雪原の龍神

 青と茶色の世界が、たった一日で灰色に染まった。

 対策なら準備してある。荷物から急いで毛皮のコートを取り出し、羽織る。手袋も忘れてはいけない。凍傷で指を失ったりしては、ことだ。


 頭上は分厚い雲に覆われている。真夏の入道雲のようなハッキリした輪郭は見えない。ただただ、ぼんやりと灰色に塗り潰されている。

 地平線の彼方だけが、うっすらと白い。しかし、どちらを見てもそんな感じなので、方角がよくわからない。どちらに向かえばいいのか。それで四方を見回して、こちらだとわかった。北側だけ、地平線の向こうが暗くなっている。


 事前に伝え聞いている話に従うならば、これはヘミュービの到来を示す現象だ。風を纏い、氷雪を引き連れて、この地にやってくる。目指す先が贖罪の民の村であるなら、俺と目的地は同じ。より多く雪の降るほうへと進めば、間違いない。

 ただ、少し到着が早すぎる気がする。まだ青玉の月になったばかりだというのに。ノーゼンから聞いた限りでは、あと二週間ほどの猶予があったはずなのだが……まったく、俺が村についてから来てくれればいいものを。


 足下を見る。

 誰の足跡もない、真っ白な大地。ほぼ完全に平らな場所に雪が降るので、雪の厚みも均一だ。おかげで視界がますます単調になった。やはりこの平原は、どこか狂っている。

 日光によって地面が温められる前に降ってくれたおかげで、中途半端に雪が解けることがなく、滑ったりせずに済むのは救いか。

 しかし、これ……春先の雪解けの時期には、どうなってしまうんだろう。地面は水を吸わないから、温かくなったら、ちょっとした洪水になるのではないか。この水はどこへいく? 恐らく、南方のセリパシアの穀倉地帯か、更に南西にあるムーアン大沼沢に流れ込む。でないと、辻褄が合わない。


 さて。

 安全上、常識的判断としては、雪を避けて南に向かうか、いっそオプコットを目指すべきなのだろうが……

 そうはいかない。むしろ、急いで北上しなくては。神に会う機会なんて、そうそうあるものではない。龍神に面会できて、話もできれば。土下座でも何でもする。不死に至る方法があるのかを教えてもらわなくては。


 雪を踏みしめるたびに、ギュギュッ、と音がする。

 ふと、振り返る。ごまかしようのない足跡が残っている。追跡者がいたら、逃げ切れないだろう。


 タリフ・オリムを離れる直前、謁見の間でサモザッシュが死ぬところを見た。『使徒』は、俺の存在をとっくに捕捉していた。

 あれだけのことができるなら、俺などいつでも殺せるのだろう。どういう目的があるのかは知らないが、それでも、こちらに興味があるらしいことはわかる。俺相手にはいろいろ喋ったくせに、王に対しては見下すような言葉一つだったのが、その証拠だ。

 ならば、今も魔法の力で遠くから監視されているのだろうか。


 だが、皮肉なことに、今の俺は、むしろ前向きだ。可能性が見えてきたからだ。

 あの『使徒』の言ったことがどれほど信用できるかはわからない。だが、奴の言葉が事実であれば、不滅の魂なるものが存在することになる。シーラには無理でも、ヘミュービなら可能かもしれない。だから、やはり尋ねてみる値打ちがある。


 足跡のことは、諦めるしかない、か。鳥になって先に進むとしても、この寒さだ。長時間はもつまい。それに、荷物も捨てなければいけなくなる。上空の風も強いし、何しろ裸になってしまうのだから、後から無理だと思っても、元の荷物があるところまで戻れる保証もない。しくじったら凍死してしまうのだ。


 いずれにせよ、寒さは凶器だ。わかってはいるが、龍神の存在を知りながら、無視するなどできない。


 午後になって、風が強くなった。追い風なのが救いか。とはいえ、後ろから雪が吹き付けてきて、毛皮のコートの上に積もっていく。たまにふるい落とさないといけない。体温も、いつの間にか下がってましたでは済まない。自分の体調に注意しながら進む。

 他は何の変化もなかった。まっすぐ歩いているつもりではあるが、ろくに目印もない以上、同じところをグルグル回っている可能性もある。ただ、相変わらず北らしき方向には濃い灰色が見えるし、風も背後から吹いている。多分、こちらでいいのだろう。


