花火と火花(下)

 西の水平線をほんのり染めていた残照も、だんだんと藍色の闇の中に溶け込もうとしていた。

 保養地の別荘が立ち並ぶ辺りから少し北に離れた海岸では、砂浜が途切れ、一抱えもある大きな岩が、波に洗われていた。周囲に人影はなく、打ち寄せる波の音の他には、まったくの静けさの中にあった。


 そんな中、一国の王女が一人、片手で帽子を押さえながら佇んでいる。遠く海の彼方を眺めやりながら。どういうつもりなのだろうか。供回りには、ついてこないようにときつく言い渡し、俺だけを連れてここまでやってきた。それでいて、何も言いだそうとしない。

 どうせ魔術で心を読み取るつもりではいる。口八丁手八丁で俺を惑わそうとしたところで、その策略はすべて無に帰す。だが、まずは彼女の出方を見極めたいという思いもある。


「気が利かないのですね」


 抑揚のない声で、不意にマリータがそう言った。


「と言いますと」

「せっかく余人を交えず語り合える場所まで付き合って差し上げたのに、だんまりですの?」


 と言われても、俺はもう、半分戦っているようなものだ。別に彼女を口説きたいのでもない。だが、確かに心身が固くなっていたのではよくないだろう。軽口でも叩くとしよう。


「そうですね。さっきはありがとうございました」

「どういたしまして」

「でも、あの果実はきっとそんなに甘くはありません。殿下は安物を高く買わされたのですよ」

「あら」


 彼女は面白がるかのように口角を吊り上げ、こちらに振り返った。


「あなたは女性の目利きだけでなく、果物にもお詳しいのですね」

「誤解です。僕が詳しいのは、果物とか魚とか……食材の方だけですよ」

「それにしては、よくあんなお仕事をなさっていたものだと思いますけど」


 ピュリスの変態王の件だ。初対面の時に言われたから、よく覚えている。だけど、風俗街のボスだなんて言われても、俺があずかり知らないところでそうなってしまったのであって、完全に誤解ではないかと思う。この辺、ノーラのせいにすればいいんだろうか?


「それも、言いづらいのですが、その……誤解です」


 俺がそう言うと、彼女は無表情を繕った。だが、背中から小刻みに揺れだして、顔を伏せて……ついには溢れ出てくる笑いに我慢できなくなって、口元を抑えてしまった。


「その、そのお顔! あぁ、たまらない!」

「は?」

「まるでズブ濡れの野良犬みたいでしたわ! そんなお顔もなさるのですね!」


 思いっきり笑われてしまった。まぁ、バカにされるのは構わない。実害がない限りにおいては。

 彼女は、おかしくてならないというように笑いを堪えながら、やっと落ち着いて言った。


「存じ上げておりますわ」

「はい?」

「あれからカフヤーナに調べさせましたもの。ピュリスに、あのコラプトからいやらしい女達が移り住んだのは、ファルス様が旅に出た後のことではありませんか。であれば、どうしてファルス様が色街の元締めなどになり得たと言えるのでしょう?」


 俺はほっと胸を撫で下ろした。


「わかっていただけて、嬉しい限りです」

「でも、結局、その商売をやめさせなかったというのは、つまり追認したということですよね?」


 痛いところを突かれてしまった。


「殿下、下々の者共にも、言い分もあれば、日々の暮らしもあるのです。やめよと上から言われたところで、他に生きる術を持たない者達は、どうせ別のところで同じことをするしかなく」

「承知しております」

「では、なぜそのようなことを仰るのですか」

「あなたの困った顔を見るのが楽しいから、ですわ!」


 そう言うと、またマリータは笑い出してしまった。

 和気藹々、と言えばいいのか。苦虫を噛み潰したような顔の俺と、妙にテンションの高い王女様。実に和やかな雰囲気だ。


「でも」


 笑いを納めて、彼女は指摘した。


「女性を誑かし、弄ぶ方というのは、間違った評価ではなさそうです」

「身に覚えがありません」

「よくもそんなことを言えたものですね? 貧農の生まれで、たまたま拾い上げてもらえただけの……まぁ、黒竜を討つくらいですから、才能にも恵まれておいでなのでしょうけど……そんな家柄も何もない騎士が、どうして一国の姫君を宛がわれたりなどするのでしょう? よっぽどあくどい計略に頼ったに違いありませんわ」


