ホストクラブでの決着
秋の日没は早い。既に頭上は黄みがかっている。歩いていくのでは間に合わない。魔術を用いることも考えたが、帰路におけるある可能性を考慮して、俺はアーシンヴァルに跨った。
東の歯車橋を渡る。右手に振り向くと、遠くに黒々とした西の歯車橋がポツリと浮かんで見える。その向こう、集う白雲とその彼方に隠された輝きが、地上の一切をいかにも小さく見せていた。残り時間は少ない。急がなくては。
『石の雨降り注ぐ地にて、土中に陽の温もりを求めよ、けれども願わくば掘り返される前に』
赤いインクで、そう走り書きだけされてあった。
俺以外の誰が目にしても、ほとんど意味がわからないだろう。かろうじて「石の雨」だけは理解できるかもしれない。だが、あとはまったく俺の個人的経験に由来する記述なので、他人には推し量る余地がない。だからヒジリにも意味は読み取れなかった。ただ「掘り返される前」という指定がされていたので、時間制限があることだけはわかったのだ。
それにしても。どうしてこう、無茶をしてくれるんだろう。理由がわからないのではない。身分とか立場とか、失っては困るものがたくさんあるのだろうに。
四大迷宮ルイナスに通じる道を左手に見ながら、俺は右手に続く道を進んだ。誰かに見咎められているかもしれない。都度、周囲の気配を探りながら。
やがて視界の前方を、黒ずんだ木々のシルエットが覆うようになった。左手には、微かに西日を浴びた丘の麓が見えてくる。俺はそこで馬を降りた。
「済まない、アーシンヴァル」
首を撫でながら、俺は話しかけた。多分、こいつは理解してくれる。
「少しの間、人目を避けていて欲しい。呼ばれるまでは、出てこないでくれ。わかったか」
すると彼は、黙ってひとりでに駆けだし、やがて木々の間に身を隠した。それを見届けてから、俺は丘を登り始めた。
一千年前に女神が石板を降らせたという丘。ここが待ち合わせの場所だ。とはいえ、相手は人目を避けて隠れているはず。普通であれば、なかなか見つけられないだろう。だが、近辺には、たった一人の意識しかない。
表面を穿たれ、判読できなくなった巨大な石板。それが斜めに傾いでいる。倒壊を防いでいるのは、他の石板の残骸だった。そんな粗末な石のテントの下に、彼女は一人、しゃがみこんでいた。
「近寄らないでくださいまし」
暗がりの中から声がとんだ。
「あまり見られたくありませんもの」
声色が、いつもと違う。ついさっきまで泣きじゃくっていたのかもしれない。
「どうしてこんな軽はずみをなさるのですか」
この問いに意味はない。マリータ王女はすべて承知の上で、せめて檻の中から指先だけでも自由にしようともがいているに過ぎないのだから。
土中に陽の温もり。俺が彼女に出した、あの土中の料理のこと。それが掘り返されたのは夜。夕食時までにこの場所に来ないと、彼女はもう、自由時間を確保できなくなる。
「さぞ軽蔑なさっていらっしゃることでしょうね」
「そんなことは」
「無理なさらなくていいのですわ。私が私を軽蔑しているんですもの。不和が忍び込みませんように、なんて言った傍から、こんな」
だいたい察しはついている。半分くらいはリシュニアの洞察のおかげではあるのだが。
「僕が言っているのは、そういうことではないです」
彼女には彼女の立場がある。黙っていたままでもよかった。こんなところでリスクをとるくらいなら。
「こんな寂しいところに一人で来て、もし間違いでもあったらどうするんですか」
「ファルス様には関わりのないことでしょう」
「それに、僕を呼び出したということは……何を伝えようとしているかなら、想像がつきます。でも、それはお立場を悪くするのではないですか」
岩陰の向こうで息を止めたのがわかった。
「さすがファルス様、もうお見通しだったのですね」
「お見通しも何も、グラーブ殿下に恥をかかせて喜ぶ人なんて、そうはいませんから」
要はそういうことだ。エスタ=フォレスティア王国の弱みは、王太子の他に王子がいないこと。だから在学中に側妾を用意してでも、スペアを作っておきたい。それを邪魔して得をするのは、シモール=フォレスティア側の人間だけ。
