魔天使

@okayamakoujou-inpipo

魔天使


 学舎は大正時代の外交官倶楽部を改装したものだという噂がある。重厚な建物自体も、備え付けられた年代ものの調度品も、その噂を納得させるに十分なものだった。玄関ホールのドーム状の吹き抜けも、煤色にくすんだ飾り梁も、高窓の曇ガラスも、長い年月、さまざまな人間を見続けてきたという重みを感じさせている。 

 そのレトロな空間のただ中、初老の女性が、樫の机に座っている。分厚い書類をめくりながら、目の前に立っている転入生を値踏みしている。面接官だと名乗っていた。

「昌さん、あなたの推薦状は拝見いたしました。ただ」

 書類の一箇所を指で示す。

「性別欄に記載がありません。どういうことですか」

「選択肢にありませんでしたから」

「男性でも、女性でも、どちらでもないでもないということですか。そうでしたら申し訳ありません。古い書式でして」

「どちらでもないわけではありません。どちらかです。今日は、女です」

「その制服は、男性用を想定したものですが」

「こちらのほうが機能的なので」

 面接官は書類に視線を戻す。つぶやくように言った。

「お父様は、お元気ですか」

「生きていれば、今年で還暦でした」

「そうですか」

 書類の束を立て、机でとんとんと揃えると、視線を上げた。

「生きている間に、もう一度お会いしたかったのに、残念です」

「会えば、失望したでしょう」

 面接官は視線をそらすと、引き出しを開け、書類をしまった。

「それは、お互い様というところでしょうけれど」

 その時、柱時計が鳴り始めた。低く、余韻を残しながら。

「もうこんな時間なのね。行かなくてはいけないわ。昌さん、今日はこれでいいですよ。残りの手続きはこちらで済ませておきます」

「よろしくお願いします」

 お辞儀をし、立ち去ろうとした背中に、声がかかった。

「ところで、見つかったのですか」

 振り返らずに、足も止めずに、答えた。

「まだ行方はつかめていません。本人も。犯人も」

 昌の背後でドアが閉まった。しばらくの間をおいてから、面接官が深く息を吐く。



 放課後。

 部活動をしていた生徒もすべて帰っていった。人気のない校舎。四階西側の理科室。

 真横からの夕日が、端正な顔を朱に染めている。陰となった教室の隅は、より深い闇に沈んでいる。

 眼下のグラウンドに人影はない。昼休みに響いていた嬌声もない。

 今日は部活動がない。教師も生徒も帰宅した。残っているのは戸締りを確認する当直当番の教師だけだ。

 夕日は巨大ににじみ、揺れながら沈んでゆく。

「死に行く姿は、人も太陽も美しい」

 神崎香澄子はそう呟きながら背後に立っていた。

「当番ですか、先生」

「運良く。ね」

 いきなり、香澄子の指が、耳たぶを触る。

「晶さん、じゃなくて、きょうは、君、かな」

「どちらでもいいでしょ」

「なんだ。女の子かぁ」

 指はしばらく耳たぶを弄んでいたが、満足したのか、顎の線に降りていく。

「振り向かないのね。こっちを見て欲しいのに」

「見たっていつもの白衣でしょ」

「素っ気ない。白衣の下は、違うかもしれないじゃない」

 指は顎から下唇へと這って行く。熱く柔らかいものが、背中にそっと押し付けられる。

「いつも、夕日を見ているのね」

「人も太陽も、死に行く姿はどちらも美しいですから」

「ずるい。人の台詞をとらないで」

「だったら、あなただってずるい。それ、有名な詩の一節でしょ」

 小指が下唇をなぞり始める。

「生意気な口」

「おあいこです」

「汚してしまいたい」

 小指の腹が、唇を割って、中へ入ろうとする。きつく結んで抵抗する。

 小指は慌てず、じっくりと唇を責める。

「ふん、そうやって、私を楽しませてくれるわけね。生意気」

 唇から力が抜ける。指は嬉々として唇を割る。

「次は歯の砦。羨ましいわ、綺麗な歯」

 指は歯を一つ一つ確かめるように蠢く。

「本当は、何を見ていたの」

 答えの代わりに、指を唇で挟みこむ。

「図星かぁ。我慢は毒よ、白状しなさいな。楽になれるから」

 指と唇が縺れ合い、塗れた音が響く、ひと気のない教室に。

 神崎香澄子のもう片方の空いていた手が、背後から回りこむように、顎に当てられた。そのまま、上を向かされる。

「日が沈んだわ。太陽は死んだ」

 昌は目を閉じた。そしてゆっくりと、歯を開く。

 勝ち誇った指が、口に挿入される。舌先を弄ぶ。

「何を見ていたの」

 答えはない。

「天使、それとも、悪魔」

 答えはない。

「強情ね。でも、そこが魅力」

 教室は闇に包まれていく。



