ささやかな策略
どうする? どう行動するのがベストなのか?
夜が明ければ、俺の黒髪はもう、隠しようがなくなる。となれば、今のうちに、グルービーの屋敷に忍び込む。そして一気に……
手足が先を急ごうとわななく。
それをぐっと押さえる。
最適にして、最悪の判断だ。
目の前の問題を回避するにはどうすべきか。秘密は誰とも共有できない。だから助けは呼べない。しかし、グルービーは、可能なら捕獲、不可能でも抹殺しなければならない。時間が経てば経つほど、街の中で俺に気付く人間が増えて、逃げ場がなくなる。そのそれぞれを避けられる道筋を選んでいくと、自然と残ったのは夜間の強襲だ。
こんなの、自殺行為に決まっている。
現に俺は、グルービーの読み通りに行動してしまっている。奴は、俺の合理的判断の仕組みを理解し、なぞっている。秘密を知られるのを恐れるあまり、後に退けないことも含めて、今の俺は奴の思うがままだ。
できるなら、今度は俺が奴の裏をかかねばならない。夜だからって、奴が警戒していないはずがない。むしろ、昼間以上に注意しているはずだ。
侵入は、今夜ではない。翌朝以降だ。
なぜか? この体が疲労しているからだ。今夜くらい、どこかで休まねばならない。
それともう一つ。
グルービーの想定を覆すには?
ここより遥かに論理的な思考が行き渡った現代日本出身の俺は、思考のためのツールをたくさん持っている。それでも彼を騙すのは難しい。基本的な知性において、乗り越え難い能力差がある事実を認めなければなるまい。俺はピアシング・ハンドの力で生き延びてきただけの凡人だが、彼はといえば、あの不自由な体を抱えていたにもかかわらず、一代であそこまで成り上がった人物なのだ。
だが、それでも、攻め手ならばある。彼に情報をもたらす人々を引っかけるだけなら、なんとでもなるのだ。
……コラプトの市民には迷惑だが、この際、仕方がない。
間抜けなファルスを演じるとしよう。
うまくいけばいいが。もしかして、逆にそれが大失敗……なんてことにならなければいいが。
俺は動こうとしない手足に叱咤して、よろよろと前に出た。目指すはまだ営業中の、あの酒場だ。広場に面したオープンテラスの店。
「こんばんはぁ」
「おう、らっしゃい……ってガキ……ぃえっ!?」
「お腹空いちゃった。お金ならあるから、何か温かいもの、ください」
「お、おう、ちょっと待ってな」
あえて黒髪を隠さず、俺は堂々とテーブルについた。
「よぉし、お待たせ」
「わぁ、おいしそうですね」
「冷めないうちに食えよ」
冷えた干し肉とパンでは、力が出ない。やはり冬場は温かいスープがなくては。
俺は銀貨を差し出した。
酒場の店主は、俺が「黒髪の家出少年」ファルスだと気付いている。気付いてはいるが、知らないフリをしている。逃げられたらコトだからだ。何しろ金貨一千枚。ここは親切なオジさんを演じて、うちに泊まらせるのがいい。で、翌朝、油断しているところで、グルービーのメイドに差し出すのだ。
「はぁ、おいしかった」
「おい、ボウズ」
「はい」
「お前、家はどこだ」
「えっと……」
「ああ、いい、いい。この時間だもんな、歩いて帰るのも危ないだろ。どうだ? 今夜はうちで寝ていったら。明日、おうちに帰んな」
「いいんですか?」
「おう、いいぞ」
そう言うと、彼は自宅の二階に俺を差し招いた。
「じゃ、ここでゆっくり寝ろよ」
「はい」
ここから出ようと思ったら、一階への階段を通らずには済まない。そこには彼が陣取っている。これで家出少年はもう袋のネズミだ。
しかし、そうはならない。
足音が去ってすぐ、俺はそっと木窓を開けた。なんとか背負い袋を外に引っ張り出せる大きさだ。
