第三十八章 精錬の庭
携えていた訃報
全身を苛む苦痛と、耳を聾する怨嗟の声に、俺の意識は占領され続けていた。
何があったのか、どこにいたのか、断片的にしか覚えていない。それでもわかるのは、俺は抱きかかえられてどこかに連れていかれたということ、その場所は暗い部屋で、湿った木の匂いがしたということ、そしてひどく揺れたということ。恐らく、俺と仲間達は船に乗っていた。
断続的に気絶を繰り返しながら、俺はずっと呻き声をあげていた気がする。
苦痛が和らぎ、幻聴が収まってきたのは、夜明けになってからだった。
そこは海岸だった。風はほとんど止まっていて、打ち寄せる波もごく静かだった。浸食を受けた海沿いの岩は不揃いに削られたかのような形をしていて、それが黒々としたシルエットになっていた。そんな岩の上に、ジョイスが、フィラックが立っている。もちろん、それもシルエットだった。
空の色は、そろそろ灰色に染まりつつあった。東の水平線にうっすら白いものが見える。そのすぐ上は濁った灰色だが、更に上に目をやると徐々に深い藍色に染まっていく。
静かだった。
弱り切ってはいるが、俺はなんとか身を起こした。離れたところでは、ノーラが寝かされていた。そのまま目を背後に向けると、北の方の海岸沿いに人工物が見える。村ではない。あれは街だ。市の内外を区切る城壁が見える。
その壁が、朝の光を受けて、だんだんと明るく輝きだした。
ディエドラに揺り起こされて、ノーラが目覚めた。
彼女は立ち上がると、いの一番に俺の方に近寄ってきた。
「ファルス、気がついたの?」
「なんとか」
「よかった」
朝の到来とともに、少しだけ苦痛が和らいだのだ。だが、これで終わってくれる気がしなかった。
俺は呪われているのだ。そして、モーン・ナーの望むままに、俺は大勢を手にかけた。その都度、呪詛は強まった。
こちらの様子に気付いたフィラックとジョイスが戻ってきた。
「目が覚めたみてぇだな」
だが、俺の衰弱ぶりは明らかだった。
気遣わしげに俺の顔色を観察してから、フィラックは言った。
「ここがどこだか、よくわからないが、もしかすると」
俺達は北の方を眺め渡した。
「一気に北東部まで来たのかもしれない。太陽は海の方から出てきてるみたいだから、普通に考えてここは」
クーも頷いた。
「あの城壁、ポロルカ王国のものとは違います。門の上に瓦屋根がありますから、きっと北東部の都市ですね」
「そろそろ開門の時間かもしれない。今のうちから並んで、早めに中に入れてもらおう。まず、宿を取って休んで、それからだ」
ペルジャラナンが、テントの布地で包んだラピの遺体をそっと持ち上げた。
地平線にはっきりと橙色の光が差し、地面の細かな凹凸が長い影を引くようになると、ようやく街の南門が開けられた。待ち構えていたのは、俺達だけだった。
とはいえ、すんなりと通れるはずもなかった。城門の下をくぐろうとすると、ハンファン人の衛兵が二人、俺達の前を塞いだ。
装備が南方大陸の他の地域とは違う。革の鎧の上に銀色の小さな金属片がくっついている。一つの金属片に複数の革紐が結ばれていて、それが胴体と肩、それに足は膝まで覆っていた。
「何者だ」
チョビ髭の男が、シュライ語でそう尋ねてくる。俺が対応しなければならない。よろめきながら周囲の人を掻き分けて、前に出た。
「腕輪をご確認ください。フォレスティア王タンディラールの騎士、ファルス・リンガです」
「騎士? こんな子供が」
「ここにいるのは、僕の従者達です」
衛兵達の視線は、改めて後ろに立つペルジャラナンとディエドラに向けられた。
「魔物が従者か」
「あれらは人間に逆らいません。滞在中は僕が責任を取ります」
顔を見合わせつつ、とりあえず俺の主張を呑み込んでから、彼らはなお尋ねた。
「旅人にしては荷物が少ないようだが」
「南の方の村で、夜、寝ているところを襲われて逃げてきたのです。それでお伺いしたいのですが、ここはどちらでしょうか」
「街の名前も知らずにやってきたのか」
また二人は顔を見合わせた。どうやら彼らは本当に命からがら逃げてきたらしいと、そう受け止めてくれたのだろう。
溜息一つの後、チョビ髭の男が答えてくれた。
「ここはカークの街だ」
早朝の街に立ち入った。白い城壁の上に、濁った朝焼けが見える。本当にまだ、夜が明けたばかりだ。
なのにもう、既に立ち働く人達はいた。まだ人通りこそ多くはないが、だからこそ商売で生計を立てる人達は今から準備を始めるのだ。ラーメンの屋台みたいなのをここまで引いてきて、いつもの場所に陣取る。この街は外食文化が盛んなのだろう。これから働く肉体労働者のために、朝粥や饅頭を提供するのが彼らの仕事だ。
