ノーラの戸惑い

 まず、体中が痛い。特に右目のあったはずの場所からの疼痛がひどい。あと、倦怠感が凄まじい。

 動こうにも、手を持ち上げてペンを掴むのが精一杯で、足なんか、ただの飾りでしかない。

 そのくせ、頻尿が収まらず、下手をすると間に合わずにその場でしてしまう。


 なんなんだ、この体は。

 こんな状態でよく、グルービーはあそこまで明晰な意識を保てたものだ。


 しかも。

 ぶっ壊れてるんじゃないか。

 これだけ死に掛けているのに、性欲だけは収まらない。本当に、ゴミみたいな肉体だ。


 だが、この体でなければできない仕事がある。

 呼び鈴を鳴らした。


「お呼びでしょうか……えっ!?」


 扉が開き、数名のメイドが駆けつける。先頭のスィが、俺と部屋の中を見て、絶句した。無理もない。

 まず、グルービーがベッドの上で全裸になっている。しかも、いつもの車椅子は横倒し。そのすぐ横に、大木が転がっている。


「あ、あの……ノーラは」

「細かいことは気にせんでよい」

「は、はい、では早速」


 スィはすぐに状況を飲み込んだ。そしてグルービーの体で横たわる俺の傍まで来て、服を着せて……くれなかった。

 代わりに、欲情をかきたてるようなキスをそっと。


「ち、違う、そうじゃない!」

「あ、も、申し訳ありません」


 するとスィは、服を……脱ぎ始めた。

 彼女だけではない。その他のメイド達も、いちいち命じられもしないうちから、胸のリボンを外し始めていた。


「まっ……待て、スィ」

「はい?」

「それはそれでよいが、先にやって欲しいことがある」


 すると、彼女は本気で目を見開いて驚いた。

 性欲処理を中断させて、それ以外を要求したら驚かれるって……


「い、いったいなんでしょうか、ご主人様!?」

「お、落ち着け……ええと、いや、ああ……モライカ達は、どうしている?」

「護衛のものどもですか」

「そうだ」

「ただいま呼んで参ります。しばらくお待ちを」


 そう言うと、彼女はさっさとメイド達を連れて、部屋の外へと出て行ってしまう。

 どうでもいいけど、俺は全裸のまま。しかも、体が重すぎて、自力ではまともに服を着られない。いくら室内とはいえ、真冬なのに……グルービーの日常が垣間見える。夏でも冬でも、彼は自室で服を脱いだままでいたのだろう。もちろんその理由は……言うまでもない。


 ややあって、枕元に護衛のリーダー達が駆けつけてきた。

 今、アイビィはいない。そして、タロンはピュリスで死んでしまった。だから、残っているのは、女性寮の管理人兼女奴隷達の武術講師を務めるモライカ、手甲をつけて戦う大柄な格闘家であるカンプス、それに邸内の警備隊を率いているマルテロ……この三人だけだ。


「お呼びでしょうか」


 モライカがそう言う。

 全裸のままのグルービーに誰もツッコミを入れない。

 これが日常だったのか。


「うむ、急ぎ、地下牢のファルスを、ここに連れてこい」

「はっ?」

「そろそろ、奴も堪えているだろうからな」

「は……ですが、あれは子供とはいえ、暴れだしたら手がつけられません」


 本気でモライカが慌てている。

 これは無理もない。一対一とはいえ、ここにいる全員を打ち倒した相手なのだ。そんなのを主人の傍に連れてくるなど、できるわけもない。


「心配無用だ。それと、さすがに奴も空腹だろうから、何か温かい食べ物も、用意しておけ」

「は、しかし」

「急げ。よいな」

「……は、はっ」


 本当に急がないと。

 あのボロボロの体で、丸三日間、放置されているのだ。俺の肉体が駄目になるだけならまだしも、中にいるノーラまで死ぬとなると、さすがに申し訳ないでは済まない。メイド達相手に遊んでいる場合ではないのだ。


 二十分も経たないうち、この部屋に警備隊のメンバーが駆け込んできた。といっても、半数は怪我をしているため、来られないらしい。全員、緊張した面持ちで立ち並んでいる。いざとなったら、身を投げ出してグルービーを守らねばならないのだ。

 そんな中、厳重な護送態勢で、俺の体を借りたノーラが連れてこられた。よかった。かろうじて、まだ生きているらしい。だが、フラフラしている。

 しかし、三人の護衛は、誰もが油断していなかった。ノーラは腕を縛られ、歩かされている。その左右にモライカとカンプスがつき、後ろにフレイルを構えたマルテロが立っている。


「連れてきました」

「縄を解け」

「ご冗談を」

「本気だ。それと、食べ物を与えよ」


 モライカとカンプスは、目を見合わせたまま、戸惑いを隠せずにいたが、ついに言われた通りにした。

 やっと一安心だ。とにかく、食べないと……


 ところが、ここでまた、予想外なことが起きた。


 ノーラが、まっすぐ立ったまま、俺を睨みつけている。

 な、なんで?