衣服を脱ぎ、荷物を全部詰めてから、鳥に変身する。そして、外へ。
さあ、次だ。
コラプトの中央部、即ち朱色の門に挟まれた色町の片隅に、俺はそっと降り立った。
何しろここは風俗街。夜遅いからって、店を閉じたりはしない。
色とりどりの布が前面を覆う建物の数々を、ざっと見回す。
暇そうなのは……
白い布の店は、どれも店仕舞いしている。この時間に新たな女奴隷を購入する客は、あまりいないのだろう。黒い布の店の前にも、人が立っていない。強精剤を吸い込みながら楽しむ常連客がバッチリついている。受付には灯りがあるが、予約客を迎えるためだろう。だが、少し離れたところ、あの赤い布の店の前には、呼び込み役の女が立っている。男を誘惑するために薄着でいるのだが、何しろ真冬の夜だから、寒そうにしている。あれにしよう。
「あのう」
「はいっ……え?」
子供が声をかけてくる。営業中の風俗店としては、あまり想定されていない状況だ。
「済みません、今夜、寝るところを貸してほしいのですが」
「は? あのね、ここ、子供が来るようなところじゃ……っ」
言いかけて、彼女は俺の髪の毛の色に気付いた。
寝る場所がない子供。住民であれば、家に帰ればいい。つまり、この少年は余所者だ。しかし、それなら宿屋に泊まっていて然るべき。それができないということは……
「君、名前は?」
「ファ……ノール、です」
「ノール君ね、そう」
女の目に、感情の油が注がれた。今、彼女は欲の薪だ。
「一人なの?」
「はい」
「寒いでしょ、こんな時間に」
「はい」
「寝る場所がほしいのね? ちょっと待ってて」
彼女は忙しく視線を周囲に這わせる。計算しているのだ。
このまま、黒髪の少年を、店内に連れ込んだら? 何しろ、この寒い中、呼び込みをさせられているくらいだから、この店における彼女の地位は低い。それが、せっかくの獲物を他の女達に見られたら。報酬を横取りされてしまう。
「ちょ、ちょっとついてきて」
「はい」
勝手に店を離れて、彼女は通りの外に俺を連れ出す。
近くにある三階建てのアパートの個室に、俺を案内した。
「ここ、私の部屋よ」
「いいところですね」
「ありがと」
しかし、長時間は留守にできない。彼女はすぐ店に引き返す。
「じゃ、おとなしくしててね。なるべく早く帰るから」
「はぁい」
扉が閉じられ、足音が遠ざかると……俺はまた、窓を開けようとした。
その時。
「これは」
焦げ茶色のウィッグ。それが壁際の棚の上、小さな台座の上に引っかかっていた。他にも二つくらい、似たような品がある。
彼女は娼婦だ。酒を飲み、客にも飲ませ、誘惑して部屋に連れ込む。そんな仕事にはオシャレが欠かせない。中でも美髪は強力な武器だ。だが、もともとの髪質に恵まれない女はどうすればいいのか?
これをかぶれば、俺の髪の毛の色を……ダメだ。大人の女の髪型に合わせて作ってある。端を切り揃えれば、小さくはできるが、少年の頭に似合うものではない。それに染み付いた香水の匂いも消えないだろう。
使い物にならないか、と思ってそれを戻しかけた時、ふと閃いた。
目を瞑り、内心で謝ってから。
俺はそのウィッグを自分の袋に放り込み、部屋の中をメチャメチャに引っ掻き回した。挙句に、俺の財布から数枚の金貨を出して、ばら撒いておく。
散らかしたのは、何が盗まれたかをごまかすため。金貨は、その弁償のつもりだ。
あとは、少女用の衣服と、できればもっと短い剣も欲しい。
というわけで……悪いけど、あと数箇所だ。
月が中天に懸かる頃、俺はコラプトの南門の前に立った。
夜間とはいえ、さすがに警備兵がいなくなることはない。
「……あん?」
俺の姿を見て、兵士が振り返る。そこには、息を切らして背を丸め、剣を抜いた少年が立っているのだ。