 丸一日、こんな調子だった。太陽は見えないが、世界が徐々に暗くなってきているのがわかる。

 さて、問題はここからだ。


 今は雪が降っている。止む気配はまるでない。風もそこそこ強い。

 そしてここはリント平原のど真ん中。障害物が一切ない。つまり、何かを風除けや天井にすることができない。

 雪は真新しく、従ってやわらかく、まだ深さも足りないので、雪洞を掘るのは無理。


 この状況でビバークしなければならないのだ。


 とにかく、風雪を受け続けてはいけない。こうして歩いているうちはいいが、睡眠中は体温も下がる。凍死したくなければ、なんとしても風除けが必要なのだ。

 だから新雪を掻き集め、山を作ることにした。これを叩いて固くして、壁にする。それから、露出した地面の一部に、ガイからもらったピッケルを突き立てる。さすがはアダマンタイト製、簡単に突き刺さり、ボロッと表層が剥がれる。この、石同然の破片を掻き集め、積み上げた雪の山のすぐ背後に積み上げる。その上に木の板を置き、そこを中心に簡易テントを立てる。

 これでどこまでしのげるだろうか。


 風下方向に口が開いた状態で、カーテンを閉じる。蝋燭を立て、火を点す。雪洞を掘る場合には、酸欠状態になったら消えるので、目印になる。それに、こういう状況だからこそ、火のありがたみがわかる。たった蝋燭一本分の熱量が、これほどの温もりになり得るのだと、驚かされるのだ。

 凍傷を防ぐためにも、指先、足先が濡れたり、冷えたりしないよう、気を配る必要がある。こういう状況では「濡れる」というのが致命的な結果をもたらし得るのだ。

 一方で、乾燥にも注意が必要だ。水分はあらかた雪か氷になってしまっている。だからといって、雪を食べてはいけない。水分補給をしたければ、少なくとも雪を溶かして飲むべきだ。

 それと、顔の皮膚がいつも露出しているので、気付かないうちに血行不良になり、凍傷を負う危険がある。というわけで、わざと顔にシワを作る。表情を意図的に変えて、顔の筋肉を動かし、少しでも血行をよくするのだ。指も握ったり閉じたり。血の巡りが止まらないように。


 こういう過酷な自然環境の中に身を置くと、自分の小ささがよくわかる。

 俺にはピアシング・ハンドという武器がある。だから、一対一の戦いであれば、まず負けはない。一流の剣士だろうと、山のようなドラゴンだろうと、一瞬で倒せてしまう。だが、だからといって無敵でもなんでもないのだ。少し冷たい風が吹いて、雪が積もれば、あっさり死んでしまう。その事実を忘れてはならない。


 すべてが片付いてから、木の板の上に座り、そのまま目を閉じた。


「どわぁっ!?」


 たぶん、五時間も寝ていない。周囲はまだ暗かった。それでも、突然の物音で目が覚めた。

 テントの一部が、積みあがった雪に押し潰されたのだ。支柱が一本、折れている。危ない。

 休息は足りていないが、テントを撤収し、先に進まなければいけない。


 幸い、風は弱くなっていた。雪は相変わらずしずしずと降り続けている。これくらいなら、歩けなくはない。

 龍神がいるうちに村に到着したいのだ。先を急がなくては。


 夜が明けて、状況が悪化したのがわかった。

 風も雪も弱くなっている。それはいいのだが、昨日までは見えていた、北側の暗い曇った部分が、きれいに消えている。目印らしいものが何もなく、どちらを向いても生気のない白い雪面が広がるばかり。

 それでも北を目指すしかない。いざとなったら鳥になって上空から位置を……だが、この寒さだ。うっかり死んでしまっては元も子もない。とりあえず歩く。


 八日が過ぎた。

 まっすぐ北上してきたと思う。自分の足跡が後ろに残っているのが、唯一の道標だ。だが、確かなことは何もわからない。地平線の向こうには、何も見えない。相変わらず、世界は灰色のままだ。

 ただ、一つ救いがあるとすれば、風が止まっていることか。雪が降り始めた初日だけは強い風が吹いたが、あとは降雪もいったん止まった。しかし、だからこそ、俺は焦っている。龍神が移動を止めたせいじゃないのか?


