第38話 王宮にて
エスメラルダとの話を終えたミュウは、緊張から解放されたためか尿意を催し、慌ててトイレにかけこんだ。
この世界に来たミュウの最大のカルチャーショックの一つは、トレイに関してだった。
前の世界では水洗トイレが当たり前の暮らしをしてきたのに、屋敷のトイレは汲み取り便所――いわゆるボットン便所というやつだ。しかも、そのボットン便所さえ、この世界では恵まれている。貴族の令嬢に転生したからまだボットン便所で済んでいるだけで、普通の庶民ならオマルで用を足すのがこの世界では一般的だった。オマルに排出し、それを決められたところに捨てに行く。庶民はの生活は、現代人からはとても考えられないものだった。
そのため、ミュウは密かに王宮に期待していた。もしかしたら、前の世界に近いようなトイレを使えるのではないかと。
けれども、そこにあったのは――
「王宮でもボットン便所なのね……」
自分の屋敷と変わらぬトイレに、ミュウは心底がっかりした。
夢破れた心境のまま「小」の方を済ませたミュウは、トイレを出て王宮の廊下に戻るが、そこであることに気付く。
「あれ……どっちから来たんだっけ?」
慌ててトイレに駆け込んだため、どこからどう来たのか把握していなかった。
「確かこっちだったと思うけど……」
不確かな記憶を頼りに、ミュウは歩き出す。誰かとすれ違えれば、出口の方向を聞くこともできるが、あいにくこんなときに限って誰とも出会わない。
仕方なくミュウは、なんとなくの記憶をもとに、慣れない王宮の廊下を進んでいく。
「よりによって今日は新月。夜になったらまたアレが来ちゃう。もし夜まで王宮で迷ってたら、ヤバイことになっちゃうよ」
いくらなんでも夜まで迷い続けることなんてあり得ない。それはミュウのちょっとしたジョーク――そのつもりだった。
ふいになんの前触れもなく、ミュウの身体に異様な感覚が走る。
身体がむずむずし、全身をまさぐられるようなおかしな刺激が全身を襲ってくる。
(うそ! ちょっと待って! この感じって……もしかして!? まだ昼間なんだよ!?)
それはひと月前に感じたものと同じだった。
気持ちいいような気持ち悪いような不思議な感覚に耐えきれず、ミュウは目を瞑る。
その感覚が消え、再び目を開いたとき、ミュウの手足は明らかに目を瞑る前から成長していた。
「……また大人になってる」
10歳のミュウでも少し小さめだった青いドレスは、明らかに今のミュウには合っていなかった。
大きくなった胸に耐えきれず、胸元は今にもはち切れそうになっている。
また、ドレスの裾は丈が足らず、まるでミニスカートのようだ。
「……これはまずい。……まずいよ! こんなのどう見ても痴女じゃない!」
ソックスの丈も足りず、ふくらはぎが隠しきれずに見えている。それどころか、ふとももまで見えてしまっているのはもっとまずい。若い女の子が素足を見せるなんて、貴族令嬢としてはあってはならないことだ。しかも、ここは最も品位が必要となる王宮。誰かに見つかれば、王宮に娼婦が現われたと騒ぎになってしまうことだろう。
「色んな意味でヤバすぎる! 私だってわかったら聖女なんて誰も認めてくれなくなる。……というか、それ以前に、私がミュウだって誰も信じてくれず、王宮に侵入した身元不明の不審者扱い……。……終わる……マジ終わっちゃう!」
ミュウは慌てて辺りを見回す。幸い周りに人はいない。
「誰かに会う前に王宮から出ないと……あ、でも、門には衛兵が……。どうしよう……」
悩んでいるうちに、足音が聞こえてきた。
明らかにこちらに近づいてくる。
「もう! なんでこんなときに……」
足音と反対方向に行こうとして、そちらの方向から聞こえてくる足音にも気づく。
「……終わった」
挟み撃ちの絶望の中、近くの部屋の扉に目が留まる。
「……一か八か、入ってみるますか。誰もいなければ、やりすごせるかもしれない……」
ミュウは扉のノブに手をかける。
(中に誰かがいれば一巻の終わり……お願い、誰もいませんように!)
ミュウは祈りながら扉を開き、その中へ飛び込んだ。
「ここは――」
ミュウが入った部屋は、王宮で働くメイドの備品をしまった部屋だった。メイド服や王宮での作業に必要な道具などが整然と並んでいる。
「よかった、誰もいなくて……。ここならやり過ごせるかも」
ミュウは扉に耳をつけ、外の様子を窺う。
しばらくすると足音が通りすぎ、そのしばし後、もう一つの足音も別方向へと向かって行く。
(よかった……なんとか助かった。元に戻れるまで、このままここに隠れていれば……いや、そんなのいつになるかわからないし、その前に必要なものを取りに誰かがここに入ってくるかもしれない。その前になんとかしないと……)
ミュウは目の前の棚の、折りたたまれたメイド服を見ながら頭を悩ます。
(……ん? メイド服……そうか、その手があったか!)
