第5話 剣闘士奴隷の夜

 ミュウがシャザークと共に屋敷に戻ると、両親と執事が驚きの顔で二人を迎えた。


「お嬢様、そちらは……」


 しばしの沈黙の後、最初に口を開いたのは執事のジェームズだった。


「私の剣闘士のシャザークよ。みんな、今日からよろしくね」

 

 ミュウがシャザークを紹介しても、三人ともお化けでも見たような戸惑い顔のまま立ち尽くしている。


(なんなんよみんな……。シャザークの白い肌に驚いているのかな?)


「ジェームズ、夕食はシャザークの分もお願いね」


「……あ、はい、かしこまりました」


 執事のジェームズはまだ目をぱちくりさせていたが、反射的にうなずいた。


「それじゃあ、屋敷の中を案内するから、ついてきてね。……あ、その前に着替えをしましょうか。お父様のお古の服のサイズが合うといいんだけど……」


 呆然とする三人をしり目に、ミュウはシャザークを引きつれて、屋敷の奥へと消えていった。

 言葉もなくミュウとシャザークを見送った三人は、いまだ理解が追い付いていないように、立ち尽くしている。

 十分な時間が過ぎた後、ジェームズがゆっくりとフランツの方に顔を向けた。


「……旦那様、あのかたは悪魔憑きではないのでしょうか?」


「……そのようだな」


「よろしいのですか?」


「…………」


 ジェームズの問いに答えず、フランツは渋い困り顔を浮かべるだけだった。


「……まぁ、ミュウが自分で選んで連れてきたのなら、いいじゃありませんか」


 フランツの妻のカトリーヌは、人のよさではフランツ以上で、いつも笑っているような人だった。普段は積極的に自分の意見を言うようなことはないが、このようにフランツが迷ったときには、ちゃんと方向性を示してくれる。そうした時、フランツが彼女の意見に反対するようなことはなかった。

 カトリーヌの言葉のおかげで、ミュウの知らぬところで、シャザークを受け入れることが決まったのだった。


◆ ◆ ◆ ◆


 シャザークを、フランツの古着のシャツとズボンに着替えさせたあと、ミュウは屋敷の中を順に案内していく。

 一通り、屋敷の外の敷地まで案内した頃には、夕食の時間になっていた。

 夕餉の匂いが漂ってきたので、ミュウはシャザークと共に食堂へ向かう。


 食堂では、父のフランツと母のカトリーヌがすでに席についており、いつものように、3人分の食事がテーブルの上に用意されていた。


「あれ? シャザークの分は?」


「別室に御用意させていただいております」


 部屋の端に控えているジェームズがすぐに答える。

 フランツとカトリーヌが何も言わないということは、二人もそのことを気にしていないということだった。


「ジェームズ、シャザークの分もここに用意してもらえる? 彼は今日からここで一緒に暮らしてもらうのよ。食事くらい一緒に取らないと」


 ミュウとしては本当ならジェームズにも一緒に食事の席についてもらいところだった。だが、それについては、以前のミュウがすでに、父母やジェームズに提案している。父母も賛成してくれたが、肝心のジェームズ自身が、食事の際に動くのも自分の仕事だと頑なに譲らなかった。

 そのため、ミュウはジェームズも一緒に食事することについてはもう諦めているが、シャザークの仕事は食事の用意ではない。一緒に食事をすることには何の問題もないので、譲るつもりはなかった。


「ミュウよ、しかし、彼は剣闘士奴隷だぞ」


「お父様、剣闘士は淑女と共にある存在です。それって、もう家族と同じではありませんか?」


 シャザークを連れてきたこともそうだが、今まで親に反抗もしたことなかったミュウが、昨日から急にハキハキと積極的に自分の意見を主張するようになったことに、フランツは戸惑いを隠せない。今もミュウに気おされるように困った顔を浮かべていた。


