ケフルの滝

 久しぶりに快適な船旅となった。強い西風のおかげでほとんど櫂を漕ぐ必要もない。頭上にはほどよく雲が出て、青空も垣間見えるのに、しばしば直射日光が遮られている。

 昨夜、三日ぶりに降雨があった。そのおかげで、川幅がまた急激に広くなった。河の真ん中まで船を運ばずともよくなり、出発も楽になった。水が少々濁りがちなのが玉に瑕か。とにかく、体力を温存しながら前進できている。


「絶景だな」


 フィラックが振り返ってそう言った。


「はい」


 目の前に聳える絶壁。これがケフルの滝だ。

 その落差は目測でも軽く三百メートルを超える。いや、これはどうもそれどころではない。まるで樹皮のような色をした岩山が連綿と続いていて、ある所から水が流れ落ちている。そのすぐ下には何十メートルもの幅がありそうな大きな滝壺があり、白い飛沫があがっているのが見えた。

 岩山はほぼ垂直で、とてもではないが人間が這い上がれるようなものではない。そんなところでも植物にとってはとりつく余地があるらしく、緑の苔や蔦などが少しずつ表面を覆っている。もっとも離れたところからだと、そういう生命の痕跡は黒ずんだ汚れのようにしか見えないが。

 左右にはいつものように黒土の丘が、滝の両肩のように盛り上がっている。俺達が目指すのは、滝の手前の右の丘の麓だ。そこに砂洲ができており、ボートで乗り上げることができる。


 これが前世なら、絶好の観光ポイントになるのだろう。壮大な滝。深い緑の密林。手付かずの大自然だ。正直、素晴らしいツアーだと思っている。それでも内心は晴れなかったが。

 ここまでの殺人の数々にも思うところはあった。だが、今の俺の頭の中を占めているのは、昨日のラーマの話だった。


 バジャック・ラウトというゲランダンの本名を、彼が知っていた件。

 原因を確かめずには済ませられない。別に自分でピアシング・ハンドを活用して他者の心を読むのも不可能ではないのだが、その場合、能力の組み換えでどうしても時間がかかる。しかもその間、この切り札を使えなくなる。だから迷わずノーラに頼んだ。

 しかし、能力からして、リスクなしに調査できるのはラーマの頭の中だけだ。わかったのは、次の通り。


 まず、ラーマはバジャック・ラウトというのが誰の名前かを知らない。単にゲランダンからの指示で、三つの質問をしてこいと言われただけ。それが「ゲランダンをどう思うか」「ティズ・ネッキャメルと親しいのか」「バジャック・ラウトという男を知っているか」これだけだ。

 そのそれぞれの反応を見て、よく覚えて報告しろと。また、この件については他言無用だとも言われている。金貨を握らされていた一方で、他所に漏れた場合は必ず殺すとも伝えられていた。


 やられた。

 ゲランダンには、直接的に人の心を読む手段はない。だが、突拍子もないことを言わせて俺の対応を確認し、頭の中を類推することは可能なのだ。

 それにしても、なぜ今になって「バジャック」を知っているかどうかを問題にするのか。可能性としては、彼がどこかで悪事をやらかした人物で、ここまで逃げてきたという状況が考えられる。だが、それがどうした? 俺には関係ない。興味もない。単に後方基地を維持して、必要な食料その他物資の輸送をこなしてくれれば、それでいいのだが。


 どう対処したものか。

 そんな素振りはまったく見せないのだが、あれで案外、疑心暗鬼になっているのかもしれない。といっても、下手に動くと藪蛇になりかねない。更なる利益を約束しようと申し出ても逆に身構えるだろうし、お前がバジャックなのは知っているぞとカマをかけるのも、警戒心を高めるだけだろうし。

 だが、よくよく思い出してみると、もしかすると彼は最初から俺達を警戒していたのかもしれない。最初の出会いは、ディエドラのオークションだった。あの時、当たり前のように競りの結果をなかったことにしていたところ、フィラックが赤の血盟の名前を出した瞬間、態度をコロッと変えた。その後も、雨の中、わざわざ俺達の小屋までやってきて、協力を申し出た。


 では、どうするつもりだろう? 俺を殺すとか? だから奥地まで案内したのか? 分配される利益を犠牲にして、より危険な場所に進む権利を優先したのも、そういうことであれば辻褄が合う。

 だが、そんな真似をすればどうなるか。あっさり俺を始末できたとしても、後援者たるティズが事件を聞きつけたら、余計にまずいことになりそうだ。いや、俺を殺すという非常手段に出るとすればだが、彼の頭の中は、もっと差し迫っているのかもしれない。つまり、既にティズはゲランダンの正体も居場所も突き止めていて、刺客として俺とその仲間達を派遣したのだ、と。

 しかし、考え過ぎということもある。当たり前だが、いくら無法な大森林とはいえ、ハンター同士の殺し合いなんて許されるはずがない。それを制止するために監督官が派遣されるのだから。ディアラカンも、さすがに目の前で仲間殺しをするのを見かけておいて無視したら、真相が明らかになった場合には処罰を避けられなくなる。むしろそんな事件が起きたなら、彼からゲランダンの討伐命令が下ってしかるべきだ。


 先んじて彼を殺すか?

