忘却の呪い

 馬車を停め、外に出てみると、夢見るような色の空だった。

 晴れ渡った空に浮かぶ白い雲。だが、今は夕暮れ時が迫ってきている。深みを増した藍に朱と黄金とが交じり合う。けれども、それはぶつかり合うことなく、淡い色合いの中に溶け込んでいた。


「申し訳ないな」


 ティンティナブリア南東部の、川に沿って続く幹線道路を北上して数日。明日には盆地に入れる見通しだ。もうすぐ年末だが、年を越える前にみんなの顔を見ることができそうだ。しかし……


「なんの」

「先を急がれるだけの理由はございますしな、やむを得ぬこと」


 後から続いて馬車から降りたマツツァとタオフィが、俺の謝罪を受け流す。

 というのも、この冬の最中に野宿することになってしまったからだ。昼頃に小さな村落に到着したのだが、そこで一泊してしまうと、次の集落まで丸一日かかる距離になってしまう。そこからなら、ティック庄まで半日かかるかどうか。つまり、ここで足を止めると一日の差が出てしまう。そして俺達は既に、フゥナ村の魔物討伐のせいで、かなりの日数を費やしてしまっていた。

 あちらも俺の到着を待っている。気持ちではなく、実務上の問題だ。俺が立ち会うことでようやく正式にことを進められる件もある。


「野営の準備はこちらにお任せくだされ」

「いや、それくらいは」

「いやいや」


 マツツァが掌を向けて言った。


「せっかく、この美しい夕暮れ時に居合わせたのですし、少し散歩でもなされては。ここは婿殿の領地なのですしな」


 そこで察した。


「そう、だな。そうした方がよさそうだ」

「あとのことはお任せくだされ」


 俺達だけで旅をしているのでもない。馬車も一台ではなく、後続の馬車には荷物や野営のための道具が積み込まれている。当然、そこにはファンディ侯の家僕も乗っている。これまではちょうどいい場所にあった村落で足を止めてきたので必要なかったのだが、今回、初めての野営となる。その作業もほとんどは、あちらの家僕が引き受ける。

 要は人目を気にせよと、彼はそう言っているのだ。


「せっかくだ。街道の整備状況を確認しがてら、視察でもしてくるとしよう」

「はっ」


 そうして、俺は一人、あてどもなく歩き出した。


 街道だが、この場所では、エキセー川とは少し距離がある。きっちりと川と並走するようなところに建設したら、洪水でも起きたら一発でダメになるからだ。必要もないのに、すぐ横に作ったりはしなかったのだろう。

 ノーラの働きもあってか、足元の道路はしっかりしていた。北西方向に向かってなだらかに曲線を描く道を、じっと眺める。北の向こうには山々の峰が、そしてそのすぐ上には、そろそろ灰色に染まりだした空が見える。右手は小さな林が、左手、川に近い方は、草原になっていた。今はほとんどが枯草になっている。自然と足は左に向けられた。


 冬場というには、やけに暖かかった。空気は頬を爽やかに撫でるのだが、冷たく乾いた風が頬を食い破るような、そんな厳しさはなかった。こうして立っていても、しんしんと冷えていく感じがしない。時折、微風に揺れる枯草は、まるで頭を垂れる稲穂のように優しげに見えた。

 西の彼方には、沈みゆく夕陽が見えた。だが、靄に包まれているのか、さして眩しいと感じることもなかった。明るい方へと誘いだされるように、俺は一歩を踏み出した。


 こうして歩いてみると、なるほど、言われるままに歩き出してよかったという気持ちになってしまう。ずっと馬車の中で濁った空気を吸っていたのだ。外の空気を吸うのなら、別にテントの設営をしていても変わらないのだが、周りに人がいないこの解放感は、また格別なのだ。

 佇むだけで心地よい。そうして一人、伸びをして沈みゆく太陽を見送っていると、ふと、視界の隅に白い影が映った。


 右手に振り返ると、遠くに白い獣の姿が見えた。

 こんなところに野生動物が?


 俺が近づくと、そいつは軽く飛び跳ねて距離をとる。それで、追いついてやろうと軽く走り出すと、そいつもゆっくりと動き出した。全力で逃げる動きではない。

 少し距離が縮まったところで、はっと気づいた。大きすぎる。それに形も普通ではない。鹿なのか、牛なのか、きれいに区別のつかない……これは。


 その存在に思い至ると同時に、白い獣は、まるで最初からそこにいなかったかのように、消え去ってしまった。


「どうして……シー」

『私の名を唱えないでください、我が子よ』


 やはり、という思いが心中に起こる。

 そして、俺はその場に足を止めた。


『あなたに告げなければならないことがあります』


 それはなんだろう? 多くをこの手で殺めた罪についてだろうか?


『いいえ。人が完全に無垢なままでいることは難しいのです。また、そうであってはなりません。あなたに限らず、与えられた祝福を手放すことで、誰もが真に人の世界に生きる人となるのです。仕立てられてから、一度も袖を通されたことのない衣服は真新しく、美しいままでしょう。ですが、それゆえにまた、無価値であるともいえます。私はあなたについて、悲しんでいます。あなたもまた、そうでしょう。けれどもそれは、あなたが楽園を後にする道を選んだ以上、避けがたいものでした』


 では、シーラがわざわざ隠れ家から出てきて、こうして俺に話しかけているのは、処罰のためではない。

 それなら、あとは何があり得るだろう? ジュサの件だろうか。


『あなたを拾い上げてくれた方を直接救うことは叶いませんでしたから。私の力は小さく、またその手の届くのも、ごく近いところまででしかありません。あなたの友すべてを守り切るのは、私にはできかねました』


 なに?


