陛下の性癖

 先導する宮廷人の長い腰布、その裾に目がいく。茶色の布の縁に白いラインが一つだけ、きれいに引かれている。摺り足で歩く彼の踵をじっと見てしまう。

 いくつもの曲がり角を通って、いよいよ自室の前の廊下に差しかかる。建物の狭間から、橙色の光が鋭く差し込んできて、俺は思わず手で庇を作った。


 案内を務めた男は何も言わず、身振りで入室を促す。俺も黙ったまま、自室に引き返した。

 靴を脱ぎ、裸足で敷物の上に立つ。それから伸びをして、腰を下ろした。まだ横にはなれない。胡坐をかいたまま、俺はそのままじっとしていた。


「ふぃーっ……ったくよぉ」


 俺の後に続いて、ジョイスもここまで戻ってきた。靴を脱いで上がり込むと、足の甲までしっかり毛深いのが見て取れる。


「さすがの俺でもあんなに食えねぇって」


 ドスンと腰を下ろし、後ろに手をついて彼は足を伸ばした。


 金鉱の見学をした翌日から、毎日のように宴会に招かれた。だいたい昼前から始まって、夕方のこの時間までぶっ通しだ。

 宴会用の広間があり、そこの床にはコの字型にクッションが置かれていた。そこに埋まりつつ、次々供される料理を食べた。但し、手は使わない。こういう仕事専門の女達がいて、彼女らが二人一組で賓客の手の代わりになって食べ物を口に運ぶ。こちらの目線だけで何を食べたいかを察してくれるのだが、たまに見当違いな判断を下してきたりもするので、食べ過ぎてしまう。

 部屋の外には楽隊がいて、常に笛の音が絶えなかった。こちらの様子を窺いながら、会話が弾んでいるときには音量を抑え、間が空いた時には盛んに吹き鳴らす。巧みなものだった。

 出された料理には、しかし、まるで心惹かれなかった。皿こそ原色を多用したこちらならではのデザインのものだったが、そこにあったのはフォレス風のパンとかスープ、ステーキなどだったから。恐らく、賓客の代表が俺だから、口に合うようにと配慮した結果なのだろう。なるほど、味は悪くなかったし、特に問題もなかったのだが、どうにも面白みに欠ける。


 初回はこういうものかと思った。郷に入っては郷に従えという。それに、話題を紡ぎ出すのもそう難しくなかった。俺は世界中を歩き回っている最中なのだし、そうでなくても互いについて知らない者同士なのだから、どんなことでも口に出せば形になった。

 だが、三日連続でこれをやられると、そろそろ苦しい。話のタネもなくなってくるし、何より連日の食べ過ぎのせいで、だんだんと消化が追いつかなくなってきている感じがある。


「時間帯がなぁ……」


 体を動かさずに食っちゃ寝だ。このままでは本当に体が鈍ってしまう。

 昼前に宴会が始まるので、それに先立つ一時間くらい前から体を清めるなどの準備もしなくてはいけない。で、宴会が終わるとこの時間だが、当然夕食など入らない。何も食べなくても、とっぷりと日が暮れてからでも、まったく空腹にならない。それどころか胃もたれがひどい。よって睡眠不足になる。その結果は、翌朝の起床時刻の遅れに繋がる。


「ジョイス、今からでもちょっと体を動かそうか」

「あー、いいかもな」

「よし、じゃ、どこか中庭にでも」


 そう言って俺が腰を浮かしかけたところで、ジョイスは手を挙げて俺を制した。


「けど、その前にちょっと話が」

「なんだ?」

「怒るなよ?」


 なんだ?

 よっぽど悪いことをしたのでもなければ、俺は怒ったりはしない。昔みたいに「黙れ」というつもりもないのだが。


「俺に何が見えて、何が聞こえるかは覚えてるよな?」

「ああ」

「なるべく無視する練習はしたんだ、お師匠様のところで。だけど、聞こえるもんは聞こえちまう。しょうがねぇ」

「つまり、怒るなというのは」


 ジョイスは頷いた。


「そういうこった。もったいつけずにさっさと言うぜ?」

「なんだ」

「あの女王様、ノーラに気がある」


 俺はポカンと口を開けて、言葉の意味を反芻した。気がある? つまり、惚れたということ?


「男にゃ興味ねぇんだ、ありゃあ」

「それで、こちらの足止めをしていると」

「大森林に行かれたんじゃ、口説き落とせねぇだろ」


 行かなくても、ノーラを口説けるとは思えないのだが。だいたい、俺がいようがいまいが、ノーラの恋愛対象は男だろうし。

 むしろフィシズに夢中になって俺を捨てるというのなら、ある意味大金星も同然だ。使徒も呆れ果てて彼女を狙うのをやめるだろうし。でも、まずそうはなるまい。


「いや、だとすると」


 では、フィシズ女王はどう考える? 愛しいノーラちゃんを我がものにできなくて悲しい?