 それでも、容赦なく夜の帳が下りようとしている。

 なら、今日もここで野営だ。


 そう考えて、荷物を下ろそうとした、その時だった。


 ビュウッ、と顔に風が吹きつけてきた。

 向かい風?


 まさか。

 龍神は、もう村を発った? そして南に……


 間に合わなかったのか?

 いや、諦めるな。バッタリ鉢合わせるかもしれない。こうなったら、休むのはやめだ。夜になっても、進めるだけ進もう。


 最初の突風の後、風の勢いは弱まった。だが、上空ではどうも違うようだ。

 灰色の雲が、見る間に切り裂かれていく。そこから垣間見えたのは、底なしの暗黒と、彼方に散らばる星々の輝きだった。俺は地上に立って天空を見上げているのに、なんだか一瞬、遥かな高みから深淵を見下ろしているような気がした。

 何日も灰色の世界を見続けたせいか、黒い夜空がやけに新鮮だった。この世界は、こんなに美しかったのか。


 その時、更なる変化が視界を覆った。

 黒い夜空に、黄緑色の光の帯が現れ、揺れ動いたのだ。


 あれは?


 何かの予兆なのか。

 カーテンの裾が揺れるように。それは何度も波打ち、儚く消えた。

 黄色から緑まで、濃淡のある帯。上のほうはほんのりと赤みがかっている。それがいくつも現れ、南に向かって俺の頭上を駆け抜けていく。


 オーロラ、だ。


 やっと知識が知覚に追いついた。

 これが、そうなのだ。前世でも、映像でしか見たことはなかった。


 間近に見ると、こんなにも素晴らしいものだったのか。

 ああ、なんてもったいない……


 ……もったいない?


 なにが?


 だって、こんなまたとない景色を、俺一人だけが見るなんて。

 そんなの、もったいないじゃないか。ここに、ここに……がいたら。


 今、誰の顔を思い浮かべた?

 ふと、我に返って、胸の痛みに気付いた。あの人も、この人も。ピュリスで出会った顔が、次々脳裏をよぎる。最後に、ノーラの顔が……


 その思考が、中断された。


 一つだけ、色も形も異なる細長い何かが、上空に浮かんでいる。

 かすかに緑がかっている気がしないでもない。だが、あれはオーロラではない。とすれば。


「ヘミュービ様!」


 俺は、地上から呼びかけた。

 そして、すぐさまその場に膝をつく。


「卑小な人間の身で、お声がけさせていただくことをお許しください! ぜひともお導きを!」


 聞こえているだろうか?


「ヘミュービ様!」


 やはり、気付いてくれたらしい。

 その白い帯のような体が、俺の上空で旋回する。


 よかった。幸運だった!


『何者だ』


 実際の音声なのか、それとも直接、精神に語りかけているのか、区別もつかない。とにかく、対話を始めることができた。

 龍神は高度を落として、こちらを見下ろすように浮遊していた。それでもかなりの距離がある。


------------------------------------------------------

 ヘミュービ  (--)


・ディバインコア

・ディーティ:シックル

・ディーティ:ファン

・ディーティ:ジャグ

・ディーティ:トライビュナル

・トゥルーアストラル


 空き(--)

------------------------------------------------------


 間違いない。

 龍神だ。

 ただ、ピアシング・ハンドの示す表記は、相変わらず意味不明だが。


 龍神の姿は、地上に棲息する竜達とはまるで異なる。黒竜も赤竜も、翼の生えたトカゲだ。少し胴体の方が大きいが、緑竜も同様で、例外は稀に海中で発見される青竜だけ。

 これに対しヘミュービは、わかりやすく言うと、東洋の龍のように、細長い体と短い肢をもっていた。翼はない。全身が微妙に黄緑色に染まった白。大きさは、比べるものがない上空にいるため、わからない。


 それにしても、直接出会って、言葉を交わすことができるとは。

 風と雪をもたらし、しまいにはオーロラまで纏って現れるなんて。これが神か。


「私は不死を得る術を求めて、彷徨い歩く旅人でございます。何卒、私の無礼をお見咎めなく、無知に光を」

『今、何をした』


 えっ?


 あからさまに敵意が滲んでいる。そんな気がする。でも、なぜ?


