路地裏の店
三鹿ショート
路地裏の店
騒々しい表通りから数歩進んだだけだったが、路地の中は異様な静けさに包まれていた。
別の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥るが、酔漢が眠っている姿を見ると、現実であるということを思い知らされる。
同僚から教わった通りに進んでいくと、やがて目的地である店を発見することができた。
看板に記載されている店の名前を確認し、内部へと入っていく。
店内には、商品と呼ぶことができるようなものは一切存在していなかった。
中央には二脚の椅子が置かれ、奥には関係者以外は入ることができないと思しき扉を確認することができる。
どうするべきか数秒ほど悩んだ後、私は奥の扉に向かって声をかけた。
その行為と同時に扉が開いたため、驚いてしまった。
姿を現したその女性は笑みを浮かべると、手で椅子を示した。
私が腰を下ろすと、彼女もまた、椅子に座りながら、
「あなたの願いは、何でしょうか」
それは、同僚から聞いていた通りの言葉だった。
***
私が彼女の店を知ることになった切っ掛けは、同僚の生活が目に見えて変化したことを問うたことである。
それまで様々な人間に借金をしていた同僚は常に焦燥しているかのような様子だったが、ある日を境に、口数は減ったものの、落ち着いた言動を見せるようになったのだ。
理由を訊ねたところ、借金を全て返済することができたという話だった。
だが、何処からそのような大金が突然現われたのか、私には分からなかった。
その出所を訊ねると、同僚は、彼女の店のことを教えてくれたのだった。
いわく、彼女が望むものを差し出すと、願いを叶えてくれるらしい。
借金を返済したとしても余りある金銭を求めたところ、同僚はその通りの金銭を得ることができた。
疑わしい話だったが、同僚の変化を実際に見ているために、あながち虚言だと断ずることもできなかった。
だからこそ、私もまた、彼女の店へ向かうことを決めたのだった。
***
彼女の問いに対して、私は己が望むものを口にした。
「私は、幸福な家庭を築きたいのです。常に笑いが絶えることがないような幸福な家庭を、私は望んでいるのです」
私が育った家は、褒められるようなものではなかった。
父親は私に暴力を振るい、同時に、若い女性との裏切り行為に熱心だった。
母親は私を救うことなく、とある歌手に夢中になり、家を空けることなど日常茶飯事だった。
二人は時折顔を合わせると、必ず喧嘩を始め、それは近所の人間が通報するほどの激しさだったのである。
ゆえに、私は幸福な家庭というものを夢見ていたのだ。
私が望みを口にすると、彼女は口元を緩めながら頷いた。
そして、私の右腕を指差しながら、
「では、あなたの右腕の自由を頂戴しましょう」
その言葉に、私は首を傾げた。
「金銭が必要だと思っていましたが」
「そのようなものは、誰でも得ることができます。私は、この世界にたった一人の、あなたという人間の右腕の自由が欲しいのです」
しかし、欲したところで得られるものではないだろう。
まさか、私から右腕を切り離すというのだろうか。
身を震わせていると、彼女は首を横に振った。
「あなたの身体から離れることはありません。ただ、あなたの意志で動かすことが不可能と化すだけなのです」
方法は不明だが、そのようなことが出来るのならば、彼女は尋常なる人間ではないということだ。
改めて観察してみると、どこか浮世離れをしているかのような雰囲気である。
私が見つめていると、彼女は咳払いを一つしてから、
「どうするのですか」
そう問われ、私は悩んだ。
本当に彼女が私の願いを叶えてくれるのならば、私は右腕を使うことができなくなってしまう。
不便であることは間違いないが、心からの望みを苦労することなく叶えられるなど、都合が良いにも程がある。
それならば、右腕を失うくらいの覚悟が必要ではないだろうか。
私は、彼女に首肯を返した。
彼女が指を鳴らした瞬間、私は右腕の感覚がなくなったことに気が付いた。
動かそうとしても、全く力が入らない。
奇妙な体験に戦いていると、彼女が告げてきた。
「これで、あなたは幸福な家庭を築くことができるでしょう」
***
彼女の言葉通り、翌日には美しい女性と知り合うことができた。
それに加えて、夢ではないかと思うほどに、その女性とは価値観などが全て一致し、我々は即座に親しくなった。
恋人と化し、夫婦と化すには、それほどの時間を要することは無かった。
当然のごとく子どもも誕生したのだが、冗談のように、我々の生活には何の問題も無かったのである。
彼女の実力は、本物だったらしい。
口元を緩めながら歩廊で電車を待っていたところ、不意に、私の右腕が動いた。
その右腕は迷うことなく眼前の男性を突き飛ばし、その結果、男性は電車に轢かれてしまった。
周囲に悲鳴が木霊する中、私はその場から逃げ出すと、彼女の店へと向かった。
荒い呼吸を繰り返す私を前にしても、彼女は動ずることなく、何の用事かと問うてきた。
私は己の右腕を指差しながら、
「右腕が勝手に動き、一人の人間を殺めてしまった。これは、どういうことだ」
その言葉に対して、彼女は余裕の表情を崩さないまま、
「その男性とは、あなたではない別の客が消えることを望んでいた相手なのです。そのために、あなたの右腕を使用させてもらったということなのです」
彼女は私の肩に手を置きながら、
「この店のことを教えたあなたの同僚は、喋る権利を私に差し出したのです。その同僚が口を開くときは、私のことを頼るべきだと判断した相手を発見したときなのです。あなたも同じように、今後は然るべきときに、その右腕が動くことでしょう」
路地裏の店 三鹿ショート @mijikashort
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