 失恋で済めばいい。だが、あれがそんなタマか? 金鉱の見物で何をしたか、思い出してみるといい。人の命なんてまったく気にかけず、水を流し込んだ。それで死者が出て、労働者達が騒いだら、側近の傭兵達を使って、更に殺して黙らせた。


「俺にゃあお前の心は読めねぇが……っと、早速、来やがった」

「なに」

「あちらさんの計画まではわからねぇ。けど、こっから追い出されるぜ」


 摺り足で近付く足音に、俺も気付いた。


「お休みのところ、申し訳ございません」


 若い宮廷人の男が、猫撫で声で部屋の外から声をかけてきた。

 苦しゅうない、申せ、とか言えばいいのだろうか?


「部屋の中へどうぞ」


 そこまで偉そうにものを言えないので、こう呼びかけた。それから出迎えるべく、俺は土間の前に立った。

 彼は簾を潜ってそっと土間に跪き、笑顔を作って俺に言った。


「ファルス様、まずは陛下に代わってご無礼をお詫びしなければなりません」


 奇妙な物言いに、俺は首を傾げた。


「女王陛下は私達の身分の低さにもかかわらず、大変よくしてくださっています。どのような非礼があったというのでしょうか」

「はい。賓客を迎えるのに、こちらの手落ちで何かと不自由な思いをさせてしまいました。金鉱の視察に際しても輿が足りないという失態がございましたし、今、お泊りいただいているお部屋につきましても、お二人様に一部屋、しかもこのような簡素なところしかご用意できず、誠に申し訳ないことと」


 確かに最高級の部屋をあてがわれた感じはしない。家具も少なくて部屋がガランとしているし。

 もともとここはベッセヘム王国時代の宮殿を流用したもので、更に遡るなら統一時代初期の将軍セイが本営を構えた場所だから、無駄に広さがある。クース王国という小国には見合わないほどに。

 とすると、実のところは、普段使っていない空き部屋を急いで掃除して、適当に家具を置いただけ、という見方もできるか。


「ですが、遅ればせながらファルス様に相応しい居室をご用意できました。つきましては、そちらにお移りいただければと」

「ありがとうございます。ただ、僕は今のところ、何の不自由も感じておりません。このお部屋も過ごしやすいですし、このままでも構いませんが」

「おお、ファルス様」


 男は笑みを消した。


「それでは私が陛下に叱られてしまいます」


 そうきたか。

 実際、俺が頑としていうことを聞かなかった場合、この男は罰を受ける。それにまた、さっきジョイスが口に出した目的を果たすために、もっと強引で先を読みにくい手を使ってくる可能性も出てくる。

 俺が大人しく従った場合、何をしてくるだろうか? 孤立させていきなり殺すか? いや、自国の底辺労働者ならいざ知らず、俺の立場を考えれば、もう少し穏やかな手段から試すとは思うが。


「そうまで言われては仕方がありません。では」

「ありがとうございます。それでは早速、お荷物などを運ばせていただきますね」


 俺は振り返り、ジョイスと目配せした。彼は黙って頷いた。


 連れていかれたのは別の棟だった。階層はさっきのところより上で、朝日が差し込む東側の部屋だ。

 しかし、なるほど、こちらの方が立派な部屋だというのは、入口を見れば明らかだった。さっきの倍くらい幅がある。また、仕切りも簾だけでなく、分厚いカーテンを下ろすこともできるようになっていた。

 内装も立派なものだ。一面は壁画になっていて、そこには果樹や清らかな山河の様子が描かれていた。敷物は変わらないが、置かれた家具の品質がまるで違う。ただの木のベッドではなく、漆か何かで塗装されており、そこに黄金の装飾が散りばめられている。丈の低い卓もあるが、これは部屋食用だろう。こちらもベッドと同じく、大層な代物だった。また、香炉も部屋の隅に置かれているが、これも黄金製。別の部屋には浴室があるのだが、もちろん蚊の増殖を防ぐために常に水流がある。


「いかがでしょうか」

「僕は一介の騎士に過ぎません。これほどの歓待は、度を越えているのではないでしょうか」

「そのようなことはございません。陛下からは重ねて非礼をお詫びするようにとのこと」


 さて、どうなることやら。

 女王の次の一手は?


