ムスタムの街にて
さっきまでのんびりした空気が漂っていた甲板に、慌しい足音が響きわたる。
遠くにポツンと見えた点。あれが目的地なのだ。
船旅は、快適とはいえなかった。
船の揺れはそれほどでもなかった。この時期、割と安定した横風が吹き続けるので、船の傾きはほぼ一定だったのだ。おかげで、わざわざ用意した船酔い用の薬も、出番がなかった。また、食事がまずいのも、落ち着いて眠れないのも、これは仕方がない。
但し、やれることがなかった。さすがに、こんな船の中に魔術教本なんか持ち込むわけにもいかない。普通の本なら、一応、暇潰しに持ってきた。サハリアの生活や文化について書かれたものだ。だが、既に読みきってしまったものでもあり、すぐに飽きた。
そういうわけで、俺は船乗りの仕事の手伝いを申し出た。ただ、まったくの素人で、しかも子供となれば、できることなど限られている。ほとんどは見学か雑用になってしまった。
驚いたのは、ほぼ休む時間がないことだ。小刻みな休憩なら取るし、もちろん、ちゃんと眠る時間も確保はしている。だが、風の力で帆走しているだけなのに、船の上ではたくさん仕事があった。例えば、ロープの点検や修繕。予備の帆についても同様だ。確かにこれらは、いざという時の生命線なので、チェックは欠かせない。夜中にも必ず複数の当番がいた。いわゆるワッチというやつだ。異変があれば、他の船員を叩き起こし、危険を回避しなければならない。
なるほど、船乗りとは大変な仕事だ。
今は、入港に備えて、船を細かく操作している。船乗りにとって、入港は決して簡単な作業ではない。陸地に近いということは、海の底が浅いということだ。ちゃんとルートを見極めていかないと、最悪、座礁するような事態もあり得る。また、港に迷惑をかける場合だってあるのだ。
フリュミーも、さすがに厳しい表情で作業を見守っている。不本意でもなんでも、事故を防がなければいけない立場なのだ。
だが、心配は無用だったらしい。徐々に街の全貌が視界に入ってくる。
ピュリスが白亜の都市なら、ムスタムは、黄色と緑が目に付く街だった。遠目には、家の形は似たり寄ったり。ピュリスが絹ごし豆腐なら、こちらは高野豆腐といったところか。それにネギが添えられている。
より近付くと、ネギの正体がはっきりしてきた。ヤシの木だ。ピュリスにもあるが、こちらはヤシばっかりだ。
「フェイ君」
いつの間にか、真後ろにフリュミーがいた。
「問題ないようだ。そろそろ上陸だから、準備をしておこう」
揺れる船から数日ぶりの地面に足をつける。なんだかまだ、フラフラ、ユラユラする。ちゃんと立てているだろうか。
「ははは、まだ揺れてるんだろ? そうだろ?」
そんな俺を指差しながら、フリュミーは子供みたいに笑った。
そこへ、今回の船長、メックが走ってやってきた。
「監督、それではこれから、貨物の搬送を行いますが、よろしいでしょうか」
それに振り向いたフリュミーは、笑みを消しながら答えた。
「ああ、構わないが、いちいち僕に許可をとるようなことじゃない」
溜息とともに、腰に手を当てる。声色は穏やかだが、そこに込められた意志には、厳しさがはっきり滲んでいる。
「いいか。君はもう船長なんだ。誰かの指示を受けて動くという考え方は、もう捨てるんだ」
それに対して、説教を浴びるメックはというと、伏目がちだ。
しかし俺は、そこにかすかな反抗心のようなものを感じ取った。
「ですが、私の上司です。騎士階級の方でもありますから」
「だから? 責任者は僕だと言うのかい?」
「いえ、そうではなく」
「では、どうなんだ」
メックは、言いにくそうにしていたが、なんとか言葉にした。
「私は、フリュミー監督の下で、子爵家のために働いているのです。それなのに、どうして監督は何もしないのですか。お立場というものを考えてください」
「僕も好き好んでそうしてるわけじゃない。だけど、いいかい? 次の航海では、もう僕はいないんだぞ?」
苦々しい表情を浮かべながらも、フリュミーは彼を諭すように言った。
「海の上では、誰も助けてくれない。どんなに子爵閣下が権力を持っていても。どんなにイフロースが頑張っても。海の上に浮かぶちっぽけな船に対して、してやれることなんて、何一つないんだ」
彼の、この一言がすべてだ。船乗りのプロ意識はどこからくるのか。自由気儘でいながら、どうして意思統一を図れるのか。洋上で頼りになるのは自分達だけ。すべてが自己責任という考え方は、彼らの実生活から生まれたものなのだ。
