報復と反省の時間

 いつの間にか、辺りは暗くなっていた。鍋の下に燻っていた熾火が赤黒い。顔をあげれば、彼方に青白い三日月が見える。急に周囲が静かになったような気がした。

 遠慮のない速足で砂を踏みにじる音が聞こえた。振り返れば、そこに立っていたのはラークだった。


「お疲れ様です」

「ああ」


 そう言いながらも、どうやら彼にはまだ、休みが与えられていないらしい。何か荷物を取りにきただけのようだ。ただ、そうして天幕の中に立ち入ろうとしたところで、鍋に気付いた。


「おっ」

「えっ?」

「中身、あるか? 少しでいいんだが」

「たっぷりありますよ」


 俺はすぐさま腰を浮かせて、小皿とスプーンを取り出し、手早くよそった。


「助かる」


 彼は滑り込むようにして俺達の向かいに座り込み、急いでそれを受け取った。


「昼も食べてないのに、夕食もまだだったんですか」

「朝もほとんど食べられなかった。さすがに」


 中間管理職みたいなものか。一般の兵には飯を食わせ、上役もちゃんと休みを取る。調整、調整で駆けずり回るラークみたいなのが一番割を食う。


「頭領といっても、大変なんですね」

「私みたいなのは、下っ端もいいところだからな。これからまた、交代の兵を連れて南の城門に向かわないと」


 鶏肉を喉に詰まらせたようだ。俺がコップに水を満たして差し出すと、彼はガブ飲みして喉の奥に流し込む。


「それで、松明も何も持ってなかったから、取りにきた」

「一人でウロウロして平気なんですか」


 彼が飯にがっつくところを見ると、後ろにお供がいるようにも思えない。目下の人間が待っているのに、自分だけ飲み食いなんてしないだろうから。


「ああ、別にそんなに遠くに行くわけじゃないし」

「そこまでなら、護衛をしますよ」

「そんな大袈裟な。せっかく休んでいるのに」

「ここは戦地ですよ。暇ですから」


 残りを急いで飲み込むと、彼は皿をその場に置いた。


「わかった。何かあったら困るし、助かる」

「私も行く」


 ジルも立ち上がった。


「それは……あ、いや」


 逆に、ここに女が一人で残っているとなればどうか。サハリア人は時として感情の奴隷になるものだ。ジルなら強姦されそうになっても返り討ちにできるだろうが、うっかり相手を殺そうものなら、それはそれで大問題になってしまう。


「じゃあ三人で行こう」


 フィアナコンをまっすぐ横断して南の城壁に向かい、兵士達を交代させた。俺達の声に気付いた彼らは、足下の暗さにもかかわらず転げ落ちるような勢いで城壁の上から降りてきて、異常がない旨報告すると、まるで暴れ馬の群れみたいにいなくなってしまった。代わりに配置につく男達はというと、みんなどうも年嵩の男ばかり。なるほど、色気よりボーナス、か。

 急ぐ理由もない俺達は、ゆっくりと歩いた。


 二重の城壁の向こう側に出て、左右に建ち並ぶ家の狭間を歩く。馬車がすれ違えるほどの幅の大通りに、弱々しい月光が影をなした。

 周囲はやけにひっそりとしていた。すすり泣きの声さえ聞こえてこない。つまり彼らは、悲嘆より恐怖をより強く感じているのだろう。

 果たして、今回の措置をフィアンの人々はどう受け止めたのか。ティズの温情に安堵したのか、それとも仲間内での残酷な選別に恨みを募らせたのか。


 家々の間を抜けると、農地が広がっていた。丈の高いヤシの木が僅かに傾いだまま、重たげに暗い緑色の葉っぱをぶら下げていた。そんな大通りの向こうに時折光を照り返す藍色の湖が見える。

 この整備された街並みを失わずに済むのは、確かに赤の血盟にとって大きい。略奪して破壊し尽くしたら、また再建しなくてはいけない。第一、バタンの攻略に失敗したら、このフィアナコン……もといミルーコンが退却する先になる。だから保存しておきたい。