 とりあえず、俺は部屋の奥、衝立の向こうにあるベッドに歩み寄った。天蓋から半透明の薄い布が垂れ下がっていて、それが仕切りになっている。布団に触れてみた。カバーからしてもう、肌触りが違う。それに何かお香を焚きしめてあるらしく、少しだけ甘い匂いが漂う。

 はて、カパル王からは大事な賓客である旨、伝わっていたはずなのだが、なぜ、最初からこの部屋に案内しなかった? いや、こちらがせいぜい騎士身分に過ぎないことを鑑みれば、王宮内に居室を与え、謁見の機会を設けてやっただけでも十分すぎる厚遇と考えたのかもしれない。

 とすると、これはやはり、下心ありきだ。しかし、それでは俺に媚びて、ノーラを譲ってくれと、そう持ち掛けるつもりか?


 考えても仕方がない。既に窓の外は暗いのだし、起きている理由もない。歯でも磨いて、入浴でもして、さっさと寝てしまうに限る。

 隣の部屋には浴室があった。驚いたことに、こちらはなんとぬるま湯だ。先の部屋は大きな露天風呂、というかプールだったのだが、こちらはあれよりずっと狭かったから、どういうことかと思った。浴室の隅には蝋燭の光が点っており、またその横には香炉があった。のんびりと長湯するなら、この上ない環境だ。


 風呂からあがって着替えると、俺はまた、ベッドの上に舞い戻った。足を突っ込むと、よく乾燥した布団が気持ちいい。

 問題はただ一つ、腹が膨れたままということだ。運動不足なのもある。これではまた、何もできないまま夜更かししてしまいそうだ。どうせなら、灯りを近付けて、もう一度、キトで複写した魔術書にでも目を通そうか。

 そう思って、腰を浮かせかけたときだった。


 小さな鈴の音が、入口のカーテンの向こうから聞こえてきた。


 宮廷の使用人? ただ、今まではこんな風に訪問を知らせる物音などはなかった。いつも摺り足でそっと入口までやってきて、控え目な口調で呼びかけてくるのに。

 たまたま鈴をつけた誰かがここを通りかかった……いや、また鈴の音が。間違いない。誰かがこの部屋の前にいる。


 敵意はあるのか。まず考えたのがそれだった。あり得ない。だったら、わざわざそこにいることを知らせるメリットがない。

 では、誰だ? 用事があるのなら言えばいいのに。いや、わざと言語を用いず、しかも訪問を知らせるために、鈴を用いている。


 カーテンをそっと掻き分けるのが見えた。それは白く細い指だった。それで合点がいった。女だ。


 白い手が焦げ茶色のカーテンを押しのけ、ゆっくりと室内に滑り込んでくる。モタモタしているのも仕方のない話で、頭に大きな笠を被っているからだ。その笠についているのが銀色の小さな鈴で、これが揺れていたのだ。

 衝立越しにはよく見えないが、彼女は室内に立ち入る際に、一度身を伏せた。部屋の主、つまり俺に頭を下げたのだろう。無言のまま、彼女は履物を脱いで、そっと床に足をつけ、音もたてずにこちらに摺り足で近付いてきた。そして、ベッドの脇に立つと、またそこで膝をついた。


 まだ若い。前世の基準で言えば、まだ少女といえる年齢だ。

 肌は白いが、髪は黒い。これは、南方大陸北部の少数民族の特徴だ。顔立ちは整っており、このまま育てばそれなりの美人になるだろう。体つきもほっそりとしている。

 頭に載っている笠を別とすると、彼女が身に着けているのは白い布切れだけだ。さながらインドのサリーのように、ただ一枚の布を上手に巻き付けているだけ。これ、引っ張ったら全部脱げるんじゃないのか。


 何しに来た、なんて問うだけ野暮だ。


「名前は」


 尋ねなくては会話にならない。

 そして、会話にしないともっとまずいことになりそうだ。


「ラピ」


 清水の流れるような涼しげな声が返ってきた。


「ラピ・イッサンダニと申します」

「歳は」

「もうじき十四になります」


 この若さなのに。あのフィシズは、相当なクソビッチに違いない。いかにも清純そうなラピなのに。ピアシング・ハンドは、彼女が房中術にある程度熟達していることを示している。そして女王は女にしか興味を持たないから……


「この国の生まれではないだろう。どこから来た」

「四歳になる前に、キニェシに参りました。それより前のことは、覚えておりません」


 つまり、何か理由があって奴隷同然の立場でこの国に来た。そして恐らく、物心ついた頃からずっとこの宮廷で働いてきたのだ。それが、生まれ持った美貌のためにフィシズの目に留まった。彼女が即位したのは六年前だそうだから、ラピもまた、その後のどこかの時点から、褥に招かれるようになったのだろう。

