愛していた過去

 人狼と娘は、村はずれにある山の出鼻へと登っていた。

娘が「亡骸はどうしたのですか?」と問うたので、人狼は「墓を作って埋めた」と答えた。


 頂上へ辿り着くと、そこにはたくさんの墓標が並んでいた。二つの木の板を十字に合わせただけの簡素な作り。その板の部分には一つ一つ名前が刻まれていた。


「あなたの奥さんと子どもの墓は?」


「......こっちだ」


 山の一番先にある崖の手前に二つの墓標があった。

『レスリナ』、『ターニャ』

二人の女性の名前が刻まれていた。そして木の板の根本には、百合の花が二輪添えられている。


「......良い名前ですね」


「ああ、妻が『レスリナ』、娘が『ターニャ』だ。娘の名前はあいつが生まれた日、妻と一晩中考えて付けたのだ」


「そうですか。素敵な思い出ですね」


 娘はまじまじと二人の墓を見つめていた。

隣に立つ人狼は娘の横顔を見遣る。

その眼差しは今までとは違いキラキラと輝いていた。

だがしばらくすると娘は顔を俯かせ、いつもの物憂げな瞳に戻る。


「......あなたは、本当は家族のことを愛しているのですね」


 娘の呟きに、人狼はハッと目を見開く。


「この方たちは何百年もの間、ずっと愛しい人に見守られてきました。例え永遠の別れとなっても、家族の繋がりは途絶えなかった。私は正直、それが羨ましく思えます」


 娘の独白のような台詞に、人狼は胸を搔きむしられるような痛みが走った。

ざわざわとまた、苦しみを伴う呵責が膨れ上がってくる。

違う。俺はそんな高尚な気持ちで妻や娘の墓を立てたのではない。俺はただ、自分の罪を消したくて......


「違うッ!」


 人狼は大声で叫んだ。


「俺はもう、妻や娘のことなど愛していない。これはただの罪滅ぼしだ。お前が思い描いているような男とは俺は決して違う。俺はもう、人間を捨てて獣に成り果てたのだ」


「......嘘つき」


 娘は鋭く刺すように言い放つ。


「あなたは、嘘つきです。本当に家族を愛していなかったのなら、どうしてこんな風に墓に花を添えるのですか? あなたは自分が殺した家族を愛している事実を認めるのが怖いだけです」


「ッ!!」


 人狼はわなわなと震え出した。娘の射貫くような視線から目を離すことができない。

娘は真っすぐに人狼の紅き眼を捉えた。


「あなたは臆病者です。こんなにも家族のことを愛しているのに、その想いをなかったことにしようとしている。あなたは逃げているのです。幸せだった頃の思い出から、家族から受けてきた愛情から。


 あなたは自分が獣になったことを言い訳にして、ずっと本心を隠そうとしている。本当は孤独で愛に飢えているのに、その想いが叶わないと諦めている。あなたは人を殺して化け物に成り下がることで、ずっと自分の生きる意味から逃げようとしているのです!」


 瞬間、人狼の手が伸びた。

娘の細い首筋を締め上げ、そのまま宙へと吊り上げる。


「黙れぇッ!!」


 人狼は激昂して声を荒げた。

キリキリと、指に力を加えていく。


「貴様に何がわかる! 俺とて好き好んで人を喰らったわけではない! 俺は元々人間だった!!」


 遠い過去の記憶が濁流のように雪崩れ込んでくる。かつて暮らしを共にしてきた仲間たちのことを。かつて愛情を分かち合っていた妻や娘のことを。


「この〝呪い〟がなければ、俺はとうに死ねていた! 妻も娘も殺すことなく、俺は人として死ねていた! ......だが俺は死ねなかった。あの日の夜、突然身が引き裂かれるほどの熱を感じた時、俺は堪えがたいほどの空腹を感じた。


 ......貴様にわかるか? 気がついたら仲間を全員殺していた悲しみが、後悔が!! 俺はこんな姿になった時から、とうに人として死んでいたのだ! 仲間も家族も人の姿さえ失った俺に、今更どう生きろというのだ!?」


 人狼は慟哭のように咆哮する。

このまま喉に爪を押し込めば、娘はあっけなく死ぬだろう。

だがそんな状況だというのに、娘は毅然とした眼差しで人狼を見下ろしていた。


「あなたは、また化け物に成り下がるのですか?」


 娘は人狼の爪をヒシと握り締め、引き剥がそうとする。力強く、こじ開けるように。娘は今、必死で生きようともがいていた。


「私を殺し、私を喰らい、あなたはまた永遠に孤独なだけの命を繰り返すのですか?」


 やがて娘は人狼の手を振り払った。ボトリとその小さな身体が地面に落下する。朝日が登りきらない陽射しの中、人狼の顔を見上げていた。その双眸には生気が満ちていた。


「......何故?」


 人狼は戸惑いながら娘を見下ろす。


「何故、死ぬことを望んでいたはずのお前が生きようとしているのだ?」


 そして人狼は震える声で娘に問いかけたのだった。


「あなたが、私に家族の愛を教えてくれたからです」


 娘は地面から立ち上がり、再び視線を交える。


「私はずっと独りぼっちだった。だから家族なんて自分には関係ないお伽話だと、ずっと心の中で言い聞かせてきた。だけどそれは違った。私の目の前には、確かに家族のことを愛していた人がいたから。


 私も、家族の愛を知りたい。私が知らなかっただけで、本当はずっと欲しくて溜まらないものだったから。


 だからあなたには、家族の愛を思い出してほしい。だってそれが私にとって、生きる意味を見つけ出す答えになると思うから!」


 娘は飢えていた想いを溢れさせる。人狼はただ、紅き眼をキラキラと輝かせながら見つめた。


 レスリナ......ターニャ......


 人狼は愛しい家族の姿を思い出す。

俺は、俺は、こんな醜い化け物の姿になったのに、永遠に消すことのできない咎を背負ったのに。俺はまだ、生きる意味を求めることが許されるのか?


「......教えてください」


 娘は人狼の大きな手を握りしめる。


「あなたの家族のことを、もっと教えてください。私はあなたから、あなたが生きてきた意味を見つけ出したいのです」


 人狼は握られた手をわなわなと震わせた。気がついたら温かな涙が零れていた。そして人狼は娘の手を握ったまま、礼拝するようにしゃがみ込む。そして滔々とうとうと己の家族のことを語り始めた。

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