目にして、思わずほっとさせられた。ここには日常がある。これが地に足のついた人々の暮らしというものだ。世界中を気儘に旅して、あちこちで剣を振り回したからって、何が偉いものか。
ただ、それはそれとして、街の喧騒は今の俺には苦痛だった。
彼らが仕事用の車を大通りの脇まで引っ張ると、石畳の上でガタゴト音をたてる。早朝から出かける労働者が通りかかって饅頭を注文する声にも遠慮がない。やや粗野な口調のハンファン語で、あれをくれと言う。そういう物音の一つ一つが頭で反響する。
臭いも気になる。特に、肉を調理したものの臭いが我慢ならない。客観的には、いかにもおいしそうな気がするのだが、今の俺には受け付けられない。
「はは、うまそうだな」
フィラックが乾いた声で言う。
わかっている。みんな今は食事どころではない。一昨日の夜、タウルやラピと食卓を囲んだばかりだというのに。たった一日隔てただけで、こうも変わってしまうとは。
「ここが本当にカークの街なら」
ジョイスが、まだ信じられないというように、周囲を見回しながら言った。
「お師匠の兄弟弟子のワン・ケン様がいるはずだ」
そうだった。ジョイスはもともと、彼を訪ねるためにここまで旅をしてきたのだ。
「ちょっとその辺で食いもんでも買って、道を訊いた方がいいな」
「宿屋に落ち着けばいいんじゃないのか」
「こんな時間だし、空いてねぇよ。それにこんな状況じゃ、何をするにも早いとこ地元の人間と繋がっておいた方が、余計な苦労もねぇだろうし」
それも道理だとフィラックは引き下がったが、ジョイスはジョイスで、これは困ったと頭を掻きむしった。
「けど、俺、まだシュライ語もハンファン語も、ちゃんと喋れねぇんだよなぁ」
「シュライ語でいいなら、僕が」
クーがすっと前に出て、立ち並ぶ露店に目を走らせた。店主達の顔色を見比べているのだ。
一人の中年女性に目をつけた。焦げ茶色の上着に、同じ色のズボン。恰幅のいいおばさんだ。クーは軽快な足取りで近づいていって、明るい声色で話しかけた。
「おばちゃん! おはよう!」
「ああ、おはよう……」
やっぱりハンファン系の顔立ちをしている。顔はしっかり日焼けしていて、ほうれい線も出ている。艶のない肌も、ガサガサの手も、よく働く人のそれだ。
そんな彼女が仕事の手を止めて、何気なくこちらに視線を向けると……
「ってどわぁっ!? な、なんだい、あんたら! バ、バケモノ!」
「おばちゃん、大丈夫だよ。ペルジャラナン、来い!」
普段、クーがこんな言葉遣いをすることはない。相手と状況を見て、態度を使い分けているだけだ。
ペルジャラナンの方もよく心得ている。大人しいペットの役割を果たそうと、ラピを包んだものをディエドラに預け、その場に盾をおいてペタペタとおばちゃんの露店に近づいていった。
「ひっ」
「お座り!」
「……えっ?」
大人しくしゃがみ込んだペルジャラナンの頭を、クーは当然のように撫でた。
「ギィ」
「そ、そいつ、どうなってるの?」
「かわいいよ。おばちゃんも撫でてみてよ」
それで彼女は、尻込みしながらも手を伸ばした。ツルツルしたペルジャラナンの頭に、彼女のゴツゴツした手が触れる。
「あらやだかわいい」
「でしょ? でさぁ、かわいいついでに肉饅頭七つ、ちょうだい」
「あいよ。銀貨一枚と銅貨四枚だよ」
そこでクーはわざと甘えてみせた。
「えーっ、トカゲ撫でさせてあげたんだから、ちょっと負けてよ」
「駄目だよ、商売だからね」
「ちぇっ、わかったよ。で、おばちゃん、ついでに教えて欲しいんだけど」
「なんだい」
「この街にワン・ケンっていう武術の先生がいるって聞いたんだ。どこにおうちがあるか、知ってる?」
すると彼女は真顔になった。そして、俺達の顔を見比べる。
「ワン・ケン師に何の用だい?」
「こっちのルイン人のお兄ちゃんが、ワン・ケンっていう先生の兄弟弟子の……マオ・フーって人のお弟子さんなんだって。だから、フォレスティアから訪ねてきたんだよ」
すると、彼女はほっと息をついた。
「なんだい、そういうことかい。じゃ、行き先はね、この大通りをまっすぐ行ったら大きなお屋敷があるから、そこを左さ。街の外れの方に高い壁に囲まれたやたらと広い敷地があるからね、そこがワン・ケン師の道場さ」
「ありがと!」
クーが戻ってくると、ジョイスは尋ねた。
「道はわかったのか」
「はい。それは」
抱えた肉饅頭を、彼はみんなに手渡した。
「どっちだ」
「こちらの道をまっすぐで、大きな屋敷が見えたら左だそうです」
だが、口調に何か引っかかりを覚えたのか、フィラックが言った。
「どうかしたのか」
「いえ、あの露店のおばさんですが、何かを警戒していたようです。ワン・ケン先生には好意的なようですが」
「何かって」
「わかりません」