 そんな女王陛下のお気に入りも、新しい玩具が迷い込んできたから、もうお払い箱、か。


「何を命じられてきたかはわかる。でも、その務めは果たさなくていい」


 こう言うしかない。

 俺はこれから大森林に挑む。万事うまくいっても不老不死を得て行方不明になるのだし、最悪の場合には密林の魔物にやられて仲間ともども全滅だ。こんなところで少女をヤリ捨てなんて、できるものか。


「お慈悲を。至らぬ身ではございますが、ただの一夜もお仕えさせていただけないとは」

「陛下には適当に報告すればいい……ああ、そうだ」


 俺はベッドから降りて、部屋の隅に置いたままのリュックに手を突っ込んだ。


「少ないが、当面の金だ」

「えっ?」


 俺は金貨の詰まった袋をラピに握らせた。といっても、少女の手に収まる程度の金額しかない。半分以上の現金は、クーに預けたままだからだ。別段、それで困らない。クリルが万事、面倒を見てくれるから。


 ラピに対する責任など、俺にはない。放り出してもいいのだが、しかし、この受難は俺達の訪問が原因だ。期せずしてノーラを目にした女王が、新しい恋人を手に入れることに夢中にならなければ、ラピも穏やかな宮廷生活を送り続けることができたはずだったから。


「悪いがだいたい見当はついている。女王のお気に入りだったんだろう」


 そう言われて、彼女は羞恥に顔を赤く染め、俯いてしまった。


「それなら下賜された品々もあるだろうから、それを売りながら、なんとか元手を作ったらいい。いつかはやってくる日が、少し早まっただけのことだ」


 するとラピは、膝をついたままじっと俺の顔を見上げた。

 だがすぐ、悲しげに首を振った。


「そのようなものなど、ありません」

「そんなはずはないだろう。陛下のお傍で仕えていたはずだ」

「ファルス様、ここの娘達はそんなに大切にされてなどいないのです」


 それからラピは、女王に仕える少女達の実態を教えてくれた。

 ジョイスが言った通り、フィシズは女にしか興味のない女だった。しかも、若くなければいけない。遅くても十五歳になる頃には、どの娘も飽きられてしまう。早ければ十歳頃から、遅くてもお手付きになるのは十二歳くらいから。それから二、三年の間に何度も褥に呼ばれるが、あとは放り出されてしまう。

 しかし、仮にも女王の性生活を知る少女達だ。そのままにはしておけない。ではどうなるかというと、奴隷にされて下げ渡される。処分を請け負うのは、女王に仕える傭兵達だ。


「逃げられないように閉じ込められて……人知れずいなくなっていくのです」


 なにせ国王陛下公認で、性奴隷にされた上での殺処分だ。これではまず生き延びる目はない。


「だから若い女の子はみんな、陛下の目に留まるのを恐れます。ですが目に留まって褥に呼ばれたら、精一杯お仕えするのです。一日でも長く生きるために」

「そんなことを喋ってしまってよかったのか」

「どのみち、私はファルス様に拾っていただけるのでなければ、そのうちにあの怖いブルーグかゾラボンの手にかかって、散々に弄ばれてから、殺されてしまうのです」


 呆れてものも言えなかった。


「とんだ暴君だな」

「宮廷の中で暮らす私達はまだ、恵まれています。先の王様の時代も楽ではありませんでしたが、ここ五、六年というもの、毎年のように重税が課されて、農地を捨てて逃げる人も数多く出るようになりました」


 どうやらあの女王、想像以上に腐れ外道らしい。

 だが、だからといってどうせよというのか。今から彼女の部屋に押し入って、殺せばいいのか? 無駄だ。別の誰か……彼女の弟が王になる。そして、似たようなことをするだけ。

 しかし、そんなとんでもない女に、ノーラを渡すわけにもいくまい。これはもう、長居は無用だ。


「わかった。じゃあ、こうする」


 俺は金貨の袋を引っ込めて、彼女にこう言った。


「明日にでも陛下におねだりするとしよう。あのラピとかいう少女を気に入ったので、譲ってくれないかと。うまく説き伏せることができたら、そのまま貰い受ける。あとはこの国を出て、好きなところで暮らせばいい」


 この提案に、彼女は目を見開いた。


「助けてくださるのですか」

「もののついでだ」


 けれども、ラピは深く恩義を感じたらしい。

 改めて彼女は床に額をつけ、俺を伏し拝んだ。

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