迷宮都市の星空

 いつになく静かだった。

 日中の日差しを和らげる布は、月明りをも遮ってしまう。崩壊しつつある迷宮都市にあっては、もはや夜間に軒を連ねる露店もなく、酒場もひっそりと静まり返っている。天上の光も届かないが、地上にも輝きはない。


 こんな静けさが欲しかった。

 誰もいない夜の街を歩く。視界は暗く、濃い灰色のフィルターが幾重にも被せられたようになっている。最も色が濃いのが目の前の襤褸切れで、少し離れたところにある石の壁は、それより少し明るい。通路の向こうの凸凹の床は、月光に照らされていて、仄かに青白い。

 そんな中を、目的もなく、ただ歩く。


 藍玉の月に差し掛かっても、このサハリアの中央では、昼間の暑さは真夏のままだ。しかし、夜になると、途端に肌寒くなる。その澄み切った空気は鋭い刃物のようで、ある種の心地よさをおぼえる。

 そのまま、風のない静かな夜に誘われて、俺は北の出入口へと彷徨い出た。


 この街に来た時に見かけた、女性の石像を見上げる。頭上に天井があるために、彼女のところには月光が差し込んでこない。

 もし彼女に意識があったら、どんな気分だろうか。せめて月を眺めてみたいと願うだろうか?


 少し歩くと、すぐ右手に大きな出入口があった。

 あれは、挺身隊の本部、つまりキブラの邸宅の門だが、はて……


 奇妙なことに気付いた。

 まず、門が閉じられていない。横に引くタイプの金属の柵があったはずだが、この夜中にも開けっ放しだ。更に、門の前に守衛がいない。それともう一つ。水音も聞こえない。夜間だから、水道を止めている可能性もあるが。


 どうでもよかったが、軽い興味に誘われて、少しだけ中を覗いてみた。すると案の定。明らかに踏み荒らされた形跡があった。低木がいくつか刈り倒され、庭を飾っていた石の彫刻も倒壊するか、持ち去られている。この分だと、建物の内部も相当なことになっていそうだ。

 中にキブラはまだいるんだろうか? それとも避難済みか。ただ、彼女の立場を考えると、ここで任務放棄となれば、帝都に帰った後、座る椅子がなくなる。それは避けたいところだろう。

 こうなった理由については、深く考えるまでもない。お抱えの神官戦士団まで全滅して、直接に彼女を守る人員がいなくなった。一方、この街に燻る元挺身隊員、要するに浮浪者達は、帝都のエリートである彼女を憎んでいたはずだ。しかもギルドが機能しなくなったので、今後は座り込みによる日給も期待できない。だから、どうとでもなれという気持ちで殴りこんで略奪して、砂漠の彼方に去っていったのだ。


 結局、彼女は何のためにここまで来たのだろうか。

 帝都の中央から追い出されたのだから、名門アシュガイ家の一員だったとはいえ、出世コースからは外れていたのではないか。しかし、これ以上転落しないためには、それでもこの椅子にしがみつくしかなかった。だから遠いサハリアの中央砂漠まで足を運んだ。

 個人の都合としてはそれでいいとして、では、帝都そのものにとっての挺身隊とは、なんだったのか。ドミネールも言っていたが、挺身隊の本当の存在意義とは、単に余剰となった若者の命を廃棄することにしかなかったのかもしれない。


 どうでもよかった。すぐに考えから消えていった。

 そのまま俺は、誘い出されるままに、砂漠の中へと踏み出していった。


 視界を遮るものはない。黒い天上と、うっすら白い不毛の大地。だが、静かに星々が瞬いている。

 何物にも心を揺さぶられずに済むこの静けさを、俺は求めていた。永遠の静寂の中に佇んでいられるのなら、どれほど好ましいことか。この地で得られるであろう永遠の死も、このようなものであってくれればいいのだが。


 日中の宴会のせいで腹が膨れすぎて眠れなかったから散歩に出ただけだが、あまり遠くに行くのもよくない。

 ふと、現実に引き戻されて、俺は振り返った。そうして、巨大なガラクタのドームであるドゥミェコンの街を眺め渡した。


 まだ眠気はこないが、帰って横になろうか、と思ったその時だった。


 俺の目が、微小な動きを見つけた。

 ドームの上に小さな影がある。それが飛んだり跳ねたりしているように見える。あれはなんだ?