 しかし、そのままフィアン氏族を許せば身内が納得しない。何より、反旗を翻されてはたまらない。だから彼らの家族を人質にとって戦いに向かわせる。もし有利に戦いを進めてバタンでも奪い取ることができたら、その時はフィアン氏族に移住を命じることも考えられる。拠って立つ土地を変え、共同体を寸断し、組織的な抵抗を封じる、と。

 では、バタンで負けたら? その場合は、フィアンの戦士達も大勢死ぬ。どちらにしても、内紛の芽は摘み取っておく。

 ティズはよく考えている。


 夜の空気は静かで落ち着きがあった。

 だが、北の門を抜けたとき、それが一変した。


 寒々しい砂漠の夜のはずなのに、まるで熱帯の空気が顔に吹きつけてきたような錯覚をおぼえた。少しして、その理由に思い至った。これは香水の残り香だ。

 微かに聞こえた気がする、小さなすすり泣きの声。だが、天幕の奥からはか細い灯りが垣間見えるだけ。


 異様な雰囲気に、俺もジルもラークも、思わず立ち止まった。だが、そのままでは自分達の天幕に引き返せない。それで一歩を踏み出す。

 近くを通り過ぎると、中で何が起きているかがいやでもわかる。悲鳴とも嬌声ともつかない細切れの女の声が、左右の天幕の奥から聞こえてくる。たまに平手打ちのような音も。恨みの対象に優しくするはずはないから、実際に痛めつけながら凌辱しているに違いない。


 彼女らは今、どんな気持ちだろうか?

 フィアンの裏切りに賛同したのか、反対したのか。ただ、同胞の男達が勝利していれば、今頃はきっと、夫がブスタンから持ち帰った金貨や宝石に取り巻かれていたはずなのだ。それがいまや、夫ではなく敵のために着飾ることを求められた。香水までつけて、媚びつつ耐えねばならなくなった。


 だが、どうしたことだろう。

 不思議と同情も怒りも何も湧いてこなかった。ただただ、白けた気分だった。


 少し前まで、この街の近くの水場で同じことが行われていた。フィアンの男達が参加したのかどうかはわからないが。ただ、勝った側が負けた側を犯して殺した。それが今回、逆さまになっただけ。むしろ楽なものだ。夫は戦って死んだのに、女どもは犯されるだけで済むのか。