「母后か、その意を汲んだ誰かの差し金ですか」
マリータは答えない。その沈黙こそが答えだった。実際に計画立案したのはイングリッドではなく、その息のかかったマリータの側近なのだろうが。
「でも、それにしても動きが早すぎます。グラーブ殿下の交際報道からたった一週間で……それに、他の三人の側妾候補を選び出す件は、ごく僅かな人しか関わっていなかったし、知らなかった。僕と、あとはベルノスト、ケアーナ、あとは王族くらいです。ということは」
「そこまで見抜いていらっしゃるのなら、ほとんどお知らせすることはないのですけれども」
背を向けたまま、彼女は一枚の紙きれをそっと俺の方へと差し出した。歩み寄って受け取り、夕日にかざして読んでみる。書かれていたのは、ただの住所だった。
「そこが借用書を握っています」
これで、隠れた連中を引っ張り出せる。
「協力者はどうなるんですか」
俺の問いに、マリータはまたも沈黙で応じた。
「そういうことですか」
「己の欲のために誰かを裏切る者が、自分にだけ忠実であるはずがありませんもの」
「帝都の理想と、そちらの国の幻が……その裏切りを誘ったのだとしたら、残念なことですね」
「花を見て、花だけを愛でる愚か者が悪いのです。どんな花にも、葉も茎も根もあるというのに」
これには納得するしかない。上ばかり見て、それを成り立たせている全体を考えないような人物など、貴人の下僕としては下の下だろう。
「でも、いいんですか、こんな」
「無価値ですもの」
自国への裏切りにはならないのか。だが、彼女はあっさりしていた。
「グラーブの血筋が絶えたところで、それならと東の地が我が王に進んで膝を屈するとでも? どうせ別の誰かが同じ場所に座るだけではありませんか。中身のない嫌がらせでしかありません」
「それは、そうですが」
「むしろ、こんなくだらない揉め事で恨みを積み重ねる方が、ずっと害悪になるというのに……本当に、目先のことしか考えていない……」
恨み言が口をついて出る。だが、そこで彼女は心の噴火口に蓋をした。
「もう、お帰りください」
マリータはそう急かした。
「まもなく迎えの者が来てしまいます」
であれば、送り返す必要はなかった。帰る手段が用意されていなかった場合、アーシンヴァルに乗せて送ることも考えていたのだが。
「わかりました」
「ファルス様」
彼女は苦しげに呻いた。
「もう決着はついてしまったのです。何を言っても言い訳にしかなりません。でも、このようなあり方を望んでいるのではないのです。どうか、どうか……」
「承知しています。気に病まれませんよう」
それから俺は、足早に丘を降りた。
準備が整うのに、二日を要した。関係者を呼び集め、同意をとりつけるのに、どうしても時間がかかってしまったのだ。それにまた、リークされた情報の発信元がマリータ王女では、いかにもまずい。それをグラーブに伝えたところで、結果が変わるわけでもないし、却って怒りの火に油を注ぐだけだろう。そうであれば、王女の側の危険を増すばかりだ。彼女もそれを望んでいない。だから、この辺の下調べは「下々の人間の活躍」ということにさせてもらった。実際、役に立っていないわけではないのだし、それでいいだろう。
夜の繁華街は、いつも通りの喧騒に包まれていた。とはいえ、分厚い壁の内側で息を潜めている俺達には、それが遠く聞こえるばかりだ。狭苦しい物置の中には、ベルノストもグラーブもいる。本来なら、こんな夜の店に顔を出すような身分でもないので、ここまでお忍びでやってくるだけでも、簡単ではなかった。
入口付近には、ニドが待ち構えている。ここは彼の職場の「アウラ・チェルタミーノ」ではない。女性客を若く美しい男性が接待する店だ。それも、少し値が張る。上客は専用の馬車で送迎されるのだ。これには、周囲から見咎められないというメリットもあり、特別扱いされているという実感も得られるので、悪くないサービスであると言えた。
《いらっしゃったぜ》
ニドの意識が伝わってくる。
「そろそろです」
俺は扉の外に耳を当てるふりをしてから、振り返って二人に言った。彼らは黙って頷いた。