誰かの下で働き、評価を受ける。それは、メックにとっては当たり前のことなのだろう。だが、フリュミーはそんな甘えを一切受け付けない。逆に、叱りもしない。フリュミーは権威を身に帯びているのに、それを示しもせず、認めもしない。それがもしかすると、メックには不満でならないのかもしれない。
「わかったらいい。僕に対してするべきは、命令をもらうことじゃなくて、連絡だけだ」
「はい」
メックは一礼すると、むっつりしたまま、背を向けて去っていった。
彼にとって、商船のリーダーという地位は、どんなものに見えているのだろう。秘書課の中では出世したほうなのか、それとも落ちこぼれなのか。脱税のためにカーンに腕輪を授けたくらいだから、彼も実績を積み重ねれば、やがて小姓にはなれるはずだが。
「……大丈夫でしょうか」
「どうだかな」
手際の悪い作業を遠目に見ながら、フリュミーは、また溜息をつく。だが、怒鳴り込みにはいかない。次からは、彼らが自分達だけでこなさなければいけない仕事だ。
ややあって、船員の一人が走り寄ってきた。
「あの、ええと、今夜の宿は『翡翠の魚』亭だそうです。夕食の時間までに戻ってくればいいとのことです」
「わかった。ありがとう」
それだけ聞くと、フリュミーは背中を向けた。
「よし! じゃあ、フェイ君。この街を案内するよ!」
いいんですか? とは尋ねない。
手取り足取り指導する段階は終わった。多少未熟でも、自分達でやっていくしかない。でも、メックの目には、職務放棄に見えるかもしれないが。
俺は、フリュミーに連れられて街に出た。
波止場の脇は、石畳で固められている。ピュリスと違って、不揃いの石を、なんとか寄せ集めて作ったような代物で、色合いもくすんだ黄土色だ。あちこち土が露出したところには、ヤシの木が生えている。そして、海沿いに立ち並ぶ倉庫は、どれもこれも日干し煉瓦を積み上げて造ったものだった。
それにしても、暑い。今の時期、ピュリスなら、やや肌寒い日もあるのに、こちらは。確かに、前世の地中海でいうなら、ヨーロッパからアフリカ北岸に移動するようなものだから、気候の変化はあって当然だ。
日差しも厳しい。これは日焼け止めが欲しくなるくらいだ。ちょうど昼頃だから、太陽の光がほぼ真上から降り注ぐ。影は俺の足元で縮こまるばかりだ。
やがて脇道に逸れると、そこは商店街だった。一気に喧騒が迫ってくる。家の外に粗末な仮設テントのようなものが並べられ、そこでいろんな食べ物を売っている。
どの家も日干し煉瓦でできているのは変わらないが、その上に何かで上塗りしてある。多分、煉瓦と同じ素材、つまり泥だろう。ますます家々が高野豆腐に見えてきた。
これは空腹のせいだろうか。そう思っていると、頭上から声がかかった。
「フェイ君は、何か嫌いなものはあったかな?」
「あ、いえ! なんでも食べられます」
文字通りどんなものでも。とはいえ、できれば珍しいものを口にしたい。
答えてから、ふと思いついて、こう主張してみた。
「もしできたら、ムスタムらしい料理を食べてみたいです」
「はっは、そうか。じゃあ、どこがいいかな」
そう言いながらも、ちょっと困っているっぽい。少し考えて、その理由がわかった。
ここはサハリアの中のフォレス人居留地なのだ。だから、出てくる料理は少なからず、フォレス風になる。そして、一部、材料が足りないとなると、あとはサハリア風のものが出てくるわけだ。
「うーん、サハリア風料理かな、やっぱり」
周囲を見回しながら、彼は口の中でボソボソと呟く。
「よし! じゃ、ここにしよう!」
方針を決めた彼は、大きな体で、迷わずどんどん歩く。子供の体では、歩調を合わせるのが大変だ。
彼が選んだのは、オープンバーみたいな店だった。昼食時を少し外しているおかげで、日の当たらない奥のほうの席に空きがあった。ここでは木材は貴重なのか、壁にも床にも、木の覆いはなく、日干し煉瓦の床が剥き出しになっていた。
焦げ茶色の木の椅子に腰掛けると、すぐさま若い男性店員がやってきた。黒髪に浅黒い肌。サハリア人だ。
「○×△□☆」
フリュミーが早口で何かを言う。
それで彼はすぐさま頷いて、去っていく。
「……今、なんて?」
「定食二人前、って言ったんだ。サハリア語だよ」
一応、サハリア語の本には目を通しておいたのだが、今のはまったく聞き取れなかった。
今後、世界を旅するとなったら、言葉も覚えなくてはいけない。それにはスキル枠も必要となるだろう。頭の痛い問題だ。
もっとも、今すぐ話せるようになりたいというのなら、それも難しくはない。