 登校風景。同じ服を着た同世代の男女の群れ。その中に埋もれてしまう者もいる。隠れようもなく浮き出てしまう者もいる。

 気だるい風が過ぎる。その中を気だるい顔が流れる。

 路地の奥へと車は曲がり、すぐそこに停まったのが見えた。

黒い殻に包まれた車は、窓にも黒いフィルムが張られ、闇の塊のように見えている。中で何が行われているかは窺い知ることもできない。

 ドアが開く音。話し声が聞こえ、すぐにドアが閉まる音。やがて、改造エンジン独特の重々しい音。

 路地から出てきた少女は昌のよく知っている顔だ。

「今日は男の子、ね」

「朝からご挨拶だね」

「さっき、車から見えてたわ。いつもながらの綺麗な仏頂面が歩いていくのが」

「昨日は誰の家に泊まったんだい」

「忘れた。名前覚えるの、苦手なの」

 小泉理緒は、鼻先で笑うと、強引に話題を変える。

「その鞄、何が入ってるの」

「好奇心は猫をも」

「聞き飽きてる科白」

 小泉理緒は大きな目をくるりと動かす。相手を罠にはめようとする時の癖だと知っている。

「噂があるわ。怖い噂。その中に、入っているものの噂」

「暇な人が多いのかな」

 足を速めても、小泉理緒は小走りでついてくる。

「知りたいわ」

「知りたければ、放課後、美術室においで」

 小泉理緒の足がすっと遅くなる。

「それは丁重にお断りするわ。まだそれほど自分が嫌いじゃないし」

 声が遠くなっていく。首を少しだけ回して、忠告しておいた。

「なら、好奇心も捨てたほうがいいね」

「それはそれ、これはこれよ」

 挑戦的な小泉理緒の台詞を振り払い、学校へ向かう。

 正門には、三島雨彦の細長いシルエットが腕組みをして立っていた。いつもと同じく、意味ありげに笑っている。

「当校一の問題児がご到着」

「音楽教師が門番ですか」

「これも給料のうちさ」

 歩調を緩めず正門を潜る。

 すれ違いざま、三島雨彦の手が昌の臀部を撫で上げる。一瞬、身体に痺れが走ったが、それを無視して校舎へ向かう。

「君も器楽部へ入りたまえ。手取り足取り指導しよう。今より数段、感度がよくなるよ」

 恥ずかしげもない大声を聞き流す。そのまま教室へ向かう。

「顔が赤いぜ」

 靴箱の前で、性根の歪んだクラスメートが冷やかしてくる。

「嫌よ嫌よもなんとやらじゃないのか」

 別の奴が唇を歪めて囁く。それを無視して、教室へ入る。

「遅いわね」

 いつの間に先回りしたのか、小泉理緒が歩み寄ってきた。

満面に優越感をにじませている。一度は失っていたそれを、三島雨彦とのやり取りを見ていて取り戻したのだろう。

「授業なんかサボって、今から一緒に屋上へ出ない」

 丁重にお断りした。

「どうして断るのか理解できないわ」

「子供にはわからないのさ」

「彼のこと、聞きたくないの」

「誰だよ、彼って」

「かつてこの学園にいたといわれている天使、または、悪魔」

 何かを言い返そうとして、言葉が見つからず、そのまま立っていた。自分でも滑稽なほどに。

「聞きたいなら、屋上へ来なさい」

 背を向けると、北側の青白い反射光がにじんでいる廊下へ出て行った。髪がしなやかに揺れている。

 必ずついてくると確信しているその背中に、何かの暗示を感じた。

 少し間を置いてから、屋上へ向かった。フェンスへ気だるそうにもたれて、小泉理緒は待っていた。

「何してたの。すぐ来ると思ってたのに」

「気に入らなかったからだよ」

「なぜ。あの人のことを大きな声で話したから」

「タブーなんだろ。転校してきた時からそうだった」

「そうね。誰も口にしなくなった、あの人が消えてから。私が入学してすぐのころ」

「どうしてそれを、僕に話そうと思った」

「どうしてかしらね」

 小泉理緒は、焦らすような顔をする。黙ってそうしているだけで堕ちると思っているに違いない。

「話がそれだけなら、教室へ戻る」

「いいわよ。あなたがあの人に近づけなるだけ」

「君より有力な情報源はいる」

「神崎先生、でしょ」

 背を向けて立ち去ろうとしていたが、きびすを返した。

「どうしてその名前が出てくる」

「あら、図星」

 小泉理緒の勝ち誇った顔が午前の若い日を浴びて輝いている。

「わかっているじゃないか。神崎先生がいるから、君に存在価値はない。そういうことだ。じゃあね」

 今度は背を見せて、そのまま歩き去った。

「すぐにそっちから聞きに来るわ」

 小泉理緒からかけられた声は昌の背中を素通りして予鈴にかき消される。

立ち去る直前、小泉理緒の唇に満足げな笑みが浮かんだのに気づく。どこかで見たことのある笑みだ。それはどこで見たものか、昌は屋上に足を止めたまま考える。

