新人どもの船

 優しげな微風が、そっと頬を撫でていく。海辺らしく、潮の香りがする。

 空を見上げるたび、いつも不思議に思う。青空は青空、変わらないはずなのに、目が痛くなるほど真っ青に見えるときもあれば、今日みたいに、淡い色合いに見える日もある。そこにいくつも、ちぎれた綿飴のような雲が浮かんでいた。

 波止場では、幾人もの男達が忙しく立ち働いていた。とはいえ、荷物の積み込みなどはとっくに終わっている。今はその最終確認だ。

 俺は、その中に、見覚えのある男の姿を見つけた。


「おっ、フェイ君か。待ってたよ」


 ヒゲの似合うダンディな男。それこそ我らが船長だ。背は高く、胸板は厚く、年齢の割には若々しく、頼もしい。まっすぐ立っているだけでサマになる人だ。俺が渡した金でナギアがプレゼントしたという、船乗り用のコートを羽織っている。前世の船乗りと同じく、襟がやたらと大きく、逆立っている。表面素材は撥水性のある動物の皮を用いたものだ。既に三ヶ月で灰色に色褪せてしまい、もう真新しさは感じられなくなってしまっているが、そういう感じもまた彼の雰囲気にはピッタリくる。


「もうすぐ出航だ。既に君の品物は積み込んであるから、あとは僕から離れないようにするんだ。乗り遅れたら大変だからね?」

「はい」


 すぐ近くには、乳母とその二人の子供、ルードとナギアが立っている。ちなみにあと一人、ウィムと同じ年齢の女の子がいるはずなのだが、今回も連れてきていないらしい。そういえばまだ、会ったことがないな。

 俺は、乳母と目があったので、会釈した。すると彼女は、会釈を返す代わりに、声をかけてきた。


「フェイ」


 いつも微笑を浮かべているように見える乳母。頭にはいつも何か、布のようなものをかぶっている。前世でいうなら、ムスリムの女性が身につけているような、アレだ。その奥には、淡い金色の髪が隠れている。服装はいつも地味だが、常にキッチリしていて、乱れがない。

 顔立ちは整っているが、際立って美人という印象ではない。ただ、やたらと目の細い人だ。そのせいか、表情から感情を読み取るのが、やけに難しい。今も何を考えているのか、サッパリだ。


「あなたが今回向かう先、ムスタムは、サハリアにおけるフォレス人居留地です。そこは我らが国王の威光の及ばないところ。求められるのは品位ある振る舞い、通用するのは威厳ある態度です。子爵家の家僕として、相応しい態度を心がけるようになさい」

「ご助言くださり、ありがとうございます」


 抑揚のない声。なんというか、苦手だ。

 恐らくだが、彼女は代々子爵家に仕えてきた家の出身だから、俺みたいなポッと出の奴隷に、あまりいい感情を抱いていないのだろう。それでも、何かの役に立つ限りは、存在を許すのだ。ただ、その「何か」というのが、どの辺にあるのかが、いまいち判断しにくい。イフロースみたいに、主君の成功をひたすら支えようとしているのか。それとも自分の既得権益を必死で守っているのか。

 一見して、夫と彼女とでは、水と油に見えるのだが。


「それじゃあ、ラン。ルード、ナギア。そろそろ行くよ」

「お父さん」


 ナギアが悲しそうな顔をする。家に居つかない父親に対して、彼女がどんな気持ちを抱いているか。

 俺は、ナギアの中に矛盾を感じている。彼女は紛れもなく、乳母の娘だ。今の自分の地位に誇りを持ち、生き方を肯定している。そして、貴族の召使にありがちな高慢さまで、既に身につけつつある。だが一方で、人間の本能ゆえか、そうした社会の息苦しさも感じているように見える。だからこそ、全然違った空気を纏う父親に懐くのだ。

 にしても、今日は静かだな。以前、俺が船長から金をもらっただけで、あれだけ睨んできたのに。今回は、一緒に旅行だぞ? なのに、憎むというよりは不安そうな。

 あ、そっか。いろいろバラされるんじゃないかって、勘付いているのか。……どうしようかなー。


「大丈夫だ、ナギア。今回は近場だからな。一ヶ月もかからず、またピュリスに戻ってくるよ」


 見上げる娘の頭を優しく撫でながら、彼はそう言った。


「あとは頼んだ」

「畏まりました」


 船長のアバウトな指示に、乳母は堅苦しく身を折って応える。

 それだけで彼は背を向け、歩き去っていく。俺はその後を追った。


 子爵家の二号艇。

 思ったよりは小さかったが、それでも立派なものだ。目測だが、舳先から船尾までの長さは十五メートル程度、幅は最大で五メートルくらいか。マストは三本ある。渋い茶色に黒ずんだ部分がアクセントになっていて、色合いも美しい船だった。まだ割と新しいのだろう。


「フェイ君」


 歩きながら、船長は後ろも見ずに言った。


「君は船員として乗るわけじゃない。基本的にはお客さん扱いだ。だから僕と一緒に行動するように。今回は、僕も船長ではないからね」


 船長なのに、船長じゃない?