「そこを……通してください」
「お、お前、なんだ! 剣を捨てろ!」
「通してください」
「馬鹿を言うな! こんな時間に門を開けるわけないだろう! 入市票を見せろ!」
「通してくれないなら」
俺は剣を構え直す。
門を守る二人の兵士が、目を合わせる。
黒髪の少年は、武術を嗜んでいるとのこと。だが、所詮、まだ子供だ。
それより、こいつを捕らえて差し出せば。グルービーの部下を通して、自分の評価も上がるかもしれない。もちろん、金貨一千枚も山分けだ。
但し、殺すわけにはいかない。だから、二人は槍の石突の部分を前にして、構えを取った。
「お前、ファルス・リンガだな? 妙なことはするな。こっそり街に入った件は、見逃してやる」
「僕はここから出たいんです」
「悪いことは言わんから、おとなしく親戚のところに帰れ」
「お話してる時間はないんです」
俺は慌てているふうを装った。
くる、と察して、二人の兵士も気を引き締める。
だが、それはまったくの無駄だった。
「ごぼっ!?」
突然の激痛に、片方が背を丸める。そこへ剣を滑らせれば、簡単に槍が弾け飛んだ。
「こ、こいつ!」
もう一人が殴りかかってくる。だが、スローモーションもいいところだ。
「うぉわっ!?」
その一撃は見事に空振りし、勢い余った槍がすっぽ抜け、遠く離れた石の壁にぶつかる。
その彼の膝を、剣の腹で強打する。
「いってぇ!」
「通ります」
俺は背伸びして閂を外す。
「ま、待て! おい、逃げるな!」
もう一人が、必死で笛を吹く。急を知らせる警笛だ。
遠くから足音が迫る。だが、まだ大丈夫。
「じゃ、失礼します!」
俺は全力で走り出す。手近な物陰まででいい。
追っ手が門から出てきて、周囲を探索し始める頃には、俺は上空を舞っていた。
これが俺のシナリオだ。
グルービーは、俺の能力を高く買っている。だから、合理的な判断を繰り返すだろうと考えた。
さっき、市内に侵入した時点で、誰でも思いつく最適な対応は、すぐさまグルービーの屋敷に忍び込むことだった。だが、俺には隠密としてのスキルがない。一方、奴の配下にはそういう能力を持ったのがきっといる。防衛体制をしっかり構築して待ち構えているのだ。そんな中に突っ込めば、まず間違いなく取り囲まれて、やられてしまう。
だから、その前提を引っ繰り返してやった。ファルスはこの街になんとか侵入したものの、宿屋にも泊まれず、身を隠すこともできずに、追い掛け回されて、ついに街から逃げ出した。
今頃、グルービーの事務所には、多数の発見報告が届いているはずだ。犬を狩っていた子供達、酒場、風俗店、宿屋……そして最後に、門を破られた警備兵。
意外な失敗に、彼はどういう判断を下すだろう? 守りを堅くしすぎて、獲物に逃げられてしまった、ファルスはいったん退却して、出直してくるのではないか……
ところがどっこい。
俺は今、宿屋の馬小屋、干し草の中に毛布を広げて寝そべっている。
さっき、温かい夕食を食べたから、あとはゆっくり休むだけだ。
いくらグルービーの寝込みを襲っても、意味がない。敵が一人なら。たとえばそれこそ、立て篭もる凶悪犯を取り囲む警察官であれば、時間をかけて相手を疲労させ、休んでいるところを襲撃するといった作戦もとれるが、今回は立場が逆だ。あちらは護衛を何人も置けるが、こちらは一人で戦わなければいけない。だから、真夜中だろうと早朝だろうと、敵は常に元気で、十分に注意を払っている。
だから、こちらは万全でなければならない。また、注意そのものも散らしてしまわなければ。ここにはもう、お探しの凶悪犯はいない。テロ計画は破綻して、街から逃げ出した。さあ、どうする?
