ケジャン村の竈
「半日でいい。二人借りたい」
夜明けより間もなく、朝靄に木々の黒い影が半ば埋もれている中で、フィラックは早速に難題を吹っ掛けられていた。
「そちらの班で融通できないのか」
「無理だ。残りが五人しかいないのに」
相談を持ちかけてきたのは、アワルだった。
だが、テントから這い出てきたばかりで事情が掴めていなかった俺は、横合いから声をかけた。
「何があったんですか」
「脱走だ。昨夜のうちに、三人が逃げた」
後方を預かるアワルは、自分自身を含む十人の班員の他、ボートなど嵩張るものを運搬するために、最初二十人もの人足を雇った。そのうち一人が、マンガナ村で刺殺された。その分は、下手人のシニュガリをペダラマンから借り受けて、穴埋めした。
ところが昨日、軍隊蟻の行進に出くわしてしまった。あれで恐慌をきたした人足の一人が犠牲になった。この時点では、アワルが自分の荷物を仲間に預けて、死んだ人足の分、ボートを運ぶ手伝いをした。それが今朝、夜明け前に三人の人足が脱走したという。
さすがに穴埋めできる限度を超えていた。既に五人のメンバーをマンガナ村に残して、食料などを輸送する仕事に充てている関係上、人足を除いたアワルの班は、残り五名しかいない。自分達の荷物もあるので、四人分の運搬作業を引き受ける余地はなかった。
「半日でいい。ケジャン村に着くまでだ」
「その後はどうする。ケカチャワンまでは、まだ二、三日かかるはずだ」
「それは」
彼はちらりと俺を見た。
「村で人足を雇いたい、ということですか」
「そうだ。足許を見られるかもしれない。ただ、問題なのは」
先のことより今のこと。
村まで行けるかどうかが問題なのだ。
ふと、逃げ出した三人のことをふと考えてしまった。
何事もなければいいが、ここまでの数日分の距離を、慣れもないのに、しかも夜中に僅かな人数で戻るとなれば……
魔物が道中にいなかったのでもない。森の奥には常に、あの巨大ゴキブリどもがいた。ただ、こちらが大勢だったから近寄ってこなかっただけだ。それが少人数が相手となったら、どんなことになるか。とはいえ、今からではどうにもならない。
「支払うのは構いませんが」
それより当面の人員が必要だ。
「では、僕が」
「ああ、いや」
順序でいえばイーグーを派遣すべきなのだろうが、彼が負担している分量の荷物を全員に割り当てると、特にクーやラピが耐えられなくなる。では、アーノを送るかという話になるのだが、あの男にボートの運搬なんてやらせたら、どんな顔をされるか。
他もダメだ。シャルトゥノーマみたいな美人を男どもの真ん中に差し出すなんて考えられない。その意味ではノーラもやめたほうがいい。ディエドラやペルジャラナンは論外だ。そうなると消去法で、俺、ジョイス、フィラック、タウルしかいない。
「わかった。じゃあ俺が行こう。それとジョイスにも手伝ってもらえるか尋ねてみる。駄目ならタウルに頼むしかない」
「僕が言い出して始まった探検ですよ」
「魔獣でも出たら、全部押しつけるからな。俺達でもできる仕事は任せてくれ」
とはいえ、これが合理的か。
「じゃあ、二人分の荷物は、僕とペルジャラナンで分担して運びます」
「そうしてくれ」
それからおよそ半日ほど。森の中を歩くうち、一際高い位置を占める黒土の丘が見えた。といっても、俺の視界に入るのは、ただの急な斜面と突き立つ木々だけなのだが。
ここがケジャン村らしい。予定としては、ここで丸一日の休みを取ることになっている。一週間ほどかけて、ずっと森の斜面を歩き続けてきたのだ。そろそろ各々にも疲労が蓄積している。出発は明後日の朝からだ。
斜面を登り切って、はじめて村の全景を目にした。
それはまるで砦のようだった。丘の上部の円周に沿って、大木が生えている。その大木の幹を支えにして、三階建てくらいの家を隙間なく建てていた。もちろん、一階に窓などはない。一ヶ所だけ、そうした家々の壁が途切れている個所があり、俺達はそこから村に立ち入った。
中に入ってみると、そのあまりにあっさりとした造りに呆れてしまった。部屋というものがない。正確に述べるなら、家々の壁の内側には、何もなかった。一応、壁の強度を維持する理由もあって、縦方向に間仕切りが入っていることはあるが、真ん中の広場に向けての面は、完全に開放されていた。せいぜい手摺のようなものがところどころに設けられているのと、蚊帳みたいなのが吊り下げられている程度だ。あとは頼りない細い梯子があちこちに立てかけてある。
