの学生服だ。


といっても、衣替えも終わっていて、シャツはもう半袖。


ブレザーはただ片付けてないだけで、しかも全部シワだらけである。


「・・・・よし!!」


光弥は一通りの仕度を済ませると、電気水道ガスをしっかり確認して、荷物を引っ掴む。


廊下に出て、まず着くのは洗面所や客間、2階への階段といったそれぞれの場所の接続点となる広間だ。


そこから、中がみだりに見えないように置かれた白塗りの衝立を避けて、玄関へ走る。


その玄関も例によってやたらに大きく、傘や台車と言った雑多な日用品が置かれた土間と、その前の空間だけでも手狭なワンルームマンションの一室に相当するくらいだ。


入ってすぐにこれだけ広い玄関があるとは、まるで時代劇に出てくる店屋のようだったが、広すぎて掃除が大変であり、光弥は正直、もっと狭ければいいと思って止まない。


さておき、土間に揃えられたスニーカーを履き、外へ駆け出す。


「いってきまーすっ」


日頃の癖で声を張り上げながら、風雅な前庭を走り抜け、立派な正面門の扉をくぐれば、ようやく家の外だ。


「・・・・って、あーあ。

また表札落ちてら。

ここの釘はそろそろ新しいのに変えるかな」


光弥は門柱の下に落ちていた木札を拾い、それを一緒に落ちていた釘と一緒に門柱に取り付ける。




"桜蔭館おういんかん"




それが、光弥の住まう古風で豪奢な造りの邸宅の名前だった。


なんでも、昔は街道沿いにあって、旅人が止まっていく旅籠はたごであったらしいが、今となっては辺鄙なところに立つ、妙にデカくて古めかしい屋敷というばかり。


光弥にとってはいまさら見慣れた"我が家"であった。


それよりも、珍しいアナログな腕時計に気忙しく視線を落とすと、針は8:07を指していた。


「―――やっばい、また怒られそうだ。

急ごうっ!!」


結局、看板の建付けはどうにも不安の残るグラつき加減だったが、じっくり調整してられる時間はもはや無い。


そしてそのまま気ぜわしく人々が行きかう朝の通りを元気よく駆けて行くのだった。





――――To be Continued.――――



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