無言の王

 朝の光に、細かな塵が舞う。それが真っ黒な服の上で白い光を発する。俺はそれを叩き落とす。


 鏡の前に立って、身なりを確認しているのだ。例によって、王都で俺に割り当てられるのは、この物置部屋。おかげで家具には困らない。古びた姿見が三つくらい置きっぱなしだ。

 小さな燕尾服を着込み、胸にはイフロースからもらったオニキスのブローチを飾る。子爵一家の近侍になってからは、いつも上等な衣服を身につけてはいるのだが、今日は特に念入りに。


 なぜなら、王宮に出向くからだ。それも昨日とは違う。あれは非公式の訪問で、王子の私的な領域に立ち入ったに過ぎない。

 だが今日は、国王陛下に謁見する。といっても、俺が直接、セニリタートの目の前で跪くわけではない。下僕として二階の立見席でエレイアラやリリアーナの横にいるだけだ。それでも見苦しい格好は許されない。


 召使の大半は、邸宅で待機する。乳母のランすら居残りだ。戴冠式の出席者は本来、家長一人。絶対に行かねばならないのは、サフィスだけなのだ。

 しかし、王者の新旧交代という一大事である。新王は、現在当主を務める者達だけでなく、次世代の貴族達からも認知され、支持されるべきものだ。ゆえにトヴィーティ子爵本人だけでなく、その後継者も、この重要イベントを見届ける必要がある。だから一家丸ごと招かれる。

 場所が限られているので、従者は各一名ずつしか連れて行けない。エレイアラにはイフロースが、リリアーナにはナギアが。そしてウィムの分は俺だが……よくあのランを黙らせたものだ。若君の従者は譲らない、とか言い出しそうな女なのに。


 倉庫同然の自室から出ると、爽やかな朝の空気が廊下を吹き抜けていった。

 夏もそろそろ終わり。日中は暑苦しいが、朝と夕には、季節の移り変わりを感じることができる。


 イフロースが通りかかった。


「準備は……行くぞ」


 廊下を歩きながら、俺を横目で見る。一瞬でチェックを終え、問題ないと判断したのだろう。どんどん外に向かって歩いていく。


 理解はしている。何もないはずだ。危険など、あってはならない。ただの式典なのだ。

 だがそれでも。最悪の事態が起きた場合には、少しでも手駒が必要になる。だからイフロースは、俺を選んだ。


 黒い二台の馬車に分乗していく。先を走る小さいほうにサフィスとイフロース。大きいほうに、残り全員だ。

 誰も何も言わない。幼いウィムも、周囲の大人達の緊張した表情から察するものがあるのだろう。佇む馬車を前に、ただの棒切れのように突っ立っている。


 昨日通った道を進んで、大きな分厚い城壁の下を潜り抜ける。目の前に見えるのは、青空の下、輝く噴水だ。

 それを迂回して、まっすぐ進む。しばらく先で馬車が止まった。この先は徒歩で行かなければならない。足場が悪いのではなく、王家への敬意のためだ。

 足元を見ると、それがよくわかる。すぐここまでは茶色の石畳なのに、そこに緑色の石で舗装された線が見える。そのまた向こう側は、白大理石一色だ。しかも継ぎ目さえ見えない。

 ここからまっすぐ北に向かって、広場といっていいくらいの平らな通路が広がっている。そこにポツンと二つほど、旗が掲げられている。赤く縁取りされた緑色の旗。フォレスティス王家の紋章が中心に描かれたものだ。そこから先には、やたらと幅の広い赤い絨毯が敷かれている。


 金糸で縁取りをした白い服。一人の宮廷人と思しき若い男が、やってきてサフィスに一礼した。言葉は交わさない。だが、意味ならわかる。彼の先導で行かねばならない。


 絨毯に足をつけ、先を仰ぎ見る。

 幅広の階段が堂々と聳えている。その左右の突き当たりには、フォレスティス王家の栄光の歴史を描いたレリーフが。赤い絨毯の端にはところどころ美術品といって差し支えないほどの植木鉢が置かれ、貴婦人のような花々が見事な立ち姿を披露していた。