「ふん」


 唐突にジルが吐き捨てた。


「どっちもどっちだな。やることは変わらん」


 ラークは苦々しく顔を顰めたが、こう言うのがやっとだった。


「ティズ様は、我々の恨みを一番小さな形で終わらせようとしたのだ」

「はっ!」


 だが、ジルはそれを嘲笑う。


「どうだかな。普段、誇りだの同胞への愛だのと偉そうなことを言うくせに。所詮は殺して犯して奪うだけ。サハリア人など山賊のようなものだ」

「なに?」

「ネッキャメル氏族は昔から野蛮な奴らだと。今も変わらない。そう言った」

「ジル!」


 俺は慌てて割って入った。

 だが、この侮辱には、さすがにラークも血相を変えた。俺が手を伸ばすより先に、彼の手がジルの胸元にかかった。


「……確かにブスタンでは助けてもらった。その恩はある。だが、それとこれとは別だ」

「別に恩に着せるつもりはない。で? 別だったらどうする? 殺すのか? 犯すのか? 好きにしろ」


 彼女は挑発的な笑みを浮かべていた。


「馬鹿にするな。いいか、これは正当な理由のある復讐だ。同胞は仲間や家族を殺されている。本来なら、フィアンの連中を生かしておく理由なんかない」

「正当? じゃあ、理由があれば犯したり殺したりしていいのか」

「ジル、その辺で」


 だが、彼女は俺の制止など意に介さなかった。


「ずっと傍でお前を見てきたが、気分が悪くて仕方なかった」

「なに」

「同胞のためだと言いながらアーズン城では一週間も足踏みし」

「無力だった。あの小勢で何ができる」

「ここまでの道中、ずっと妻と娘の心配ばかり」

「当然だろう」

「亡骸を見つけては涙を流し」

「おかしいか」


 ジルは鼻で笑って応えた。


「私が軟弱だと、そう言いたければ言えばいい。認めるとも。今、醜悪な方法で復讐する同胞を醜いと思うか。だが、肉親を奪われた怒りや悲しみをどうせよというのだ」

「それが気に食わないと言っている」


 ジルは素早くラークの胸倉を掴んで引き寄せた。


「ただ殺したい、奪いたい、犯したい……ならやればいい。きれいごとなんか言わずに」

「くっ……貴様!」

「で? どうする? 犯すでも殺すでも好きにしろ。但し理由なんかつけるな。逃げずに突っ立っててやる。さあ、やれ」


 いきなりラークは、ジルを突き飛ばして距離をとった。


「ふん……どこまでも汚い奴だ。やっぱりな」


 ラークは肩で息をしていた。

 だが、横を向くと、独り言のように呟いた。


「見回りに行ってくる」


 そのまま、よろめきながら立ち去っていった。


「ジル」


 俺は声をかけたが、伸ばしかけた手を下ろした。

 唇を噛み、眉を八の字にして。拳を握ったり開いたりしていた。

 そのまま、彼女も何も言わず、一人、自分の天幕の方へと歩き去っていってしまった。


 理屈の上では、何が起きるかくらい、わかってはいた。だが、感情がそれに追いつくとは限らない。

 およそ十数年前のあの日、幼い彼女は何を目にしたのだろう? ウォー家の人々が殺され、略奪を受け、そして女達は……


 かつて自分のいた世界を蹂躙した連中の横にいる。しかも味方として。自分の中にはネッキャメルの血が流れている。母ベレーザを殺したのはミルークでも、ジル自身の誕生についていえば強姦でもなんでもない。それでいて、素性が知られれば殺されても不思議のない仇敵でもある。


 彼女は、自分の生まれついた場所というものを再確認してしまったのだ。

 だが、ラークにはそれが理解できない。それは彼女の素性を知らないから、というだけではない。これまで同胞意識、家族愛の中で生きてきたラークには、それを持ち得なかったジルの世界など、想像もつかない。だからこそ、光の中に立ちながら闇を垣間見るだけのラークが、今のジルには無性に腹立たしかったのだ。


 ジルのなかにどれだけ自覚があったかはわからない。ただ、最初から彼女の態度には、何か拒絶のようなものがあった。自発的に戦いに参加したのに、ラークに対しては奇妙に冷淡だった。自分の中の結論のようなものに、うっすら気付いていたからなのかもしれない。


 翌日の昼、赤の血盟のほぼ全軍と、フィアナコンの市民のほとんどが、先の陣地の置かれた水場に集まっていた。

 午前中から、既に準備を進めてあったらしい。到着してそれを目にした時には、感情が摩滅しかけていた俺でさえ、その異様さに絶句した。


 例の生き埋めの大穴。今は別のもので埋め尽くされている。先の戦闘で死亡した、主としてセミンの騎兵の遺体だ。

 鎧や衣服は可能な限り剥ぎ取ってあり、ほとんど裸の状態だ。それが無造作に穴の中に転がされている。放置されていた死体を乱暴に投げ込んだだけらしく、死んだときにはうつ伏せだったのが、今では仰向けになったりしている。そのせいで、赤紫色に染まった皮膚が見えている。高温のせいか死後の遺体の変化も急速で、腹部に青みがかった部分がみられるのもある。穴の縁に立っただけで、既に始まっている腐敗のせいか、何とも言えない臭いが立ち昇ってきた。

 死後硬直もあって、手足を突っ張らせたままの格好のものがある。だからか、割と大穴の中には隙間があるように見える。また、真ん中にはわざわざ窪みを作ったらしい。


「静まれ!」


 ティズの横に立つファフルが大声を張り上げると、群衆は静まり返った。

 そのまた横には、手足を固く縛られたアールンの姿が見える。彼は肩を縮め、下を向くばかりだった。


「我らが友、フィアンの人々よ」


 ファフルの呼びかけが、やたらと厭味ったらしく聞こえた。声の大きさはともかく、俺には舌が耳を這いずるような、あの猫撫で声のように感じられた。


「あなた方を扇動した裏切り者は捕らえられた。我々の友情を踏みにじった恥知らず、これを裁かずにはいられまい」


 これでわかった。アールンはこれから処刑される。しかし、手を下すのはネッキャメルの男達ではない。


「この男は敵と変わらない。敵は敵のいる場所に。……やれ」


 兵士達がアールンの背中を乱暴に押した。短くくぐもった悲鳴が聞こえたが、手足が縛られたままでは抵抗の余地もなく、彼は足を滑らせて穴の中へと落ちていった。そのまま転がって、真ん中の窪みに収まる。

 周囲は死体だらけ。その真ん中に寝そべったまま、彼は動かない。動けないのではない。どうせもう逃げられない。


「あとはフィアンの人々よ、あなた方の手に委ねる。ちょうどここに、いいものがある。彼のために盛大な弔いを」


 このアイディアを捻り出したのは誰だろう? ティズ自身だろうか? それとも昔のサハリア人の復讐を真似たのだろうか?