 だが、実のところ、そこまでする理由がない。というのも、ラーマは見たままを報告したにすぎないからだ。

 ゲランダンにとって重要なのは、俺がバジャック・ラウトの存在を知っているかどうかで、これについて俺は返事をしていない。あの時はラーマが勝手にそう喚きたてたが、ゲランダンに報告する際には、やはり事実しか言わなかった。つまり、ファルスは何も言わなかった。否定も肯定もしなかった、と。

 要するに、彼からすれば、こう判断できるのだ。ファルスはいきなり突拍子もないことを言われたので、ただ戸惑ってポカンとしていた。半ばそれは事実でもある。


 どうしようか?

 何がベストか、なかなか決められない。とりあえずは……


 彼に媚びよう。

 頼りにしているのだという意志表示をして、反応をみるとしよう。


「まずは到着おめでとう、というところだな」


 切り株の上に腰かけた彼は、俺達を前にそう言った。

 ゲランダンからすれば、つい二ヶ月前にここを発ったばかりなのだ。当時の宿営地はそのままに残されている。丈の高い木々の狭間の、下生えの少ない辺りに彼らは陣取っていた。微かにだが、当時の焚火の跡なども残っている。


「この前、ここから帰ったばかりなのに、またすぐ来るとは思わなかった」

「助かりました」

「なに、それはこっちのセリフだ。正直、途中でつらくなって逃げ帰るか、うっかり死ぬかのどっちかだと思っていたんだがな。まさかお前らの班が無傷なのに、先に俺のところから死人を出すとは思ってなかった」


 今回の会議には、ディアラカンも同席している。じっとしているだけで何か言いだしそうな様子はないのだが。顔色もあんまりよくない。ここまでの旅路で、すっかりくたびれてしまったのだろう。それに現地人なだけに、ここがどれほどの奥地かもよく知っている。ここまでやってくるのに三週間近くかかったのだ。危険に見舞われても、自力で切り抜けるしかない僻地。不安は大きいはずだ。

 ふと、どうして最前線まで彼がやってきたのかということが気になった。彼だって毎度毎度、危険度の高いところに出張っていたのでもないはずなのだが。いや、これは考えるまでもないか。点数稼ぎのためとすれば、不自然ではない。


「庇ってもらったおかげかと」

「いや、案外腕があるんだな。ゴイを始末したときといい、ニクシーどもを片付けたときといい、見た目によらん」


 戦えるところを見せたのは、やはりマイナスだったのかもしれない。


「弓だけかと思いきや、剣も使うとは。なるほど、王様やネッキャメル氏族が気に入るわけだ」

「いえいえ、まだ未熟な身の上なので」

「ああ、いい。そういうのは」


 そこで背の高い色黒の男が割り込んだ。


「それより、そろそろ」

「ああ、そうだな、トンバ。これは作戦会議だった」


 ゲランダンの片腕、副班長のトンバだ。肌は黒く筋肉質だが、顔立ちが少し西部シュライ人らしくない。


「ぶっちゃけて言うと、ここから先の奥地の探索は、そんなにできてない。俺達が知ってることも、そんなに多くはない」


 それからゲランダンは、この辺の地形について説明を始めた。

 まず、ケフルの滝を構成するこの岩山は険しく、登っていけそうなルートはまずない。まるで城壁のようにきれいに西側を塞いでいて、どこをどうすれば抜けられるのか、まるで見当がつかない。

 ただ、目印に乏しい大森林では、この岩壁の存在自体が重要な手がかりだ。これが関門城に近いマンガナ村みたいなところには、人が歩いた足跡がしっかりついているので迷うことはない。ケジャン村にしても、その辺の事情は似ている。どうしても人が行き来する領域では、その動線が道に痕跡を残す。だが、人跡未踏の地であるここから先では、そうした目印がない。


「だから、左手に岩山を見ながら歩く。そうやって位置を確認しながら南下するしかない」

「前回、見つけたものはあるんですか」

「一応、気になるところはあった」


 ここから南下すると、とある丘の上から三叉路に出る。これは文字通りの道で、マンガナ村でみたような人工的な通路がそうなっているというのだ。

 左側に向かうと、ケカチャワンの支流と思しき別の滝に出くわす。川幅は大したことがないのだが、前回のゲランダン達は渡河を断念した。とにかくゴイ……あの人面魚どもがうようよいたというのだ。一方、右側の通路を進むと、また大きな丘に出る。前回、彼らがディエドラと遭遇したのも、その辺りだという。