 階段を登りきると、そこは半屋外の領域だった。まだ強い日差しを遮る石の天井が、ここまで迫り出してきている。それを支える石柱はどれも縦方向に刻みが入っていて、軽やかで洗練された様子の中にも荘重さを失っていない。

 更に踏み込むと、頭上が開けるような感じがした。そこには金箔と宝石で飾られた荘厳なアーチが広がっていた。かすかに取り込まれた外の光に照らされて輝いている。そのせいか、ごてごてした重苦しさは一切ない。


 そんな丸天井が連なる通路の入り口で、宮廷人の男は足を止めた。彼は小声で何かをイフロースに告げると、先にサフィスだけを伴って奥に向かった。

 各貴族の当主は、より王に近い場所に立つ。二階の立見席から眺めるだけの俺達とは一緒にいられないのだ。だから、俺達はその場で宮廷人が戻ってくるのを待っていた。


「おや」


 後ろからの声に、まずイフロースが振り返る。


「ご無沙汰しております」


 そしていち早く頭を下げる。


「まぁ」


 エレイアラも振り返り、笑みを浮かべてみせる。


「お久しぶりです、エレイアラ様。ところでサフィス様は」

「主人はもう、陛下のお傍に」

「左様でしたか」


 親しげに声をかけてきているが、内心はどうか。

 オールバックに撫で付けた髪。背が高く、骨太な体型。そして何より特徴的な鷲鼻。

 見間違えようがない。フォンケーノ侯の長子にして名代のエルゲンナームだ。


「いつ王都に?」

「三日前ですわ」

「そうですか。私は一昨日参りました」


 フォンケーノ侯とサフィスの関係は、それはもうひどい代物なのに。だが、形だけでも仲良くして、他の貴族に余計な隙を見せないのが、彼らの流儀だ。

 普通なら、こんなところで道草など食わない。友人が相手でも、会釈一つで先に行くべきところだ。だが、わざとらしく会話を引き伸ばす。今も彼を案内している宮廷人の男が、じっと様子を見ながら突っ立っているのだ。


「フォルンノルド様はおいでになられないのですか?」

「父は、なにぶん、高齢でもありまして。私が代わりを務めるようにと」


 それだけではないだろう。

 フォルンノルドは王家を軽視、いや敵視さえしているところがある。侯爵家には王家の干渉を退けるだけの力がある。大貴族なのだという意識ゆえに、こうした選択をする。

 形だけでも易々と屈してはならない。今、エスタ=フォレスティア王国は、中央集権化まっしぐらなのだ。彼のような旧来の貴族こそ、今の王家にとっての最大の障害なのだと理解している。

 だから、その王位も「認めてやっているだけなのだ」と暗に示すために。これは次代の王たるタンディラールへの、無言のメッセージなのだ。


 しかし、参列する血族は?

 彼の後ろには、一人だけだ。すると彼が従者を兼ねている?


 視線に気付いたエルゲンナームは、曖昧な笑みを浮かべて説明した。


「ああ……娘達は幼すぎますから、さすがに連れてこられませんでした。それと、グディオは国許を離れられませんでしたから、今回は弟一人だけです」


 その言葉を受けて、すぐ後ろに立っていた青年、シシュタルヴィンがエレイアラに会釈した。


「一応、ドメイドも来ているのですが、彼には儀仗隊の指揮を任せていますので、邸宅のほうに」

「そうなのですね」


 公職を得られそうにないから、実家に就職といったところか。あと、こういった貴族の集まる式典に参加するには、社交性にも問題がありそうだ。

 あの小太りの男が兵を率いる……少し想像ができないが。


「と、そろそろ失礼します。あまり待たせては」

「また機会がありましたら」


 エルゲンナームが去っていくと、シシュタルヴィンが一人、残された。

 はてさて、気を遣って会話すべきか。微妙な空気になりかけたところで、さっきサフィスを案内した男が戻ってきた。それでエレイアラ達は会釈だけして、先に進む。


 少し進んだところで、左右に階段があった。宮廷人の先導で俺達は上に向かう。

 上がった先は、広大な謁見の間を見渡せるテラスだった。上品な木の手摺りの向こうには、居並ぶ貴族達の頭が見える。そして一段高いところに玉座があり、その背後の壁の左右には半透明の垂れ幕が吊り下げられていた。