 あ、そうか。

 中身が俺だとわからないから。

 何をするつもりかは、説明していなかったし。


 俺は彼女に、一日経ったら体を返すとは言った。だから彼女の中では、あの穴倉に俺が戻ってくるというイメージがあったのだろう。ところが案に相違して、やってきたのはグルービーの部下達。目の前の俺も、敵に見えるわけだ。


「早く食べたらどうだ」


 かといって、護衛達の前で真実を語ってしまうわけにはいかない。まずは休養を与えたい。肉体を返すのは、その後でもいいだろう。

 だが、俺はノーラを少し甘く見ていたのかもしれない。


「ノーラは……どこ?」


 意味がわかって、俺は少し慌てた。

 いったい、彼女にどれほどの覚悟があったのか。それがわかってしまったからだ。


「心配しなくても、すぐ会える」

「出し……出せ!」


 疲労と空腹で朦朧とする意識の中、女言葉になりそうなのもなんとか止めて、彼女は叫んだ。


「早くノーラを連れてこい!」

「待て、ノーラは無事だ。会えるのもすぐだ、だから後で」

「今! 今すぐだ! でなければ、こんなもの、食べない!」


 これは困った!

 なんてことだ。


 ……ノーラは、俺がノーラの体で、遠くに逃げる手段を探していたと思っている。何が理由かはわからないが、恐ろしいグルービー相手に、ひどい目に遭わされたのだ。だけど、とにかく戦って負けたからあんな場所にいた。そして、グルービーは大富豪で手下もたくさんいる。まさか勝てるわけはないから、逃げるべきだし、そうして欲しい。

 でも、それなら中に取り残されたノーラ自身は?


 理解に至って、俺は身震いした。

 場合によっては、身代わりに死ぬ覚悟だったのだ。ファルスが死ねば、あとはノーラになりきった俺が逃げ切るか、ごまかしきってしまえば、俺は助かるからだ。


 それを間抜けにも、俺は「すぐ会える」なんて言ってしまった。

 この言葉を彼女は「ファルスが捕まった」と解釈したのだ。


「む……モライカ」

「はい」

「他の皆も、全員、部屋を出よ」

「そんな! なりません!」

「早くせい!」


 ややあって、護衛達はため息をつき、一礼をして出て行った。

 残されたノーラが、俺をじっと見つめる。


「ノーラを出せ」


 俺は、人差し指を一本たて、口の前に持っていった。ノーラは首を傾げる。

 頼むから、大声を出さないでくれよ?


 一瞬の集中の後……俺は、ノーラの肉体に乗り換えた。


「ファッ……!」


 慌てて口を押さえるノーラ。

 ふう、と一息。

 その俺に、彼女はぶつかる勢いで抱きついてきた。


「ファルス! 無事だったのね……」

「そ、そうだよ、だからまず……お腹空いたでしょ、食べないと」


 彼女を落ち着かせ、食事を摂らせた。

 一方、俺はすぐにグルービーの肉体に乗り換える。でないと、何が起きるかわかったものではない。いきなり扉を開けられたら。


「いったい、どういうことなの?」


 目を丸くするノーラだったが、俺は小声で言った。


「今夜、説明するよ」


 この後、部下達には、ファルスと和解する旨を説明した。今夜、ファルスと同じ部屋で過ごすつもりだとも。またその間、誰も部屋に立ち入ってはならないと厳しく言い渡した。全員が理解不能という顔をしていたが、押し切った。


 夜。

 夕食と、大量の夜食が運び込まれていた。この部屋に隣接する風呂場には、温かい湯が貯められていた。暖炉には薪がくべられ、室内は暖かかった。つまり、閉じこもるのに何の不自由もなかった。


「鍵、かけて」

「うん」


 これで一安心。

 俺はグルービーの体を抜け出して、またノーラになった。服を身につけ、ベッドの縁に座る。


「そういえば、ノーラ、教えてほしいことがあったんだけど」

「うん、なぁに?」

「どうして、僕が捕まったのがわかったの? 何があったの? ちゃんと訊けなくて」


 そうなのだ。

 タイミングが良すぎる。彼女が来なければ、俺はあそこから脱出できずに、一人死んでいくしかなかったはずだ。


「あのね、私達……ほとんどの女の子達は、みんな、屋敷の外の宿屋に移されたの。授業はお休みにするから、そこにいなさいって」

「うん、それで?」

「で、ファルスを助けに行く前にね、二日前かな、急にキィーンって頭に響く音がして」

「うん」

「目を開けたら、みんなおかしくなってたの」


 恐らく、グルービーが『強制使役』の魔法を使った瞬間だ。街中の人間を無理やり動かして、俺を閉じ込めた塔の出口を塞いだ。ノーラにも影響が……いや、彼女は無事だった? なぜ?


