第6話 女神からのシチュー

―――――――――



「おぎゃー、おぎゃー。」



 赤ん坊の泣き声が聞こえる。



 「どうしたんですか。ご飯もオムツの交換もさっきしたばかりじゃないですか。」



 書き物をしていた視点が、泣いている赤ん坊の方へと振り向く形で移動する。


 時間帯は、窓から日が照らされているので日中なのだろう。


 部屋は全体的に白を特徴としている。ただ、机やタンスなどの家具は普通の木材で出来ているので、白すぎて眩しいという所まではいっていない。地面などの白いのは大理石とかの石で出来ているからだろうか。


 赤ん坊が寝ている揺り篭は、彫刻が複雑にかつ細やかに作られていて、高級そうなデザインをしていた。そして、赤ん坊に掛けられている布には龍の紋章が描かれている。


 泣き続けている赤ん坊の方へと視点が近づいて行き、優しく赤ん坊を抱き上げ胸へと抱き上げる。



 「きっと寂しかったんだよ、構って欲しいのさ。」



 声がした方に視線が動く、そこには扉の方で黒髪の青年が立っていた。



 「あ、ビックリさせちゃったよね、ごめん。泣き声が聞こえたから、つい・・・。」


 「ふふ、大丈夫ですよ。」



 視線は子供の方へと移り、



 「お父さんは心配性ですね。」



 そう言うと赤ん坊を愛おしそうに優しく撫でる。青年の方に視点が動き、青年は穏やかにほほ笑み、赤ん坊はキャッキャッと嬉しそうに笑い出す。



 「心配しなくてもどこにも行かないわ。愛しの『――――』。」



――――――――――


 目を開けると、綺麗な木目の天井が視界に入る。



 「知らない天井だ。」



 意味の分からない夢に対し、モヤモヤとした気持ちが体を支配する。


 夢は、脳が過去の経験の処理や、整理する時に現れてしまう現象だと聞いた事があるが、あんな経験はした事が無いし、そもそも女性になった事も無い。


 まあ、夢をなぜ見るかの答えは未だに確定してる訳では無いと言うし、意味の分からない夢を見ても夢なんてそんなもんだろう。気にしない方が精神的に良い。


 というか、ここはどこだろうか。


 狼に襲われ、サイコパスに出会ったのは覚えているが、こんなに穏やかに目を覚ます事が出来るとは思わなかった。最悪、尋問部屋の様な血が飛び散っている部屋で目を覚ます可能性もあっただろう。


 体を起こし、部屋全体を見渡す。


 パッと見の感想としては、シンプルな部屋だった。


 部屋には俺が寝ていたベッド、机、椅子、クローゼットしかない。机の上には花瓶があり、見た事の無い黄色い花が飾ってある。多分だが、客を泊める為の部屋なのだろう。


 窓からは暖かな日の光と、鳥のさえずりが聞こえてくる。


 ここの家の主人だろうか、下の方からトントントンという音と、食欲をそそる良い匂いがここまで届いている。


 穏やかな時間が流れる中、そういえばと自身の体を見る。


 右足、右腕、首。


 昨日、狼に噛み付かれてズタズタにされた筈の箇所には傷口が一切なかった。そして体も未だ幼いままだ。


 全部夢で、またいつもの暗い部屋で目が覚め、会社に出勤して、周りの人間から罵られながら生きていく事も考えられたが、そうはならなかった。


 その生活と森での生活、どちらが良いかと言われると正直悩ましい。


 今思えば、罵られ見下されていたが、衣食住という生活に欠かせない物が、贅沢では無いけれど持てる生活をしていたんだと、森での生活で教えられた。


 そして逆に、森ではそれが無く苦しい生活が待っているが、自由があった。罵ってくる人はい無く、解放感がとにかくある。


 昨日の事が夢だったかのように感じる。


 しかし、あの時の恐怖は忘れる事が出来ない。気絶しそうになる程の激痛、野生動物の純粋で冷酷な殺意、そしてその殺意を宿した真っ赤な瞳。


 それらすべてが脳裏に焼き付いている。



 「おえっ・・・。」



 あの時の絶望的な状況を思い出し、体は震え、極度のストレスで吐きそうになる。


 完全にトラウマだ。


 当分は犬などの動物は見たくない。見てしまえば、もしかしたら小便を漏らして逃げ出してしまうかもしれない。



 「はっ、はっ、はっ・・・。」



 森でのトラウマがフラッシュバックして、呼吸が荒くなってしまう。それほどに怖かった。


 ブンブンと頭を振り、トラウマを思考から離そうとする。


 (そういえば、ここに泊めてくれている人に挨拶をしなければ。)