ファルスが攻めてくると思ったのに。だが、ここで逃げられてしまっては。追っ手を出すのはどうだろう? 攻めてこないなら、こちらから捕まえにいかなくては。
その歪み、軋み、そして緩み。
それさえあれば、真昼間に飛び込んでいっても、結果に大差はあるまい。
ただ、ここまで撹乱しても、問題が二つ。
まず、どうやってグルービーの邸宅の敷地内に入るか。大人の身長よりずっと高い壁を乗り越えなければいけない。鳥になれば簡単? 確かにそうだ。しかし、それこそグルービーの考える侵入方法だ。だから避けたい。
もう一つ。どうやってグルービーの居場所を見つけるか? ピンポイントで奴を蛇に変えられれば、あとは逃げるだけなのだ。しかし、それが一番難しい。
誰かの肉体を奪えば、とりわけ、グルービーの屋敷に食料など、日用品を納入する業者に成りすませば、入り込むのがぐっと簡単になる。しかし、そのために殺人を犯すのには、抵抗がある。というのも、彼らはグルービーの仕出かした事件とは、何の関わりもないからだ。
それに、肉体を奪って堂々と中に入るというのは、簡単なようで意外と難しい。犠牲者の記憶までは引き継げないから、何をどれだけ納入しにきたのか、今までの取引をどういうルールでやってきたのか、個人的な関係はどうだったのか、それら全てがわからない。ふとしたきっかけで、不自然さが滲み出る。
ならば、ずっと穏やかな作戦を選ぼう。
人間、いつも上ばかりを見て、足元を見ない。収容所で学んだことが、生かせそうだ。
翌朝。
俺は頭からフードをかぶり、マフラーを首に巻いて、「お使い」に出た。結局、昨夜の時点では、もう閉店していて、盗みに入れなかったためだ。
とはいえ、なんとかなったようだ。ウィッグを汚して、多少切り詰めてからかぶったので、俺がファルスだとは誰も気付かなかった。
まず、女物の服を一式。自分にぴったり合うサイズの、ちょっとだけ上等なものを。フリルのついた、かわいい黒のスカートだ。腰のところにワンポイントで、大きなリボンがついているのが気に入った。
それから短めの剣を。お嬢様からいただいたこの剣は、そこそこ物がいいのだが、やはり携帯するには少し嵩張る。何しろ、長さが目測で、およそ七十センチ以上もある。それより小さく、短いものを探した。六十センチ以下のサイズなら、なんとか持ち歩ける。結果、鍔の部分がほとんどない、文字通りの小剣を一振り、手に入れた。
全部揃えたら、それを背負い袋に詰める。そして……
街の西側。風俗店の立ち並ぶ区域の、更に西、街で一番人気のない辺りで、流れるドブ川に飛び込んだ。
ピアシング・ハンドで肉体を入れ替えると、服がすべて脱げてしまう。言い換えると、外側に付着した汚れも、ある程度は落ちる。
それを計算に入れた結果の選択が、これだ。
グルービーが上水道でピュリスを攻めるなら、俺は下水道からグルービーの邸宅に忍び込んでやる。
彼の屋敷には、大勢の少女がいる。商品となるべく、トレーニングを積んでいる女の子達だ。俺もそれになりすます。まだ八歳、性差はそこまで顕著ではない。少なくとも、一瞬で見抜かれるということはないだろう。もし見つかったら、すべて捨てて飛んで逃げればいい。
街の外に流れる下水道。西側の貧困地区では、ピュリスと同じく剥き出しになっている。だが、広々とした土管の中に入っていけば、そこはもう地下水路だ。
少し先に進んだだけで、我慢のならない悪臭が漂ってくる。ただの汚物だけならまだしも、なんといったらいいか、もっと違ったものの臭いが混じっている。このすぐ上は風俗店が立ち並んでいるから……つまり、まさにこれこそ、人間の体臭そのものだ。汚物が汚物だけなら我慢できても、すぐ隣に食べ物が置いてあると、途端に吐き気を催す、そんな気持ち悪さがあった。
そのうち、不快な悪臭にも慣れ、俺はランタンを片手に、前へ前へと進んでいく。やがて、坂道に差し掛かった。グルービーの邸宅は高台の上にある。つまり、この近くだ。
ふと、自分の人生を思い返す。収容所でも下水に立ち入り、ピュリスでも悪臭タワーに、そしてここコラプトでも。何か呪われているんじゃないか。
思わず苦笑が浮かんだ。久しく忘れていた感覚だった。
気を引き締め直し、俺は次の一歩を踏みしめた。
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