「何も致しません、龍神様」

『お前からは、穢れを感じるぞ、おお人間よ』


 穢れ?

 そうかもしれない。俺はここに至るまで、大勢の命を奪ってきた。それならヘミュービだってそうかもしれないが、あちらは神だ。神が必要に駆られて命を刈り取るのと、人間が勝手な都合で殺人を犯すのとでは、意味が違ってもおかしくはない。


「私は罪深い人間です。多くの過ちがあったことを認めます。ですが、不死を得ましたなら眠りにつき、その後は決して何者も害することはありません」

『不死? 不死だと?』


 だが、俺の謝罪と懇願を、龍神は怒りでもって受け止めた。


『なんという傲慢! 開闢より、女神が与えた祝福は数知れず。だが、どれにも満足することはなく、更なる罪を犯そうとする』

「いいえ、龍神様、私はすべてを終わりにしたいがゆえに」

『不死こそは、女神が決して許さなかった望み。不死こそは、あらゆる生を死に変えるもの。不死こそは、あらゆる祝福を呪詛にするもの』


 そんな?

 とてもではないが、これでは不死になる方法など、教えてもらえそうにない。


「わかりました! では、もし不死を与えられることがあれば、私は善行と奉仕を誓います」

『偽る者よ! 不死はお前からあらゆる善を奪う!』


 まるで聞く耳持たず、といった有様だ。

 だが、なぜ? 俺一人が不死身になったからって、誰が迷惑する?

 少なくとも必要に迫られない限り、龍神と魔王の戦いに介入しようとは思わない。目立たないところで静かに暮らせるなら、いっそ眠り続けることができさえすれば、あとはどうでもいい。役には立たないかもしれないが、少なくとも何か悪さをしようだなんて、これっぽっちも考えていないのに。


 どうしよう?

 これ以上、下手に刺激しないほうがいいだろうか。


「では、せめて。不死に至る術はあるのでしょうか? またもし、不死を得るのが罪とすれば、それはなぜなのですか。なんであれ、私は仰せに……」

『おお、わかったぞ、いるはずのない者よ』


 いるはずのない? 俺が?

 なぜそうなる? 俺が転生してきた人間だからか? それとも他の理由が?


『あらゆる罪を洗い流せ』

「は、はい。それはどうすれば」


 俺の問いを、もはやヘミュービは聞いてなどいなかった。首を真上に向け、上昇し始める。と、見る間に風が巻き起こり、晴れ渡った空に物凄い勢いで灰色の雲が集まっていく。俺は、毛皮のコートのフードを押さえ、その姿を見送ることしかできなかった。

 いったい、これはどういう……


 いきなり、横殴りの風に粉雪が混じった。風は俺の前で渦を巻き、そこで白い雪が乱舞する。

 ふと、頭上に閃光が走った。すぐ続いて、腹の底から響いてくるような轟音が周囲に広がる。


 吹雪? それにこれは……雷?

 なぜ?


『裁かれよ! 裁かれよ! 許されざる邪悪よ!』


 あっ……!

 そんな!


 龍神は、俺を殺す気だ。

 だが、何もしていないのに?


 考えている余裕などない!


 龍神が、天空に向かって咆哮する。その瞬間、風も雪も以前に倍して激しくなり、無数の雷が周囲に降り注いだ。

 冗談ではない。こんな、何もない場所で落雷が続いたら。間違いなく、焼かれて死んでしまう。そうでなくてもこの吹雪。あっという間に体温を奪われて、凍死する。しかも、逃げ出そうにも足下がこれでは。視界も猛吹雪のせいで、ほとんど利かなくなっている。隠れるのも無理だ。


「ヘミュービ様! 私がどんな罪を」

『忌まわしき者! 悪意を集わしめる者! 滅びをもたらす者!』


 だめだ。

 どう語りかけようとも、まともに龍神が応えることはない。

 ならば……


 ピアシング・ハンドで龍神を殺す。

 できるかどうかなんて、わからない。だが、やるしかない。


 とはいえ、何を奪えばいい?

 人間の場合は、肉体を奪えば、魂の留まる場所がなくなるので、自動的に死んでくれた。だが、神となると。

 ピアシング・ハンドは一日に一度しか使えない。つまり、間違ったものを奪って、それに気付いたヘミュービが怒って俺に全力で攻撃を浴びせてきたら。もう助かる方法などなくなってしまう。


 あまり時間はない。まだ吹雪の合間に、かすかに龍神の姿が見える。直接認識できなくなったら、もうピアシング・ハンドは使えない。


 どれだ?