『遠からず、あなたは悲報を耳にするでしょう。ですが、私があなたに告げようとしているのは、更に重大なことについてです』


 不意に胸騒ぎがした。

 俺が呑気に帝都で遊んでいるうちに、何か事態が動いていたのだろうか。


『災厄の時が近づいています』


 そうだろう。でなければ、裁きのためでないというのなら、俺に声をかける理由がない。

 俺に限らず、誰もが満ち足りた日々を過ごしているのなら、シーラの存在など、思い出される必要すらないのだ。幸せに生きて、いずれ世を去る。そのような時の流れを、この女神は肯定している。だから、ただの生き死にでは片付けられない、大きな問題が起きようとしているのだ。

 心当たりなら、ありすぎると言っていい。使徒があのまま引き下がるはずはないのだから。


『今すぐということはありません。ですが、恐るべきものは既に魔手を絡ませつつあるようです』


 では、どうすればいい? 俺がやるべきことは?


『今は何も。けれども、私は今から、あなたにある呪いをかけなくてはなりません』


 呪い?


『羽衣の権能をもって、あなたの目から私の存在を覆い隠します』


 というと、つまり、俺がシーラのことを忘れる? 忘れさせる? 何のために?


『悪しきものが、あなたの心の中を探るかもしれないからです。人の力ではあなたの内心を悟る術はありません。ですが、それを可能とする者がいないのではないのです。悪しき者がいよいよこの世界を滅ぼそうとするその時まで、私は身を隠していなければなりません』


 使徒か、或いはその背後にいる、もっと恐ろしい何かに狙われないために、身を隠したい。それはわかるが、であれば、俺も戦った方がいいのでは……


『我が子よ。真に恐るべきものは、決して力で打ち倒すことはできません』


 勝てない? 戦っても無意味だと?

 というより、では、そもそも何のために姿を隠すのか? 最終的に勝利なり望ましい結果なりに行き着けないのなら、何をしても意味がないのでは?


『可能性の一部を失わずにおくためです。数多の神々が入り乱れるこの世界で、運命を確たるものとすることはできません』


 よくわからない。災厄を乗り越える上での、なんらかの手段を温存するため?


『あなたから見れば、神々は世界を思うがままにする力ある存在なのでしょう。でも、本当のところは、そうではないのです。運命を決めるのは、やはり命ある者達』


 理解を超えた話だ。そんな、あらゆる力の通用しないような大きな災厄を相手に、人間如き、何ができようか。


『今、私があなたに願うのは、たった一つだけです……今の、この陽だまりのようなひと時を、大切にしてください。人の世の喜びを忘れないように……この世界が決して悲しみだけでできているのではないのだということを、忘れないでください』


 その言葉を最後に、視界が光に埋め尽くされたのを感じた。


「信じらんない。そこまで寒くないからって、あんなところで寝る?」

「なんか急に眠くなって」


 俺はどうも、草原のど真ん中で大の字になって眠りこけていたらしい。それを探しにきたウィーが見つけてくれたのだ。


「なんか」


 思わず胸元を抑えた。


「妙に暖かいというか」


 言葉にしがたい何かが胸の奥底に宿ったような、そんな感じがした。


「わけわからないこと言って」


 そう言いながら、彼女は俺の手を取った。


「ほら! 冷えてる!」

「う、うん」

「まるでお年寄りだよ。いい? 年を取るとね、暑かったり寒かったりしても、わからなくなったりするんだから」

「まだ僕は十五歳なんだけど」


 聞く耳持たず、彼女は乱暴に、俺の手を握りしめたまま、宿営地に引っ張っていった。だが、食事用のテントの前で立って待っていたマツツァとタオフィの前まで来ると硬直し、慌てて手を離した。


 翌日の昼前に、馬車はティンティナブリアの盆地に入った。好天に恵まれたおかげもあって旅程が捗って、なんとか予定通り、年内の到着となった。

 俺達が、あの城の一階のロータリー部分に到着し、下車してしばらく。上階から足音が迫ってきた。


「おかえりなさい!」


 執務も何もかも放り出してきたのかもしれない。集団の先頭には、ノーラの姿があった。

 いつも冷静で、陰か陽かといえば間違いなく陰、軽快な印象などとは程遠い彼女だが、たまに素の表情が見られることがある。


 ……やっぱり、寂しい思いをさせてしまっているんだな、と思わずにはいられなかった。


「ただいま」

「疲れたでしょう。まず、お部屋で休む? それとも、お風呂に入った方がいいかしら」


 だが、俺は同行者達の方へと一度振り返り、言った。


「まず、この馬車はファンディ侯のものだから、こちら、ここまで送ってくれたあちらの家僕の方々をもてなして欲しい」


 それでノーラは表情を引き締めたが、すぐ後ろにいたフィラックが、黙って軽く手を挙げた。


「わかった。そちらは」


 ここまで降りてきた中には、ユーシスの姿はなかった。何か仕事中で手が離せないということもあるし、彼の場合は足を悪くしている。


「少し落ち着いたらみんなの顔を見たいけど、多分、忙しいだろうし、あとでいいよ。それより、僕らはまだ、お昼を食べてないんだ」

「えっ」


 ノーラの顔が引きつった。


「ん? どうした?」

「えっと」


 彼女は左右を見回した。


「よりによって今日なんて」


 後ろにいたガリナやリーア、ギムなどが、一様に苦い顔をした。

 だが、観念したような顔をして、俺に言った。


「いいわ。ファルスなら大丈夫だと思う」

「何が?」

「お城の料理人を紹介するわ」

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