 好奇心に誘われて、俺はそちらを目指した。街の北東部の天井付近だ。


 いくつもの階段を駆け上がり、俺はその場所を目指した。動き回る本人のたてる物音もあって、そう迷わずに済んだ。

 そうして、街の天辺までよじ登ってみると……


「お? なんだ、ファルスか」


 拍子抜けした。

 キースだったのだ。


「何をしてたんですか」

「ん? 鍛錬に決まってんだろうが」


 どの道においても言えることだが、達人にとっての鍛錬は、特別なものではない。日常だ。体と心に染み着いている。朝起きたら練習、飯を食ったら復習、寝る前にはイメージトレーニング。それが苦にならないからこそ、一流になれる。まったくもって、彼にとっては自然体なのだ。


「見晴らしのいいところに宿をとったんだが、ここは案外、悪くなくてな」

「危ないですよ」


 キースが立っているのは、せいぜい二十センチ四方の小さな足場、木の柱の上だ。それも、被せられた襤褸切れに覆われているので、パッと見ただけでは、布しかない場所と区別がつかない。そういう足場が飛び飛びにあるだけの場所だった。


「だからいいんじゃねぇか。いきなり今すぐここで戦いになったらどうする? できませんじゃ死ぬだけだろが」


 彼らしい。

 練習は本番のように。本番は練習のように。言葉の上ではそう言われることだが、それを本当に実践している人は多くない。


「根っからの戦士なんですね」


 俺は深く考えず、そう言った。

 すると彼は、身構えるのをやめて、まっすぐ立った。


「そうだな。どうも……そうみてぇだ」


 その表情は、複雑だった。苦笑いのような、けれどもそれだけではない。もっと何か、重苦しい気持ちも滲み出ている。


「よっと」


 彼は軽く跳躍して、板の上に飛び乗った。それから、脇の露出している木の柱の上に腰掛けた。


「はーっ、ダメだなぁ」


 仰け反って、彼は天を仰ぐ。


「ダメ? 何がです?」

「何もかもだろ、へへっ」


 ちょっとやそっとでへこたれる男ではない。だが、何をされても傷つかないわけでもない。


「確かに、この街で会った時に見た料理は最低でした。あれはダメでしたが」

「シャハーマイトでな……ちっと喋ったか」


 傭兵をやめると決めて、故郷に戻ってレストランを開いた。地元の貴族が毎週のように通って湯水のように金を遣ってくれたが、ほとんど食べてはもらえなかった。それも当然だ。料理人として修業を重ねた経験はない。

 それで彼は、新しい生き方を見つけるために、単身シャハーマイトに向かった。そこで弟子入りしたのが、家具職人の工房だった。


「やってみて、驚くことばかりだった。見れば簡単そうに見えるのに、同じようにやろうとしても全然ダメだ。わかってないんだな、俺には」

「そりゃ、すぐにできたら天才ですよ」

「俺様は天才だろが」

「え、ええ、まぁ」


 戦いの天才、ではあるのだが。他の面では、人間性含め何から何まで壊滅的だと思う。


「あんまり不器用なもんだから、今度はってんで、そっちの親方が、鍛冶屋を紹介してくれてな。そっちならまぁ、俺も武器を振り回してたんだし、目利きくらいはできるだろうと」