「周りを見たらね、話しかけても、みんな上の空で。フラフラしながら、外に出て行くの」

「それは知ってる。グルービーがやったんだ。魔法でね」

「そうなの!?」

「うん」


 驚きに目を丸くしながらも、彼女は説明を続けた。


「それで、どうしたんだろうって思っていたら、女の人の声が聞こえたの」

「声?」

「うん……それでね、私に『目立たないようにしてください、あなたの助けが必要です』……って」


 これは。

 まさかとは思うが、一年前の……白銀の女神か?


「それから一日経って、また声が聞こえたの。『ファルスが悪の手に落ちようとしています』って」

「悪の手……か」

「本当は自分が助けに行きたいけど、怖い『使徒』が見張っていて、近付けないから、手助けして欲しいって、そう言われたから」


 多分、確定だ。

 その声の主が何者かはわからないが、恐らく、あの白銀の女神に違いない。しかし、使徒とは?


 最初は自分のことかとも思ったのだ。確かに俺は、神の力かどうかはわからないが、奇妙な能力を持っているし、女神らしきものとも繋がりがあるらしい。

 だが、女神は使徒を恐れて、地下牢に近付くのをやめ、ノーラに助力を求めた。ということは、使徒は俺ではない。


 では、グルービーのことか?

 確かに、異様な能力を身につけていた。しかし、どうにもすっきりしない。

 或いは、あの場に、俺も感知できない第三者がいたということは……


「ねぇ」


 ノーラが尋ねる。


「私達、ずっとこのままなの? その、体が入れ替わったまま?」

「ううん、それはないよ」


 俺は、ごく簡単に説明した。

 自分には、肉体を奪う能力があること。一日に一度しか使えないから、明日の昼まで自分の体をノーラから取り戻せないこと。逆にノーラの体は今すぐ返せるけど、それをすると、グルービーの体か、鳥の体になるしかなくなる。どちらも長時間を過ごすには問題があるので、避けたいということ。

 ここまでは、彼女もおとなしく頷いていた。


「でも、ねぇ、ファルス」

「なに?」

「じゃあ、グルービー……さんは、どうなるの?」


 その一言で、俺はベッドの向こうの大木に視線を向けた。

 グルービーは、今も寝転がっていた。


「どっちにしろ、もうすぐ死ぬ体なんだよ」

「でも、ファルスは、体を無理やり横取りしたの? そうなの?」

「ノーラ、グルービーはノーラを脅かしたり、勝手に心を読んだり、ひどいことをしてきたじゃないか」

「そうかもしれないけど、ファルス」


 彼女は、見たこともないほど心細そうな表情で、俺に尋ねた。


「……殺しちゃう、の?」


 それは。

 言葉がなかった。


 グルービーなら「いいとも、やりたまえ」と言うだろう。彼には恐れも躊躇もない。戦えば勝敗がある。負ければ死ぬ。当たり前だからだ。

 だから、今すぐこの大木を薪にしても、グルービーは文句なんか言わない。それは間違いない。


 でも、ノーラにとっては違う。

 グルービーが俺と敵対し、殺しかけたことも理解している。実際、三日間の絶食の最後の一日を、彼女は俺の代わりに体験した。苦痛の中で、何を思っただろう。このまま死んでいく覚悟さえしていたほどだ。

 それでも。俺がグルービーを殺す、という状況が、耐え難いようだった。


「殺しは……しない、けど」

「じゃあ、体を返してあげるの?」

「それは、できない」

「どうして」

「一度、植物になると、もう、まともになれないんだ」

「まともに、なれない?」

「その……思考力が、戻らないんだ。考えたり、歩いたり、食べたりできなくなる」

「そ、それじゃあ! もう、死んでるのと変わらないってこと!?」

「……うん」


 ノーラは、目に見えてショックを受けていた。

 俺が殺人を犯した、ということに。


 もしかしたら、俺はもう、慣れきってしまっていたのかもしれない。いやだいやだと言いながら、既に十人も殺している。収容所に入る前に三人。海賊を六人。最後にティンティナブリアで一人。

 殺さなくても、流血ならば、あちこちで体験した。密輸商人どもとの戦いもそうだったし、タンパット村でのゴブリンとの戦闘もあった。その後の海賊相手の虐殺も、俺は黙って見逃した。


 いつの間にか。

 俺は、暴力に、殺戮に慣れつつある……?


「ファルス」

「うん」

「……怖いよ」

「ごめん」

「ううん、違うの」


 彼女は首を振った。


「ファルスは、そんな人じゃなかったよ……どうして? どうしてそうなっちゃったの?」


 そうせざるを得なかったから。

 でも、自ら望んでいるわけではない。


「僕は……誰も傷つけたくないと思ってるよ? これは、本当だ」

「ファルス」


 彼女は立ち上がり、俺の肩を掴んだ。


「このままじゃ、ファルスがおかしくなっちゃう」

「大丈夫だよ」


 だが、彼女はじっと俺を見て、それから言い切った。


「もし、そうなったら……私が。私が止める。私が守るから」

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