あくまで俺の中の戦い
「抜けよ、ファルス」
まだ、剣の間合いではない。但し、それは普通の戦士が相手ならば、だ。
キースの熟練を持ってすれば、こんな距離など、ただの一歩で埋められてしまう。次の瞬間には、俺は生首だ。
「えっ? えっ? お、お知り合い?」
すぐ隣で、イータが見当違いなコメントを口にしながら、俺とキースとを見比べている。
平和ボケしている人というのは、どこの世界にもいるらしい。キースが剣も抜かず、笑みを浮かべているから、殺し合いなんかしないだろう、と思っているのか。
冗談じゃない。こいつは、これが普通だ。笑ったまま殺し合いができる人種なのだ。だが、それがわからない。確かに、看護婦と傭兵では、世界の見え方が正反対には違いない。彼の感情など、想像もつかないのだろう。
「つまんねぇ死に方はしたかねぇだろ?」
何度も死線を潜り抜けてきた。だからわかる。
もう、右も左も、どちらに動いてもキースの殺傷圏内だ。すぐ後ろは王宮の壁。避けられない。
鳥に化ける……これも意味がない。飛び上がるまでの間に、斬られる。
やるしか、ないのか。
この状況でも、まだ俺に負けはない。ピアシング・ハンドさえあれば、最悪の事態だけは……
そう考えた瞬間、言葉にできない激しい不安が、胸中に渦巻いた。
漠然としてはいる。だが、確かに俺の中の何かが警告を発している。それは敗北を招く判断なのだと。
『しかし、本当の意味での君の弱点とは、どこにあるのだろうね?』
不意に、記憶の奥底から、グルービーの声が聞こえたような気がした。
俺の弱点、それは……
彼は、ピアシング・ハンドそのものだと言った。
そうなのか? この状況でも、本当にそう言えるのか?
これがあるから、俺は今、死なずに済む。
これを使いさえすれば……イータを殺すか、記憶を消せば、証拠も……
……違うだろう!?
『人生で一番大事なことは、自分が何をしたいかだ』
俺は、どうしたい?
「おい、ファルス、俺ぁ、面白くねぇただの殺しは好きじゃねぇんだぜ」
俺は……
キースと戦いたくない。理由はいくつもある。
一つには、単に危険だから。恐ろしいから。
二つ目は、そもそも彼が俺を襲う理由に心当たりがないから。原因をせめて知りたい。
おまけに、彼を味方にできれば、こんなにいいことはないから。
最後に、俺は彼が人間だということを知っているから。女にふられてヤケ酒を飲む、生きた人間なのだと。
キースは俺と殺しあいたい? 知ったことか!
俺は。
「お、やっと剣を……っておい」
ガシャン、と音を立てて、剣は俺の足元に落ちた。それを俺は蹴飛ばして、キースの足元に転がす。
「どういうつもりだ?」
「見ての通りです」
「今更命乞いなんかできると思ってんのかよ」
「今更も何も、言ってることがわかりません。納得できないから、僕は戦いません」
「ざけんなこら」
キースの表情が一気に険しくなる。
隣でイータが、その迫力に身をすくめた。
彼が怒りを露にした。その理由なら、うっすらと理解できる。
彼は強者だ。だから、幾度となく敵を屈服させてきた。だが、そうして膝を突いた相手が、みんなおとなしく従ったわけではない。騙し討ちを狙ったのもいただろうし、そこまでわかりやすくなくても、うまいこと彼をコントロールしようとしたのもいたはずだ。
キースが容赦のない殺人者であることには、それなりの根拠と必要性がある。
命乞い、説得、対話……だがそのすべては要するに、『意志』を捻じ曲げようとする力に他ならない。そして闘争とは、まさにその意志と意志のぶつかりあいであり、勝者がその権利を独占するものだ。