「そうですね」

「まぁ、できの良しあしはすぐわかる。剣ならな。振ってみりゃ、重心から柄の握りから、どんな時にどんな風に使えばいいかがスッと入ってくる」


 五歳で命のやり取りを始めた男だ。剣を手にして二十数年、その辺のことは呼吸と同じくらいに慣れ切っている。


「けど、作るとなると、全然別物なんだよな。それに、何も武器ばっかり作ってるわけじゃあねぇ。剣と包丁じゃ、刃先の仕上げが全然違うしよ」

「それはそうですよ。包丁は、剣みたいな切れ方をしちゃいけないんですから」

「お? わかんのか、お前」

「よくできた包丁ほど、切れにくいんです。余計な引っかかりがないよう、刃先を整えますから」

「ほへー、やっぱわかるやつにはわかるんだな」


 キースは、ド素人だった。そして、出来の悪い生徒だった。それでも、真剣さは伝わったのだろう。親方は随分と親切にしてくれたという。


「それが俺にはまるでわかんねぇんだ。大事な技だろうが。なんでそれを惜しげもなく教えられるんだ? てめぇの食い扶持だろが」

「僕は、わかりますけどね」

「おう、言ってみろ」

「大層な理由なんてないです。僕が今日出す一皿より、もっとおいしい一皿を、僕の後に続く人が出してくれるかもしれないから」


 答えると、キースはその針金みたいな髪の毛を、バリバリと掻き毟った。


「それがよぉ、わかんねぇんだ」


 そうだろうか? 自覚できていないだけではないのかと思うのだが。


「てめぇの技を教えたら、弟子がもっといいもん作るだろ、そしたらてめぇの仕事がなくなる、稼げなくなるだけだろが」

「そうですね」

「それでいいのかよ」

「よくはない……でも、多分、そうするしかない、そうするように僕らはできているんですよ」


 するとキースは、背中を丸めてしまった。


「俺は言ったんだ。技術を教えろ、たっぷり金は払うってな。なのにあのジジィ、技術は教えるが、金はとらん、ここにいる間は弟子だから、ワシの言うことをきけ、だってよ」

「職人が言葉でそこまで説明してくれるなんて、ツイてますね」

「じゃあよっぽど値打ちのある仕事を代わりにさせるのかっつったら、雑用をちょっとやって、あとは全部、お勉強だ。年食ってる分、時間がないからって雑用を減らされたりもしたな」


 理解はできる。

 職人としてのスタートを切るには、キースは歳を取り過ぎている。みんな十代前半から弟子入りして、キースの年齢にはそれなりの腕前になっているものだ。ここで他の若者と同じように扱ったら、仕事をこなせるようになる頃にはもう老人だ。のんびり雑用させていては先がないから、特別扱いで促成栽培してやろうと考えたのだろう。


「で、何が何だかわからねぇうちに、バカどもが俺を付け狙ってきやがって、ま、親方の工房は丸焼けだ。もちろん、くだんねぇ真似したクズどもは全員ブッ殺したし、親方には頭下げて、金払って弁償するっつったんだ。それがよぉ」

「受け取らなかったんですね」

「なんでわかんだよ」


 大きな損害を蒙ったはずの親方だったが、キースには何も請求しなかった。弟子の不始末は自分の責任として、彼を見送るにとどめた。


「あれから……自分でもどうしたらいいか、わかんなくなっちまった。いや、もともとそうだったんだろうな。それで後は、あれこれ迷いながら、何をやってもピンとこねぇままに、ここまで流れてきちまった」


 その親方は、キースに与えるだけで、何も受け取らなかった。そこに合理性はない。だからこそ、キースは悩んだ。

 しかし、それは彼の中で、大きな学びになったのかもしれない。結局、キースは鍛冶職人にはなれなかった。しかし、親方が教えようとした何かは掴んでいたのだ。


 だからだったのか。

 再会した時の奇行もそうだが、その後のテストでも、一人ずつダメ出しをした。キース本人は意識をしていないが、あれだって技をタダで教えているようなものだ。しかも、こっちの技は、食い扶持がなくなるどころではない。下手をすれば自分の命がなくなるのだ。

 彼の心の中に、何かが蓄積していた。それはウィーとの出会いを通して芽吹き、親方が水を撒いた。いまや不可逆の変化が起きつつあるのかもしれない。


「この霊剣は、ワノノマでもらったもんなんだがよ」


 まだ十代の頃の話だ。サウアーブ・イフロースという名高い傭兵将軍がいなくなった後のマルカーズ連合国は、新たな動乱の中にあった。当時、台頭しつつあった若手があの『屍山』ドゥーイで、キースも彼を相手に戦った。結局、戦争自体には負けたので、キースも逃げるしかなかった。そのついでで、彼は遠く東を目指した。