 体の傷が完治しているのを見ると、相当長い間看病してくれていたのではないだろうか。


 どこの誰だかは分からないが、見ず知らずの子供を長い間保護してくれるのはすごい事だと思う。部屋の感じからして病室では無さそうだし、一体どんな人が看病してくれていたのだろうか。


 大人用のベッドの様で、子供の俺からすると座高が高い。俺の上に掛けられている掛け布団を退かし、ベッドからヒョイッと降りる。


 ――――グキッ!


 右足を変な角度で降りてしまい、足の甲を内側へと捻ってしまった。右手には支えるものが無く、そのまま床へと倒れてしまう。



 「痛ってぇぇぇ!!」



 捻った右足を手で押さえながら、床を転げ回る。


 小指などをぶつけてしまった時に、痛みに耐えきれず動き回ってしまうあの行動を床でやってしまう。狼に首を噛まれた時に比べれば、大した事の無いはずなのだが、痛いものは痛い。痛みに慣れる事なんてこれからも無いだろう。


 しかし、痛いのは分かるが動き回ってはいけなかった。2次被害が出てしまうからだ。


 案の定、床を転げ回っていると、机に体がぶつかってしまう。


 机の上にある花瓶が、俺が机にぶつかった事による反動で揺れているのだが、現況である俺はというと、足を捻った痛みで気が付いていなかった。


――――ガシャン!


 嫌な音がして我に返る。


 目の前には割れた花瓶と、水浸しになった黄色い花が床に広がっていた。


 サーっと血の気が引いていく。


 どうしようかとアタフタしていると、扉の向こう側で階段を登るような足音が聞こえてくる。恐らく、この家の主人が物音に気が付いてこちらに向かって来ているのだろう。


 (ヤバイ、ヤバイ・・・!)


 急いで割れた花瓶を片付けようと行動するが、少し集めたくらいで足音は扉の前で止まる。おそらく俺を看病してくれたであろう人だ。あの大怪我が治るのに何日掛かったかを考えると、相当大変だったのではないだろうか。


 ここはきちんと、看病してくれた事に対しての感謝と、花瓶を壊してしまった事に対して謝罪をしなければ。


 そう思い、即座に土下座をする。


 ――――ガチャと扉が開く。



 「見ず知らずの私を看病して頂きありがとうございました。そしてごめんなさい、私の不注意で花瓶を割ってしまいました!」



 何も言い訳はしない。こういうのは「でも」、「だって」というのは相手を不快にしてしまう。それに今回は100%俺が悪いのだから。


 しばらく沈黙の時間が流れる。



 「・・・そうか、花瓶の事は気にするな。それよりもガラスの破片で切ってないか?」



 帰ってきたのは優しい言葉だった。


 声は女性の声で、少し低音の落ち着いた声色をしている。それに、芯がしっかりしてそうな真面目さも、声色から感じ取る事が出来る。


 そしてなんだか聞き覚えのある声な気がする。


 (・・・よかった、良い人そうだ。)


 安堵の気持ちが出て、土下座で下げていた頭を上げる。



 「ありがとうござい――――――」



 どんな優しい人が看病してくれていたのかと期待をして顔を上げると、そこに立っていたのは赤い髪の女だった。


 そう、昨日狼を切り殺し、サイコパス殺人鬼の醜悪スマイルで「もう大丈夫だ」と言って現れた女だった。



 「―――――ぃぅわああああああああ!!」



 俺は飛び起こり逃げようとしたが、唯一の逃げ道である扉は塞がれているので、どうする事も出来ない。


 脳がパニックの状態で出た結論は、布団の中に隠れて防御に徹する事しか出来なかった。


 最悪だ。


 あの悪夢はまだ終わっていなかった。もう痛いのは懲り懲りだ。あの時の狼による殺意と激痛、そして目の前の女がしたサイコパススマイルを思い出し、自然と体がガクガクと震えだす。