彼は強者だ。強者は戦い、自分の意志を通す権利がある。それを卑怯なやり方でごまかそうとする。詐欺と同じだ。命懸けで勝ち取ったものを、舌先三寸で掠め取ろうとする行為なのだ。だから我慢ならないのも無理はない。彼からすれば、まっすぐ剣を向けてくる相手の方が、まだずっと好ましいのだ。
だが……
「くだんねぇ芝居はやめろ」
一段低い声で、彼は言う。
「俺ぁ今まで、腐った言い訳するクズを山ほどぶっ殺してきたんだ。せっかく戦って死ぬチャンスをやろうってのに、てめぇもそんな汚ねぇくたばり方してぇのか?」
俺の中で、まだ意志と恐怖とがせめぎあっている。
大丈夫、大丈夫、まだ大丈夫。
俺の目はキースを捉えている。だから、あとは念じるだけで安全が手に入る。こちらは安全なところから、彼と交渉すればいい……
……それが理由だ。
俺はキースを殺せると思っている。もちろん、それは事実なのだが、まだ絶対に安全といえるわけではない。彼が動くより早く念じなければいけない。だから、一瞬たりとも目を離せない。
キースも、俺の目を見ている。俺が戦士の目で、敵の動きを追っているのに気付いている。だからこそ、彼の敵意がなくならないのだ。
なら、どうすればいい?
出口なんかないじゃないか。ピアシング・ハンドで殺すしか。
せっかく剣を捨てたのに、彼は微弱な敵意にすら反応する。俺が完全に自分の安全を放擲しない限り、キースは彼自身の安全を確信できない。手詰まりだ。
本当に、どうすれば……
『出口を探すな。入口を探せ』
……何かの知恵が、俺の中で働いているらしい。
古い記憶がまた一つ、甦ってきた。
そうか。わかった。
手を離すしかない。
ピアシング・ハンドという保険がある。だから俺は、それに意志を引っ張りまわされている。安全を確保しながら交渉すればいいのだと。だからこそ、あっさり剣は手放した。だが、本当は手放してなんかいない。本当の剣は、あくまで俺の内にある。
「……僕は、キースさんには、何もしていません。本当です」
「うるせぇ」
ほら見ろ。
話し合いなんか無駄だ。早く安全に……
駄目だ。
決めろ。選べ。
キースは人間だ。俺と命のやり取りをしようとしている今でさえ、そうなのだ。その証拠に、彼は俺に剣を取れと要求している。だが、合理的に考えれば、そんなまだるっこしい真似などせずに、バッサリやればいい。
これこそが、彼なりに俺を人間扱いしている証拠だ。語り合いもし、一緒に酒も飲んだ。それが互いの都合で敵同士になった。ならばせめて、恨みも後腐れもなしに、剣で。
だが、それがわかるからこそ、俺は彼を殺したくないのだ。
もしピアシング・ハンドがなかったら、俺はどうしていた? 俺には、彼に殺されなければいけないような、後ろめたいことなど、何一つない。
であれば、どうしていた?
わかってる。
俺は正しい取引をしたいのだ。
『そう、いい取引とは、掴むことではない、手放すことなんだ』
さあ。
俺の意志は、誰のものだ?
俺のものか?
それとも、俺の「能力」のものか?
「……おい」
俺は……ゆっくりと目を閉じた。
これでもう、彼を認識できない。俺は、最大の武器からも手を離した。
肩の力を抜いて、深呼吸。どうにも力んでいる。もう一度。
じっとりとした汗が、額から伝う。体中の筋肉が引き攣っている。
そうして、俺は運命を待ち受ける。
「ぐあ!」
突然、肩に激痛を感じた。斬られた?