「南方大陸のキト? あそこまで行った時に、どっちに行こうか迷ったんだが、まーこの際だし、東の果てまで行ってみようかと思ってな」


 目の前にはエメラルドグリーンの海と、富み栄える『真珠の首飾り』の港湾都市が広がっていたのだが、そこはまだ年若い時分のこと、冒険心が先だって、彼は東を目指した。

 しかし、途中で路銀が尽きた。こういう場合、彼はあまり悩まなかった。いつものように暴れてお金を借りる……というか、カツアゲする。しかし、それを東方大陸の南部、ワノノマ人居留地でやらかしたのはまずかった。

 プライドの高いあちらの武人は怒り狂った。逃げ回るキースを相手に大捕り物となってしまったのだ。いかに傍若無人な彼といえども多勢に無勢。しまいには捕虜になった。

 腹に据えかねた彼らは、ただ首を刎ねて終わりにしようとは思えなかった。それで手足を大きな車輪に括り付けて拘束して、柱の上に彼を固定した。そのうちに飢えと渇きに苦しんで死ぬだろうと考えたのだ。

 当時のキースは、本当に命知らずだった。死刑になるからなんだ、死ぬも生きるも当然のこと、大騒ぎするほどのものでもない。車輪の上で仰向けになりながら、彼は平然と死を受け入れていた。


 だがそこを、誰かワノノマの偉い人が通りかかった。

 事情を聞き知ったその人は、まだ生きていたキースをそこから降ろし、ワノノマ本土へと連れていった。キースの並みならぬ豪胆さ、そして隠しようもない才能が明らかになり、しまいには姫巫女への謁見にまで至った。


「吉兆あり、なんだとさ」


 泥棒相手にどうしてそこまで、と思わなくもないが、どうも龍神の託宣があったとか。この辺はキース自身、あまり把握していない。

 ただの外国人、それも未成年の犯罪者であったキースに、国宝ともいえるこの霊剣タルヒを持たせることになった。


「つまるところ、剣を置いて生きていこうと思っても、そうは問屋がおろさねぇんだろうな。多分、俺はどう転んでも戦士なんだ」


 彼にとって、剣とは誇らしいものではない。ただの日常だった。これがあるから飯を食える。それだけ。

 その剣の腕に、お墨付きが与えられた。実際、彼は名を成して、西方大陸一の傭兵にのし上がった。でも、そこに感動はない。


「皮肉なものですね」


 本当に。

 今、キースは、人が欲しがるものを何でも手に入れることができる。金、女、地位……なのに、どれにも興味をもてない。

 そうじゃない。きっと彼に必要なのは「本当の仕事」そのものなのだ。


「つっても、俺は最強だろ? じゃあ、今更やることなんざ、なんもねぇじゃねぇかって話だ。ま、そういや俺と同じくらい強い奴もいたっけな……けど、今考えると、あれを殺したの、お前だろ」

「あれというと」

「あのサハリア人だ。王都んときの」

「ああ」


 わかる人にはわかってしまうか。


「正直、あの時のお前の腕前でやれるわけねぇとも思うんだが、まー、奴も負傷してたしな。それにどうもお前にゃあ、変な力があるみてぇだし。で、久しぶりに会ってみたらこれだ」

「これ、とは?」

「トボケんじゃねぇ、お前、どんな鍛錬をしたらあんな剣になるんだ」


 テストの時だ。俺の素振りをみて、キースは即座に合格を出した。


「久しぶりにヒヤリとしたぜ、あれは」

「そ、そうですか」

「ちったぁ嬉しくないでもなかったぜ。まだ剣に先があるってわかったからな」


 だから、真夜中に一人、練習を重ねていたのか。これだから達人というやつは。最初に「何もかもダメ」と言ったのも、要するに自分の剣に対する反省なのだ。けれども、彼の中には「努力した」なんて意識はこれっぽっちもないんだろう。