やがて気づく。夏の公園、蟻に運ばれる蝉に向けられていた少年の笑みだと。



 運転をしている三島雨彦の手が、いつの間にか、膝に乗っている。

「片手運転は危ない」

「おっと、気がつかなかったよ」

 おどけた口調とともに手が離れていく。温もりが残ったが、すぐに消えていく。

「何時だい。時計をしない主義でね」

「知っています。夜の十時です」

「ウーロン茶、飲めよ。毒は入ってないと思うがなあ」

「毒より恐いものが入っていそうです」

 三島雨彦の手が伸び、ペットボトルを取る。そのまま、目の前に突き出してくる。

「片手運転は危険なんだろ。じゃあ飲ませてくれ」

 ペットボトルと受け取り、蓋を捻る。封印の破れる音がする。

「口を開けてください。流し込みますから」

「なんだ。口移しじゃないのか」

 蓋を閉める。

「冗談だよ。喉が渇いてるんだ。早くくれないか」

「駄々っ子ですね」

 蓋を開け、ペットボトルを三島雨彦の下唇に当てる。

「はい、あーん」

 笑いながらあけた口めがけて雑に注ぎ込む。勢いよく出た液体は唇から零れ、顎を、喉を、首を、服を、汚していく。

「渇きは癒えましたか」

 口いっぱいの液体を喉仏を鳴らして飲み込むと、三島雨彦は呟く。

「完璧だよ」

 濡れたまま拭こうともしない顎の滴を、昌は中指の先ですくい、三島雨彦の唇へ運ぶ。

 その指を、三島雨彦はそっと咥える。飴でも与えられたかのように、熱心にしゃぶり始める。

「理緒も興味を持ってますよ」

 舌の動きが、一瞬、止まった。しかしすぐに動き出す。

「でも、ほとんど何も知らないでしょう。いつも口だけですから、彼女」

 三島雨彦は、しゃぶるのをやめた。解放された中指は、唇から顎の線へ移動する。

「その名前が出るとはね」

「不思議ですか」

「不思議だ」

「なぜ不思議なんです」

「存在しないものの名前だからだ」

 沈黙が流れた。それを嫌うように、三島雨彦が口を開いた。

「理緒に鞄の中を見せたのかい」

「なぜです。見せる必要はないですよ」

「君は、彼女に興味を持っているからね」

「まさか」

「彼女は信じてるんだ」

「何を」

「彼の帰還を」

 指が、耳の縁で止まる。

「戻ってくると、本気で」

「恐いか」

「あなたこそ」

「恐いさ。特に、存在しないはずの名前を持つ者はね」

 三島雨彦は、身体を震わせた。恐怖からか、中指が耳に侵入したからか。

「人は神を恐れる。その御使いである天使も」

「天使、その名は悪魔とも」

 車は静かに停車した。角を曲がれば寮だと気づいた。

 三島雨彦は運転席から降りると、助手席側に回り、ドアを開けた。

「姫様、いや、今夜は王子様か、よき夢を」

「らしくない。それとも、降りがけに何かする気かな」

「読まれたか」

 しかし、何も起こらなかった。そのまま背を向けると、寮へ向かった。

 ドアの閉まる音が聞こえ、すぐにエンジン音が遠ざかっていった。



 三島雨彦のかけた呪いのせいか、最低の夢だった。

 昌は歩いていた。学園の廊下。彼の作品を従えて。

 作品の中には、小泉理緒もいた。彼女はほかの作品と違っている。

未完成品だった。作成の途中で放り出されたかのような無残な姿。

それを彼女は、楽しんでいた。

「滑稽だよ」

「そうね。でも、だから、何」

「腐臭がする」

「だから、何」

不意に、光に包まれた。光源を見ようとするが、そこには何も見えない。

小泉理緒には見えるらしい。

「降臨されるわ」

「彼が、か」

「いいえ。天使、もしくは、悪魔」

「君もそうなのか」

「違うわ」

 光の中でシルエットになっている小泉理緒が消えていく。

「私は、人形。それ以上のものであるけど、それ以下のものでもあるわね」

 光が消える。代わりに訪れる夜の闇。

そこは学園の保健室だった。簡易ベッドに横たわっている。

「いい夢を見たのね」

 横に、シーツにくるまった神崎香澄子が横たわっている。

目を閉じたまま、唇だけが動く。いつもの淡いリップではなく、固まりかけた血の色をしていた。

「夢だったのか」

「夢よ。そんな都合のいいこと、夢に決まっている」

「何が都合いいって」

 返事はない。

神崎香澄子も消えている。仕方なく、ベッドから降りる。

遠くで声がする。そちらへ行こうと、廊下へ出る。月明かりが遥か彼方まで続く廊下を照らし出している。

 廊下は彼の作品の展示室を兼ねていた。しかし、題名があるだけで、作品そのものは一つもない。

 がらんどうのウインドウが並んでいる。先へ、先へ。

 そのまま進んでいくと、かなり前方に人影が見えた。同じように、作品の入っていないウインドウを確認しながら歩いている。