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(自分自身) (8)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク7、男性、6歳・アクティブ)
・マテリアル ラプター・フォーム
(ランク7、オス、14歳)
・スキル フォレス語 6レベル
・スキル 商取引 5レベル
・スキル 薬調合 6レベル
・スキル 身体操作魔術 5レベル
・スキル 料理 6レベル
空き(1)
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頻繁に動物になったせいか、少しだけ魂の年齢の増え方が早い。誕生日まで一ヶ月を切った今、既に枠に一つ、余裕ができている。
なので、道行く人から、サハリア語のスキルを奪取すれば、あとはちょっとの練習で、すぐにペラペラになれる。だが、やめておこう。さすがに、言葉を奪われた側は、かなりの不自由を味わうことになるだろうから。
ややあって、店員が大きな皿を二つ、運んできた。中身を見ると、山盛りになった白い何かと、黄色く丸められた、野菜炒めのようなものが載っていた。すぐ続いて、飲み物らしき白い液体が、陶器の器に注がれて運ばれてくる。
「食べてみなよ」
勧められるままに、俺は木の匙を白い塊に差し込む。口の中に運ぶと、拍子抜けな味がした。というか、味がないような。穀類なんて、みんなそんなものだが。食べなれないと、こういう印象を抱くものだ。
今度は野菜炒めだ。黄色いのは、何か香辛料を使っているからだろう。口に運ぶと、鋭く刺すような辛味と、それを上回る何かの香りが、鼻の中を満たした。
なんなんだろう。まずい、というのとは少し違う。馴染みがなくて、ピンとこない、といったほうがいいのだろうか。
「こっちは、東部サハリアの影響を受けているからね」
食べながら、フリュミーは説明してくれた。
「小麦も取れるんだけど、それ以外も料理には使われる。フォレス風のものを食べたければ、ちゃんとパンもあるし、困らないと思うよ」
「いえ、面白い味だと思います」
「そう? 無理はしなくていいよ?」
小麦以外、ということは、何かはわからないが、雑穀の類だろう。まだフォレスティアに近い、海沿いの地域であれば、辛うじて小麦も収穫できるのだろうが、少し南にいけば、きっとそれも難しい。で、こういうサハリア風料理が出てくるわけだ。
「これは、西部シュライ人も食べることがあるんだ。ただ、南部と西部はまた、違った食文化があるんだけどね」
「シュライ人といっても、いろいろなんですね」
「それはそうさ。だいたい、南方大陸全体で、どれくらいの広さがあると思う? 北部、西部、東部、それから大森林を挟んで南部。住んでる人々も、習慣も、全然違うんだ」
目を輝かせながら、彼はそう語る。かつての冒険の日々を思い起こしているのだろう。
小さい頃から、いろんな海に対して開かれたこの街で過ごしてきた彼には、世界がどんな風に見えるのか。少なくとも、フォレスティアでの権力争いになど、まったく意義を見出せないに違いない。
「おっ、結構、食べるね? 本当に好き嫌いしないんだ?」
「僕は贅沢なんて言いません。いざとなったら、虫でも食べますよ。それにこれは、ここでのまっとうな料理なんでしょう?」
かつては日々の糧だった、あのゴキブリ定食に比べれば。それこそなんだって食べられる。
「いいね。なんでも食べられる。その感覚は、船乗りには絶対に必要だよ」
「僕は船乗りじゃないですよ」
「はっは、まぁ、そうなんだけどさ。世界中、あちこち行くならってことだよ」
確かにそうだ。
前世でも、バックパッカーを気取って海外に行くくせに、たった一ヶ月で日本食を恋しがる連中がいたっけ。贅沢かつ甘ったれた話だと、俺は思う。それを含めての海外旅行じゃないのかと。別に、現地のものばかり食べたって、死ぬわけじゃない。まあ、衛生状態に問題がなければだが。
最後に、白い液体を飲み干す。僅かな甘みと酸味。これは前世でいうと、ラッシーに似ている。
「よし、疲れてないかな?」
「全然ですよ」
「よーし、それじゃあ、街の中を歩こうか。何があるってわけでもないけど、市場はフォレスティアとはまた違った雰囲気があるんだよ。とりあえず、まずは、帽子を買おうか」
確かに。この日差しでは、すぐに熱中症になりそうだ。
俺は、彼の後を追うようにして、席を立った。
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