「正直、だからありがてぇとは思ってる。剣の使い道がなかったところに迷宮攻略、剣の伸びしろがないと思ってたところにあのお手本だ。退屈しのぎにはなる」

「そうですか」


 ふと、会話が途切れた。

 夜風が俺とキースの間を吹き過ぎていく。


「そういえば、全然関係ないんですが」

「おう、なんだ」

「キースさん、魔獣を使役する方法って、ご存じですか?」


 俺の質問に、彼は首を傾げた。


「知ってるも何も、お前、忘れちまったのか?」

「いいえ」

「俺のクズルとヤシルがなんでいなくなっちまったのか、わかんねぇんだけどな……ほら、エンバイオ家の、なんつった、リリアーナか、あれを攫ったとき」

「はい」

「どーしてくれんだ。あれ、高ぇんだぞ」


 なんと、購入したものだったらしい。


「買ったものだったんですか」

「当然だろが。お前、魔獣に命令覚えさせるのに何年かかると思ってんだ。んなもん、俺がチマチマ自分でやってられるかよ」

「え? じゃあ、所有者……飼い主以外が訓練しても、そのまま他の人が使えてしまったりするんですか」

「ハァ?」


 どうも話が噛み合っていない。


「あれ、お前が連れてったんだろうが」

「ええと、まぁ、はい」

「だったら、お前は魔獣を使役できんだろがよ」

「なんでそうなるんですか」

「なんでそうならねぇんだよ」


 ピアシング・ハンドの話をすっぽ抜かすと、いろいろと矛盾が生じてしまう。困った。


「ええとですね、僕は魔獣の使役なんてできません」

「おう」

「ただまぁ、その……」

「あー、前に言ってた切り札みてぇなもんを使ったのか。ふん、なるほど」


 弱った。どんどんバレていく。

 別にここで石像になる限りにおいては、今更問題でもない気はするが。


「で? なんでそんなもんが気になるんだよ」


 それは、この後に控えたレヴィトゥアとの対決に影響するからだ。

 あの時、あの窟竜には、ずっと前に見たおかしな能力がくっついていた。


「キースさん、アナクが連れ去られたとき、変だと思いませんでしたか」

「ああ? あの窟竜か」

「あれは、使役されていたのではないかと」

「あー、ねぇよ。竜の使役なんざ、見たことねぇ」

「本当に? でも、飛竜と走竜は、使役されていますが」


 すると彼は首を振った。


「あのな、ファルス。動物を普通に飼い慣らすのと、魔獣の使役は、まったく別物なんだよ。動物ってのは、ほら、俺は知らねぇが、餌をやったり、訓練したりで、だんだんと芸を覚えさせたりするもんだよな」

「はい」

「魔獣は違う。餌をやろうが何をしようが、懐くってのとは違うんだ。その代わり、ある種の命令を覚えさせる」

「命令?」


 魔獣の使役は、特殊な技術だという。古くは東方大陸の砂漠地帯に住む精霊の民が使いこなす技だったそうだ。しかし、その精霊信仰の人々そのものは、女神教の弾圧もあって、今では姿を見かけることはない。

 この技術によって、人は魔獣を支配することができる。しかし、あくまで支配であって、その対象となる動物と信頼関係を結ぶことを意味しない。つまり、いくら餌をやっても、毛づくろいしてやっても、情緒的な繋がりがあろうがなかろうが、魔獣は命令に従う。

 命令は、命令であると認識されれば、自動的に受諾される。もちろん、魔獣の側も、それが命令であると受けとめるための訓練を受けはする。特定の薬品と呪文があって、まずはそれを聞き続けるのが訓練の最初だ。そのうちに、魔獣は最初の命令、即ち『待機せよ』を理解する。もっとも魔獣使いに言わせると「理解させる」という認識ではない。彼らはこの手順について「覚醒させる」という表現をする。もともと魔獣の中に刻まれた服従の本能を「思い出させる」プロセスと考えているのだ。

 訓練を重ねれば、もっと複雑な命令も理解できるようになる。いや、理解しているかどうかは判然としないのだが、とにかくこなせるようになる。その都度特別な薬品を使って慣れさせる必要もなくなる。コードを伝えればそのように行動する。不思議なことに、使役される魔獣自身にとって明らかに死の危険があるような過酷な指示であっても、拒否されることなく全力で実行される。