 見覚えのある後ろ姿だった。それが誰かはわかっているはずなのに、わからない。焦燥感に悶えながら、人影に近づく。

 男が消えた。足元から伸びていた影だけが残っている。

 影は廊下の突き当たり、美術室まで進む。教室の隣にある、美術用資材倉庫の狭いドアをくぐる。

 閉まりかけたドアの隙間に飛び込むようにして、後に続く。

 記憶では、そこは画材や彫像が雑然と置かれていたはずだった。しかしそこには、下へ続く階段があった。

影は階段を下りていく。段々とした階段に、ジグザグになった影がうねるように進む。

真っ直ぐ伸びた階段の先に、重厚そうな木のドアが見えた。

影はドアを開けず、そのままドアの下の隙間から中へと染み込んでいく。

ドアのノブを握る。回らない。固定されていた。

しかも、冷え切っていた。握っただけで、全身から体温が吸い取られていく。

慌てて手を離そうとしたが、貼り付いたように動かない。

「無駄よ」

 小泉理緒が後ろにいる。振り返ることができない。ただ、小泉理緒が笑っていることはわかった。

「開けてどうするの」

「中に彼がいるはずだ」

「いないわ」

「なぜわかる」

「彼の作品だから」

 背中に、小泉理緒が密着する。ノブのように冷たい。振り返ることも、身体を動かすこともできなくなっている。

「離れろ」

「嫌よ」

「何をする気だ」

「欲しいの」

「何が」

「知ってるくせに」

 背後から前に回された手に、ペットボトルが握られていた。

「飲むのよ」

「断る」

「口を開けて」

 逆らうことができず、口がゆっくりと開いていく。

「好きなんでしょ」

 目を閉じ、口を開き、じっと待っている自分がいる。

 しかし、何も与えられない。逆に、全身から体温が、命が、吸い取られていく。すべてが無に還る。

 同時に、裏返された魂はすべてを与えられて、歓喜の中にいる。

 そこに、彼がいる。



 いつもの白衣姿のまま神崎香澄子は、横に立っている。憮然とした表情で、腕組みをして。

 放課後。夕暮れに色を失いはじめた校舎の片隅。美術用資材倉庫のドア。

「利用されるのはお嫌いでしたか」

「その通りよ。利用するのは好きだけどね」

「開けてもらえますか」

「どうしようかしらね」

「彼のヒントがここにあるかもしれないんです」

「夢でしょ、ただの」

「夢です」

「付き合っている自分が虚しいわ」

「開けてください。先生が当直の日を待ってたんですから」

 神崎香澄子は、鍵の束を取り出した。

「自分で開けて」

「どれです」

「大きな、それ。ドアが小さいのに錠前だけが頑丈なのよ、この倉庫」

「よほど大事なものがあるんですよ」

「ないわ」

 鍵を差し込みながら、神崎香澄子を見た。腕を組んだまま、誰もいない廊下の奥を見ている。

「なぜ、ないってわかるんです。調べたのですか」

「そうよ」

「いつです」

「彼がいなくなってすぐ」

「警察も調べたんでしょ」

「警察には警察の調べ方がある。だけどそれって、彼を調べたことにはならない」

 錠が外れる音がした。

「先生が調べても、ここには彼の秘密はなかった、と」

「そう言うことよ」

 ドアを開く。湿っぽい匂いが漏れ出して鼻をくすぐる。入る前に、神崎香澄子を正面から見据えて尋ねた。

「彼の美術館の話を知ってますか」

 澄んだ鳶色の眼球が左右に振れた。

「知ってるわ。作品を納めた彼だけの秘密の場所。だけど、噂よ」

「噂ですか。根も葉もないんですか」

「だって誰も見たことないじゃない」

「でも、彼の作品は行方知れずなんでしょう。大きな賞を取った作品も」

「ないものはないの。きっと、初めから存在しないのよ」

「存在しない、ですか」

「そう」

 神崎香澄子は、視線をそらすと、合わそうとしなかった。何も喋る気はないらしい。背中を向けて、倉庫へ入った。

「何もないのに。こんな埃っぽい場所」

 文句を言いながら、神崎香澄子も後をついて入ってくる。

「先生は、何を探してたんです、ここで」

「子供は知らなくていいことよ」

「そういう方面の話ですか」

「どういう方面だって思ってるの。じゃあ、君は何を探しているの」

「大人には見えないものです」

 石膏像、デッサン用の立体、染料の瓶、画板、キャンバス地のロール。ここにあって不思議ではないもの。それは探しているものではない。

「私が何を探していたか教えたら、君の探し物も教えてくれるの」

「いいですよ」

 雑多なものを漁っている背中で、腕組みを崩さないまま、小さく笑ったのがわかる。挑戦的な笑い方だ。