 ヒジリは……近頃は仲良くやれてはいるものの、本質的には俺を監視する役目を負った戦士だ。女だからどうこう、ということはない。ただ、それを説明するわけにはいかない。


「まだ誤解なさっているようですね」

「あら、でもお断りになられなかったのでしょう?」

「どうやって断ればよいのですか」


 その時、遠くからくぐもった爆音が響いてくるのが聞こえた。俺もマリータも振り返る。


「……ふん」


 ついに花火の打ち上げが始まったのだ。だが、彼女は「きれいね」などとは言わなかった。鼻で笑ったのだ。


「つまらないことを訊いてもいいかしら」

「答えられることなら」

「グラーブ王子は、仕えるに値すると思ってらっしゃる?」


 きた。

 やっぱり俺の離反を誘っているのか? でも、だとするなら、まるで的外れだ。


「そんな質問をしたら、返ってくる言葉は一つしかないでしょう」

「もちろん、建前を聞きたいのではないわ」


 もう一発、花火が打ちあげられる。そちらに振り返り、夜空に光の粒が撒き散らされるのを眺める。彼女の笑みは、いつの間にかまるで夕暮れ時の空を思わせる、渋みのようなものを帯びていた。


「私の眼には」


 次の花火がまた弾ける。


「とても臆病に見える」

「臆病?」

「ええ」


 俺に振り返ると、彼女は静かに言った。


「私とは背負っているものが違い過ぎるから、臆病なのが悪いのではないけど……だとしても、彼に仕える生涯は、きっと退屈なものになるのでしょうね」

「その退屈が平和という意味であるなら、我慢する甲斐もあるというものです」

「それでいいのかしら」


 私についてくるなら冒険的な人生をくれてやると、そういうことか。

 これ以上、会話に付き合う必要もないのではないか? 何を考えているかを読み取ってやる。


《……そう、あんな退屈な男なんかに、獲らせてなどやるものですか》


 俺が目当て? だが、どこまで知っている? サハリアで何をしてきたかも、まさか把握しているのか?


「何を仰っているのか、わかりかねます。殿下は、どうなさりたいのですか」

「私? 私がどうしたいか、ですって?」

「はい」


《そんなの、決まってる》


 野心か、欲望か、それとも恐怖や不安か。俺も無駄な争いなど望まない。もし俺に策略を仕掛けたのが彼女であったとしても、交渉で解決できることなら、それで終わらせる。

 だが、俺に振り返り、唇をかすかに震わせながら、マリータは静かに微笑むばかりだった。


《何もかもを与えられて生まれた。何も持たないのと同じだった。定められた身分、決められた役割、何も求められず、誰も私に逆らわない……あの腹立たしい、灰色の靄の中を彷徨うのような日々……私は人ではなかった》


 そして、一見穏やかな表情とは裏腹に、俺の心に流れ込んでくるのは、深い深い悲しみ。物心ついた頃からの孤独。

 では、どうしたい? どうしたかった?


《誰も私を人としては扱わない、誰も心をぶつけてくれない、触れさせてくれない……だから素顔が見たくて、傷つけた。苦痛に悶えるその瞬間だけ、人は本当の気持ちを見せてくれるから……でも、そんな小さな火花は、すぐに消えてしまう。そしてまた、私は闇の中》


 ひと際大きな花火が打ち上げられる。少し遅れて、大気を揺るがす轟音が響き渡る。

 夜空の星々を霞ませる大輪の花を背に、ようやくマリータは言い切った。


「欲しいものは手に入れる。どんなことがあっても」


 欲しいもの?


《だけど、そんな闇の中を、一瞬、そう一瞬だけ切り裂いた……この人なら、私の太陽になってくれるのかもしれない》


 この人?

 でも、ここにいるのは俺だけ。ということは……


《こちらを向いて、私を見て》


 嘘だ!?