 大事なのは、上位者の命令であることだ。誰が発したコードであるかは問題とならない。つまり、仮にキースが魔獣を使って敵と戦っていても、相手がより上位の命令を下せる場合、いきなり背後から食い殺される可能性もある。その日までどんなにかわいがろうが、愛着があろうが、自動的にそうなる。

 また、この魔獣使役が通用する種族は限られている。魔物だからといっても、誰にでも作用するわけではない。まず、ゴブリンやリザードマンといった高い知性を持つ相手には通用しない。その辺の普通の動物、犬や猫にも効き目がない。あくまで特定の種族、デスホークなども該当するが、そうした種類の魔物だけが、魔獣としての命令コードを記憶し、受け付けることができる。


「んで、俺の知る限りじゃ、竜はそれに含まれない、らしいんだが……もしかすると、もしかするかもな」

「というのは」

「魔獣は上位者の命令じゃねぇと受け付けねぇ。要するに竜ってのは、それだけ上位の能力を持った使役者じゃねぇと、そもそも訓練もできねぇ代物かもしんねぇだけかもな」


 ちなみに飛竜や走竜は、魔獣使役で支配されているのではない。普通の動物のような訓練を受けて使役されている。


「アナクや長老が、レヴィトゥアには特別な力があるみたいな話をしていました。それで、あの時にはあまりにもちょうどいいところで窟竜が出てきましたから、あれはレヴィトゥアの力じゃないかと思ったんです」

「ふーん、あるかもな」


 そう言うと、彼は口笛を吹いてから、何事かを小さく唱えた。

 すると、暗闇の中から羽音が迫ってくる。


「っとまぁ、こんな感じだ」


 彼のすぐ横に、二羽の怪鳥が降り立ち、羽を休めている。


「お前に取られてから、しょうがねぇから新しく買ったんだ。こっちの青いのがコォク、メスだ。黄色いほうがサリック、オスなんだが、どうもこっちはハズレだな。使役はできるが、どうもトロいというか」

「戦力というよりは、偵察とか監視とか、そういう目的ですか」

「そりゃお前、俺より強い魔獣なんざ、横取りされたらこっちがすぐ死ぬだろがよ。第一、そんなもん、どこに売ってんだ」


 窟竜相手でも正面から戦えるキースだから、中途半端な魔獣はいらないのだろう。用途を限ることにしたのだ。


「とにかくわかった。要するにトカゲの王様が、でっけぇトカゲを呼び寄せるかもって話だな。ま、出てきたら叩き斬るだけだ。話はそれだけか?」

「ええと、もう一つ」


 これは口に出しづらい。それでも、せっかくの機会だ。どこかで頼まなければいけない話だ。


「なんだ?」


 だが、すぐに言葉にできなかった。


「なんだよ?」

「ああ、その……」


 歯切れ悪くも、俺はなんとか切り出した。


「最下層に挑むときの話なんだけど」

「おう」

「バジリスクとは一度戦って、どういうものか見てきました。あれが強くなったものが迷宮の主というのであれば、僕には倒す手段のアテがあります」

「いいじゃねぇか」


 これだけなら、大変結構なお話だ。


「お願いは二つあって」

「ああ」

「一つは、僕に任せてくださいというお話です。アナクも言っていたかと思いますが、バジリスクは、何の対策もなく倒すと猛毒をぶちまけてから死にます」

「飲み会んとき、言ってやがったな」


 これは、ただの口実だ。迷宮の主が同じ自爆能力を持っているとは限らない。この地を支配するための拠点、それを防衛する最後の戦力が、そうそう自爆していいとは思えないので、案外そういう力はないのではないかと思っている。

 では、本当の目的は、というと……俺が石像になるとき、邪魔されたくないからだ。巻き込みたくないともいう。物陰から俺一人だけが出てきて、スムーズに石になる。これがベストだ。