 「―――――、―――――。」



 俺がパニック状態なせいで、女の言っている事が頭に入ってこない。


 脳が勝手に女の声を拒絶している。女が1歩2歩と近づいて来るのを見て、何かされるのかと思い、腹の底から叫んだ。



 「わああああああ!! あああぁぁあぁぁぁ!!」



 来るなという意思表示をバタバタ暴れる事で表現する。だがこんな事をしても無駄だと気づき、現実逃避をするように布団に包まる。


 (やっと苦行から解放されたと思ったのに、まだ続くのか!)


 しばらく女が何か言葉を発していたが、俺は布団に包まりガタガタと震えていた。


 すると、ガチャガチャと食器を片付ける様な音がしてから足音が遠くなる。


 人の気配が感じなくなったのを確認し、布団の中で丸まっていたのを解いて周囲を確認する。すると、俺が落として割ってしまった花瓶の欠片たちが無くなっていた。おそらく、さっきの音は花瓶を片付けていた音だったのだろう。


 今なら逃げられる。


 そう思ったが、すぐに足音は戻って来てしまった。やはり逃げる事は出来ないと悟り、布団に包まり再び現実逃避をする。


 女の足音はどんどんと近づいてきて、俺が寝ていたベッドに何かを置いてから、椅子を動かす音がし、ギシィと音を立てて座る音がする。


 何をしたのだろう。


 パニック状態からは大分とよくなっていた俺は、女が何をしたのか気になって布団の中から顔を出してみる。周囲を確認すると、案の定、女が椅子に座っていた。そして、ベッドの上にはトレーが置いてあり、トレーの上にはパンとシチューが置かれていた。



 「・・・。」



 「・・・腹が減っているんじゃないか? 味は及第点だと友人に言われているから自信は無いが、体力をだいぶ使っているはずだ。栄養は取っておいた方が良い。」


 パニックが治まった事で、彼女の言葉が理解できた。


 シチューからは「出来立てだよ」と主張するかのように湯気が出ていて、パンからも焼きたての香ばしい匂いが鼻を刺激する。


 数週間、森の中で草や木の実や虫を食べていた俺にとって、喉から手が出るくらい食べたかった料理だ。


 しかし、相手はあのサイコパスな笑顔をする奴だ。


 もしかしたら、この料理には毒が入っているのかもしれない。じわじわ苦しんで死ぬ薬か、睡眠薬でもう一度眠らせてから何かするのかもしれない。そう考え、舌から涎が止まらない状態だが、強烈な誘惑がある中で耐える。


 そんな一向に食べない俺を見て、女は口を開く。



 「もしかして、毒を警戒しているのか・・・?」



 図星を突かれて体がピクリと反応してしまう。勘が鋭すぎだろ。


 その反応を見た女は「はあ・・・」とため息をこぼした。



 「私はエルザ・オルドレッドだ。この村でハンターをしている。」



 それから、エルザと名乗る女は俺がここにいる理由を説明してくれた。



 「昨日も私はハンターとして狩りをしていたんだが、叫び声がしてな。その声の方に向かったら、お前がモンスターに襲われていたんだ。だから助けて、今ここにいる。」



 マジかよ。え、この人俺の命の恩人だったのか・・・?



 「あの狼は夜行性でな、夜に眠っている動物を奇襲してくる奴だ。そいつが最近、数が増え出したから、村に大きな被害が出る前にハンターである私があの時間に狩りをしていたんだ。」



 エルザは俺の方へ視線を向け、目と目が合って話を続ける。



 「怖い思いをしただろうが、この近くにモンスターはいない。それに私もお前に危害を加えるつもりも無い。」


 「・・・。」



 そう言ってエルザは椅子から立ち上がり、ベッドの上にあるパンの端を千切って、シチューへパンを浸す。そしてそのままパクリと口に入れ、咀嚼して飲み込んでから話を続けた。