「それに……彼は悪魔憑きではないか?」


 ミュウが思っている以上に、悪魔憑きの悪評がこの世界の人の心にしみ込んでいるようだった。優しいフランツでさえ、シャザークの見た目だけでこの反応をすることに、ミュウは驚きを隠せない。


「お父様、お言葉ですが、それと一緒に食事をしないことに、どのような関係が?」


 だが、ミュウは強気だった。

 想像しなかったミュウの抵抗に、フランツは目を白黒させる。


「あなた、ミュウがそこまで言うのだからいいじゃありませんか。それに、食事は人数が多い方が楽しいですよ」


 フランツとミュウの様子を見て、ミュウに助け舟を出してくれたのはカトリーヌだった。

 今回も彼女がミュウの味方になってくれたことで、この場における結論は出たといえた。


「……ジェームズ、ミュウの言うとおりにしてやってくれるかい」


「承知しました、旦那様」


 ジェームズはテキパキした動きで、ミュウの隣の席に、ミュウたちと同じ食事を用意する。


「さぁ、シャザーク、ここがあなたの席よ」


 ミュウが隣の席に手のひらを向けると、シャザークは無言でそこに腰を下ろした。


「相変わらず、無口なのね」


 ミュウはシャザークと会ってから一度も言葉を交わしていない。


(もしかして、口がきけないのかな? こういう時のために手話を勉強しておくべきだったかなぁ……。あ、そもそもシャザークが手話を使えなかったら意味がないし、手話のやり方も違うか)


 元々、おしゃべりな男よりは、寡黙な男のほうに好感を持っているミュウは、シャザークが何もしゃべらないことをさして気にせず、自分も席に着いた。

 反射的に手を合わせて「いただきます」と言いかけるが、この世界でのルールはそうではないことを思い出し、言葉を止める。


 この世界においても、食事の前に手を合わせる風習は同じだった。指を曲げて手を組むタイプではなく、合掌のスタイルなのは、前の世界と同じなので、そこには抵抗はない。ただ、言葉は発せず、目を閉じて神に、精霊に、そして命を繋ぐために食材となってくれたものたちに、祈りを捧げる。


「それではいただこうか」


 祈りをやめ、食事を始める合図を送るのは、家長であるフランツの役目だった。

 その声を合図に、4人は食事に手を付け始める。

 シャザークは何もしゃべりはしなかったが、食事にはしっかり手を伸ばしてくれたことに、ミュウは密かに安堵した。


◆ ◆ ◆ ◆


 シャザークには、フランツの古着がもう何着かと、2階にある広くはないが小ぎれいな部屋が与えられた。

 奴隷の子として生まれ育ってきたシャザークにとって、自室を与えられるというのは予想外の扱いだった。馬小屋のような場所に繋がれたり、同じような待遇の者たちと一つの部屋に詰め込まれたりすることを想像していたため、生まれて初めて受ける扱いに、少なからず戸惑いを覚える。

 だが、この扱いを善意として単純に受け取る気は、シャザークにはさらさらなかった。

 悪魔憑きとして今までどういう目で見られ、どのような扱いを受けてきたのか、シャザークはそのことを忘れるつもりはない。


(ここから逃げてやる!)


 隷属の首輪の効果範囲がどれほどなのかはシャザークも知らない。もしかすれば、どれほど離れても、この枷からは逃れられないのかもしれない。主人が命じれば、どこにいても首を絞められてのたうち回ることになるのかもしれない。

 それでも、こんなところで、心の自由も身体の自由も奪われるのだけは許せなかった。


 シャザークは、奴隷商人の元でも、いつも逃げ出す機会をうかがっていた。しかし、厳重に施錠されたあの場所では、まともに逃げる機会さえなかった。

 昼間、ミュウに連れられこの屋敷に来る途中には逃走の機会があったが、まだ明るく、周りの目もあるため動かずにいた。

 しかし、今は違う。

 決定的な逃走の機会がついに訪れたのだ。


(夜なら気付かれないうちに遠くまで逃げられる! もしかしたら、隷属の指輪の効果範囲から出られるかもしれない! たとえ今回失敗しても、何度だって逃げてやる!)