「私が探していたのは、彼のメッセージ」

「誰宛てのですか」

「誰宛てでもかまわなかったわ」

「先生宛てではなかったんですね」

 沈黙の後、返事が返ってくる。

「どうかしらね。さあ、教えたわよ。君の探し物は何かしら」

「聞きたいですか」

「卑怯者になりたいわけ」

「冗談ですよ。教えますよ」

 探す手を休めずに言った。

「探し物は、ここにあってはいけないものです」

 少し考えてから、神崎香澄子は奥の棚の下段を指差した。

「そこの奥に置かれている瓶とかは、どう」

 示された棚を漁ってみる。

「これですか」

 すぐ目に付いた。筒状のガラス瓶とその中身。

「なんですか、これ」

「標本よ」

「それはわかりますけど、何のホルマリン漬けですか。小さいネズミ……にしては尻尾がない」

「胎児よ」

 反射的に、瓶を棚に戻す。

「冗談はよして欲しい」

 神崎香澄子の顔に笑みが張り付いている。

「冗談だと思うの」

 もう一度、瓶の中身を見る。胎児と言われたらそうとしか見えない。

「警察は、これを見たんですよね」

「この部屋は調べてたわ。隅から隅まで」

「押収されずにまだここにあるということは、この標本は違法なものではないということ。つまり、胎児じゃないってことですね」

「知らないわ。それに、人間の胎児とは言ってないわよ」

 思わず、神崎香澄子を睨む。

「してやったりと言わんばかりですね」

満足げな視線が戻ってくる。

「発生は進化の繰り返しよ。人も胎児の初期は鰓があるって知ってるでしょ。それから進化をたどり、哺乳類、そして人間になる」

「これは」

「人間になる手前。豚の胎児か何かじゃないの」

 息を吐き、右肩を大きく回した。知らず知らずの間に、筋肉に力を入れていたらしい。かなり筋肉が凝ってしまっている。

「それにしても胎児としか言わないなんて、たちも悪いし、趣味も悪い冗談ですね」

「でも、胸がすっとしたわ」

「性格も悪い」

「お互い様」

 さらに倉庫を捜索したが、ほかには怪しげなものはない。もちろん、地下室へ通じる秘密の扉はない。

「そろそろ帰るわ。気がすんだでしょ」

「残念ですが」

 立ち上がると、鍵の束を返した。埃の匂いを後にし、廊下へ戻る。

「もうこの鍵、私の在職中は開けることはないと思ったのに」

「なぜここに豚の胎児の標本があるのかは謎のままですね」

「どうでもいいわ。持ち主が変態だっただけよ」

 鍵が閉まったことを確認すると、神崎香澄子は足早に職員室へ向かった。後を追う。

「怒っているのかな」

「別に。子供の好奇心に付き合って疲れただけ」

「よく言う」

「手、洗いなさいよ」

「胎児の瓶を触りましたからね。保健室で消毒しておこうかな」

 背後から見ていて、神崎香澄子の頬が、保健室という単語に反応したのがわかる。

「ねぇ、晶君、あなたはどういう展開を望んでいるの」

「展開というと」

「彼のことよ」

 神崎香澄子は階段を上らず直進した。職員室ではなく、保健室へ向かう。

「そうですね。どんな展開なら楽しくなるのかな。あの胎児が、彼と先生の子供とか」

 反応はない。

「違いましたか。そうか、もしかしたらあの胎児こそが、彼の失われた作品かもしれない。十三番目の」

「違うわ」

 思ったよりきつい反応が即座にくる。しかし、続く言葉はない。

「違うという自信があるようですね」

「ないわ、そんなもの」

「そうですか。じゃあ、胎児が作品だという僕の説を否定しないで欲しい。なかなかいい線だと思うんだけど」

「違うものは違うのよ」

 神崎香澄子は足を止めると、振り返った。顔に浮かんでいると思っていた怒りはない。無機的な白い顔がそこにある。赤い唇だけが、生き物のように動く。

「あなたに彼を理解しようなんて無理」

「先生は理解できたんですか」

 視線がたじろぐ。

「理解は無理。誰にも」

 それからゆっくりと視線が落ち着く。じっと見返してくる。

「でも、分析はできたつもり」

「どう分析したんです」

 唇の端が笑う。

「教えないわ。絶対」

 再び背中を向けると、歩き出す。白衣が自分を守ってくれる鎧であるかのような足取りで。



 朝日が教室に細く差し込む。カーテンに白い切り口を見せて。

 まだ誰も登校してきてはいない。妙に澄んだ空気に、教室独特の匂いが混ざり合う。

 机に両足を乗せ、椅子ごと体重を後ろへかける。

 くすんだ天井。古びた照明。

 学園全体が、ゆっくりと朽ちていく。誰にも知れずに、腐敗していく。腐肉で育った少年少女は、やがて背中の羽根を伸ばし、飛び立っていく。しかしその多くは、羽根を見失い、地に堕ちる。

