第16話 遭難

 翌日、ミュウは寝不足のまま、アルガサ山で行なわれるフィールドワークに参加していた。

 学園の敷地内での授業ではないので、今回は二人とも学園の制服ではない。山での活動に支障のないよう、速乾性のあるシャツに、伸縮性のあるパンツ、雨風をしのげるようなシェルジャケットに、滑りにくいブーツと、機能性を優先した服装をしている。もっとも、品質、デザイン、どちらにおいても、イザベラの方が優っているのは誰の目にも明らかだったが。


 今回のフィールドワークの舞台となるアルガサ山は、険しい山ではあるが、登山道がしっかり整備されているため、登山道から外れない限りたいした危険はない。だが、ひとたび登山道から外れると、高く生い茂る木々や入り組んだ地形により、アルガサ山は牙を剝いてくる。実際、山を甘く見た馬鹿な冒険家きどりの登山家が、登山道を外れて遭難するという事故は、毎年のように起こっていた。

 そういったこともあり、生徒たちは、引率の教師から、登山道から外れることがないようにしつこいくらいに厳命されていた。


 今回のフィールドワークでは、二人一組のペアになり、順番に山も登っていき、指示書に書かれた課題を登山の途中にクリアしていくことになっている。内容的には、いわゆるオリエンテーリングに似ている。

 ミュウ自身はおちゃらけるような性格ではなく、どちらかと言えば真面目で、危ないことなんて頼まれてもやらないというタイプなので、登山道から外れるつもりは全くなかった。

 そして、イザベラも、名門貴族の看板を背負っているという自覚があるだけに、ミュウと同様、教師からの指示に関しては非常に生真面目であった

 そんな二人であったので、最終組としてスタートしたが、横道にそれることもなく、課題を順調にクリアしていく。問題があるとすれば、課題解決に必要なこと以外、二人の間でほとんど会話が交わされないことくらいだった。

 ミュウとしては、これまでイザベラから受けてきた言動の記憶を思い出すと、そう簡単に仲良くしようとは思えず、自分から話しかけるのにはどうしても抵抗がある。

 一方で、イザベラの方も、試験の件や、闘技大会の件など、色々と言いたいこと自体はあったが、自分と間違われてミュウが誘拐されたという負い目があるため、なかなか話しかけづらい状況であった。

 そんなわけで、どちらも話を切り出す理由やきっかけを掴めず、ただ黙々と歩みを進め、課題をクリアしていく状況が続いている。


 時間的に昼に近づいてきたころになって、ようやくイザベラが先に口を開く。


「そろそろ昼食をとりませんか?」


 各自、弁当を持参し、必要なタイミングで適当な場所で取るように言われている。

 この辺りは岩肌がのぞいているが、その分、景色のよいところだった。


(確かに眺めは良さそうだし、お弁当を食べるのにはよさそうね。……一緒に食べるのがイザベラでなかったらだけど)


 心では思ったが、ミュウも口には出さなかった。さすがにわざわざ雰囲気を険悪にするほど子供ではない。


「そうね。景色もいいし、この辺りで食べましょうか」


 ミュウはどこか座れそうなところがないかと周囲を見回す。

 二人が座れそうな大きめの岩を見つけ、視線をイザベラに向けた。

 イザベラは、立ったままリュックを背中から外し、胸の前でそのまま弁当を探しているようだった。

 崖のそばなので、危ないなと感じ、ミュウは何か声をかけようとイザベラに歩み寄る。


 そこに、急に強い風が吹き付けてきた。

 折悪くリュックの中に視線を集中させていたイザベラは、風に少しよろめき、足を一歩外へ踏み出す。

 足もとに目を向けていなかったことが不運だった。たまたまた踏み出した先には岩があり、その岩には苔が生えていた。昨日、山には一時的に雨が降っており、苔にはその雨のせいで十分な水分が含まれていた。

 運悪くその苔の上に足を出してしまったイザベラの態勢はさらに崩れ、崖の方へと身体が倒れていく。


 イザベラの方に向かっていたミュウの身体は咄嗟に動いていた。「危ない」と口に出す前に、足を踏み出し、手を前に伸ばす。

 ミュウが必死に伸ばした右手は、イザベラの左腕をしっかりと掴んだ。

 イザベラの驚いた顔がミュウの方を向く。

 ミュウはなんとか踏ん張ろうとするが、すでにイザベラの身体は崖のほうに大きく傾き、イザベラ自身ではこらえきれない態勢になってしまっていた。このままでは自分の身体も一緒に崖の下に持っていかれてしまうことを、ミュウは直感的に理解する。