住民は、目だけがギラついた小汚い男達と、表情のない若い女達だけだった。彼らは二階や三階の床に座り、足をブラブラさせながら、俺達を見下ろしていた。
村の中には大木がいくつか残されており、その下に畑がある。ただ、井戸のようなものが見当たらなかった。水瓶がいくつも置かれているので、あそこに汲んできた水を貯めているものと思われる。一方、家々から離れた真ん中に竈のようなものがあった。火を扱う仕事は、そこで済ませることになっているのだろう。家々の一階部分は物置になっており、中には薪が山積みになっているところもあった。
これは、村の中だけで生活するのは不可能だ。そう直感した。畑は狭すぎるし、水も外部に求めなくてはいけない。だからこそ、彼らは金を必要とする。王国当局からは脱法移民として追われる立場でありながら、同時にまた、大森林のハンター達の活動がなければ、干上がってしまう。
「ボートはそこでいい。出入口の傍に置いておけ」
アワルの声が後ろから聞こえた。
「ふいーっ、こいつは肩にくるな」
ようやく肉体労働から解放されたフィラックが明るい声でそう言った。だが、一緒に運搬作業を引き受けていたジョイスの顔色はよくない。
「おい、大丈夫か? こたえたか」
「いや、なんでもねぇ」
ジョイスは不愛想に返事をした。そして、ぼんやりと村の中央の竈を眺めた。かと思うと、急に口元を覆って歯を食いしばり、顔を掻きむしった。
「お、おいおい。なんだ、どうした」
「くそっ」
俺は察した。村の人間の頭の中が見えてしまったのだ。ただ、フィラックはジョイスの神通力については知らないから、ただの体調不良にしか思われないのだろう。
この様子からすると、また何か気持ち悪いものが見えたのだ。ただ、それは今すぐ俺達に危険をもたらすようなものではない。だからジョイスは苦しそうな顔をするだけで、あえて何も言わないのだ。
「フィラック」
アワルが駆け寄ってきて話しかけた。
「事前に決めた通り、俺達の班はここで二つ目の拠点を構えて待機する。マンガナ村からの補給を受けたら、十日に一度、ケカチャワンの河岸まで出て、ペダラマンの班と連絡する。とりあえず、こっちはヤンに任せて薬草集めをさせる予定だ」
「ああ」
「ボートを河まで運ぶから、俺は残りの人足を連れて、河まで行く。ただ、人が足りないから、ここで四人雇う。早速話を通したい。ついてきてくれるか」
ふと嫌な予感がしたが、金の話となれば俺も顔を出さねばならない。それで俺は二人の後について、村の中心にある竈に向かって歩いていった。
竈の周りには木の椅子があり、そこに五人の男達が所在なさげに座り込んでいた。俺達の足音を聞くと、面倒そうに振り向いた。
「済まないが、村の代表はいるか。村長は」
フィラックが声をかけるが、返事はない。彼らは顔を見合せた。穏やかな微笑というべきか、それとも人を小ばかにする笑いなのか。どうとも判断しかねる微妙な表情だった。
「なんだ」
竈の正面方向に座っていた、割合大柄な男がしゃがれた声で返事をした。髪も髭も伸びっぱなしだ。服は着ているが、何かの汚れでひどい状態になっていて、これではフォレスティアの乞食のほうが遥かに清潔に見える。
「人を雇いたい」
「何の仕事だ」
「難しくはない。ケカチャワンまでボートを運ぶ男を、四人借りたい」
こちらの要求を聞くと、彼はしばらく沈黙した。
それから、その視線は竈の中へと向けられた。まさに今、何かが火にくべられている。
「四人、死んだのか」
「いや」
代わってアワルが説明を引き受けた。
「一人は死んだ。蟻にやられた」
「フン」
あからさまな嘲笑だった。そんな理由で死んだのか、と。
「災難だったな」
「あと三人は、逃げた」
「逃げた?」
「昨夜、目を離した隙に。仲間が一人、目の前で死んで、動揺したんだろう」
「フン」
また、鼻で笑った。
「ボートを一回、河まで運ぶだけだ。二日、かかっても三日。あとはみんなでこの村まで帰ってくるだけだ。一人頭、金貨三枚でどうだ」
「十枚」
「高すぎる。五枚」
「六枚だ。それ以上は負けん」