 目を閉じ、腐臭を楽しむ。地に落ちる感覚を楽しむ。

 その時、廊下の人の気配に気づく。目を開けて、戸がゆっくりと開くのを見る。

 白い靄のように見えた。もちろん、目の錯覚だ。

 侵入者をあえて無視し、開けかけた目を半眼にする。

「ここに泊まったのね」

 チェック字のスカートから伸びた白い足が近づいてくる。その不健康さは、忘れていた食欲を誘う。

「二人で何をしていたの」

 返事をせず、薄目で白い足を追う。その視線に気づいているのか、わざとらしく足を大きめに運ぶ。

「不潔だわ」

 隣の机に小さな腰を乗せ、足を組む。かすかに、小泉理緒独特の甘い体臭が漂ってきて、鼻をくすぐる。

「何をしてたかは知ってるわ」

「そうか。当ててみろよ」

「宝探しでしょ」

 反射的に自分がしかめっ面になったことを知りながら、首を横に振った。

「外れだ」

「嘘つきは好きよ」

 目は開けない。今、小泉理緒の目を見たら、すべてを見透かされそうな気がしていたからだ。

「でも、無駄よ。知ってるんだから」

「宝物なんてない。だから、宝探しなんてしない」

「なるほどね。探していたのは宝物じゃないってことか」

 楽しそうな声でそう言うと、足をこれ見よがしにぷらぷらさせる。

「じゃあ、何を探していたの。呪いの呪文かな」

「くだらないね」

「くだらないことが、大切なのよ」

「僕に干渉するな」

「そうはいかないわ」

「なぜ」

 机から降りると、近くへ寄ってくる。そして、耳元に、温かい気配が近づく。

「あの人は、誰にも渡さない」

 そう囁いた後、耳たぶに口を寄せる。小泉理緒の小さな白い歯が、ゆっくりと味わうように甘噛をする。

 電気が流れ、背筋が震える。すると、ゆっくりと離れていく。

「私にも探し物があるの」

「関係ないな」

「同じものかもしれないわ」

「先に見つけ出して見せるさ」

「一緒に探そうとは言ってくれないのね」

「言って欲しくないんだろう」

「よくわかってるわね。大嫌い」

 気配が離れていく。薄目で様子を伺う。小泉理緒は、教卓に登る。こちらを向くと、教室全体を見渡す。

「私も教師になりたかったわ」

「なればいいじゃないか」

「もう、無理ね」

「どうして」

「人形には、無理なのよ、教師の役は」

 目を開ける。小泉理緒は、教卓に乗りかかるようにして、こっちを見ている。視線が、絡む。

「彼は私のものよ」

「関係ない話だ」

「あなたにも渡さない」

「口で言うのは自由だ」

「作品は、ナンバー十三で終わりなのよ」

「終わっていないということか」

「逆よ。終わってるの」

「十三番目は失敗作だろ」

 小泉理緒の顔つきが変わった。初めは燃えているような眼になり、次にすべての表情が消えた。

 昨夜の神崎香澄子と同じ表情だ。

「あなたは」

 小泉理緒の声は震えている。

「あなたは何もわかっていない」

「無知は罪か」

「罪悪よ」

「君は正義か」

 答えまで、しばらくの間。それからはっきりとした声が聞こえた。

「私は、悪業、そのものよ」



 昼休みに職員室へ呼び出された。呼び出した本人の三島雨彦は、すぐ戻るといったきり帰ってこない。

 多くの教師は職員用の食堂へ出て行ったが、数人は愛妻弁当らしく、職員室に残ってとりとめもない話をしている。

 醤油と大蒜の匂いが微かにする。腹の虫をなだめながら三島雨彦の帰りを待つ。することもなく、聞くとはなしに教師たちの話が耳に入る。

 事件。事故。問題。悲劇。いずれも何の役にも立たない話題。

 焦れて腰を浮かしかける。そのタイミングを計っていたかのように、一人の教師が気になることを口走る。

「不思議なことは重なるものでね、彼の姿を見たという生徒が、また現れましたよ」

「ほう。校長室ですか」

「いえ、今度は記念館で」

「あの跡地ですか。幽霊ですかね」

「ご冗談を。この学園のどこかで死んでいるとでも」

 教師たちは含み笑いを交わす。それから、隣町の自殺した小学生へと話題が変わる。

 しばらく待ってみたが、話題は戻らない。だからといって、今の話を聞き返す気は起きない。ただぼんやりと、食事を続ける教師たちを見ている。

「どうした」

 肩を叩かれる。三島雨彦が意味ありげに笑っている。

「またまた仏頂面だな。気分を治してこれでも食べろ」

 購買部の紙包みを押し付けてくる。中には、サンドイッチとカフェオレが入っている。

「半分は俺のだからな」

 席に座ると、自分の分の紙包みを破って広げた。話をしていた教師たちが、興味深げにこちらを見る。

「用はなんですか」

「まあ、食べながら話そうか」

 三島雨彦は、楽しげなそぶりで、サンドイッチを取り出し、頬張る。しかたなしに、それに続く。

「カツサンドより、こっちのほうが美味いだろ」

「購買部のパンは食べませんから」

「じゃあ昼はいつも食堂か」

「食べません」

「ダイエットか。太っているところなんてないだろ。むしろ、もう少し太ったほうがいいくらいだ」

「余計なお世話です。それより呼び出した訳を教えてください」

「気が短いな」

 三島雨彦は、引き出しから封筒を取り出すと、机の上に置いた。

「中を見てみろ」

 覗くと、写真がかなりの枚数、入っているのが見える。

「おかしなものじゃないでしょうね」

「おかしなものだよ」

「どういうことですか、それは」

「彼の作品の写真だ。全部そろっている。いろいろな角度から撮っているな」

 すぐに袋から写真を取り出し、食い入るようにして見る。一枚、一枚、じっくりと。

「おかしなものっていう言葉に間違いはないだろう。それがいろんな国で賞を総なめにしたって言うんだからな、地球上、どこもかしこもおかしな奴ばかりってことだろうな」

 側面や背後の写真ははじめて目にするものばかりだ。

「写真の裏についている番号が作品ナンバーだ。十二まである」

 裏返す。ボールペンで書かれた漢数字。九番を捜す。