「ファルス君!」
「ふん……クソが」
いや、斬られてはいない。剣の腹で打たれただけだ。それでもかなりの痛みだったが。
「身に覚えはないってか」
「そう言ってるでしょう」
「だがな、確かなんだよ」
駆け寄ったイータのすぐ前に影を落としつつ、キースは俺を睨みつけた。
「キース・マイアスは、裏で太子派と繋がっている」
「えっ」
「タンディラールの側近、サフィス・エンバイオの手駒だとよ」
「そんな、誰が」
「お前がブチまけたんだろうが!」
「言ってません! そんなこと!」
どういうことだ?
「確かに去年、屋敷には招きましたよ。そのせいじゃないんですか」
「馬鹿が。あれで俺がどれだけの貴族に呼ばれたと思ってるんだ」
子爵家以外にも顔を出していた。となると、確かにそれでは説明がつかないか。太子派、というだけでなく、サフィスの仲間とされるのだから。
「それも、サフィスの下僕ファルスが、俺との連絡役なんだとよ」
「は!?」
「どうしてそんな話が、長子派の貴族の間で広まってんだよ!」
わけがわからない。
心当たりがあるとすれば……
「いや、でも、それなら」
「あんだよ」
「あの、最近、王都で一度、会ったじゃないですか」
「ボケが! じゃ、この俺が、跡つけられる間抜けだってのか!」
二人きりで、密室で話をした。その事実があればと思ったのだが、キースもきっと、まずはそれを疑ったのだろう。だが、どうもその辺ではないらしい。あの酒場だってキースが選び抜いた場所なのだ。彼にとって秘密がいかに重要か……当然、店長にも因果を含ませていたはずだ。
「でも、それ以外に心当たりなんてないですよ」
「どうだかな? お前、ウェルモルドとも会ってたみてぇじゃねぇか」
「あ、あれは」
「そん時に口でも滑らしたか?」
「まさか! そんな覚えはありません!」
よく調べてあるものだ。
だが、俺は彼にキースのことなんか、言ってない。
だがそうなると、その噂はどこから出てきたんだろう?
「要するに、お前は俺をハメようとした。一度、俺を買収しようとしただろ。で、思い通りにならなかったもんだから、そういう噂を流して、長子派の連中に始末させようとしたんだ。違うか」
「違います」
「証拠でもあんのか、おら!」
ふう、と一息ついた。
俺の中では、もう論理的に繋がりができている。
「今の話には、大事なところが抜けています」
「何がだよ」
「僕は、キースさんがどこに雇われたかを知りませんでしたよ?」
「あぁ?」
「わかりますか? キースさんが長子派の貴族に雇われる予定だと知っていれば、それは意味のある作戦です。逆に知らなければ、そんな噂を流しても無駄です。キースさんを殺しても、僕にも子爵家にも、太子派にも利益にならないからです。で、僕はその情報を、どこでどうやって手に入れたんですか?」
そこでようやく、彼は少し冷静になったようだった。
「……そいつは、そりゃあ、その……お前んとこにはイフロースがいんじゃねぇか」
「今は執事で忙しいですから、自分では動けません。だから冒険者を介して情報屋とやり取りしていました」
「そ、そう! それだ! 情報屋から」
「忘れたんですか? 『女衒』のデルムには会えなかったんですよ?」
燃え盛っていた火が、今は灰の中の燃えカスのようだった。
よくよく突き詰めると、確かに……
「いいや、だからって、お前が俺のことを何も調べられなかったって証拠にはならねぇぜ」
「そうですね。でも、逆に訊きますが、僕がそんな情報……キースさんがうちの仲間だって噂を流したって証拠はありますか?」
「……ねぇけどよ」
「では、更に踏み込んで訊きますが、僕や僕の周囲の誰かは『どうやって』長子派の貴族達に、そんな噂を信じ込ませたんですか? たとえば僕がウェルモルドにそう言ったとして、彼が鵜呑みにすると思いますか?」