 ディバインコアか、いくつかあるディーティか、トゥルーアストラルか。意味がわからない。


 シックルはわかる。鎌? ファンは……扇風機とかの、あれのことか? ジャグはなんだったっけ。トライビュナルは……わからない。ただ、ざっと想像するに、これは神ができる何かを意味するのではないか? 現に、この暴風はどうだ。ファンによるのではないか? だとすると、スキルやアビリティに近いものか。なら、奪うべきではない。

 一度しか使えないのだから、一撃で倒せなければいけない。しかし、では、どちらだ? トゥルーアストラル……トゥルー、は本物ということだろう。アストラルって?


 わからない。わからないし、冷静に考えてなどいられない。

 だが、こうなればもう、賭けだ。ディバインコア。多分、これだ。


 奪う……


「うっ!?」


 ……集中して、ヘミュービからディバインコアを奪い取ろうとした、その時だった。


 これまでになく、重苦しい何かが胸の中に広がった。途方もない高さから突き落とされるような恐怖と浮遊感。そして。

 一瞬、何かの光景を幻視した。


 何もない白い空間。そこには冷たく張り詰めた大気が。どこまでも広がる虚無の世界に風が吹き、それが四散していく。どこまでも、どこまでも……


「うわぁっ!」


 俺は、錯覚したのだ。

 自分の手足が縛られたまま、それこそ全身が世界中に広がっていくような。それも俺の意志とは関わりなく、強制的に引っ張られて。やがては全身が細かな粒に成り代わっていくような、そんな途方もなく落ち着きのない状態。

 しかも、そこから逃れることはできない。もう俺には何の自由もない。何年も、何十年も、何百年も。永遠に形のない空気のまま、ひたすら世界を漂い続ける……


 はっと我に返る。

 俺は無意識のうちに、ピアシング・ハンドの行使を中断していた。

 あれは、奪ってはいけないモノだ。そう直感したがゆえに。


 でも、どうすれば。


 風はますます強くなる。俺は腕で口元を覆った。あまりに風の勢いが強すぎて、息ができないのだ。しかも、中途半端に口を開けようものなら、そこに雪の塊が突き刺さってくる。

 目を開ける。上空を探すも、既にヘミュービの姿はなかった。


 しまった。

 唯一の手段が、今。


 もう失敗を悔やむ気力さえ、今の俺にはなかった。

 手も足も凍てつき、息もできず。その場で膝をつき、もはや力尽きるのを待つばかりだった。


 大地を揺るがすほどの轟音が響き渡る。

 落雷も続いている。だが、だんだんと頻度が下がってきた。これは良い事ではない。

 頭上にエネルギーが集まりつつあるのがわかる。まもなく、極大の雷がここに落ちてくる。


 だが、その必要は既になかった。

 視界はぼやけ、かすんでいく。耳を聾する雷鳴も、遠ざかっていく。小さな体を埋め尽くすこの吹雪だけで、俺の命を奪うには、充分だったのだ。


 薄れる意識の中で、俺は遠くに龍神の咆哮を聞いた。


 ……どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

 死んだのか? いや……


 背中から、何か重いものが崩れて、取り払われるのを感じた。

 それでようやく動けるようになった。


 俺はうつ伏せになっていた。すぐ目の前にあったのは、白い雪の塊だった。

 それが見えるということは……ちょうど夜が終わり、夜明けがやってきたところだった。頭上には雲ひとつない空が広がっている。半ばは青く、半ばは濁った藍色だ。


 起き上がろうとして、全身に力を込める。冷え切っているかと思ったのに、そうでもなかった。不思議と力が残っていて、身を起こすことができた。

 そうして雪の上に座って、やっと気付いた。


 微細な白い毛。それと、鳥の羽のようなものが、俺を取り巻くように、大量に付着していた。

 どこからこれが……そう思って一つ、摘んでみると、それはすぐに光の粒子になって、微風に流されて消えた。


 ああ、そうか。


 俺は身を起こし、改めて跪き、感謝の祈りを捧げた。

 女神シーラに、またしても救われたのだ。

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