「あ、名前も書いてあるものがあるかな。それがモデルになったここの生徒の名だ」

 九番を見つけ、表に返す。間違いない。

「へえ、こいつぁ中でも飛び切りの美人だな。知り合いか」

「先生は何年前にここへ赴任されたんですか」

「前も同じ事を聞いたじゃないか。今年で二年目だ」

「そうでしたね。彼がいなくなった年に」

「そうだ。ここでは会ったことはない。十年ぶりに会えると思ったんだが」

 作品ナンバー九番を選び出し、じっと見つめる。この場ですべてを記憶するために。

「そんなにそれがお気に入りかい。俺は七番の処女っぽい子の方が」

「十三番目は」

 顔を上げ、三島雨彦の目を見て続ける。

「ここにはないんですか。十三番目の作品の写真は」

 三島雨彦の表情が歪む。

「十三番目なんてない。初めからない。彼が作った作品は十二だ」

「十三番目は失敗作だったんですか」

「だから、はじめから存在しないんだって」

「もし、失敗作なら、彼はどうしました。陶芸家が気に入らない焼き物を叩き割るように存在を抹殺するんですか」

「知らないよ」

「先生は、芸大時代、彼とは親しかったんですよね。そう言う話はしなかったんですか」

 三島雨彦は、大仰に肩をすくめて見せる。

「そういう関係じゃなかった」

 とぼけた表情の眼前で、写真を振る。

「この写真の出所はどこです。彼から貰ったんでしょう」

 三島雨彦は何も言わない。

「どういう関係だったんですか、彼と」

 三島雨彦の顔に意味ありげな笑みが浮かんだ。

「知りたいか」

「ええ。本当の話を」

「放課後、付き合え」

「それですべてを教えてくれるというんでしたら」

「よし、交渉成立だ。授業が終わったあと、教室にいろ。迎えにいく」

 写真を封筒に戻し、机の上に置いた。

「ほう。九番の写真を一枚抜いていくかと思ったが、素直に返したようだな」

 予想通り、観察していたらしい。

「じゃあな。楽しみにしていろ。俺も楽しみにしている」

 軽くお辞儀をし、立ち去る。その背中に、無神経なほど大きな声がかかる。

「今日は……男か。かえって都合がいい」

 無視して、職員室を出る。相手の手には、乗らない。



 昼休み、グラウンドへ出る。風が湿り気を帯び、雨を予感させる。かすかに、鉄錆の匂いが混じっている。

 雲間から差し込む日差しが、行き先を照らし出す。グラウンド北東隅の、空き地。ここには記念館と呼ばれる建物があった。

 建物横の大楠。それだけが葉を茂らせて今も残っている。

 楠木に寄りかかり、わずかに焼け残った土台を見る。

「三十年前、この学園に天才がいた」

 背後の声に驚き、振り返ると、小泉理緒が満足げにこちらを見ていた。

「背後に忍び寄るの、得意なのよ」

「いい趣味だよ」

「ここまでたどり着いたわけね」

 小泉理緒は、横に立つと、大楠の幹を指先で触れた。

「まだ、ケロイド状になってるわ。熱かったでしょうね」

「失火だったそうだ」

「違うわ」

 小泉理緒は、愛しげに大楠に手を当てる。

「放火よ」

 湿った風が過ぎる。大楠の葉がざわめく。

「ほら、この木もその時のことを思い出して恐がっているわ」

「この木も……君も火事の時、ここにいたのか」

「あたりまえじゃない」

 小泉理緒は、大楠に頬を寄せた。

「記念館に彼の業績が併設されたのは、私の入学と同時。焼け落ちたのは、半月後」

 跡地を見てから、視線を大楠の梢に移す。天が、ぐらりと回る。

「三十年前の天才は、絵画が専門だった。ここの卒業記念に描いたっていわれる『救世主昇天』は、今も県立近代美術館に所蔵されているものね」

「その天才と彼につながりがあるのか」

「知らないわ。学園を卒業後してすぐ、奨学生として海外留学したらしいから。そこでも多くの支持と栄誉を得たって聞いたわ」

「三十年前か。彼が幼稚園に入る頃だ」

「なに、それ。彼が天才画家の子供とでも思ったの」

「一瞬ね。でも、中学生の頃にできた子供なら、歳は合うな」

「馬鹿らしい」

 小泉理緒は、大楠に頬を押し当て、目を閉じている。

「ここに、彼の作品もあったのか」

「ないわ。彼の作品は、すべて行方知れず。今もどこかで、彼と一緒にいるのかもしれない」

「十二の作品に囲まれてどこかに潜んでいると思っているのか」

「ありうる話。……ああ、気持ちがいいわ。木の温もりって」

 木漏れ日が明滅する。風が葉陰と小泉理緒の白い脛を吹き過ぎてゆく。

「天才は死んだそうだね。ここで」

「ええ」

「記念館で」

「ええ」

「なぜ、ここで」

「わからないの。わかってるくせに」

「わからない。だから知りたい」

「知るっていうことは、責任を取るっていうことよ」

 そう言うと、小泉理緒は大きく息を吐き、木と同化した。返事が返らなくなっただけでなく、姿まで木に溶け込んでいくような錯覚がしてくるほどに。

 この木の中に、彼も溶け込んでいるのではないかという思いが過ぎる。

 小泉理緒と、焼け跡と、木と風をそこに残し、教室へ戻る。元の世界に戻るような不思議な感覚にとらわれる。

 元の、腐敗の進む世界に。



 窓の下に広がる街並を霧のような雨が濡らしている。

「もっと力を抜けよ」

 言われるままに掌を開く。三島雨彦はゆっくりと揉み始める。

「掌には、全身の神経が集まっているんだ。より繊細になってね」

 親指の付け根を揉む。ゆっくりと。念入りに。いつまでも。

「俺が雨を嫌いだって知ってるのか」

「名前の反動かな」

「それもある。それだけじゃない」

「興味ない」

「そうか。話す気もないけどな。さて、大分、ほぐれてきたな」

 親指が甘く痺れている。

「痛いのは嫌いだ」

「痛くはないだろ。ほら、汗ばんできた」

「不快だ」

「汗ばむことがか」

「汚れる気がする」

「生きるって言うのはそういうことだ。もっと汚れろ」

「これ以上には無理だ」