やがて、俺の説明を必要としないくらいに明確な物音が、扉の外から聞こえてきた。数人の足音、そして扉が閉じる音。何事かを尋ねる女の声。それが収まってから、俺は扉を押し開けた。
「えっ」
ソファに収まっていた二人の女は、予期しない人物の登場に、目を丸くして硬直した。もう遅い。逃げ出そうにも、出口はニドが固めている。
「では、済みませんが、お店の方々は」
「はい」
ここまで彼女らを誘導するのに協力してきた店長は、ニドの横を通り抜けて、室外に出た。そうして扉が閉じられる。さっきまで店長が腰を据えていたソファに、代わってグラーブが座った。
「やらかしてくれたな」
彼の声色には隠し切れない怒りが滲んでいた。
「ベルノスト」
「はっ」
とはいえ、感情のままに吐き散らすのでは、王族としての品位を保てない。後始末は家臣に委ねた。
「本来なら死罪まで考えられるほどの問題だが、殿下はそれを望まれない」
「ど、どういうこと!」
この期に及んでも、ジュガリエッタはしらばっくれた。
「告発を取り消すように。全面的な解決はもう手遅れだが、そうすればこちらとしては穏便な処分で済ませられる」
「な、何のこと?」
「殿下に性的暴力を受けたと当局に告発したのは、あなただ」
そう言ってから、ベルノストは一枚の紙をローテーブルの上に差し出した。
「あなたの借金……こちらのお店に通い詰めて、随分と散財したようだが、利子の分、金貨二千枚も含め、こちらで負担する」
ようやく認識が現実に追いついたらしく、彼女は黙り込んだ。
「本来なら、その程度では済まないほどの重罪ではある。よりによって、夜の店でどこの馬の骨ともしれない男を相手に子を宿し、それを殿下の子と偽って産んでしまおうなどと」
結果だけを言えば、そういうことになる。
ジュガリエッタは、帝都にやってきてから遊びを覚えてしまった。最初はただの浪費に狂奔していただけだったが、そのうちに自分の若さや美しさをも楽しみのために使い切りたいと望むようになった。といって、学生相手に自由恋愛などできない。帝都の自由は三年間限定なのだ。そこで妙な人間関係ができ、またそれが帰国までに知られてしまうと、その後の自分の進路に影響してしまう。できれば同格の貴族の家に嫁ぎたいのが普通だからだ。
そこで彼女は、最初はあくまでリスクオフも兼ねて、密かにこういう店に出入りするようになった。前世でいうところのホストクラブだ。そこには洗練された美男子達が待ち構えていた。そしてジュガリエッタはというと、恋愛の実地経験などほとんどない、多少スレ始めているだけの箱入り娘だったのだ。
夜遊びは、楽しかった。やがて歯止めがかからなくなり、支払い能力を超えて遊びまくるようになった。やがて資金繰りに窮して、身の回りの品を手放すようにもなった。だが、そんな程度では到底足りない。一方、店側からすれば、これはカモでしかなかった。難しい話は何もなく、実家にそれとなく手紙を送れば、大半の場合は完済してもらえる。娘が傷物になったなんて事実は、どこの名家も隠したいことだから。それで今まで、本気で追い詰めるようなことはせず、ツケで遊ばせ続けていたのだ。
しかし、彼女自身としては、実家に借金の件が伝わるのは恐ろしいことだ。そんな中、側妾候補の話が降ってわいた。うまくすれば、これで借金をチャラにできる。それで利子のこともよく考えずに、適当な口実を拵えて金貨五千枚を引っ張った。だが、それでは足りないと言われてしまい、彼女は追加で援助を頼んだ。しかし、用途を詳しく調べられたのでは、支援などしてもらえるはずもない。
どうやってごまかそうかと悩むうち、更に彼女を追い詰める現実が迫ってきた。気を付けていたはずなのに、うっかり相手の男の子を妊娠してしまっていたのだ。これで完全に窮してしまった。
「そして、同じくらい罪が重いのが」
「何のことですか」
ナリヴァは、この期に及んでもふてぶてしかった。
「我が国を売ったあなただ」
「だから、何のことかと言っているんです」
ジュガリエッタの相談を受けたナリヴァは、これを好機と捉えた。というのも、彼女には、ある願望があったからだ。
「あなたは、帝都のいくつかの市民団体に所属している」