 槍を手に穴の周囲に立つ兵士達は、いやらしい笑みを浮かべていた。


 そして、所在なく立ち尽くすフィアンの人々は……


 少し離れた場所に放置された、いくつかの荷車に近寄っていった。限度を超えた悪臭ゆえに、そこには誰もいなかった。

 だが、彼らは俯いたまま、スコップはおろか手袋すらなしで、手を突っ込んだ。言葉にするのも躊躇われるそれを掴んだまま、また死体の穴の縁へと舞い戻る。そして手を振り上げると、そこから汚物の塊を投げつけた。

 アールンのすぐ横の死体の顔が焦げ茶色に汚れる。反射的に彼も顔を背けるが、意味がなかった。次から次へと同じものが降り注ぐ。かなりの部分が見当違いの方向に飛んでいくが、それも死体と死体の隙間を埋めるのに役立つ。

 ただただ泥が撥ねるような音が続くばかり。そして足下の大穴は、次第に悪臭を強め、茶色く染まっていった。


 屈辱そのものだ。

 だが、異議を唱えるなど許さない。名誉の絶滅か、屈辱の衰退か? しかし、こちらには「裏切られた」という大義名分がある。どのみちフィアンに名誉などないのだ。そして、たとえアールンの暴走によって引き起こされた事態だったにせよ、それを食い止めなかった責任は免れない。


「流し込め」


 ティズが静かにファフルに命じた。


「まだ早いです」

「もう投げるものがなかろう」

「また運ばせれば」

「くどすぎる。もう充分だ」


 肩をすくめたファフルは、後ろに振り向き、号令した。

 最後の荷車には、大量の桶が積み込まれていた。中に詰まっているのは、人間や家畜の尿だ。

 汚れた手をしたフィアンの男達が三人がかりで抱え上げ、穴の縁まで行き、中身をぶちまける。それが次から次へと繰り返される。


 糞尿の海の中で、どうせ生きられない運命のアールンはもがいていた。水位が上がってきて、溺れそうになっている。体が浮きそうなものなのだが、衣服か何かが引っかかってしまったのか、口元に、浮かび上がった汚物がへばりついて息が詰まったせいか、汚水の表面で暴れて飛沫をあげていた。


「ほら、足りません」

「土を被せればよかろう」

「はぁ」


 溜息をついて、ファフルはまた号令を下した。

 そろそろ、この凄まじい悪臭に、兵士達すら我慢できなくなってきたらしく、命令には機敏に応えた。手早くスコップを持ち出し、穴の左右に積み上げられた土を投げ込み始める。あっという間に黄土色の土砂に覆われ、アールンの姿は見えなくなった。


「おお、フィアンの人々よ。あなた方はやはり我らの友だった」


 アールンは彼なりに、フィアン氏族の未来を考えてクーデターを起こし、赤の血盟に背いたのだ。実際、俺という異分子がいなければ、黒の鉄鎖は圧勝していたはずだ。その意味で、そこまで間違った決断を下したわけではない。ただ運が悪かった。


「では、女達は街へ帰るように。男達は宿営地へ……次の戦いに備えて、身を休めるがいい」


 彼らは何も言わず、黙って背を向け、静かに去っていった。

 使い捨てられる運命だと知りながら、なおも男達は最前線に立たねばならない。


「ふぅっ、ひどい臭いだった」


 重苦しい表情を浮かべたままのティズの横で、ファフルだけが軽い調子だった。ラークですら、にこりともせずに一連の処刑を見守っていたというのに。


「水浴びでもしましょう。まったく、腐った連中の腐った臭いが染み着いてしまいますからね」

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