「いや、まだ余裕がある。ほら、ここに汗をかいてるってことは、別のところも濡れ始めているってことだ」

「子供だね、言うことが」

「男は死ぬまで子供さ」

 続いて、人差し指が揉みほぐされていく。痺れが広がっていく。

「写真の話は」

「そうだな。それがメインだった」

 そう言いながらも、三島雨彦の指の動きは変わらない。抗議の意味を込めて、人差し指を曲げる。

「わかった。話すから、力を抜けよ」

 指を戻す。

「写真の話か。あれは記念館に掲示されるパネル用に撮影された」

「彼が撮影を許すとはね」

「写したのは、彼だ」

「へえ。それは初耳だ。撮影場所は、どこなんだろう」

「写っている背景からすると、どこかのアトリエのようだけどな。それは彼にしかわからない」

「その写真をなぜ」

「盗んだんだよ」

 悪戯っぽい笑み。

「冗談は」

「本当さ」

 小指の爪を刺激される。わずかに眉を歪める。

「ここは敏感なんだ」

 間違ってはいない。

「素直な子ほど、大きく伸びる素質がある」

「都合のいい解釈ですね」

「素直じゃないね、君は」

 開いていた掌を、軽く握る。拒絶の意のつもりだ。

「君には素質がある」

「なんのですか」

「聴きたいかい」

「ろくでもないことなんですね」

「そうでもない」

 握った拳を、三島雨彦のしなやかな指が包み込む。

「天才になる秘訣だよ。天才は天才としてこの世に生れ落ちるが、天才であることに気づくものは少ない。自分が天才であることに気づいた者だけが真の天才になる」

「詭弁ですよ」

「それでもいいさ」

 三島雨彦の指が、握り拳の中に潜り込んでくる。それをあえて拒まない。

「彼は、モデルを選ぶ。年に一人。新入生の中から」

「知ってます」

「そして作品に、モデルの魂を移す」

「それは初耳です」

「だから、モデルは、長くは生きられない」

「その噂は、知ってます」

 しなやかな指が、拳の内側を擦る。痺れは肘から二の腕に広がっていく。

「人の身体は不思議だろ。掌にも知らない世界が隠れている」

「馬鹿な」

「もっと知らない世界もあるんだ」

 蠢く指を握り締める。

「素直じゃないね。そこがいいんだが」

「今日、記念館に行きました」

 指の動きが止まった。

「物好きだな。あんな焼け跡、何もない」

「あそこにあると思ってます」

「何が」

「作品です」

 三島雨彦の指が、すっと離れていく。温もりだけを残して。

「あそこは彼の記念館じゃない」

「彼の記念館になるところでした」

「ならずに焼けた」

「焼いた人がいるそうですね」

 三島雨彦の表情が硬くなっている。

「誰がそんなことを」

「同級生です」

「君のクラスの、誰がそんなことを」

「小泉理緒です」

 三島雨彦の顔が歪む。笑っているような複雑な表情に。

「冗談はやめろ。その名前はもう出すな」

「何が冗談です」

「小泉理緒って……君が転入してくる前に、自殺した子じゃないか」



 保健室のベッドに横たわっている。煤けた天井も見慣れてきた。

「今夜も、ここに泊まる気」

「さあ」

 背中を見せて机に向かっている神崎香澄子の肩が揺れている。

「書き物か。まさか日記とか」

「まさか、ね」

「彼の幽霊か幻が出没するらしいけど、見たことはあるかい」

「馬鹿らしい」

「記念館の跡地に出るらしい」

 神崎香澄子の反応を予想しながら、三島雨彦を動揺させた言葉をぶつけてみる。

「あそこは彼の記念館になるはずだったんだよね」

「そうよ」

 動揺は微塵もない。

「あそこに、彼の作品があると思うんだ」

「あの焼け跡に。また、秘密の地下への階段とか言うんじゃないでしょうね」

「ないとも言えないでしょう」

「ないわ」

「言い切りますね」

 神崎香澄子は作業を中断し、椅子ごと振り向く。

「じゃあ、言い直すわ。あそこには、なかった」

「確かめたんですか」

「そうよ」

 再びくるりと向こうへ向くと、作業にもどりながら、軽い口調で続ける。

「そのために、焼いたのよ」

 目を閉じる。薄明るい世界に身を浮かべる。

「それだけのために」

「それだけで十分」

「三島先生も知っていたんだね」

「あの人は何も知らないわ。誰も知らないわ。私だけの秘密」

「小泉理緒は知ってましたよ」

 紙を走るペンの音が止まる。

「彼女なら、知っていても不思議はないわ」

「彼女が十三人目だったんですね」

 神崎香澄子が立ち上がる気配がする。

「違うわ」

 枕元に立つ。

「じゃあ、彼女の役はなんなんです」

 返事はない。

「目は明けない方がいいわよ」

「口調が恐いですよ」

「口調だけじゃないわ」

 何かが顔にかぶさってくる。

「彼女には十三番目の資格がなかった。その席は別の子に用意されていた」

「悲劇ですか。それとも、喜劇かな」

「両方ね」

 耳元で声がする。

「十三番目の席は、遅れてきた天使のもの。でもその天使は、九番目の天使の影」

 周囲が暗くなる。

「知ってるわ。あなたの鞄の中身」

 闇はさらに濃くなっていく。

「知っているわ。彼を探す訳」

 空気が薄くなる。

「あなたは彼に会えるわ。選ばれた天使だから。悔しいけど」

 結界が消える。

「もうわかったでしょ。私があそこを焼いた訳」

 すべてがわかっている。自分が何をしたかったのかも。そしてそれが、今、かなうことも。

「とうとう、手に入れるのね」

「ええ。羨ましい、ですか」

「とっても」

 口を柔らかいものが塞いだ。

 扉が開いた。


                             〔了〕

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魔天使 @okayamakoujou-inpipo

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