「その丘からも多少だが、黄金の食器が見つかった」

「有望な場所だと」

「ああ。だが、そこの獣人が見つかったのが大きい」


 指差されたディエドラは、怒りを露わにした。それでも、首輪もないのに暴れだしたりはしなかった。


「近くに村でもあって、一網打尽にできれば、儲けはこの前の比じゃなくなる。例のニクシーどものお宝も大きいが、ここで何人も獣人を見つけてみろ」


 それは……させるわけにはいかない。

 なんとか口実を作って、俺がディエドラを連れて先行して、彼女の仲間を逃がすなどさせてやらねばなるまい。もちろん、その代償に可能な限りの道案内をしてもらおうという下心はあるのだが。つまり、信用を稼ぐチャンスでもある。


「それで、途中までは俺達も進もうと思っている」

「えっ」

「三叉路のところに、二つ目の基地を作るつもりだ。そこを起点に、奥地を偵察して回る。そうすれば、救援が間に合わないなんてこともない」


 どうしよう?

 ここで「下がっていろ」と言ったら、彼はどう考えるだろうか? 自分達だけ儲けるつもりなのか、と切り返されるのではないか。いや、しかし、上陸する前に考えていたように、彼が俺達を何か危険な、追手か何かだと認識していた場合……


「稼がせてもらうんですから、そこはそうですね、見返りは考えます」

「ほう?」

「ゴイでいっぱいの河があると言いましたね」

「ああ」

「そこを越えられる場所を見つけたら、ゲランダンの渡しって名前をつけますよ」

「はっはっは!」


 現にディエドラがどこかで河を越えているのだから、これはあるはずだ。しかし、実際には見つけても、彼らに報告するわけにはいかないが。


「いや、な」


 彼は座り直して脚を組み、力を抜いて話し始めた。


「お前のところは男手が足りない」

「まぁ、そうです、ね」

「探索の仕事は戦うだけじゃない。煮炊きするのも、見張りをするのも、全部大事な仕事だ。それは女子供でもできる」


 彼の視線は、ノーラとクー、ラピに向けられた。


「だが、それはどっちかっていうと、後ろの宿営地で仲間を支える奴の仕事だ」

「まぁ、はい」

「うちは戦える男がそれなりにいる。そこのトンバもそうだが」


 彼が手招きすると、体の小さな西部シュライ人の男が前に出た。


「前にも紹介したが、プングナは槍の使い手だ。なかなかこれだけの腕のはいない」

「はい」

「前に出るときには、こいつらをつけてやれる」

「いいんですか?」


 彼は両腕を開いて言った。


「出し惜しみして探索が失敗したんじゃ意味がねぇからな」


 これをどう考えるか。自分の班を一枚噛ませることで利益を得たいのか、それとも……

 考えても仕方がない。彼らは人間としては十分以上に強いが、どちらにせよ俺が相手なら、そうでなくともアーノやペルジャラナンと戦ったら、まず間違いなく倒される程度の力しかない。しかも、連中はノーラの魔法の力も知らない。

 多少のことがあっても、こちらに負けはない。


「助かります」


 俺は笑みを浮かべてみせた。


「ここまで助けてもらっておいて、皆さんの利益がお宝の分け前くらいでは、ちょっと申し訳ないですね」

「ふん? 他に何か礼でもしてくれるってか」

「腕があるのはわかりましたし、この探索が終わったら、なんなら仕事を斡旋してもいいですよ。赤の血盟で働きたければティズ様に手紙を出せますし」


 さぁ、どう出る?


「ふーん、確かこの前、戦争やらかしたんだっけか」

「ええ、そうです。当然、ティズ様が勝ったんですが」

「そいつは怖い」


 彼は肩をすくめた。


「サハリア人の復讐ってのはおっかねぇからな。大方、黒の鉄鎖の生き残りがティズを殺しにいくんじゃねぇかって思うんだがな。で、そんなところで仕えてみろ。身を張ってご主人様を守って死んじまうぜ」

「はは、確かに」

「せっかくだけどな、やめとくぜ」


 予想通りの反応だ。

 だが、これだけではむしろ藪蛇になるだけなので、代案も出しておく。


「じゃあ、タンディラール王に頼んでみましょうか。海竜兵団とか、いかがです?」

「そんなに簡単に入れるのか」

「僕が口利きをすれば、まず大丈夫です」


 完全に嘘。

 サハリアの件できっとカンカンになっている。俺の顔を見たら怒鳴り散らすんじゃないか。じゃなければチクチクと嫌味を言われるか。

 それにゲランダンはもう四十代の半ばだ。今から海竜兵団に加入して、二十年の年季が明けるまで務める……さすがに無茶だろう。


「初めから隊長くらいには、なれるんじゃないかと思いますけどね」

「そいつはすげぇ。そっちは頼むぜ」

「楽しみにしていてください」


 とはいえ、こちらの事情までは知るまい。

 当面、フォローよし、といったところか。


「ちょっと早いが、今日は食って寝よう。明日から、南に向かうぞ」

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