客は世界の裏を見る

「今、自分には見えない所で、何かが起こったと思うことはあるかい」


 女給とさして変わらぬ年頃であろう男子学生は、まるで自分だけが何かを知っているのだと言うような態度でそう言った。女給は微笑んでいた。


「何かとは、例えばどんなことなのでしょうね」

「それはわからない。どうしたって僕には知り得ないことだ。でも、何かが起こっているかもしれない、と思うんだよ。あぁ、言っておくが、これは千里眼みたいなものとは違う。非科学的なことは嫌いでね」

「自分で自分の予感を信じていらっしゃらないのね」


 信じられる理由が無いからね、と彼は足を組んだ。信じられはしないが、どうしてもそんな気がする。これがなかなか気持ちの悪い感覚なんだ、彼はそんなことを言うのだった。


「君、バッハを知っているかい」

「いいえ」

「ドイツの作曲家だ。17世紀のね。長年忘れ去られていたそうだが、少し前から欧州では再評価されているらしい。あぁ、親戚が音楽好きでね、高じて欧州へ行って来たんだ。レコードを持ち帰ってきて……」


 彼はしばらく、レコードとは何か、蓄音機とは何か、そんな事を丁寧に説明した。バッハという人については知らないが、レコードやら蓄音機やらを知らないと思われているとは、舐められたものだ。面白いので、女給は好きに語らせておいた。


「それで、僕はそのバッハのパルティータ第二番、シャコンヌを思い出すんだ」

「何かの予感を感じたときに?」


 彼は頷いた。

 ヴァイオリンのためのその曲は、彼が言うには、なんらかの絡繰的流れを感じるのだそうだ。何処かの歯車が回り出し、動きが伝わり、繋がって、まるで転がり落ちる球のように、滑らかに、どうしようもなく、止められない、逆らう事の出来ない運命。


「そういうのを感じた時、いちばん気が楽になる」

 学生は珈琲にミルクを多めに注いでいた。落ちる白い線を眺めていた。


 注文:

 カップッチーノ 一杯

 ミルクを多めに

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