 その辺の詳しい話は、まだ教えてもらっていなかった。それで質問しようと口を開きかけたところで、彼の足が止まる。


「始めろ!」


 さっきまでの優しげな雰囲気が、かけらも感じられなくなるほどの、厳しい声。よく響く大声だ。まるで別人のように思えて、一瞬、ビクッと体が震えた。

 そこには、二十人くらいの船員が整列していた。ただ、顔立ちにはあまり精悍さが感じられない。そして、その向かい側に、一人の男が立っていた。こちらもこちらで、船長と比べると、やはり頼りない雰囲気が漂っている。


------------------------------------------------------

 メック・ナキュウァ (26)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク5、男性、26歳)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル サハリア語  3レベル

・スキル ルイン語   3レベル

・スキル 商取引    4レベル

・スキル 指揮     2レベル

・スキル 管理     4レベル

・スキル 操船     3レベル

・スキル 剣術     2レベル

・スキル 料理     1レベル

・スキル 裁縫     1レベル


 空き(16)

------------------------------------------------------


 あ、こんなものなのか。

 船乗りとしての経験は、せいぜい六年ほど。商取引や管理、フォレス語のスキルのが高いところをみると、こいつは要するに、秘書課から抜擢されて船長になったクチだな。


 それに対して、叩き上げの船長はというと、やはり船乗りとしてのキャリアが違う。


------------------------------------------------------

 ディン・フリュミー (38)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク6、男性、38歳)

・スキル フォレス語  5レベル

・スキル サハリア語  5レベル

・スキル ルイン語   3レベル

・スキル シュライ語  4レベル

・スキル ハンファン語 2レベル

・スキル 商取引    5レベル

・スキル 指揮     4レベル

・スキル 操船     6レベル

・スキル 水泳     6レベル

・スキル 剣術     4レベル

・スキル 医術     4レベル

・スキル 木工     3レベル

・スキル 料理     2レベル

・スキル 裁縫     2レベル


 空き(24)

------------------------------------------------------


 西は紛争の絶えないマルカーズ連合国、東は南方大陸の東側、ハンファン人の植民地まで。幅広く、多くの海を渡ってきた彼は、立派な熟練の船乗りだ。それに比べると、今回の船長は、どこかから借りてきたようなか細さが、まだ抜けていない。一応、筋肉もついているし、日焼けもしているのだが。


「点呼!」


 今回の船長が、やはりどこかに青臭さの残る声で号令すると、これまた、ややだらしない雰囲気の船員達が、それぞれ声をあげる。大丈夫か、これ。こいつらの船員としてのレベルも、決して高くない。操船スキルがだいたい2か3くらいしかないが。

 まあ、何かあったら、本物の船長が何とかしてくれるだろう。そう思うしかない。


 俺達が乗り込んでしばらく。船員の一人が法螺貝のようなものを吹くと、船は岸から少しずつ離れていった。

 穏やかな南東の風。白波も立たない凪。潮の流れは西から東。進路はほぼ真南だから、やや切りあがる形で、音もなく水の上を滑っていく。


 やがて湾内を抜けると、やや波も高くなってきた。それまで小刻みに変化していた風向きも定まる。陸上の構造物の影響がなくなったのだ。つまり、これが本来の海の姿だ。気付けば、港に漂っていた潮の香りも感じない。というより、本来、海水は無臭だ。常に流れ行く水には、澱みがないからだ。

 甲板の上では、俄か船長の号令が飛ぶ。それに応じて、俄か船員達が、もっさりとした動きでロープを引く。それでも充分、船はまっすぐ動いた。


「いい船だろう?」


 いつの間にか後ろに立っていたディン……船長が、そう話しかけてくる。もっとも、言葉こそ俺に向けられているが、視線は船員だ。こうしている間も、自分の生徒達を見張っているのだろう。


「まだ新しすぎるのが、玉に瑕だけど」

「新しいのが? なぜですか?」

「ははは、そうだな。陸の上の常識じゃ、新しいものほどいい。でも、船は違うんだ」


 さっき、船員達に号令した時の厳しそうな顔はすっかり隠れてしまって、今は人懐っこい、親しみやすそうな男の顔になっている。


「最初から完全な船、なんてものはないんだ。だから、何度も航海に出て、悪いところが壊れて、それを直して……繰り返すうちに、いい船になる。それに、木材でできているからね。部材と部材が、時間をかけて噛み合っていくんだ。だから、そこそこ古いほうがいい」


 そこまで言われて、ちょっと思い出した。前世で読んだ本だ。

 出来立ての船で試験航海に出る。シェイクダウンとかいったっけか。あちこち壊れたり、問題点が見つかったりする。それを修正することで、本当の意味で船が完成するのだ。


「こいつのいいところは、なんといってもまっすぐ進むところだね。速さもそこそこだが、いったん進路を決めたら、あとは手放しでもまっすぐいける。内海で稼ぐなら、これがいい」


 ということは、この船で外洋に出るつもりはないのだ。

 俺は振り返って、彼に尋ねた。


「じゃあ、この船は、ずっとサハリアとの間を行き来する感じですか?」

「そうなるね。それにこいつらも」


 彼は顎先で、忙しく立ち働く船員達を指し示す。声のトーンが一段低くなる。


「まだまだ、経験が足りない。本当は、しばらくは……あと五年は、地道に頑張ったほうがいい」


 彼はまだ、生徒達の実力に安心感を持てずにいるようだ。


「できれば、もう少し経験を積ませてからにしたいんだけどな……」


 だが、彼はすぐに険しい表情を消し飛ばした。さっきの笑顔に戻る。


「で、どうだい? 海の上は? なかなか悪くないだろう?」


 確かにそうだ。俺は周囲を見回す。

 白亜のピュリスが、もうあんなに小さくなった。目の前には水平線が広がるばかりだ。


「気持ちいいですね。本当に」

「だろ? 僕も仕事じゃなきゃっていつも思うんだ。まあ、今回はお客さんみたいなものだけどね」


 そう言いながら、彼も水平線を見やる。その目が細くなる。


 ピュリスから、対岸のフォレス人居留地・ムスタムまでは、およそ六日間の予定だ。現地で一週間ほど過ごした後、またピュリスに戻る。

 前世でも、こんな風に船旅をゆっくり味わったことはなかった。だから、今回が初だ。

 向こうにいけば仕事もあるし、勉強もある。でも、それはさておき、今は楽しもう。そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る