 「この通り、毒なんか入っていない。警戒心が強いのは良い事だが、このままでは話が進まん。取り敢えずそれを食べて、その後、お前の事情を聞こう。」



 彼女の言動と行動には、歩み寄りの姿勢が感じられた。もしかしたら、俺はとんでもない勘違いをしていたのかも知れない。


 シチューとパンの香ばしい香りと、危険から来る緊張からの解放からか、腹から栄養を欲する主張をするかのように、「ぐ~」と鳴る。


 恥ずかしさで顔が赤くなってしまう。


 (いやいや、恥ずかしがっている場合じゃない。)



 「・・・あの、笑顔を作ってみてくれませんか?」



 突然の俺の質問に、エルザは困惑した表情をした。


 そりゃそうだろう。全く文脈がぐちゃぐちゃである。


 しかし、エルザは困惑をしながらも俺からの変なリクエストを了承してくれた。



 「わかった。」



 そう言ってすぐに表情が変わる。


 エルザの作り笑顔は―――――あの時のサイコパス殺人鬼の笑顔だった。


 エルザにとって、これが一番良い作り笑顔なのだろう。


 確かに笑顔だ、目じりは下がっていて口角は上がっている。確かに笑顔なのだが、なんか違う、なんか過剰過ぎる。この目の前にある笑顔に効果音を付けるとしたら「ニチャァ・・・」で間違いが無い。


 これでもし、今この瞬間にサイコパスな笑顔をせずに、人を安心させる様な笑顔をしたら、俺はますます警戒していただろう。


 しかしそうはならず、エルザは鳥肌が立つ様な笑顔をしていた。


 もしかしたら、エルザという女性は作り笑いが出来ないくらい、ただ不器用なだけなのかもしれない。じゃなかったら、今このタイミングでサイコパススマイルをする必要が無い。そんな笑顔をすれば警戒されてしまうだけだ。


 彼女にとって『良い笑顔を作る』を実践すると、こうなるのだろう。


 確かに笑顔を作る方法を説明するとしたら「目じりを下げて口角を上げよう」となるのだが、エルザの笑顔は過剰過ぎる。



 「・・・もういいか?」


 「あ、はい。大丈夫です。」



 サイコパススマイルからキリッとした整った顔に戻る。顔の落差がありすぎてなんだか面白い。



 「よし、腹も減ってるみたいだし取り敢えず食べろ。その後に、なぜあんな場所にいたのか、事情を聞かせてもらうぞ。」



 エルザはトレーを持って、俺の前へズイッと移動させた。


 森にいる間、何度夢に見たか分からないありふれた料理、それが今、目の前に置かれている。いい香りが鼻を刺激し、唾液が止まらない。



 「・・・いただきます。」



 トレーに置かれていたスプーンを手に取り、シチューを1口頂く。


 (―――美味え!)


 味は及第点と言っていたが、全然そんな事は無かった。


 1口食べてしまえば、もう食欲を抑える事は出来なかった。掻き込むようにシチューを流し込み、パンを貪るように噛み千切って食べ、行儀なんてものは頭から吹っ飛んだ。


 シチューは甘すぎず、丁度良いまろやかな味わいだ。パンはふんわりとした生地をしていて、シチューに染み込ませると甘みが増し、舌を心地よく刺激する。


 衣、食、住。生まれてからずっと当たり前にあったこの3つの有難みが、森での数週間の生活で身に染みて気づかされた。


 夜の寒さに震える事なく、寝ている間に動物に襲われる危険に怯える事無く、腹いっぱいに飯が食える。



 「どうだ、美味いか?」


 「おいしいです・・・!」



 そんな俺の返事に対し、エルザは「そうか」と言い、席から立ち上がる。



 「食べ終わったら、トレーを持って下の階に来てくれ。森で何があったのかは、その時に聞こう。」



 部屋から出るとき、エルザは扉を閉めなかった。俺が最初に怯えていた事を考慮し、閉鎖的な空間にしないための配慮だろうか。


 1人になった俺は、目の前の料理をすぐに平らげる。味は及第点なんてもんじゃない。


 俺は一生、この味を忘れないだろう。

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