 そう叫びだしたくなった。途端に頭の中が掻き乱された。


《気後れなんてしてはだめ、手が届くわけないなんて諦めたら……ああ、どんな顔をすればいいの、今まで取り繕うことしか知らないできたのに》


 まさか、マリータが欲しているのは。


《凍てつきながら焼かれるよう、ここにいたいのに逃げ出したい、助けてほしいのに誰にも邪魔されたくない》


 俺そのもの、だったのか。


 どんな顔をすればいいのか、わからない。だいたい、そんな気持ちを今知ったところで、何ができるというのか。ただでさえ、領地にノーラを残してきているのに。ヒジリという婚約者がいるのに。

 どうしたらいいのか。今となっては、悪意や罠など恐ろしくない。力及ばないとしても、足掻くだけだから。でも、好意に対して、俺にできることなんてあるのだろうか?


 例の噂? もちろん違う。マリータも俺には何もしていなかった。

 最低だ。彼女の中の一番大切な気持ちを盗み見てしまった。しかも、俺が当事者だなんて。とにかく、これ以上、心の声を聞いてはいけない。今更遅いとはいえ、彼女に敵意がない以上は。


「ファルス様、あなたは、どうなのです?」

「えっ」

「この世に生まれ、生きて死ぬまで、あっという間です。なのに、欲するものはないのですか。あなたも私も」


 彼女は、夜空を指さした。そこに一瞬、光の輪が描かれる。そして、すぐ消えてしまった。


「あれと大差ない身の上ですのに」


 俺は今、何を望んでいる?

 いや、かつては望んでいたものがあった。不老不死だ。でも違う。それは俺の望みではない。絶望に追い立てられて走っていただけじゃないのか。

 なら、俺が本当に望んでいるものとは、なんだ? 世界平和? 周りの人達の幸せ? 間違いではないけど、それじゃない。それらは本当に欲しいものの周りにある何か。心からの望みがどんなものなのか、俺自身こそが知っているはずなのに……


 いざ言葉にしようとすると、何も出てこない。


「ふふっ」


 彼女は余裕の笑み、いや、余裕を演じて笑ってみせて、グラーブの必死の努力の結果を嘲った。


「大袈裟で無粋な催し物ですけれども、話の種にはなりましたね。それに」


 ……その時、取り乱した俺の心に、まったく関係ない方角からの警報が突き刺さった。すっと冷静さが戻ってくる。


「何もなしでは、夜の海は寂しすぎますもの」

「殿下」


 俺の声色の変化に、彼女は敏感に反応した。


「どうなさったのですか」

「大勢の人間が、北からやってきます」


 つけっぱなしにしておいた『危険感知』の神通力が、久しぶりに機能したのだ。それで、俺は魔術で暗視能力を得て、周囲を見回した。ここから三百メートルほど離れたところ、北の街道から暴徒が迫ってきている。なぜそれとわかるのか? 一様に貧しい身なりのシュライ人の男達が、その手に棒切れを携えているからだ。


「ここは危険です。逃げましょう」

「私には何も見えないのですが」

「無駄に斬りたくはないのです……ほら、もう足音が」


 あちらの中で、夜目が利くのが俺達に気付いたらしい。慌ただしい足音が迫ってきて、ようやくマリータもそれと悟ったようだ。


「やむを得ません」

「守ってくださるのですね」

「目を閉じていてください」


 十数メートル離れたところまで迫ってきた誰かが、俺達を指さしてシュライ語で叫んだ。


「やっぱりいたぞ! 女だ!」

「身なりのいい男だ! 金持ちだぞ!」

「取り囲め! 思い知らせてやれ!」


 保養地にまで暴徒がやってくるとは。でも、すぐ近くにペイン将軍と帝都防衛隊が控えているはずだ。そこまで逃げ切ればいい。何も難しいことはない。


「やっちまえ!」


 その掛け声で、二十人近い男達が角材を振りかぶって俺に突進してきた。

 それに合わせて、俺は魔術の光を前方に投擲した。


 真っ暗闇の中で、いきなりの『閃光』が目を焼いたのだ。彼らは急に立ち止まって、中にはその場で転倒するのもいた。


「失礼致します」


 そう宣言してから、俺はマリータを抱きかかえて『飛行』の魔術を用いた。ふっと体を浮かび上がらせると、走るより速く南の保養地まで飛んだ。

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