 当然ながら、セニリタートはまだ、この場にいない。病気というのもあるが、なにしろ王様なのだ。臣下が出揃ってから、悠々登場するのが常識というものだ。

 ただ、タンディラールの姿も見えない。何かあったのだろうか。それとも、病身の父の身の回りのことで忙しいのか。


 いやいや、常識的に考えれば、舞台裏で準備中に決まっている。

 今日の式次第は、わかる範囲でいえば、非常に単純だ。左右に分かれて並び立つ貴族達の間をタンディラールが通り抜け、玉座の前にぬかずく。そこでセニリタートが立ち上がり、建国以来伝わる大きな王冠を頭に載せる。改めて壇上に立ち、貴族達の祝賀と承認を受ける。これだけだ。他に、女神教の神官が出てきてあれこれ祝福したりとか、いろんなオマケがついてくるのだろうが、そういうのはただの飾りだ。


 セニリタートの病状もある。こんな式は一時間も経たず、終わるだろう。


 そう思って突っ立っているのだが、相変わらず何も起きない。

 ただ立ち尽くしている貴族達も、焦れているのだろう。だが、場所が場所なだけに、騒ぎ立てるわけにもいかない。


 かなり時間が経ってから、何かガラガラと車輪の音が聞こえてきた。半透明の幕の向こう側からだ。奇怪な物音に、立見席の人々は顔を見合わせる。

 次第に音は大きくなり、そして……止まった。


 玉座の前に、車輪つきの寝台が運び込まれたのだ。

 そこに一人の老人が横たわっている。


 場は沈黙に包まれた。


 戴冠式もへったくれもない。起き上がることもできないんじゃないか。しかし、どういうつもりなんだ、いったい。こんな状態では、人前に出す意味もない。主治医は何をやっている?

 俺は横たわる国王の周辺に立つ連中を見回した。だが、そこにモールなる老医師の姿は見えない。代わりに看護婦らしいのが三人ほど。知的な雰囲気を漂わせる物静かそうな女が、そのリーダーらしい。言葉はかわさず、身振りだけで指示をしていたからだ。灰色のワンピースに眼鏡、暗い色のロングヘアが美しい。


 いったい何が……小さなざわめきが、この会場にくぐもった反響をもたらし始めた時、その寝台の前に、フラッとタンディラールが歩み寄った。


「諸卿、お集まりいただき、感謝に堪えない」


 おかしい。

 どういうことだ、これは?

 戴冠式は、中止?


「陛下の健康状態は思わしくなく……ご覧の通りだ」


 だったらこんなところに引っ張り出してこなければいいのに。


「だが、せっかく皆に集まってもらったのだ。親愛なる臣下達の姿を一目見たいとのこと。それゆえ、こうしてここまでいらしたのだ」


 何を言っている?

 理解が追いつかない。

 臣下の顔を見たい? それ、セニリタートが言ったのか? こんな容態で? 違うだろう?

 さっきから何の反応も返さない。意識があるかどうかも怪しいのに。


 戸惑う貴族達を前に、タンディラールは威儀を正して命じた。


「国王陛下はここにおわします。王国に忠誠を誓うものは、跪拝せよ」


 ハッとして、貴族達はその場に跪く。

 上の立見席の俺達も、そうせざるを得ない。


 だが、俺は頭を下げつつも、そっと盗み見た。


 いったい、セニリタートはどういう状態なのか……えっ?


 ピアシング・ハンドが機能しない。

 セニリタートの情報が読み取れない。


 これって。


 ……貴族達は、相変わらず王を伏し拝んでいる。

 決して動かない、物言わぬ王を。


 壇上で、タンディラールは穏やかな笑みを浮かべていた。だが、俺はそこに、そこはかとない狂気を見出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る