「だから、倒すときには僕の切り札を使います。説明はできませんが、それさえあれば、十中八九、倒せると考えています」

「ふうん、で? もう一つは」


 俺は一度、息を整えてから、やっと言った。


「ですが、最悪の事態についても考えておきたいのです」

「なんだそりゃ」

「僕の切り札がまったく通用せずに、石にされる可能性もある、ということです」


 という説明で、気持ちの準備をさせておく。


「何しろバジリスクの王ですから、目が合った瞬間に僕を石に変えることもあり得ます。そうなったら、とにかく一度、みんな撤退して欲しいんです」

「ハァ?」


 何を言い出すんだ、という顔をしている。


「わかりませんか。僕が石になるくらいなら、何の対策もなく戦っても、何かする前に石にされて終わりです。それでは犬死ですよ」

「ふん」

「キースさんが強いのは知っています。でも、今回は何も考えずに突っ込んでどうにかなる相手ではなさそうなんです」

「わかった」


 腕組みして、彼は頷いた。


「言いたいことはわかった」

「よかったです」

「どうするかを決めるのは、俺だ」


 その一言に、ドキッとした。


「キースさん」

「お前、見てきたように喋るけどよぉ、先のことなんざわかるのかぁ?」

「えっ」


 いつになく、彼の視線が厳しく感じられた。


「お前は迷宮の主を倒したくてきたと言った。俺はそれに力を貸してやると言った。そうだな?」

「はい」

「千年以上生きてるバケモノと戦うんだ。そりゃ、死ぬ奴が出てきたっておかしかぁねぇ。俺含めてな。だからって、お前一人が死んだら、手を引けってか? ざけんじゃねぇよ」

「で、ですけど、対策はあるんですか」

「んなもん、見てみなきゃわかんねぇよ。そん時そん時の気付きで戦いなんざぁ、変わってくるもんだ」


 道理だ。迷宮の主を倒して、得られる名声、賞金。その他有形無形の何か。それらを計算に入れた上で、彼は計画に賛同した。だからここにいる。


「それとも何か、お前……」


 じっと俺を見据えながら、彼は言った。


「もしかして、余計なことを考えてねぇか? 言っとくが、俺は目的に沿わねえことはしねぇ。戦うってのはな、勝つためにやるんだ。負けねぇためじゃあねぇ」

「う」

「やるんだよな? ファルス」


 キースは念を押した。


「迷宮の主を倒す。全部そのためだ。そういうことでいいんだよな?」

「はい」


 俺の中で沸き起こるすべての抗議の声を封殺して、俺は言い切った。


「もちろん、人を集めたのは、そのためですから。僕を勝たせてくれなきゃ困りますよ」

「……ならいい」


 彼の鋭い視線が、ふっと緩まる。


「いつ死ぬかわかんねぇなんてのはな、当たり前だ」


 いつの間にかキースは、満天の星空を見上げていた。


「俺もお前も、すぐ死ぬ虫けらだ。似たり寄ったりだ。俺らが生まれる前もくたばった後も、ここの夜空の見え方だって変わりゃしねぇ。けど、俺とお前じゃ、ちぃっとだけ違うところがあるけどな」

「なんですか?」

「俺はいつも今、今日のことしか頭にねぇ。昨日や明日のことを考えられねぇから、よく行き詰まってる。だけどお前は、昨日や明日のことは考えるくせに、今日のことは忘れちまいやがる」

「ははは……そうですね」


 今、か。

 そうだ。俺はもともと、何しに外を出歩いていた?


 気持ちのいい夜風を浴びて、この夜空を見上げるためではなかったか。


 砂漠の夜空は、本当に澄み切っている。雲一つない乾ききった大地ゆえだろうか。

 だが、都市の中にいてはみることができない。こうして天井まで這い上がるか、街の外まで出てくるのでなければ。

 ここに限ったことではない。美しい夜空は、世界のどこにでもある。ただ、多くの人は家の中にいて、寝てしまう。だから、煌々と輝く月の姿を忘れてしまう。

 本当は、いつでもどこでも、そこにあるものなのに。


「せいぜい楽しくやろうぜ。じゃなきゃ、損だ」

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