 本当は金や食料も奪っていくつもりだった。

 だが、そうしようと考えると、なぜかミュウという少女の顔が浮かんできた。自分に対して一切偏見を示さずに、笑顔を向けてくる幼い少女の顔が。

 あの少女の顔を泣き顔で曇らせるのはしてはいけない、不思議とそう思えて、シャザークは何も持たずに出ていくことを決めていた。


(この先、住むところも食うものもないが、それならここ以外のどこかで調達するまでだ!)


 シャザークはもう心を決めている。

 部屋の扉を施錠されていれば、窓から飛び降りて逃げるつもりだった。

 しかし、驚くことに扉は施錠されていない。

 シャザークは、音を立てないようにゆっくりと扉を開いた。


 だが、その先にはミュウの姿があった。


「――――!?」


 ミュウの姿を目に留めると、扉を開いたままシャザークの動きが止まる。

 さすがにここでの遭遇は想定していなかった。


(こいつ! 俺が出て行くことを見越して、部屋の外で待ってたっていうのか!?)


 隷属の首輪のせいで、シャザークはミュウに危害を加えることはできない。

 逆にミュウの方は、この状況なら逃亡しようとしたことを理由にして、いくらでも折檻を加えることができる。


(貴族どもは下手なプライドってやつを持っているらしい。理由もなく剣闘士奴隷を虐げれば名前に傷がつきかねないが、逃げようとした剣闘士奴隷を痛めつけるのなら、体面を傷つけることもないってわけか!?)


 貴族らしいやり方にへどが出そうな気分になり、シャザークはミュウから目を背ける。

 しかし、シャザークにかけられたのは、ミュウのどこか寂しげな声だった。


「出ていくの?」


「…………」

(それがわかっているからそこにいるんだろうが!)


「この屋敷を出て、どこか行くあてはあるの?」


「…………」

(そんなものあるわけがない。俺は自分の意志を無視され、無理やり剣闘士奴隷なんかにされたんだぞ! そんな俺に何かあてがあるわけがないだろうが!)


「食べるものや住むところはなんとかなるの? お金を稼ぐ方法はあるの?」


「…………」

(そんなこと知るか! それでもお前らに隷属するくらいなら野垂れ死んだ方がマシだ!)


「ちゃんと生きていけるあてがあるなら……いいわ、行きなさい」


「――――!?」


 シャザークはそむけていた視線を、ミュウへと戻す。

 ミュウの顔は、シャザークがなにもしていないのになぜか痛々しげだった。


(この小娘は、何を言っているんだ!?)


 人を呼ぶでもなく、一人で話しかけ続けるミュウの態度に、シャザークはただ戸惑うしかない。


「でも、もし何もあてがないのなら、せめて私が学園を卒業するまでここにいるのはどうかしら? その間の衣食住は保証するわ。……これは、私の都合になるけど、学園の授業でどうしても剣闘士が必要になるの。だから、卒業まで協力してくれれば、そのあとは自由にしてくれて構わない。働き口も私が探すし、どこか行きたいところがあるっていうのなら、その費用くらいはなんとかするわ」


「……お前は何を言っているんだ? 俺を剣闘士にしたいのなら、隷属の首輪で強制すればいいだろうが!」


「ようやくまともに喋ってくれた!」


 シャザークの声は、近寄るものすべてに切りつける刃物のように鋭いものだった。しかし、そんな声を向けられたにもかかわらず、ミュウはその顔に笑顔の花をぱっと咲かせていた。

 今までされたことのない反応に、シャザークは理解のできないものを見たかのような顔を浮かべる。


(な、なんなんだ、こいつは!?)