 だが、ここでイザベラの手を放すという考えは、露ほども頭をよぎらなかった。

 せめて彼女が頭から落ちるのだけは防ごうと腕に力を込め、少しでも自分の方へと引き寄せよる。


 そして、二人の姿は崖の下へと転がりながら落ちていった。


◆ ◆ ◆ ◆


 ミュウは土で汚れた身体を起こす。


「あいたた……」


 崖を転がっているときの記憶は、断片的なものしか残っていなかった。

 崖下まで落ちたばかりなのか、意識を失ってた時間があるのか、それさえ頭が混乱して理解できていないが、少なくとも生きていることは間違いない。

 身体中に痛みがあるが、手も足もちゃんと動く。服が破れ切り傷で血が滲んでいるところがあるが、骨が折れたりしていることはなさそうだった。


 横にはイザベラが倒れている。意識はないようだった。

 ミュウは慌てて呼吸を確認する。


 呼吸音が聞こえ、よく見れば胸も上下に動いていた。

 ミュウは、ひとまず胸を撫で下ろす。


「イザベラ! 起きて!」


 ミュウが何度か声をかけると、イザベラも気が付いたようで、その少し吊り上がった目が開いた


「……ミュウさん?」


「よかった、気が付いたみたいね。私たち、崖から落ちたみたいだよ」


 ミュウは自分たちが滑り落ちてきた崖の上を見上げる。

 崖の上までの斜面には木が生えておらず、土が露出している。岩まみれの斜面でなかったのがせめてもの救いだった。岩に覆われた斜面なら、身体を岩に強打し、二人とも無事ではなかっただろう。

 だが、草木の生えていないような斜面は、水分が少なく、下手に登れば崩れるような不安定さだった。ここを登って元の場所に戻るのは、勾配面でも、安全面でも、無理だと判断せざるを得ない。


「あそこに戻るのは諦めたほうがよさそうね。ほかの手を考えましょう。……イザベラ、体のほうは大丈夫?」


「足を捻ってしまったようですわ。歩けないほどではないと思いますが……」


 見ればイザベラは顔を少し歪めながら左足首をさすっていた


「左足だけ? 右の方は?」


「左足だけですわ」


 誰かが落ちた自分たちに気付いてくれればいいが、運の悪いことにミュうたちは最終組だった。この後に誰かがこの上を通るようなことは期待できない。


「私が肩を貸すわ。頑張って歩ける?」


 立ち上がって右手を差す出すミュウを、イザベラは不思議そうな顔で見上げる。


「……ミュウさん、あの時、なぜ私を助けようとしてくださったんです?」


 ミュウはあの時というのがいつをさすのか一瞬考えたが、すぐに崖の上でのことだと思い至った。

 だが、なぜと聞かれて困る。あの時は咄嗟のことで、考えて動いたわけではないのだから。


「人を助けるのに理由なんているの?」


 口から出たのは、前の世界でテレビの中の主人公が言っていたようなセリフだった。だが、それがミュウの正直な気持ちだった。

 ミュウの言葉に、イザベラは目を大きく開き、驚いたような顔で見上げる。


「……ありがとうございます」


 妙にしおらしい様子でイザベラはミュウの手をとった。

 ミュウは、怪我のせいかと思いつつ、少しでもイザベラの左足に負担をかけずに済むよう、イザベラの左側に立って肩を貸して立ち上がる。


「どう? これなら歩けそう?」


「ええ……大丈夫ですわ」


 二人はそのまま歩き出す。

 歩きにくいのは確かだが、ここからどれだけ歩くことになるのかわからない。イザベラの消耗をできるだけ防ぐにはこれが最善だとミュウは考えた。


「山なんですから、下にさえ向かえばいつか麓までたどりつけますわね」


 少しでもポジティブな気持ちを持とうとするかのように、イザベラがつとめて明るい声で言ってくる。


「イザベラ、それは違うよ」


「え?」


「山で迷ったときに進むべきは下じゃない。上なんだよ」


 ミュウの言葉にイザベラは心底不思議そうな顔をする。


「どうしてですか? 上に向かってしまったら山から降りられないのではないですか? 沢でも見つけてそれをたどっていけば下まで行けると思うのですが?」


「それが一番危険なんだよ。沢伝いに降りて行って、滝とかに出たらもう前にも後ろにも進めなくなっちゃう。それに水の中に滑り落ちる危険性もあるし」


「……それはそうですわね」


 ミュウも別に登山の経験があるわけではなかった。テレビで山での遭難のニュースを見ていたときに、解説者がそんな話をしていたのを覚えていただけだが、まさかこんなところで役に立つことになるとは思ってもいなかった。


「逆に上に向かえば、途中で登山道や通ってきた道に出られるかもしれないし、山頂まで行けば全体を見渡して、自分たちのいる位置を確認できる。……足が痛い中で上へ進むのは大変かもしれないけど頑張って」


「……大丈夫ですわ。これでもランフォード家の娘ですもの。こんなところで弱音を吐くほど情けなくはありませんわ」


 気丈に振る舞うが、たった10歳の子供である。平気そうに見せる仮面の奥に、痛みと不安に耐える本当の顔があることは、わずかばかりの表情の動きやかすかな体の震えからミュウにも伝わってくる。

 それでも、そういったものを見せまいと懸命なイザベラのことを、不覚にもミュウはいとおしく感じてしまった。


「それでこそイザベラね。……あんたのことはなんとしてでも家まで帰してあげるわ。これでも私は、誘拐されても無事に戻ってくるほどしぶといんだから!」


 二人は登れそうな道を探しながら、山の上へと向かって歩き出した。

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