思い立ったミュウは、キツキツのドレスを苦労しながらも脱ぎ、棚のメイド服に手を伸ばした。
「実は、一度着てみたいと思ってたんだよね」
そう呟くと、ミュウはどこか楽し気に、メイド服を身に着けだした。
◆ ◆ ◆ ◆
メイド服に着替えたミュウは、自分の姿を確認したくなったが、残念ながらこの部屋に鏡はない。倉庫のような部屋なので窓もない。
先程まで着ていたドレスを、部屋の中にあった袋に入れ、それを手にミュウは部屋から出た。
廊下ならば窓くらいはある。さすがに無色透明な窓ガラスは、まだこの世界にはないが、透き通っていなくとも反射させて体を映すことくらいは問題なかった。
ミュウは薄曇りの窓ガラスに映る自分の姿に目をやる。
「……どこのコスプレモデルだ、これ」
よく考えてみれば、前回の新月の夜の変化時には、自分の姿を客観的には確認していなかった。なんとはなしに、転生前の自分程度の姿を勝手に思い描いていた。
だが、今窓ガラスに映るミュウの姿は、そんな想像とはまるで異なっていた。
肩にかかるかどうかだった黒髪は、艶やかなまま背中まで伸び、顔にあるそばかすはすっかり消えている。成長したのに顔は小さいままで、顎は今よりも細いくらいだ。大きな二重の目は、顔の中で激しく自己主張をしている。鼻は大きくはないのに筋が通っていて高い。口も小さく唇も薄いのに、ぷっくりとした柔らかさだけは際立っている。胸はメイド服の上からでもその大きさが目立つのに、逆に腰回りはダブついているくらいだ。
「……こんな絵に描いたような美少女だとは聞いてなかったよ」
自分の変貌ぶりに、ミュウ自身見惚れてしまう。
正面から見たり、角度を変えたりしてみるが、色んな美少女のパターンが見えるだけだった。
「ミュウのポテンシャルたけぇ! 将来、こんな可愛くなるんだっ! ……オラ、ワクワクしてきたぞ」
「窓を見ながら、何をワクワクしているんだい?」
ふいにかけられた声に、ミュウが顔を向けると、面白いものでも見るような顔で男が一人、近くに立っていた。
年齢は成長したミュウとさほど変わらなく見える。服装はさすが王宮にいるだけあってジャケットもズボンもかなり良質そうだ。エドワードやエスメラルダがしかるべき場で身に着けるほどの高級感が見て取れる。少し長めの金の髪と整った顔だちも、その貴族然とした服装に負けていない。シャザークの容姿に見慣れていなければ、ミュウもトキメキを感じていたかもしれないほどだ。
だが、今のミュウにそんな感慨にふけっている余裕はない。
どうやら窓に映る自分の姿に集中するあまり、ミュウは辺りへの注意を怠っていたらしい。男の接近にまったく気づいていなかったのだ。
「いえ、王宮でのお仕事にワクワクしてると言いますか……」
「ふーん、そうなんだ」
ミュウの嘘の言い訳に気付いているのかいないのか、男は値踏みするような顔を近づけてくる。
(むむ? 怪しまれてる? でも、王宮務めのメイドの顔なんていちいち覚えてるはずないよね?)
バレるはずないと高をくくり、ミュウは平然としてみせる。が――
「……君、見ない顔だね? 最近来たばかり?」
(なんだ、この人? メイドの顔をみんな覚えているの? メイドの教育係とか? まさかね……)
「……はい、最近ここに来たもので」
「ふーん、そうなんだ。……よかったら、名前を教えてくれない?」
「いっ!?」
ミュウは言葉に詰まる。
王宮に務める使用人は皆貴族だ。貴族の子息たちが、行儀見習いを兼ねて王宮の使用人として一定期間奉公をするのは一般的なことだった。貴族の中には、家の跡継ぎにもなれず、官僚にもなれず、自ら事業する才もないような者は、王宮の使用人を専門職にしている者もいるが、今のミュウくらいの年齢なら十中八九、行儀見習いの令嬢だった。
とはいえ、行儀見習いか専門かということは、今はそれほど重要ではない。大事なのは、使用人が皆貴族だということだった。
それはつまり、デタラメな家の名前を言うことができないということなのだ。
(やばい……どう答えよう……)
焦るミュウの頬を、一筋の汗が伝い落ちる。
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