「それがどうしたんですか」
「正統なる我がフォレスティア王国では、女性官僚の存在を認めていない。でも、あなたはそれを希望していた」
これがナリヴァの動機だった。
「希望したからって、そんなの私の勝手でしょう」
「いかにも。考え方はあなた次第で、それ自体は罪悪ではない。だが、あなたは市民団体との関わりの中で、王の名を騙る例の一派との繋がりをもった」
「友人ができただけです」
「あなたは甘言に乗った」
「証拠はあるんですか!」
ナリヴァは立ち上がり、ベルノストに怒鳴りつけた。
帝都の理想は自由と平等だ。それからすると、シモール=フォレスティア王国のように、女性官僚の存在を認めている国こそ先進的で正しく、それを許さない自国は後進的で誤っている。彼女のように勉学に励んだ女子学生からすれば、それは受け入れがたい現実だった。同じように努力して、どうして同じだけの評価を与えられないのか。
それ自体は、そこまでおかしな考えではないだろう。だが、彼女は自分の立場を忘れた。今、自分の身分を保証してくれている母国より、思想を共有しているだろう隣国の学生達の方が、自分と親しいものだと考えるようになってしまった。
その結果がこれだ。側妾候補の選定について、彼女が知っていたのは当然だ。自身がアナーニアに選ばれているのだから。それを意図してかせずか、とにかくナリヴァはシモール=フォレスティア王国出身の仲間達に話してしまった。更にそこに、ジュガリエッタの問題まで起きた。これで、女をただ子を産むだけの道具として扱う頑迷な後進国に、一撃を浴びせてやることができる。
「完全には、ない」
「なによ、それ」
「訴えたのはジュガリエッタだ。また、通い詰めていた市民団体の集会に、隣国の学生が混じっていたからといって、あなたが彼らと共謀したという証拠にはならない」
「当然じゃない」
「但し……市民団体に、例の告発の件について報告したのが誰かについては、明らかにすることができる」
彼女の、自国の秩序からの逸脱の証拠は、実のところ、これしかない。だが、これで十分と言えた。
「ジュガリエッタ」
「え?」
「少なくとも、あなたについては証拠がある。わかるだろう。この店に通い詰め、操を散らした身でありながら、殿下の側妾になろうとした。その条件としての金貨も受け取ったのだから、言い逃れはできない」
これは脅迫だ。
「借金を完済するために、殿下に圧力をかければいいと囁いたのは、ナリヴァか」
「そんなの誘導尋問よ! 無効だわ!」
「よく考えて答えた方がいい」
ジュガリエッタが証言を拒めば、実家により厳しい処分が下される。穏便な解決はしないと言っているのだ。
「……はい」
「ジュガリエッタ! あなた、よくも!」
「ということで、あなたが殿下を裏切った証拠はあると言える」
立ち尽くしたまま、ナリヴァは目を泳がせていたが、すぐ考えを纏めたのだろう。ベルノストを睨みつけて言い返した。
「ち、違うわ! 私は本当に、ジュガリエッタが殿下に乱暴されたと思ったのよ! だから告発を勧めたの! 別に帝都の法には反していない!」
「だとしても、訴える方法は他にもあったはずだ。市民団体に声をかけて大勢を動員して、事件にしてしまった。悪意がないとは言えない」
証言がある。これだけでもう、母国では有罪を避けられないだろう。
だが、ここでは断罪できない。ナリヴァは「本当に」性暴力があったと思って告発を勧めた。それが虚偽であると「今」知ったのなら、これからそれを取り下げ、市民団体にも間違いでしたと報告すれば済む。
当然ながら、ここは帝都なので、帝都の法が通用する。タンディラールが直接、彼女を処罰することなどできない。
「ふん……ま、いいわ。どうせ帰国できないってだけでしょう? 私はこれからも帝都で生きるんだもの、構わない」
それからナリヴァは、不満げな様子で、ドスンとソファに座り直した。
グラーブは頷いた。振り返ったベルノストも、頷き返して、それから二人に言った。
「では、処分を言い渡す」
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