「……でも、そうよね。隷属の首輪をつけておいて協力もなにもないわよね。ごめんなさい、もっと早くこうしておくべきだったわ」


 ミュウは躊躇いなくシャザークに近づくと、背伸びをしてその細い手をシャザークの首に伸ばした。


「なにを……」


 シャザークが疑問の言葉を最後まで紡ぐ前に、それまで感じていた首の拘束感から解放される。

 見れば、背伸びをやめ、下ろしたミュウの手には、自分の自由を奪い、誇りを穢し続けてきた隷属の首輪が、外れたままの状態で握られている。

 今ならこの少女にシャザークをここに留める手段はない。やろうと思えば、シャザークにはこの少女をこのまま縊り殺すことさえできてしまう。


(わかっているのかこの小娘は!? わかっていないのならただのバカだ! わかっててやっているのなら本物のバカか、あるいは……)


 このままミュウの首を絞めてしまえば、人を呼ぶこともできない。そうなれば逃走はよりたやすくなる。

 シャザークは、殺意を込めた瞳をミュウに向けた。

 普通の小娘なら、本物の殺意にあてられれば、それだけで震えて動けなくなるはずだ。


「お前……わかっているのか? 今のお前なんか簡単に殺されるかもしれないんだぞ!?」


「――――?」


 殺意を向けられてもなお、ミュウは危機感のないまま首をかしげていた。

 間の抜けたような疑問の表情を浮かべた後、何か凄いことでも思いついたようなしたり顔をシャザークに向ける。


「だったら、あなたが守ってくれるっていうのはどう? 剣闘士奴隷なんかじゃなく、ナイトとして私のそばにいるっていうのは?」


 見当違いの提案と、あまりに警戒心の欠片もないその顔に、シャザークの殺意は一気に霧散した。


「……ぶはははは!」


 シャザークは噴き出していた。自分でも笑ったのがいつ以来かわからない。


「ちょっと! 何がおかしいのよ!」


 ミュウは唇を尖らせ、可愛らしい抗議の視線をシャザークへと向けた。


(バカだ! 俺がお前を殺すかもしれないって言ってるのに、まったくわかっていやがらねぇ!)


 畏怖も蔑みも侮蔑も感じられない瞳。ミュウから向けられるその瞳は、シャザークが初めて感じるものだった。

 ミュウがなぜここまで悪魔付きに何の偏見もなく接することができるのか、シャザークにはその理由がまったくわからない。

 だが、それは決して不快なものではなく、むしろ心地よいものだった。


(世間知らずのバカな小娘か……。こんなバカ、放っておいたら危なっかしくてしょうがないな……)


「いいぜ。ここにいる間はお前のことを守ってやるよ」

(まぁ、ここにいる間はな!)


「ホント!?」


 シャザークにとっては、それほど深い意味を込めた言葉ではなかった。

 しかし、その言葉を受けたミュウの顔は今まで一番の輝きをみせる。

 その屈託のない笑顔を向けられ、シャザークの心臓が一瞬ドクンと大きく鼓動した。


「……ああ」

(なんだよ、こいつ……。そんなに俺のことを信頼してるとでもいうのか?)


「ふふ、頼りにしてるわね」


「……いいからお子様はもう寝な」


 照れ隠しのようにそんな言葉を残して、シャザークは部屋の中へと戻る。


「誰がお子様よ!」


 ミュウが不満気な声を上げるが、すでに相手は扉の向こう側だった。


(こっちはあなたより年上のアラサー女子なんですけど! でも、びっくりしたぁ! たまたまお手洗いに行って戻ってきたら、ちょうど出くわすんだもん。いきなり知らない家に連れてこられて、不安だったんだろうな……。ここは私がお姉ちゃんとして、しっかりサポートしてあげないとね)


 新たな決意を胸に、ミュウは自室へと足を向ける。

 ミュウがシャザークの部屋の外にいたのは、シャザークの逃走を予期してのことではなく、単なる偶然でしかなかった。

 だが、この偶然こそが二人の結びつきを繋ぎとめる運命となった。

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