アワルはフィラックに目配せした。フィラックは大きく頷いて、懐から数えて二十四枚の金貨を差し出そうとした。その手をアワルが遮って、握りこむ。
「金を渡すのは、明後日の朝だ」
「あるのはわかった。まぁ……いいとも」
男は椅子の背凭れに身を預けていたが、ふと思い出したように腰を浮かしかけた。
「そうだ。そろそろ昼だが、お前ら、飯でも食うか?」
「ありがたい」
「ちょうど肉を焼いていた。そろそろ食べ頃だ」
男が合図すると、脇に座っていた別の男が席を立ち、竈の中に突っ込まれていた棒を引っ張った。それを横から受け取ると、彼は俺達にそれを差し出した。
「そら、遠慮なくやってくれ」
こともなげに、彼は串焼き肉を差し出した。同時に、背後からは下卑た笑いが巻き起こる。
受け取らされたフィラックは、目を丸くしていた。叫びだしたり、手にした物を抛ったりしないだけマシだった。
それは、黒く焦げた人の腕だった。
焼け残ったところから判断すると、西部シュライ人のものらしい。浅黒い皮膚の一部が、何か切れ味の悪い刃物を受け止めたらしく、裂けている。また、中指の爪が剥がれていた。
指のところは火が入りすぎているのか、一部は完全に焦げてしまっていた。逆に肘の辺りはまだ十分に火が通っておらず、白い骨の内側にはまだピンク色の肉の部分が残っていた。そこから、不十分な血抜きの結果なのか、時折赤黒い粘液のようなものが滴り落ちてくる。
「昨日の夜に、いや、明け方前か……この辺までやってきた間抜けな男がいたんでな。ついつい手を出しちまった」
なんでもないことのように、彼らは笑いながら説明する。
「もしお前らのところの人足だったら、気の毒なことをした。生かしときゃ、余計な金を出さずに済んだもんな。だから、それは詫びだ」
迷い込んだ男の足許を見た、といったところか。これがもし、ペダラマンやゲランダンから派遣された連絡役だったら、勝手に殺して食うなんて、まずしなかったはずだ。そうではなく、探索隊から勝手に離脱して逃亡した……要は後ろ盾のいない相手だったから、匿ってやるまでもないとして、こうして始末してしまったのだ。
俺は、フィラックの手から串をひったくった。それを男に突き返す。
「構わない。そっちで腹いっぱい食ってくれ。ボートを運ぶのは大変だからな」
もののついでに、慣れのない大森林初心者を脅かしてやろうと。この人食いどものチンピラ根性には、まともな付き合い方では対応できない。
「はっはは! そうだな、ボウズ、貰っとくぜ」
ジョイスの気分が悪くなるわけだ。
俺も正直、吐き気をおぼえる。ただ、今更驚くほどのことでもない。人肉食ならスーディアでとっくに味わった。
「あん? 焼きが足りてねぇなぁ」
「もうちょい入れとけ」
彼らは腕を竈に戻した。
アワルは落ち着いた声で尋ねた。
「他の二人は来ていないか」
男は肩をすくめ、首を振った。
「知らんね」
「わかった。明後日までに四人ほど、手配しておいてくれ」
それだけ言い切ると、アワルはフィラックを促して、引き下がらせる。俺も一緒にその場を後にした。
周囲を改めて見回す。村の住人は何をするでもなく、所在なさげに俺達を見下ろすばかり。
大丈夫、何も起きない。起きたところで、俺に敵う相手はいない。俺どころか、ペルジャラナン一人を食い止めることもできないだろう。そういう心配はない。第一、ゲランダンもペダラマンも、この村の連中とは同盟関係にあるという。だから、その枠でここに留まる限りにおいては、まず狙われる心配はない……はずだ。
だが、なんといえばいいのか。この前のマンガナ村での殺人にしてもそうだった。どこかなにかが引っかかる。彼らは当たり前のように殺し、そのことに何も感じていなかった。どんな言葉で説明すれば自分が納得するのだろう? 少し考えて、ある気付きが思考を貫いた。
人の死は、ここでは悲劇でもなんでもないのだ。
思い至ったとき、俺はそのおぞましさに、思わず身震いした。
ここでは、ここ以外のどこでも常識として認められる心の在り方が、まったく通用しないのだ。
背中が汗ばむのを感じた。
それは多分、大森林の蒸し暑さのせいだけではなかった。
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