キースが疑うのも無理はないが、俺にその手段はなかった。もしそうしたかったとしても。
「じゃあ、なんでドゥーイの野郎は、いきなり俺を裏切り者扱いして狙ってきやがったんだ?」
「は?」
「あの野郎の部下はよ、みんなイカレてやがんだ。おかげでひでぇ目に遭ったぜ」
「い、いや」
今度は俺が突っ込む番だ。
「何ふざけたこと言ってるんですか? そんなの決まってるじゃないですか! 遺恨ですよ遺恨!」
「ば、馬鹿! あいつらも一応、プロの傭兵だぞ! 大仕事のまっ最中にそんな真似するか!」
「少なくとも、僕が変な噂を流したっていうより、ずっとまともな推測じゃないですか!」
「いいや、それはない!」
ムキになって言い合うのはいいが、結論は出ない気がする。
どっちも憶測でものを言っているに過ぎないからだ。
はぁ、と溜息をつき、キースは左手で頭をボリボリと掻いた。
「ったくよぉ……おかげで散々なんだぜ? この俺様が、丸一日追い回されて、こっから逃げることもできねぇ」
「そんなに苦戦してるんですか」
「いくら世界最強の俺様だってな、ああも取り囲まれちゃ、出るに出られやしねぇよ。一度は、門の守備兵を片付けて、兵士の壁の近くまで行けたんだが」
「あっ」
じゃあ、あれか。
「それ、昨日の夕方です?」
「おう」
「東門、ですよね?」
「なんで知ってんだよ」
「通ったんです」
「はぁ?」
たまたま東門が無防備だったのは、キースのせいだったのか。まったく、タイミングがよかったのか、悪かったのか。
「じゃ、てめぇ、なんで無事なんだよ?」
「はい?」
「俺ぁ、出口の近くで、ドゥーイの手下どもに出くわしたんだぜ?」
「あー……見つかっちゃったんですね」
スナーキーとかいう、いかにも暗殺者といった感じの。
「すごい顔した、小男」
「そいつだ」
「罠、とか?」
「だからなんで知ってんだよ!」
スナーキーも強者だった。だが記憶にある限りで考えるに、白兵戦では、キースに太刀打ちできそうになかった。だから、それしかなかったはずだ。
「見かけたけど、やり過ごせました。運がよかったです」
「はぁ……」
途方に暮れたキースに、やっとイータがおずおずと声をかけた。
「あのー……」
「なんだ、ちんちくりん」
「ちんちくりんじゃありません!」
彼女は両手を振り上げて抗議した。
「もしかして、あなた、あの、去年の武闘大会の」
「そうだ。俺がその、王国最強の戦士、キース様だ」
「こんな人だったんですねー……わー……」
「ん?」
今、明らかにイータの顔に、落胆の表情が浮かんだ。
が、その辺、人情の機微には鈍感なキースだ。彼女の幻滅など、意に介した様子はない。
「まあ、いいです」
が、すぐに気を取り直したらしい。
「それで、あの、あなたも外に出たい人なんですか?」
「あー、出たい。出たいね。冗談じゃねぇ、けったくそ悪い」
「じゃあ」
ニコニコ、いや、ニタニタしながらイータは言った。
「お手伝い、しません?」
「あ?」
「お年寄りを一人、壁の外に逃がすお手伝いです。お給料は一緒にお外に出られること」
「ざっけんなチビ」
二度も身長のことを言われたせいか、彼女はサッと愛想笑いを消した。
「あ、そ」
「行きましょうか、イータさん」
「そうね」
俺と彼女は、すっと立ち上がる。
「僕のことも誤解だったみたいですし……」
「じゃあ、お元気で。お先に失礼しますねー」
さっき転がした剣を拾い上げる。
雲行きが変わったのに、ようやく気付いたらしい。
「お、おい」
「なんですかー」
「お前ら、どこ行くんだ」
「牢屋に寄り道して、そのまま外に出ますよー?」
「キースさんも、お元気で。また会えたらいいですね」
さ、時間を無駄にした。
急ごう。
「ちょ、ちょっと待て! 待ちやがれ、てめぇら!」
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