俺達を見て、新手の道場破りか何かだとでも思ったのだろうか? 呼び方からして「ワン・ケン師」だから、街の人からはそれなりに尊敬されているのだろう。
もう変な揉め事に巻き込まれるのは勘弁してほしいところだが……
「ファルス」
ノーラが俺に尋ねた。
「食べないの?」
前世日本ならマナー違反の歩き食いも、こちらでは別に問題とはなるまい。その手の作法にうるさい土地柄なら、こんな売り方はしないだろうから。それでみんな、簡単に朝食を済ませるくらいの気持ちで、気分でなくても胃袋に詰め込むつもりで食べている。もっとも顔を見る限り、意外とイケる味だったようだが。
しかし、俺はまだ、一口も食べていない。
「ちょっと今、食欲がないんだ」
「わかるけど、昨日もろくに食べてないでしょ?」
「ああ。でも……後で」
この肉饅頭が悪いのではない。今、どうしても食べられる気がしない。
そんな俺の様子を察して、ノーラも無理にと勧めてくることはなかった。
言われた通りに歩いていくと、やがて左右に切れ目のない真っ白な塀が目の前に見えてきた。その塀の上にはいちいち瓦屋根が乗っている。
「ここか……でも、入口は?」
「あっちだ」
ジョイスが指差した先に入口があった。やっぱりというか、こちらの建物は前世でいうところの東アジア風に近い印象だ。入口のところには、実用性とは別に大きな屋根が据え付けられている。扉は木製だが、表面に青銅の鋲が打ってある。
入口は半開きになっていた。門前に立つと、中から人の気配を感じた。それも一人や二人ではない。なんと、こんな時間から鍛錬をしているらしい。大勢の門弟が通っているようだ。
すぐさま少年が一人、こちらまで走ってやってきた。服のデザインは、以前、マオ・フーが着ていたのに近い。カンフースーツみたいだが、彼のは灰色だった。
彼は門の内側から尋ねた。
「どちら様でしょうか」
するとジョイスはぎこちないシュライ語で答えた。
「マオ・フーのモンテイ、ジョイス・ティック、ワン・ケンセンセイにおメミえネガいたく」
あまりにひどい発音だったので、俺が訳して伝えると、少年は頷いた。
「少々お待ちください」
それからすぐ戻ってきて、俺達は中庭に通された。
同じく灰色のカンフースーツを身に纏った大勢の門弟が、集団で練習をしている。その様子を眺めている黒い服の老人がいた。髪はもう真っ白だが、背筋はまっすぐ立っている。
「師父、客人をお連れしました」
「ご苦労」
向き直った老人は、俺達に鋭い視線を向けた。ペルジャラナンとディエドラを見て目を細めたが、特に何も問うことはなかった。
「遠いところからよくぞいらした。して、どのようなご用件か」
ジョイスが理解できずに口をパクパクさせているので、俺が代わりに答えた。
「こちらのルイン人がジョイスで、マオ先生の弟子です。まだシュライ語もハンファン語も未熟なため、そこはご容赦ください」
「うむ」
「ジョイスは、ここカークの街での修行を望んでおります。また、それとは別に、私からもお伝えしたいことが」
「なに?」
「失礼致します」
例の手紙だ。
結局、ここまで持ってきてしまった。どうせ後から出発したジョイスと合流したのだし、意味がない気はするのだが。
ポーチに入れっぱなしだったのを思い出してそこから引っ張り出し、頭を下げながら両手で差し出した。
「それは?」
「マオ先生からのお手紙です」
「手紙だと」
ワン・ケンはあからさまに顔色を変えた。それからすぐ封を切り、中身に目を通した。
後ろから、ようやくジョイスが進み出た。
「ワッ、ワンケンセンセイ」
「フォレス語もわかる。おいおいこちらの言葉も覚えてもらうが、楽に話すがいい」
「はっ!」
ジョイスは背筋を伸ばして姿勢を整えると、深々と一礼した。
「では、ワン・ケン先生にご報告申し上げます! 我が師マオ・フーは、九九七年蛋白石の月十五日に身罷りました。師は私に、今後はワン・ケン先生に師事するようにと言い残されました」
一瞬、何を言われたのかと思った。
今年の一月? サハリアの戦争が終わった直後くらいに? 亡くなっていた?
わかってはいた。長くはないだろうとは。けれども、また親しくしていた人が、この世から去っていった。そのことが、今は耐えがたい衝撃だった。
さっきまで辛うじて立って動いていられたのに、ここにきて、糸が切れたような感じがした。
「ジョイスよ」
「はっ!」
「お前はマオ・フーの正式な弟子ということでよいな?」
「その通りです!」
頷いたワン・ケンは、俺達を見回した。
「それで、この同行者達は」
その言葉が途切れた。
俺がその場で倒れ込んでしまったからだ。
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